Apricot
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嵐の後の眩しい朝日に、ジュリアは目を覚ました。いつものように心地よい布団の中で寝返りを打ってから、ジュリアは気付いた。
ミシェル!
布団をはねのけ、ジュリアは隣を確認した。昨日の夜の出来事が嘘だったかのように、隣には誰もいない。夢であったのだろうか。いや、そうではない。この部屋は彼女の部屋ではなく、間違いなくミシェルの部屋だったのだから。その証拠に柔らかな山吹色のジュリアの部屋のカーテンと違い、その部屋は濃紺のカーテンを飾っていた。
私、本当にミシェルの部屋で寝たんだわ!
同じベッドで……。
ジュリアは顔を耳まで赤く染めた。朝起きた時も隣にいたらどうしていただろう。蹴飛ばしてベッドから落としてやっただろうか。それとも自分がベッドを飛び出していただろうか。そこまで考えて、ジュリアは時計を見た。とっくに起床時間は過ぎている。慌てて窓辺に近づくと、ミシェルの乗った馬車が屋敷を出て行ってしまっている。小さくなっていく馬車に乗っているはずの人物に、ジュリアは悪態をついた。
「起こしてくれても良いでしょう! 馬鹿ミシェル!」
それが彼の気遣いであることは、彼女も承知していた。ただ少し、それを認めるのが怖かっただけで。
その日ルイスは疲れていた。彼はミシェルと並んでも見劣りする容姿では全くない。それどころか彼の方が体もしっかりとしていてより男らしく見えた。ただその雰囲気から、どうも遊び人のイメージが浮かぶらしく、気軽に夜遊び出来る男として、貴婦人方の誘いが止むことはなかった。倍も年上の女性から、最近結婚した新妻まで。ルイスは二十六歳。しかし、ミシェルと同じく未だ独身である。
……恋がしたいなぁ……。
夜――時には昼にも――女性を腕に抱くことは数え切れぬ程あった。男は単純な生き物だと、ルイスはつくづく思っている。誘われるとつい手を伸ばしたくなる。男は、というのは間違いかもしれない。同じ男でも、ミシェルは誘いを断る事が出来るのだから。ルイスはその後に残るのがむなしさだけだということが分かっていながら、それでも何度も同じ過ちを繰り返してしまうのだ。
前日もある貴婦人の誘いに乗ってしまったばかりだ。王宮にある将軍の私室で、つい先程まで女といた。
朝になると、女性の行動は早い。さっさと身支度をして何事も無かったかのように部屋を出て行く。そんなさっぱりとした関係ではなく、ルイスは大恋愛を、それも結婚に至るまでの恋をしたかった。そんな相手には未だに巡り会えず、心のオアシスであるジュリアの元へと逃げ込むのだ。
将軍になれば、少しは落ち着くと思ったんだけどなぁ。
その考えは甘かったらしく、以前よりもずっと多くの女性から声を掛けられるようになってしまった。とにかくストレスが溜まる。ジュリアの元へ行こう、とルイスは思った。だがまだ八時半だ。ゆっくり着替えようと思って、上着の前を留めもせず、長椅子に座ってだらりとしていた。そんな彼の部屋の扉を小さなノック音をたてる者がいた。ルイスは長椅子から気怠そうに立ち上がった。ドアノブが回る。ルイスはそれに気付かずに相手が押してくるドアを思い切り引いた。
「きゃ……」
「へ?」
柔らかな香りと共に、同じように柔らかな体が触れた。真っ白な純白のドレス。花嫁を思わせるその様子にルイスは思わず身を引いてしまい、絨毯の毛に足をとられた。そして扉を開けた人物と共に床に倒れ込んでしまう。訪問者が頭から被っていたはずのレースのベールが、ルイスの肩に落ちた。そしてベールに隠されていたその人物の顔が、ルイスの目に飛び込む。
白い鼻筋に美しく整った顔。飾るのはマリア・カラスの薔薇のような唇と、蒼色の大きな瞳。金の髪が流れて、さらりと音をたてる。
ルイスの息が一瞬止まった。純朴そうな瞳がじっとルイスを見つめている。ルイスは珍しく、顔を真っ赤にした。心臓がバクバク脈打っている。そんなルイスに気付いていないらしいその女性は、おっとりとした様子で立ち上がり、彼の上から退いた。
「申し訳ありません。お怪我はございませんか?」
夢見心地で、ただ呆然とルイスはその小鳥の囀りの様な声を聞いていた。呆けている彼を心配したのか、女性は屈んでルイスの顔を覗き込んだ。
「あの……大丈夫ですか?」
正気に返ったルイスは耳まで赤く染めて狼狽えた。
「だっ、大丈夫です! 全然なんともありません」
ルイスの答えに、女性はほっと息を漏らした。それにしても、何と愛らしい女性だろう。二十前だと思われる顔は可憐で、ルイスでなくとも心惹かれるだろう。おっとりとした雰囲気が守ってやりたいという男心をくすぐる。そこで自分が上着の前も締めていないことに気付いて、ルイスは慌てて前を締めた。そして肩にかかっていたベールを取った時、眩暈のするほど優しい薔薇の香りに包まれた。
「ありがとうございます」
白い蝋人形のような手が、ルイスの手からベールを受け取った。その唇に柔らかな笑みをたたえながら。
「貴女は……?」
ここまで心動かされた女性は初めてだった。馬鹿みたいに単純な一目惚れだと、自分でも笑えたが、取り消すことなど当然できなかった。
「申し訳ございません。どうやら、お部屋を間違えてしまった様ですわ」
この広い王宮の数ある部屋の中で、ルイスの部屋に間違えて入った。
――運命だ。
恋は盲目とはよく言ったものだ。今のルイスは、全くの馬鹿である。
「カルロス将軍のお部屋と思っておりましたの。しばらく王宮に上がっておりませんでしたので。ご迷惑をお掛け致しました」
女性はルイスに向かって柔らかく膝を折って詫びた。
……カルロス将軍?
ルイスは昨日ミシェルが言っていた事を思い出した。ミシェルは将軍がキプロス島へ愛妾に会いに行ったのではないかと疑っていたはずだ。
いや、そんなことありえるものか!
ルイスはミシェルに対してそうしたように、自分に対してもその考えを否定した。
カルロス将軍は六十だぞ?
こんな若い娘が愛人なんて、そんなこと……。
一人で目を白黒させている男を、女性は楽しそうに見ていた。
「あの、もし宜しければ、カルロス将軍のお部屋を教えていただけませんか?」
そのにこやかな申し出にルイスはすぐに立ち直った。
やっぱり、そんなことあり得ない。
とことんプラス思考の男なのである。
「お送り致します」
ルイスはすっと手を差し出した。女性はベールを被ると、その下から微笑んだ。そしてルイスの手に自分の手を重ねる。どの貴婦人よりも高貴で優雅な仕草。しかしその中にどこかあどけなさが残っていた。
送るといっても、ルイスの部屋と将軍の部屋とは同じ棟の同じ階にあるので、対した距離でもない。添えられた手の温もりを感じながら、ルイスは束の間の幸せに浸っていた。終着駅に、いつまでも着かなければ良いのにと彼は思っていたが、そういうわけにもいかず、ものの三分ほどで将軍の部屋に着いてしまった。ルイスは盛大なため息を漏らしたいと思いながらも、女性には努めて明るくここが将軍の部屋だという事を告げた。
「ありがとうございました。騎士様」
扉を開けようとした女性の手を、ルイスは引きとめた。
「お待ちください。私はルイスと申します。貴女の、お名前を教えて頂けませんか」
突然手を掴まれて、女性はしばらく大きく目を見張っていた。目を見張っていたのは、ルイスの質問のせいであったのかもしれない。ルイスはその美しい唇が動かされるのを待った。大きな瞳が瞬きもせず、開かれている。唇が動いた。しかし、その唇は最初言葉を紡がず、ただ形良く笑って見せた。
「忍びで参っておりますので、名前はお教えできませんの。しばらく王都におりますので、ご縁があればまたお会いできますわ、ルイス様」
そう言うと、失望しているルイスの手を両手で覆った。しなやかで柔らかな手の感触を、ルイスは再び味わった。
「本当に、ありがとうございました」
すっと、手の温もりが離れた。ルイスは将軍の部屋に入っていく彼女を引き留めたかった。もっと正直に言うと、後ろからその体を抱きしめてしまいたかった。
ルイスがその白いドレスの女性と別れていた頃、ミシェルは王宮へ向かう馬車の中で、ある人物とすれ違った。ミシェルとは逆に、王宮から離れていく馬上の人はウィルヘルム=エアーだった。ルイスから聞かされた、白薔薇家の次男である。
これは、時間の問題かもしれないな。
何かの暗示めいた遭遇に、ミシェルは危機感をますますつのらせた。
こちらが動くのが先か、向こうが動くのが先か。
不利な状況にあるのは確かだ。ミシェルは未だ暗殺者の影を掴めないでいるのだから。
王宮へ着くなり、ミシェルは国王の元へ呼ばれた。国王の元へ行くと、国王の脇に見知らぬ男が立っていた。学者のようで、緑色のローブを着て、細長い眼鏡をかけていた。ローブの袖にムアストレイの紋章が縫いつけられている。年の頃は三十五・六。入った瞬間から鋭い瞳でミシェルを睨みつけていた。
「ミシェルよ、紹介しよう。ムアストレイ王国からわざわざお主に会いに来られた、ダニエル=ファスト殿だ」
男は無言で頭を下げた。ミシェルもそれに応える。濃い茶の髪が目にかかったが、男はそれを払い除けることはなかった。
「余はダニエル殿からお主に関する、あまり良く思えぬことを聞いた。ここでお主が余の心を晴らしてくれると信じておるぞ」
国王はダニエルに促した。ダニエルはミシェルの目の前まで歩み寄り、また一礼した。その仕草は礼儀正しかったが、目はギラギラとしていて、どこか爬虫類を思わせた。
「私はムアストレイ王国の国営医学学校において、ヘンリー=スタンス先生の師事を受けた者です。先生はお亡くなりになる前の三年で隠居をなさっておいででした。養女としてお引取りになった少女と二人暮しだったのですが、ご存知ですね」
ミシェルは何も答えなかった。ダニエルの瞳に炎が宿る。
「師が殺され、愛娘である少女が行方不明になっています。私をはじめ、先生の師事を受けた者達が半年間捜し続けました。そして、やっと見つけた。貴公が彼女を攫ったのでしょう、ミシェル殿!」
ミシェルは皮肉げに笑った。ダニエルの顔が恥辱から赤くなる。
「すると貴公は私がヘンリー氏を殺したとおっしゃりたいのですか」
嘲るような笑いを漏らしたミシェルに対する怒りを押し留めながら、ダニエルは答えた。
「貴公の元に彼女がいるのですから、その可能性は大いにあるでしょうな」
ミシェルの笑いは止らない。ダニエルはかっとなって、ミシェルの胸倉を掴んだ。ミシェルは慌てず言い返した。
「私も先生の弟子です。私がジュリアを引き取ったのは師の遺言に従ったまでのこと。貴公等の批判は受け付けませんよ」
「先生の遺言だと? 信じられるものか!」
掴んだ胸倉を捻り上げようとしたダニエルの手を、ミシェルは乱暴に払い除けた。
「先生の師事を受けたわりには、自制心が足りないようですな」
ミシェルも心の中は熱く煮えたぎっていた。しかしそれを抑え、あくまでも冷静に努める。表まで熱くなれば彼の負けだ。
「ミシェル! ……そなたは余にもヘンリー氏の娘のことを隠しておったな。それも理由あってのことか」
ミシェルは乱れた胸元を正し、国王に深く一礼した。
「申し訳ございません、陛下。ジュリアは師が殺された現場を見てしまい、心に深く傷を負いました。せめて半年は外から遠ざけるべきと思い、陛下にもお伝えしなかったのです。今年の王妃様のご生誕祭の折りに、陛下にもお目にかけようと思っておりました矢先のことです。どうかお怒りにならぬようお願い申しあげます」
ミシェルのよどみない口上に、国王は頷いた。納得できないのはダニエルの方である。
「先生の遺言という物を見せていただきたい。私は先生から貴公のような弟子がいるということを聞いたことがない」
「あれは先生のご指示の通り、読んだ後に燃やしました。手元にはありません」
「それでは信用できない! ジュリア殿に会わせていただこう」
ダニエルがミシェルの腕を掴んで無理にでも連れて行こうとしたその時、カルロス将軍が突然部屋へ入ってきた。
「何用だ、カルロス。客人の前で無礼だぞ」
国王に咎められて、カルロスはすかざす一礼した。
「申し訳ございませぬ、陛下。しかし、我が姫君がどうしてもダニエル殿に花束を差し上げたいとおっしゃられまして」
ダニエルは不信げにミシェルに伸ばしていた手を引いた。
姫君……薔薇姫が王宮へ来ている?
カルロスの言葉に敏感に反応したミシェルは、身を強ばらせた。走り去っていったウィルヘルムの姿が浮かぶ。
白薔薇家の女性なのか?
姫君の願いと聞いて、国王がうなった。
「む……仕方があるまい。差し上げろ」
花束と言うほど数があるわけではなかったが、それはアプリコットの花だった。まるで今しがた木から手折ってきたかのように、リボンなどの飾り気が一切ない枝。
「姫様の手でなくて申し訳ないが、お受け取り下さい」
皺と、傷の多いカルロスの手から、ダニエルはおずおずとそれを受け取った。困惑した表情で。
「あの……姫様というのは?」
カルロスはその大きな手をポンと叩くと、懐から二つ折りになったカードを取り出した。
「これも一緒にと、おっしゃられました。見ればお分かりになるでしょう」
薄桃色のカードを開いたダニエルの表情がにわかに凍り付いた。手が微かに震えている。
「いかがなされた、ダニエル殿」
国王に呼びかけられると、ダニエルは最初の厳しく鋭い目つきに変わった。そしてどこかよそよそしくこう言った。
「ジョン王陛下、急用を思いたちましたので、誠に申し訳ありませぬが此処で退室させていただきます。ミシェル殿との話し合いはまた後日とさせていただいてよろしいでしょうか」
突然の申し出に、ミシェルはカードに何かがあるのだと思った。
一体、何が書かれていたんだ。
「ふむ、そう貴殿がおっしゃるのであれば仕方がない。ミシェル、よいな」
ミシェルに異存があるわけもなく、頷いて見せた彼を国王は確認した。
「それでは姫からもらった花が萎れぬうちにお戻りになられるが良い」
「は、そうさせていただきます陛下」
ダニエルは一瞬ミシェルの方を向き、そそくさと部屋を後にした。ミシェルはあのカードに救われたことになるのだろう。
しかし、怪しい。
あのカードも、ダニエルという男も。そもそもあの男がヘンリーの弟子だというのが、ミシェルには信用出来なかった。
「ミシェル、薔薇姫が今日王都にお着きになった。今日一日はゆっくりなされたいだろうから、明日注文しておいた薬を持ってきてもらえるか」
カルロス将軍が言った。
「ご本人に直接お渡しするのですか?」
「あぁ、そうだ」
「……承知いたしました」
結局ミシェルはその後、王宮の得意先を回って、帰路についた。ダニエルという男が本当にヘンリーの弟子だったとしても、そうでなくとも、ミシェルにとってはどちらも危険なことだった。つまり、ジュリアの存在が、外に漏れている。ミシェルはナイフをしまっている懐とは逆に、布に包まれた一通の手紙を持っていた。それはヘンリーの遺言状となった最後の手紙である。最初からダニエルに対して警戒心を抱いていた彼は、遺言状を燃やしたという嘘をついたのだった。もしダニエルが信用できていたとしても、ミシェルはそれを見せなかったであろう。彼がヘンリーの弟子であり、患者でもあったという事実が、その手紙から知れてしまうからである。過去から続く傷をひた隠しにしているミシェルにとっては、とても見せられる物ではなかった。
「お帰りなさい」
屋敷に戻ると珍しく、不機嫌な表情でないジュリアがミシェルを出迎えた。
「ただいま。どうしたんだ、ジュリア。笑って出迎えるなんて珍しいな」
そう言われてジュリアは、今朝ミシェルに対して罵声を浴びせたことを思い出した。ミシェルには聞こえていなかったようだけれど。
「ルイスが来ていたのよ。今日は一段と面白かったわ。それよりも貴方、どうして今朝私を起こしてくれなかったのよ」
「あぁ……。寝顔を見たのは初めてだったからな。物珍しくて、そのままにしておいたのだよ」
つまりそれって、私の寝顔を観賞していたってこと?
「……最低だわ、貴方って」
ミシェルは楽しそうに笑みをもらした。
「なかなか可愛かったと思うが」
「なっ……!」
おてんばだとか何とかいう言葉をミシェルの口から聞いたことはあっても、可愛いという言葉を耳にしたのは初めてだった。ジュリアは見る間に顔を赤くした。若い男に可愛いと言われて、頬を染めない訳がない。ルイスの可愛いは軽く受け止めていたのに、どうしたことだろう。胸がドキドキして何も言い返せない。
「ジュリア」
「なっ、何?」
「お前はアプリコットの花言葉を知っているかい?」
これだけジュリアがドキドキしているのに、ミシェルはいたって平常だ。やっぱり少し憎らしいと彼女は思った。
「知っているわよ。アプリコットの花言葉は疑惑と大きな喜びっていう二つの花言葉があるのよ。普通は後者の意味を使うけど?」
恥ずかしさと悔しさから無駄に得意そうに見せて、ジュリアは答えた。
「……そうか、ありがとう。夕食を食べたら、私の部屋に来なさい。お前に大事な話がある」
ミシェルはそう言うと、詳しいことは何も言わずに二階へ上がっていった。
「何かしら、大事な話って」
ジュリアは隣にいるベティに問いかけた。
「さぁ、もしかして結婚のお話かも」
「……私、それはないと思うわ」
と言うか、して欲しくなかった。邪魔者になるのはご免だ。
「そうですか? だって旦那様は最近ため息ばかりで。誰かいいお相手がいらっしゃるのかもしれませんよ」
「そうだとしても、せめて私がこの家を出るまで待って欲しいわ」
ふいと顔を背けると、ジュリアはアルスの待つ食堂へと歩いていった。急に機嫌を損ねた理由が分からず、ベティは慌ててジュリアを追いかけた。
食事が終わって少し休憩すると、ジュリアは言われた通り、ミシェルの部屋へ向かった。たくさん並んだ本、紺色のカーテン。昨晩訪れた時とは、少し雰囲気が違うように感じた。同じベッドで寝たことも、思い返すと恥ずかしい。嫁入り前の女が、何ということをしたのだろう。
「座りなさい」
ジュリアは昨日も座った脚の高い椅子に乗った。やはり足が床につかず、フラフラと、昨日したように足を動かした。ミシェルが向かいに座る。彼の足はきちんと床に付く。そんな些細なことさえ、ジュリアには苦々しく思えた。
「大事な話って何?」
ミシェルはその長い脚を組んだ。
「夏に王妃の生誕祭がある。そこにお前を連れて行こうと思っている」
……天変地異の前触れだわ……。
ルイスが同じくそう思ったことを、勿論ジュリアは知らない。
「……一体どうしたの? 頭でも打ったんじゃあない?」
ジュリアは眉を顰めた。ルイスでもこんな反応はしなかったというのに。ミシェルはおかしくてたまらなかった。
「行きたくないのか? ジュリア」
「行きたいわ。でも、きっとまた条件付なのでしょう?」
ジュリアはなかなか頭が良い。ミシェルは苦笑した。
流石は先生の娘といったところか……。
「勿論だ。これからアルスに習って正しい礼儀作法を身につけなさい。夏までに身に付いていなかったら、王宮へは連れて行けない」
「それだけ?」
「あぁ、それだけだ」
ジュリアはパッと顔を輝かせた。
「本当にそれだけなのね? 簡単よ、それくらい。すぐにやってみせるわ。後からの条件は受け付けませんからね」
ジュリアは椅子から飛び降り、ミシェルの横に立った。その浅葱色の瞳を、ぐっと彼に近づける。大きな瞳は無邪気な子供の輝きだけではなく、大人の女性の魅力的で蠱惑的な輝きも混じっていて、彼は驚いた。
「条件は一つだけだ。素敵なレディになることを願っているよ。話はそれだけだ。部屋へ戻りなさい」
ミシェルは軽くジュリアの背を押した。
「待って! 私、貴方に訊きたいことがあるのよ」
「……言ってごらん」
ジュリアはミシェルの露草色の瞳を見つめた。少し、胸の奥が熱い。
「……貴方はどうして私を引き取ったの? パパが病死した時、どうして貴方はあんなに早く来ることができたの? 貴方は……パパとどういう知り合い?」
半年間、何故ジュリアはそれを訊かなかったのだろう。そんな事も知らないで、よく半年間、この屋敷にいられたものだ。半年前に初めて出会った男の家に。
「私はお前の父さんの生徒だったのだよ。お前を引き取ったのも、お前が先生の娘だったからだ」
「パパが、ミシェルの先生?」
「そうだ。私の薬の知識はほとんど先生のものだ」
ジュリアは呆然となっていた。義父とミシェルはそういう間柄だった。あの優しい義父はミシェルの先生だったのだ。
「もう一つは? 貴方はパパの病気を知っていたの?」
「……いいや、知らなかったよ」
病気、という言葉が、ミシェルの胸に突き刺さった。しかしジュリアは何も知らない。何も覚えてはいないのだ。彼女の脳は真実を記憶することを望まなかった。
「じゃあ、どうして?」
「……それは言えない。お前がこの家を出る時が来たら、教えてあげるよ。もう、部屋へ戻りなさい」
背を押されて、ジュリアは無理矢理ミシェルの部屋から追い出された。
その夜、ジュリアは自分のベッドに横になり、カーテンの隙間から覗く月を見つめながら考えていた。
私はミシェルの何?
色々な表情のミシェルの姿を思い浮かべ、彼女はそれらを宙に並べた。
ミシェルは私の何?
父親?
いいえ、年が近すぎるわ。
それに、父親は今もこれからもパパだけよ。
だったら兄さんかしら。
それには年が遠い気がするわね。
それに、あんなに偉そうな兄さん、欲しくないわ。
弟は見当違いだし……。
寝返りを打つと、視界から月が消え、代わりに灯りの消えたランプが目に入る。
可愛いだなんて、やっぱりからかっていたのよね。
いつかは素敵な女を見つけて、結婚して……。
そう考えると、彼女の心に嫌悪感が大きく広がった。何故なのかは分からない。ただ、嫌だった。
どうしてなのかしら……。
邪魔者になるのが嫌なのかしら。
ベティにはそう言った。邪魔者になるのが嫌だから、自分がこの家を出るまでは結婚して欲しくないと。でもそれは本当の理由ではない気がする。
結局……ミシェルは私の何なの?
疑問は宙に浮いたまま、ジュリアは誘われるままに眠りへ落ちた。
Flower Top / 中編