Apricot

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 夏までの二ヶ月は、拍子抜けするほど何も動きがなかった。ミシェルも動かなかったし、暗殺者も動かなかった。進歩はなにもない。あったとすればジュリアだけである。十五の誕生日が近づいて、彼女はミシェルが出した条件をクリアしたのだ。アルスに教わった通りのことを身につけた。王宮に上がっても恥ずかしくないと、アルスに太鼓判を押されたのだ。ジュリアはずっと綺麗になった。顔には幼さがあって、それはまだ抜けきらない。しかしひとつのことを成し遂げて、自信がついたのだろう。内からの輝きが彼女を美しくしていた。

 そんな彼女が、一つだけ自信を持てないものがある。

「ねぇ、ベティ。ドレスってやっぱり……」

 言葉を濁すジュリアに、ベティは不思議そうに尋ねる。

「ドレスですか? 旦那様が新しいものを用意なさるとおっしゃっていましたが。……お嬢様?」

 ベティはジュリアの視線の先が、何やらおかしなものに向けられているような気がして問いかけた。

「……ベティって、案外胸大きいでしょ」

 思った通りだった。ジュリアの視線はベティの胸元に向けられていた。ベティは見返すように彼女の胸元を見た。それは確かにまだ十四の少女のもので、しかし、ジュリアにとっては重大な問題なのだろう。

「……気にしていらっしゃるのですか?」
「当たり前じゃない。私だって女よ。ドレスで胸が小さいのが強調されたりしたら嫌じゃない。胸元目立たないの買ってきてくれるかしら」

 ジュリアは礼儀作法云々よりも、そのことだけが心配だったのだ。ミシェルが多くの心配事を抱えているのも知らずに。


 王妃の生誕祭当日、王宮はとても忙しかった。一番忙しいのは厨房だろうなと思いながら、ルイスは窓の外をぼんやりと眺めていた。あれきり、あの美しい女性には会っていない。毎日不自然なくらいカルロス将軍の部屋の前を行き来したが、とうとう一度も会えなかった。しばらく王都にいると言っていたが、もう帰ってしまったのだろうか。ルイスの溜息はミシェル同様、増える一方だった。実を言うと、ルイスは彼女に会って以来、女を抱くのをきっぱりと止めた。というか、抱けなくなってしまったのだ。彼としてはとんだ事態であるとしか言いようがない。

 とにかくもう一度だけでも彼女と会わなくては、自分の気持ちが整理できない。ルイスは王宮内をぐるぐる歩き回っていた。彼女を見つけるためである。白いドレスに敏感に反応する自分が、何となく恥ずかしい。白いドレスにばかり気を取られていたルイスは、突然眼に入った色彩に釘付けになった。丁度胸に付けていた薔薇の花と同じ赤。金色の結い上げた髪が彼を走らせた。窓越しに見ても分かる。彼女だ。誰も忙しさにかまけて中庭など見てはいない。ルイスだけが気がついた。もしかしたら今夜のパーティで、彼女と踊れるかもしれない。そんな期待に彼の顔は輝いた。時折、何か確認するように上を見上げている彼女の美しい横顔がはっきりと見えるまで走って、ルイスは歩き始めた。落ち着いて、彼女と話をしなければ。

 彼女は少し物憂げに視線を落とした。長い睫が蒼い瞳を隠す。泣いているように見えて、ルイスは声をかけることが出来なかった。立ち止まったルイスに、彼女の方が気付いて声をかけた。

「まぁ、ルイス様」

 ぱっと彼女は笑顔を作った。初めて会った時とは違う、深紅のドレス。それもまた彼女の金髪に似合っていた。落ち着けたはずの心臓が、また高鳴る。

「お久しぶりです」

 さも偶然に出会ったように装って、ルイスも笑った。

「またお会いできて光栄ですわ」

 きまり文句の単なる形式的な挨拶であると分かっていても、ルイスの中の溢れるような好意が作用して別の意味にとってしまう。

「私も、光栄です。美しい貴方にお会いできて……」

 ルイスは彼女の手を取った。あの時と同じ柔らかな感触。彼はその手に口付けた。触れた手の甘やかさに、ルイスは完全に魅了された。そのまま抱き寄せたいという衝動を、苦しく胸に押しとどめる。

「今日の生誕祭に、ご参加なされるのでしょう?」

 笑い返してくれるものと思い込んでいたが、彼女は戸惑うように口元に手を当てた。

「え……。そのために王宮へいらしたのではないのですか?」

 彼女と踊る夢が、脆くも崩れ去った。彼女の手が、すっとルイスの胸元へ伸びる。飾られている赤い薔薇が白い手に包まれる。彼女は薔薇の香りを嗅ぐようにして、口元へ寄せた。自然と、彼女の体がルイスに接近する。

「前にも申し上げました通り、私は忍びで参っております身……。王妃様には申し訳ないとは思いますが」
「……そんな……」

 ショックに言葉を失くすルイスの心境が分からない彼女はただ、ルイスを不思議そうに見つめている。

「ルイス様?」
「……せめてお名前を伺わせてください」

 彼は薔薇を手に持つ彼女の白い手を一回り大きな自分の手で包んだ。

「ルイス様……」

 彼はついに彼女の体を抱きしめた。容易に折れそうな細い腰を抱き、片方の手は彼女の手を握ったまま。ルイスは彼女の大きな瞳と向き合った。やはり憂いに少し沈んでいる。

「お願いします……。お名前だけでも」

 すがりつくような瞳が、彼女にとって複雑な思いを抱かせることになるとは、ルイスは思ってもみなかった。

「……名前は、また今度お会いした時に……」

 彼女の手が、彼の手からするりと抜け、彼の手には赤い薔薇が残った。ルイスの手に、彼女の手が触れた。鼻を近づけ、彼女は薔薇の香りを嗅いだ。

「今度でなくて、今……」

 教えてくださいと言おうとしたルイスの口に彼女の指が触れ、彼の言葉を止めた。

「必ず、またお会いできますわ。私を信じて、どうか今日は……」

 彼女の辛そうな顔を見て、ルイスは激しい後悔の念に襲われた。

 何故こんな責め立てるような言葉を発したんだろう!
 彼女の事情も考えないで……。

 自分がとても情けなくなった。せめてもう少し紳士的に落ち着くことが出来たらどんなによかっただろう。十代の子供ではないのだ。ルイスは愕然となり、ゆっくり彼女から手を引いた。

 嫌われたかもしれない…………。

 俯くルイスは彼女の仕草に気づかない。彼女は耳を飾るワインレッドの薔薇細工のイヤリングを片方だけ外した。そしてルイスの手を取ると、それを彼の手に握らせた。

「え?」

 ルイスは戸惑った。彼女は愛らしく微笑む。

「今度お会いした時に返していただけますね。私のお気に入りですの。失くさないで持っていていただけますか?」

 なんて心優しい女性だろう、と思わずにはいられなかった。あんなにしつこく、彼女を困らせた男に対して、次を約束する言葉と証を与えてくれるなんて。

「……はい。命よりも大切に守ります」

 ルイスは再び喜びに満たされた。

「剣にかけて?」
「勿論、剣にかけて!」

 彼女は華やかに笑った。そしてすっとルイスから離れると、身を翻した。去っていく彼女の後ろ姿は、赤い薔薇によく似ていた。手元に残ったイヤリングにルイスは口付けた。彼女の優しさが心を暖かくする。

 また会える。
 必ず。

 それは希望の光だった。


 さて、フォード家の屋敷では朝から、初めて王宮に上がるジュリアの為に使用人が総出でジュリアの手伝いをしていた。ベティはジュリアの髪を丹念に梳かし上げると、いつもはそのままなびかせている彼女の長い髪を結い上げた。ジュリアは首筋が寒いと嫌がったが、それも初めのうちだけだった。結った髪には空色のリボンを巻きつけ、華美な飾りは避けた。ミシェルが好まないであろうとアルスが注意したためであった。ジュリアも飾りをつけて頭が重くなるよりは、リボンだけの方が楽だった。 

 そして他の従女と共に、ベティはジュリアにドレスを着せた。リボンと同じ、空色のドレス。ミシェルが用意したその服は美しくシンプルな服で、ジュリアが心配していたような胸の開いたドレスではなかった。逆に胸元から首にかけてを上品なレースが覆っている作りになっていたのだ。首元のレースを見て、ベティは用意された物が、随分と高価ドレスなのだと分かっていた。

 お嬢様が決して恥をかかないようにと……。

 ミシェルの心遣いに、ベティは少し涙ぐんだ。勿論ジュリアがそんな事を知るはずもない。ベティはあえてジュリアにそのことを告げなかった。きっといつか、ジュリアが自分で気付く時がくると信じていたし、またそれを望んでいたからである。

 そしてジュリアにほんの少し化粧がほどこされた。午前中いっぱいかかったので、ジュリアはずっと鏡の前にいて退屈ではあった。しかし髪を結い上げ、ドレスを着て、ほんの少し化粧をした自分が、今までの自分と全く違って見えて、それまでの苦労など忘れてしまった。結い上げた髪のせいで、幼さが消え、空色をベースとしてレースとフリルで飾ったドレスがまるで貴族の娘のような落ち着きを彼女に与えた。そしてほんのりと香る香水の匂いと、今まであまり馴染みのなかった化粧の甘い香り。

「ベティ……私…………」

 ジュリアは夢心地でベティを見上げた。彼女は柔らかく微笑んでいる。鏡にはもう一人、同じ自分が、同じようにベティを見上げていた。

「綺麗に、見えるかしら……」

 はにかむように笑うジュリアに、ベティは力強く頷いた。ジュリアはアルスにも確認するように目を向けた。アルスはジュリアが何も言わないうちにベティと同じように力強く頷くと微笑んだ。

「とても、お美しゅうございます。お嬢様」
「本当に?」
「信じていただけませぬか?」

 アルスは笑った。

「……違うわ。ただ、信じられなくて……私。本当に…………私なのかしらって。別人みたいだわ」

 鏡に映った自分の姿を見ながら、ジュリアはミシェルのことを想った。

 何て言うかしら、私のこの姿を見たら……。
 どんな顔をするかしら。
 私……きっといま綺麗だわ。可愛いじゃあないわ。

 ミシェルは今、王宮へ先に行っている。ルイスが彼女を迎えに来ることになっているのだ。夜が待ち遠しかった。


 一度は悲しみに沈んだルイスであったが、薔薇のような女性の優しい計らいに励まされ、気分を何とか平常に戻すと、待ちくたびれているであろうジュリアを迎えるために馬に乗り、ミシェルの屋敷を訪れた。玄関でアルスに迎えられ、そのままそこでジュリアが二階から降りてくるのを待った。外は薄暗く、西の空へ落ちる陽の辺りだけがタンポポの花のように明るく、暖かい黄色をしている。丁度これから王宮へ向かえば、その陽も落ちきって、月が輝き出すであろうという時間だった。

 やがてベティに手を引かれ、ジュリアが二階から降りてきた。遠目で見ても、いつもとの違いがはっきりと分かる。男の目を惹きつける、一人の女性の姿がそこにあった。ヒールのついた靴を履いたジュリアは、いつもより少し背が高い。耳につけた真珠の飾りと、肌の色は同じくらい白く、ほんのりと頬だけがコスモス色をしていた。いつもの無邪気さと奔放さを抑え、艶やかな珠のような優雅さを表に出した彼女は、ドレスの裾をつまんで一礼した。ルイスはジュリアの小さな手を取ると、そっと膝を折ってから口付けた。

「正直……驚いたよ、ジュリアちゃん。こんなに素敵なレディをエスコートするなんて信じられない」

 膝を折ったまま見上げるルイスに、ジュリアが微笑む。ちょっとすましたような、けれど普段の彼女が持つ健康的な明るさに磨きをかけたような、魅力的な微笑だった。

「ありがとう、ルイス。でも良いの? この間話していた女の人をエスコートしたかったんじゃない?」
「彼女は事情があって、生誕祭には出席しないんだ」
「残念ね……」

 ルイスはジュリアの手を取ったまま立ち上がった。ジュリアの横に立ち、見下げる形でにこりと微笑む。

「また会う約束をしたから、大丈夫さ。さ……参りましょうか、お嬢様」

 そっと優しく背を押されて、ジュリアは歩き出した。導かれるままに馬車へと乗りこむ。その時には既に日が落ちていた。しかし太陽が落ちたばかりの空は、まだ微かに黄色みを帯びていて、星が見える程の暗さではなかった。

 馬車がゆっくりと進められる。これに乗るのも、ミシェルに連れられて国境を越え、屋敷に来た半年前から数えてまだ二回目だった。あの時のことは、あまり記憶にない。ただ段々と養父の家から遠ざかっていくという寂しさと、馬車を降りたときにかけられた、ミシェルからの言葉だけが心に残っている。王宮へ向かうこの時も、ジュリアは物悲しい想いを抱いた。小さくなり、やがて闇に消えていく屋敷へ、もう二度と戻れないような。――そんな感覚だった。ジュリアは思った。

 私、昔のことは何一つ覚えていないわ。
 パパと暮らす前、自分が何をしていたのか。
 何処にいたのか。

 ジュリアは本当の親を知らない。兄弟がいたのか、本当は何処に住んでいたのか。養父に引き取られる以前の記憶が剥がれ落ちていたのだ。戦争のためだった、と養父には説明されていた。多分、幼いジュリアには耐えられないようなとても辛い経験があって、ジュリアは自分を守るために、それを忘れてしまったのだ、と。

 新しいことを知ると、辛い経験がなくても昔の事は忘れてしまうものなのかしら。
 王城へ行って、色々新しいことを知ったら、
 私はアルスやベティの居るあの屋敷を忘れてしまうの?
 それとも、もっと前……。
 パパと暮らしたあの小さな家を忘れてしまうのかしら。

 ジュリアは身震いした。不安ではあったが、ここで引き返したいと駄々をこねるのは嫌だった。

 ミシェル……。

 ジュリアは王城の明かりを見つけた。養父と暮らしていた頃の家、それどころかミシェルの屋敷よりもずっと大きな建物だということが、明かりのついている高さや広さで想像できた。暗い空よりも、その建物は深い闇色をしていた。王城から漏れる光は、星の光よりも明るく、思っていたよりも彼女に感動を与えはしなかった。

 王城にはジュリア以外の馬車も、当然のことながらたくさん並んでいた。ずっと続いていた馬の振動が止むと、次いで馬車の扉が外から開かれた。外の空気が、馬車の中に入りこんできた。夏とは言えど、夜はやはり肌寒い。今度は外の空気に触れて、ジュリアは身震いした。そんなジュリアの前に、外の薄暗い闇の中からぬっと白い手が現れた。

「お降り下さい、小さなレディ」

 ルイスの声だった。ジュリアは剣を振るうことで硬くなったルイスの手に、自分の小さく柔らかな手を乗せた。そして馬車から出る。従者が置いた踏み台に一歩ずつ足を乗せ、ふわりと地に降り立つ。ルイスが笑顔で促すその先には、豪奢な王城がそびえたっていた。おそらく塔が高くそびえている上の方は夜の闇と同化してしまって見えない。部屋の明かりだけがゆらゆらと揺れていた。

 ルイスに手を引かれ、ジュリアは王城へと入っていた。目映い光にあふれた城内。赤い重厚な絨毯。所々の壁に飾られた青と金のタペストリー。そしてそこかしこにはジュリアの知らない人達。

 剣を腰に帯びた騎士達と、洒落た帽子を被った紳士達。その紳士に腕を絡ませる、色とりどりの服を着た貴婦人達。誰も見知った顔はない。彼らだって、初めて王宮に上がるジュリアのことなど知らないはずだ。それなのに、何故か彼らの視線を浴びている。

「ねぇ、ルイス。私……なんだか見られているわ」

 ジュリアは小声でルイスに話しかけた。するとルイスがいたずらっぽく片目を瞑って見せた。

「俺はこれでも一応将軍だよ。将軍にエスコートされているんだから、注目を浴びて当然だと思わないかい?」

 そう言われて、ジュリアは気付いた。今までジュリアは、ルイスのことをこの国の将軍だと意識して見たことはなかったのだ。途端に、ジュリアは目の前にいるルイスと、いつも屋敷で一緒に遊んでいたルイスとが別人のように思えた。

 いま目の前にいるのは、全く知らない人だ。恐ろしくなって、ジュリアは思わずルイスの手の上から自分の手を引っ込めた。

「ジュリアちゃん?」

 ルイスが怪訝そうにジュリアの名前を呼んだ。突然の拒絶に、ルイスはどうして良いのか分からなかったのだ。立ち止まるジュリアの体は、小刻みに震えている。

「ジュリアちゃん。……具合が悪くなった?」

 ルイスはジュリアの肩に手をかけようとして戸惑い、呼びかけるだけにとどめた。ジュリアは激しく首を横に振る。

 具合なんか悪くないわ!
 でも……でも怖いのよ!

 ジュリアは声を出さずにそう叫んだ。突如として立ち止まった将軍の連れに、さらに視線が集まる。ルイスは場所を移した方が良いと思い、焦って辺りを見回した。しかし背後から肩を叩かれて、ルイスはほっと息をついた。

「ジュリア、どうした?」

 両肩に、ミシェルの手が触れた。ジュリアはのろのろと顔を上げた。そこには今朝屋敷を出て行った、そのままの姿のミシェルがいた。

「……ミシェル……?」
「どうした、気分でも悪いのか?」

 ミシェルはジュリアの知っているミシェルだった。ジュリアは視線をずらしてルイスを見上げた。彼女の知っているルイスだ。別人のはずはなかった。

 …………どうして怖がったりしたのかしら……。

 何も変わらない。ミシェルはミシェルで、ルイスはルイスだった。

「……何、でもないの。ごめんなさい、ルイス」

 体の震えは止まっている。ジュリアがぎこちなく笑顔を見せると、ルイスはやっと緊張を解いた。

「大丈夫なら良いよ、ジュリアちゃん」

 ほっとした顔で微笑むルイス。ジュリアは心配させてしまったことを反省した。

 ルイスと同じようにほっとした表情を見せたミシェルは、すぐにその安堵の表情を引き締めた。何かあるのかと思ったジュリアに濃紺の服を着たミシェルは少し堅苦しい顔をして、ジュリアの手をとった。そして少し膝を折って、その小さく白い手に口付けた。ジュリアは突然の口付けの甘やかさに胸を貫かれた。信じられない思いで、目を伏せたミシェルの顔を覗き見ていた。唇が離れても、手に触れた時の感触が消えない。手の先から、体中へ広がった熱が熱い。雷に打たれたように、ジュリアは身動きをしなかった。ただじっとミシェルを見つめ、呆然としているだけだ。そんな彼女に、ミシェルは気付きもしなかった。ただルイスだけが、二人の関係が、特にジュリアの態度が微妙に今までと違うことに気付き始めていた。

「さぁ、おいで。陛下にお前を紹介する約束をしている」
「陛下って……国王様!」

 とんでもない約束をしてくれたものだと、ジュリアは思った。

「王妃様もだ。きちんとお祝いの言葉を言うようにしなさい。今日は王妃様のための祝宴なのだから」
「そっ、そんなこといきなり言われたって……」
「大丈夫、大丈夫」

 ルイスがポンポンと肩を叩いた。その軽い調子に、少し気持ちも安定する。

「相手が誰であっても、そんなに気を張らないでいるのが王宮で上手くやっていくコツだよ。もしヘマをしても、俺とミシェルがいるから、大丈夫!」

 ジュリアが前者と後者のどちらに安堵を覚えたのかは疑問であったが、とにかく彼女はやっと安心したように笑った。

 柱の影からこの三人をじっと見つめていた人物があった。大将軍カルロスである。祝宴であってもその身の武装を解かない彼は、再び歩き出した三人の背を見つめ、やがて身を翻した。その身に無骨な鎧をまといながらも、カルロスの手に握られていたのは美しく赤い薔薇の花だった。

 カルロスは人々が広間へ集まる中、たった一人その流れに逆らって中庭へ降りて行った。中庭には先客が一人いた。黒い服に身を包み、闇にまぎれたその先客は、彼が近づくと黒いベールを取り払った。結い上げられた金色の髪。象牙のような肌と艶のある唇。美しい体の曲線がはっきりと分かる服を着ている。片方の耳に飾られた赤い薔薇のイヤリング。そう、先客とは薔薇姫のことだ。

「もう帰られるとは残念だ。ミシェルが素直に貴女の申し出を受けていれば……いや。どちらにせよ変わらぬか……。結局今日、白黒がはっきりしてしまう」

 薔薇姫がすっと近づいて、カルロスに身を寄せた。カルロスが薔薇姫の腰を抱くと同時に首を少しもたげた。薔薇姫が背伸びをして、ひげをたたえたカルロスの頬にキスをした。鎧の上からでも感じる、彼女の体のやわらかさ。

「……また胸が大きくなったか? ロクサーヌ」
「まぁ」

 彼女は怒りもせずに笑っているだけだった。普通、十八の娘がそんな事を言われたら怒るか、それとも怒る振りだけでもして見せるものだ。何とも悩ましげな体を持ちながらも、彼女自身がそれを意識したことはない。カルロスも老いたとはいえ、男なのだ。娘のように可愛がりながらも、魅力的な彼女の肢体に心が揺らぐ時もあった。男とはそういう生き物なのだと、今度彼女に教えてやらねばなるまい。本来であるなら、十三・四の頃には済ませている教育のはずだ。ただ、彼女はその教育を受けなかった。どうすれば男が気を抜くのかは知っている。しかし、何故気を抜くのかは、彼女は教わらなかったのだ。それは赤薔薇には必要のない知識だったから。

「カルロス様。昨日お話したこと、考えておいてくださいませ。お父様ももうおりませんし、屋敷に私と婆やだけでは寂しいですもの。勿論カルロス様がここを離れて良いと思われるまで待ちますわ。無理強いはしたくありません」
「お言葉に甘えて、少し考えさせてもらおう」

 柔らかに笑う薔薇姫の耳に、片方だけのイヤリングが光っている。それを見止めたカルロスが尋ねる。

「ロクサーヌ……それは。耳飾りの片方はどうした? 失くしたのか?」
「いいえ、ルイス様にお預けいたしましたの。今度お会いした時に返していただきますのよ」

 首を傾げるカルロスは、もっと詳しくと言って薔薇姫に促した。事情を聞き終えると、カルロスは盛大に溜息をついた。そうせざるを得なかったのだ。

 これは、初めて奴に同情するな。

 薔薇姫と知らずに、しかも薔薇姫が恋愛に疎いということも知らずに、一人で舞い上がっているのだと思うと、笑って良いのやら悪いのやら。しかも息子のように育て上げた若将軍が、娘のように思っている女性に惚れるという状況もあいまって、複雑な気持ちである。見た目には美男美女の似合いの組み合わせだが、ルイスにとっては前途多難であることは間違いない。

「……そう、でした。カルロス様、これを」

 薔薇姫は布で保護するように巻いた小さなガラス瓶をカルロスに差し出した。

「……これは?」
「解毒剤です」
「解毒剤?」

 怪訝そうに、カルロスは目を細め、そしてガラス瓶を布ごと預かった。

「きっと……必要になると思いますの。可愛らしいヘンリー氏のご息女に、宜しくお伝え下さいませ」

 艶やかな笑みを残して、薔薇姫は去っていった。まるでこれから何が起こるのか、すべて見透かしているかのような、不思議な女性である。

「鐘……。もう十時になるのね……」

 薔薇姫は一人、馬車の前で呟いた。その大きな瞳で、闇に浮かび上がる不夜城をじっと見据えながら。

「貴方の運、上手く今日働きますかしら、ミシェル様」

 口元に冷ややかな笑みをたたえて、彼女は馬車に乗り込んだ。運命の輪が、時を打つ鐘と共に回り出した。


 人々の会話を妨げない程度に緩やかな曲が流れるホールで、ジュリアは一人浮かない顔をしていた。後ろではようやくジュリアの気持ちが理解できたルイスが、困ったようにミシェルの姿を見ている。

 両陛下への挨拶は無事に済ますことが出来た。挨拶が済むと、それを待っていたかのように、ミシェルめがけて貴婦人達が群がる。ジュリアを連れてきたせいで、彼の女嫌いと言う噂が、どこかへ飛んでいってしまったのだ。結婚をしないのも、幼い少女に遠慮して、という考えが勝手に女性達の間に生まれてしまったらしい。ジュリアにしてみれば、心外としか言いようのない事なのだが、何を言っても彼女らの耳に届きはしないだろう。

 しかしそれよりもジュリアの顔を曇らせているのが、ミシェルの彼女達への対応なのだとルイスには分かっていた。

 客商売なんだし、仕方ないといえば仕方ないんだけど。

 家では滅多に見せないミシェルの営業用スマイル。それが多くの女性の誤解を招くことを、ミシェルは知っていた。

 でもまさか、ジュリアちゃんの誤解を招くとは思ってないだろうな、ミシェル。

 いつも家で見る笑顔とはまた別の笑顔に、ジュリアはショックを受けていた。ジュリアには初めて目にしたこの笑顔が、特別なものに思えたのだ。

 私……知らないわ。こんなミシェル。

 満面の笑みをたたえて、貴婦人方の手を取り、口付ける。ジュリアの知っているミシェルとは別の、知らない人間がそこにいた。ジュリアの思っていた通り、素敵なレディはたくさんいたのだ。背の高い、赤い林檎のような唇を持った、ふくよかな体つきの大人の女性が。どんなに一生懸命アルスに礼儀作法を教わったとしても、得られないものというのがある。

 私は、あんな風にはなれないわ。

 ジュリアはついに視線を床に落とした。演奏者達がワルツの準備を始める。ルイスは視線を落としたジュリアの後ろで、懸命にミシェルを呼んだ。勿論声には出さずに、手をばたばたと振って。

「……ルイス……」

 ジュリアが振り向いて、ルイスは動かしていた手を止めた。そして咄嗟に何も気付いていないようなふりをして笑顔を作る。

「何? ジュリアちゃん。あ、そうだ。一緒に踊ろうか。準備も出来たみたいだから」

 ジュリアは微笑んだ。ルイスには、涙を我慢しているようにしか見えなかったけれど。

「ごめんなさい。折角だけど、私……やっぱり気分が悪いから、先に帰りますって。ミシェルに、伝えておいて」

 ジュリアは身を翻した。ワルツのパートナーを見つける人達の間をぬって走って行ってしまう。

「ジュリアちゃん!」

 ルイスは追おうとして、それが自分の役目ではないことを思ってミシェルを見た。すると示し合わせたようにミシェルと視線が合う。ミシェルは群がる女性達に一言失礼、と断ってルイスに駆け寄った。

「ジュリアちゃんが……」
「私が行く。戻ってこないかもしれないから、将軍に宜しく伝えてくれ」

 ルイスが頷きもしないうちに、ミシェルはジュリアを追って駆け出して行ってしまった。


 来るんじゃあなかった。

 ジュリアは長い廊下を走りながらそう思った。

 知らない方が良かったんだわ。

 ミシェルの城での顔を。城の華やかさを。城へ上がっている大人の女性達を。そして、自分の心を。

 パパ……。助けて、パパ。
 苦しいの……パパ。還ってきて、お願い!

 ジュリアは赤い絨毯に躓いて体を強く床に叩きつけた。慣れないヒールはぽっきりと折れてしまった。涙がこぼれた。ジュリアは慌ててそれをぬぐった。床に打ち付けた体は痛くはなかった。ただ胸の中が痛くて苦しい。ベティが折角綺麗にしてくれたのに、化粧が落ちてしまう、とどこか他人事のように想いながらもジュリアは涙を拭った。

「ジュリア……」

 後から、ミシェルの声が響いた。追いかけてきてくれたのだ。また、涙がこぼれて、今度は止まらなかった。ジュリアは懸命に涙を手で拭い続ける。

「だっ、大丈夫よ。本当に、気分が悪いだけだから。一人で、先に帰るわ。転んだのも、平気だから……」

 そう言いながらも、ジュリアの瞳から流れるものは止まらず、一層多く流れ落ちてきた。

 どうして止まらないの!

 ジュリアが心の中で叫ぶと同時に、ミシェルの腕が彼女を床から持ち上げた。涙で濡れた顔を、ミシェルはじっと見つめた。

「今日、私が城へ来たのは、お前を陛下に紹介するためと、お前がずっと来たいと言っていたからだ。お前が帰ると言うのなら、私も帰ろう」

 ……パパ?

 ヘンリーであれば、もう少し優しく言葉をかけたであろうが、ジュリアはじっと自分を見つめるミシェルに、父と近しいものを感じ取った。流れる涙を拭うことは、もうしなかった。流れるままに、ジュリアはミシェルの首に腕を回し、泣きついた。ミシェルはジュリアを抱きしめたまま、城を出て、馬車へと乗り込んだ。

 ルイスは、今までミシェルが相手にしていた貴婦人方にジュリアのことをあれこれと聞かれてうんざりしていた。そこへ都合よくカルロス将軍がやってきて、ルイスはほっと一息ついた。

「将軍、助かりました。丁度良いところに」
「何だ、ルイス。お前一人か? ミシェルはどうした」
「ミシェルはジュリアちゃんを連れてさっき帰りました。彼女、慣れなくて気分が悪くなったようで。将軍に宜しく伝えてくれと……」

 呑気に笑うルイスは、ミシェルが少しでもジュリアの気持ちに気付けばいいと思っていた。笑顔の可愛いジュリアに早く戻って欲しいからだ。恋をすることは一つ大人になること。ジュリアは子供と大人の間で、今大きく揺れているのだ。

 気付いてやれよ、ミシェル。

 十四も歳の差のある娘と結婚しろとは言わない。けれど、出来るだけのことをしてやって欲しいと思った。彼女が大人になる手伝いを。それはルイスの役目ではない。同じ屋根の下で暮らす、ミシェルの役目なのだ。

 思いにふけっていたルイスの腕を、カルロスが乱暴に引っ張った。

「いたっ! 何ですか、将軍!」
「馬を用意しろ、ルイス! ミシェルを追うぞ!」
「え?」

 駆け出すカルロスに、訳もわからずルイスは付いて行った。


 ジュリアは乱れてしまった髪をほどいて、馬車に乗ってからもずっとミシェルにしがみついていた。涙はもうおさまったが、ぐしゃぐしゃになった顔をミシェルに見せることが出来ない。ミシェルはずっと、ジュリアの髪を撫でていた。心が、何故かとても落ち着いていた。今が、暗殺者がジュリアを狙うのに絶好の機会であることは百も承知であったのに。今日これから、自分は命を落とすことになるかもしれないのに。

 死を前にして、人は何を思うのだろう。

 いま腕の中にいる少女を守りきる。必ず出来ると、ミシェルは信じていた。半年前にやってきた。屋敷にいつのまにかなじんで、本当に屋敷の住人になっていた少女。何時の間にか、城から帰ってきて彼女が出迎えることが当たり前のようになった。ぎこちない関係であっても、ジュリアの笑顔がすべてを満たしてくれた。ミシェルは意識せずに求めていた。同じ屋根の下で、共に過ごし、陽だまりのように明るく、笑ってくれる女性を。母親がしてくれなかったことを、してくれる女性が欲しかったのだ。十四の少女は、その役を立派に務めてくれた。

 母は、助けることができなかった……。

 涙に濡れて狂気の中へ堕ちていく母親を、幼かったミシェルはどうすることもできなかった。

 だが……お前は守ってみせる。ジュリア……。

 ミシェルの腕に力がこもった。抱きすくめられて、その腕の温かさにジュリアはほっとした。

 ミシェル……。

 トクンと、胸が鳴った。そしてすぐに、馬車が森に入った。

 しばらく走って、暗い森の中で馬車が突然大きく傾いた。大きな音とともに、片側の車輪が外れたのだ。馬の鳴き声。そして次に聞こえたのは、従者の叫び声。

「ミシェル!」

 ミシェルはジュリアを抱えたまま、馬車の外に飛び出した。馬車は黒い服を着て巧妙に顔を隠した者達に囲まれていた。

 何……これは。
 夢……なの?

 ジュリアは鳴き声を上げた馬の方を見た。

「ジュリア! 見るんじゃない!」

 ミシェルが叫んだが遅く、ジュリアの目には暗い森の中、従者が馬車から転げ落ちている様子が飛び込んできた。その胸から突き出ているもの。そして吹き上げている赤い液体。

 何……? これは……。

 ジュリアはミシェルが身を翻して彼女にそれを見せないようにしたのを無視して、身を乗り出し倒れた従者の顔をよく見ようとした。よく知っている顔だ。口髭をたたえた、金髪の男。それは。

「…………パパ……?」

 突如として蘇ったジュリアの記憶。そう、ヘンリーは病死ではなく殺されたのだ。

 あの日、街へ買い物に出ていたジュリアが外から帰ってくると、床にはヘンリーが倒れていた。辺りは血で濡れていて、彼女は悲鳴を上げた。

「いやぁ! パパ! パパァ!」

 狂おしい記憶。ジュリアは必死に腕を伸ばした。義父を助けなければ。側へ行って、義父を起こさなければいけない。ミシェルのことは全く見えていなかった。

 どうして?
 どうしてパパが殺されなくちゃいけなかったの?
 嘘よ。そんなの嘘!
 パパは病気だった。
 苦しむ事もなく、眠るように息を引き取った。
 そうでしょう?

 ミシェルは凄い力で暴れるジュリアをしっかりと抱き、片手で自らの胸元を探った。にじり寄る暗殺団。たった二人を殺すためだけに、六人もの暗殺者が借り出されるとは。

 暗殺者を、見くびらないことですわ。

 薔薇姫の忠告が頭に浮かぶ。これは彼らの仕事だ。これ以上の失敗は許されない。二匹の兎を、全力で狩るつもりなのだ。

 ミシェルは意識を、道を塞ぐ一人に限定した。動いた暗殺者に、ミシェルはナイフを投げつけた。そのナイフが暗殺者に命中したかどうかを見届けることなく、ミシェルはジュリアをその身に庇いながら駆け出した。後から、一本のナイフがミシェルに向かって投げつけられた。ミシェルは走った。城へと戻る道を、泣き叫ぶジュリアを抱きながら。

 殺してやりたい。

 後から迫る暗殺者をすべて。ミシェルはそう思っていた。思い出さなくて良い思い出を。


 何故この娘に蘇らせた。


「パパ……。パパ……」

 暗殺者の足音が、突如途絶えた。その代わりにミシェルは、城からこちらへ向かってくる灯りを見つけた。

「ミシェル! ミシェル、無事か!」

 灯りを持ったまま馬に乗っていたのはルイスだった。その後にはカルロス将軍もいる。

「ミシェル! ジュリアちゃん!」

 ルイスは馬を降りてミシェル達に近づいた。そしてミシェルの腕から、泣きじゃくっているジュリアを受けとる。

「ジュリアちゃん……」
「ルイス……。パパが……、パパが……」
「パパが? ジュリアちゃん、もう大丈夫だよ。俺が来たから、大丈夫」

 ジュリアは激しく首を振って泣き崩れた。

「ジュリ……ア」

 ルイスの腕の中にいるジュリアの頬に、ミシェルの両手が触れた。ジュリアはしゃくり上げながらミシェルの露草色の瞳を見つめた。心が、少し和らぐ。

「ミシェル……」
「大丈夫だ。悪い夢だったんだよ。少しお休み。今度目が覚めたら、すべて元通りになっている。先生は……お前のパパは病死だ。大丈夫、もう悪い夢は見ないから、安心して……お休み」

 魔法のようにミシェルの声が響いて、ジュリアは目を閉じた。

「……ミシェル」

 ルイスは見た。目を閉じたジュリアに、今まで見たことが程穏やかに、幸せそうな笑顔を向けているミシェルを。ルイスはミシェルの肩を抱いてやろうと手を伸ばした。しかし、伸ばされたルイスの腕から逸れて、ミシェルは突如としてその場に倒れこんだ。

「ミシェル!」


 ミシェルは感じていた。
 遠くから近づいてくる懐かしい感覚。
 昔、首筋に当てられた冷たい手と共に感じた。
 死に近づく――その感覚を。

中編 / Flower Top