Tulip - red -

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 リコリスの花が終わり、後から生えた草も枯れたような時、ようやくミシェルの傷が癒え、ジュリアはキプロスへの旅行計画を明かされてご機嫌であった。一緒に行くアルスとベティと共に、荷物整理に余念がない。薔薇姫に先に手紙で行くことを伝えたかったミシェルであるが、『薔薇姫宛』というのは何ともおかいしのではないかと思い、結局出せずに終わってしまった。とにかく向こうに着いてからでも取り次ごうと考え、彼もゆっくりと旅支度をしていた。

 さて、一人置いていかれるはめとなったルイスは、ミシェル達が出発する三日前に、カルロス将軍に呼び出された。

「急な話だがルイス、儂と共にキプロス島へ行ってもらう」
「はぁ? この間行かれたばかりではないですか、将軍」

 ミシェルやジュリアが行くのだから、行きたくないわけではないのだが、どうせ行くのなら仕事でなくて遊びに行きたい。ふざけたことを考えていたルイスに、将軍は思いもよらない爆弾発言をしてくれた。

「儂もそろそろ隠居の準備をしようと思ってな」

 ルイスは咄嗟に何と返せばいいのか判断できず、ただぽかんと口を開ける。

「……はっ? 隠居……ですか。まだお早いのでは」
「一緒に暮らそうと言ってくれる人がいてな。儂も若い頃娶った妻に早く死なれてからずっと一人暮しだ。ゆっくり隠居生活も悪くないと思い始めた」

 ルイスは突然の事態に頭の中が真っ白になった。

 この将軍が隠居……。

 頭がクラクラした。少なくとも八十までは、もしかしたら九十まで将軍をやっている人だと思っていた。その人が隠居生活とは。そしてこの将軍と一緒に、と言ってくれている奇特な老婦人は一体誰だろう。

「そ……それで何故私も一緒に?」
「引き継ぎたい仕事がある。陛下にも許可をいただいたから、すぐに用意をして明後日の朝の船に乗るぞ」

 明後日の朝。つまりミシェル達と同じ便だ。ふらふらする頭を押さえながら、ルイスは自分の屋敷へ戻って行った。


「それで、結局一緒になったのね?」

 キプロス島へ向かう船の甲板でジュリアが明るく笑った。隣でルイスは船酔いに苦しみながら答えた。

「……そういうこと……。うっ、気持悪ぅ」

 ジュリアもルイスも船旅は初めての経験だった。そしてその初めての場面で、二人の運命は大きく分かれたのだ。船に弱かったルイスと、船に強かったジュリア。

「お薬でございます、ルイス様」

 ミシェルが本来ジュリアのためにと用意していた薬は、結局役には立ったもののジュリアではなくルイスのために使用されることになった。アルスが水と薬をルイスに手渡す。

「ありがと……アルス」

 そう言いながら吐きそうになっているルイスの背を、大きな手がドンと叩いた。ルイスは口に含んでいた水を吐きそうになって、それを回避するために一気に飲み込んだ。許容量以上の水が流れ込んで、ルイスの喉が破裂しそうになる。思わず蹲ったルイスを見て、張本人のカルロス将軍は呆れたような声を出す。

「情けない奴だ。嬢ちゃんの方がちゃんとしている」

 カルロス将軍が微笑みながら見てくれたので、ジュリアはとっておきの笑顔でそれに応えた。

「お褒めいただいて光栄です、カルロス将軍」

 ジュリアが服の裾をつまんで軽く頭を下げると、後ろでミシェルが吹き出した。何よ、とジュリアが振り返ると、カルロスも声を上げて笑っている。その声の振動だけで、船がさらに揺れたような気がした。ルイスの呻き声が大きくなる。

「どうして笑うの? ちょっと、ミシェル!」

 頬を染めて抗議するジュリアに、ミシェルはまだ片手で口元を押さえながらもう片方の手を振る。よく見れば、ベティもアルスも笑っていた。

「いや……気にするな。それよりほら、キプロス島が見えてきたぞ」

 ミシェルが船頭の方を指差した。空の色をそのまま映しとったような海に、大きな島がぽっかりと現れた。ジュリアはミシェルの誤魔化しに気付かずに、まんまと注意を前方に現れた島に移した。

「本当! ベティ、前へ行って見てみましょう!」
「あ、お嬢様」

 ジュリアは甲板の上を元気に走り出した。ベティはミシェル達にペコリと一礼すると帽子を押さえながら、ジュリアの後を追った。その背を見ていたカルロス将軍が悪戯っぽくミシェルの肩を叩く。

「いい嫁だな、ミシェル。羨ましいぞ」
「将軍!」

 ミシェルが非難の顔を向けても、将軍は一向に気にしている様子はない。ただ走っていったジュリアの影に、愛おしそうに目を向けているだけだ。

 ちらりと、ミシェルはルイスを振り返った。船酔いで、背をアルスにさすられている。こちらのことを気にしている余裕はなさそうだ。

「……将軍、キプロス島では何を?」

 幾分声を抑えて、ミシェルはカルロスに尋ねた。

「お主が気にするようなことは何もないぞ。ただの隠居準備だからな」

 薔薇姫のことでは、とミシェルがさらに問いかけようと口を開くと、ジュリアが彼の名を呼んだ。視線をジュリアのいる船頭に向けると、彼女が手を振って呼んでいる。ミシェルは何も答えそうにないカルロスの前で一つ溜息をついて、カルロスに一礼するとジュリアの所へ歩いて行った。

 島に近づき、港の様子が次第に見えるようになってきた。活気ある港町の奥はまだ森林が支配している静寂の世界。風に揺れる木々に、潮の香りが心地よかった。

「良い所ね。早く船を降りたいわ」

 そう言うジュリアの頭を、ミシェルは軽く撫でた。彼も、ジュリアと同じ気持ちだったのだ。彼は少し苦笑した。ジュリアはその苦笑と、襟から覗く首元を同時に見て笑みを深くした。ミシェルはジュリアに自らの心と体の傷を晒して以後、痣の残っていた首元を隠すことを止めた。すると不思議なことに、しっかりと残っていた赤紫色の痣は、日を追うごとに薄くなり、今では殆ど分からなくなってしまったのだ。

 船を降りる人々に混じって、ミシェル達も港へ降り立った。薬を飲んだはずのルイスは、まだカルロスに支えられている。

「ミシェル、儂とルイスは馬車が来ておるから、騎士団の方へ行く。お主達のことは彼女が迎えに来てくれるであろう。儂が手紙を出しておいた」
「彼女?」

 カルロスの言葉に敏感に反応したジュリアとルイスの声が重なり、ミシェルは耳を塞いだ。

「お前、キプロス島に女の知り合いがいたのか?」

 とルイスが言えば、ジュリアは耳をつんざくような声でこう言う。

「どういうことよ、ミシェル! 女の人の所だなんて聞いていないわ!」

 予想していただけに頭が痛い事態になってしまった。

「将軍……。この二人、責任を取っていただきますよ」

 恨みがましく見るミシェルに、カルロスは苦笑した。

「一人だけは早々に連れ去ってやるわ」

 カルロスはそう言うと騒ぎ立てるルイスを引っ張って、港に迎えに来ていた馬車へ逃げ込んだ。カルロスはルイスを先に押し込んで、最後にミシェルを振り返ると楽しそうに笑った。

「もう一人は自分でなんとかするのだな」

 行け、と中で指示したのか、彼が追う間もなくカルロスとルイスは行ってしまった。もう一人の方が問題なのではないか。それをわざわざ残して行くなんて。

「ミシェル!」
「……旦那様……」

 ジュリアの怒った声に混じって、アルスとベティの声も聞こえる。その口調は何故かミシェルを非難しているようで彼は慌てた。

「ちょ……ちょっと待ちなさい。アルス、ベティ、お前達までそんな声を出さなくても良いだろう」
「いいえ、旦那様」

 アルスが厳しい表情で言った。

「お嬢様のお世話をずっとしていきたいと、私もベティも思っておりました。旦那様にももちろんお仕えしとうございます。お二人のお世話をずっとするのならば、お二人の仲を取り持つのが最上だと、屋敷の者達の意見が全員一致いたしました。ので、旦那様の浮気はしっかりと見張らせていただきます」

 ミシェルは怒るどころかがっくりとうなだれた。ジュリアを宥める時の頼みの綱だったアルスやベティまでも、ジュリアの恋の味方になってしまったのだ。それどころか屋敷の者全員一致なんて、考えてもみなかった事態になっている。

「と、とにかく話しを聞きなさい、三人とも」

 自分自身を落ち着けるようにミシェルが言う。それに対してジュリアが腕を組んで仁王立ちになった状態で彼をキッと睨み付ける。小さな女王様だ。

「えぇ、聞くわ。しっかり話してもらおうじゃあないの、ミシェル」
「いいか……」

 ミシェルが情けない言い訳のような声を発した。しかし、それは途中で馬の蹄の音にかき消される。

「姫様ぁ、お一つどうぞ!」

 船から荷をおろし、中を確認していた男が、黄金色の果実を馬上の人に放り投げた。

「どうもありがとう」

 馬上の人は輝く陽を背にしていた。その太陽と同じくらいに眩しい果実が宙を舞い、馬上の人の手の内に収まった。金色の髪がちかちかと陽に反射して、ミシェルは手をかざし、陽の光から目を庇った。馬が一つ大きく鳴き、馬上の人は軽い身のこなしで馬から降りた。港の人々がざわつく。

「姫様、あとで魚をお届けしますよ」

 と小船から漁の成果を陸揚げしていた男が言う。するとその妻らしき女性が笑いながら続ける。

「姫様、またマーサさんに怒られますよ、その格好」

 彼は翳した手を戻した。

「馬に乗るのにドレスでは動きづらいの」

 晴れやかに笑ったその人は美しく、均整のとれた肢体に、男物の服を身につけていた。ふくよかな胸が少し窮屈そうに服に包まれている。結い上げた髪が首筋をあらわにしていた。ジュリアは口をぽかんと開けていた。その人は城にいた女性達よりも遥かに美しく輝いていた。化粧も殆どしていないのに、陽に透ける肌は驚くほど白い。

 そんな女性が、女神のような笑みをこちらに向けてきた。ジュリアは慌ててぽかりと開けていた口を塞ぐ。

「ようこそ、キプロス島へ。お待ちしておりましたわ」

 ジュリアはその言葉の向けられた先がどこなのか、辺りを見まわした。しかし、彼女の視線は明かにこちらを向いている。正確に言うと、ミシェルに、だ。

「……薔薇姫」
「このような格好で申し訳ありませんわ」

 その大人の体つきと違って、はにかむような笑みは無邪気な子供のようだ。

 ……何だか、可愛い。

 そう思って、ジュリアは首を振った。同性に見惚れてどうするのだろう。

 ……おまけに……。

 ジュリアはミシェルを睨みつけた。しかしその視線にミシェルは気付かない。ミシェルの目は、美しい女性の方に釘付けだ。

 恋敵かしら……。

 ジュリアは悔しくなってミシェルの腕の肉をつまんだ。やっとミシェルの目が自分に向けられる。何だという顔をするミシェルから、ジュリアはぷいと顔を反らした。わざと頬も膨らませている。自分が側にいるときに――できればいない時にもだが――他の女に目を奪われることなんて許さない。相手がどんなに美しくても。

「馬車を用意いたしました。この島にいる間は私の屋敷にお泊まりください。後でカルロス将軍もいらっしゃいますわ」
「そんなつもりでは……どこか宿にと思って来たのですが」

 恐縮したミシェルに、彼女は笑顔を崩さずに言った。

「お気になさらないで。屋敷には私と婆やしかおりませんのよ。二人で住むには広すぎる屋敷です。人が増えれば婆やも喜びますわ」

 笑顔が強力な攻撃のような彼女に、結局男は負けてしまうのだ。ジュリアは心の中で、この秘技を是非手に入れたいと真剣に思った。


 そうしてミシェルは薔薇姫の申し出を受け、彼女の屋敷へ向かうことになった。当然、ジュリアの機嫌は良くなく、二人の召使の視線も痛かった。しかし彼は薔薇姫をどう紹介してよいものやらということを悩んでいたのだ。暗殺者としての彼女は伏せておかなければならない。つまり、ジュリアの恩人だとは言えないのである。恩人、と考えて、彼は簡単なことを見逃していたことに気付いた。彼が助かったのは、彼女が解毒剤を将軍に渡してくれたおかげなのだ。ミシェルはやっと弁明の言葉を継ぐことができた。

「ジュリア」
「何よ」

 首を横に向けたまま、視線だけでジュリアはミシェルを見た。その瞳は怒りに燃えている。

「彼女のことだが、お前、将軍に解毒剤をいただいた時のことを覚えているかい?」

 そう言われてあの時の事を思い出したのか、ジュリアは少し沈黙した。短い沈黙の中で、ジュリアの頭にあの時の出来事がよみがえる。忘れてしまうことはできない、辛いけれど大切な思い出だ。

「……もちろんよ」
「あの解毒剤は彼女が将軍に、そして将軍がお前に渡してくださったんだ。彼女は私の命の恩人だ。もちろんお前もだが」

 ミシェルの最後の言葉に、ジュリアは思わず頬が緩みそうになってしまう。しかしまだ怒っているのだと思わせるために、わざと厳しい顔をしたままでいた。

「あの薬……を」

 『女神様からの贈り物だ』そう言ったのは、渡してくれたカルロス将軍だった。

 あの人が……。

 本当に美しい、女神のような人だった。

 それきりジュリアが彼女の事を口にしなかったので、ミシェルは安心した。アルスもベティも、ジュリアが納得したようなので何も言わない。ジュリアが何の気なしに馬車に揺られながら外を眺めると、馬車は段々と島の中心へ向かって上がって行っているということが分かった。彼女は馬に乗って馬車の先にいるようだった。森を抜け、石畳を馬の蹄がカツンカツンと打つ。遠くには輝く海が見える。ジュリアは馬車の窓に顔を近づけた。

「……わぁ、すごい! 見て、ベティ」

 ジュリアに促され、ベティは外を見た。すると目の前には石の塀を覆い尽くす薔薇の花。

「まぁ……」

 ベティも思わず声を漏らした。その赤と緑。そして石垣の白と遠くにある海の青。何と美しい光景だろう。

 赤い花を咲かせる蔓薔薇は塀を覆い、そしてその先にある砦のような館の壁をも覆っていた。時折海からの強い風に、花弁が散る。その風までもが薄紅色をしているように見えた。

 馬車が止まる。従者が扉を開けてくれて、まずアルスが降りた。彼は従者から足台を受け取ると、馬車の降り口に置いた。ミシェルが降りる。そしてミシェルがベティの手を取って彼女を降ろす。続いてジュリアの手を取って馬車から降ろしてくれた。何となくこの扱いが嬉しい。アルスとベティが馬車の後から荷物を取り出し終わると、馬車は来たゆるやかな坂道を戻って行った。ジュリアはそれを見送ると大きく息を吸った。薔薇の香りと、微かに潮の香りもする。

「綺麗ね」

 ジュリアが言うと、ミシェルは頷いた。

「さぁ、荷物を中に置いてから屋敷を案内いたしますわ。ここよりももっと眺めの良い所がありますのよ」

 馬を置いた薔薇姫が纏め上げた髪を解いた。金の髪が落ちる。ジュリアよりも癖のない明るい色の髪だ。

「それでは、お言葉に甘えさせていただきます。ジュリア、ご挨拶しなさい」

 ミシェルに促されて、ジュリアは薔薇姫の前に立つとドレスの裾をつまんでお辞儀した。

「お世話になります、ジュリアと申します」
「まぁ、こんな格好で申し訳ないですわ。ロクサーヌ=ロミシュと申します。ジュリア様。島の案内なら任せてくださいな」

 薔薇姫が名前を名乗ったことに、ミシェルは驚いた。果たしてそれが本名なのだろうか。勿論ジュリアに薔薇姫ですなどと自己紹介されたらフォローのしようがないのは確かなのだが。そして気付く。ロクサーヌ=ロミシュ。イニシャルはR.R。しかし赤薔薇――Red Rose――もR.Rだ。

「お嬢様! またそんな格好で出歩かれて!」
「婆や! お客様をお連れしたのよ。騒ぐのは止めてちょうだい」

 屋敷から出てきた女性は途端に顔を赤くした。

「お客様って、まぁ、若い男性がいるっていうのにそんな格好で? お客様は私がお連れいたします。早く戻って着替えていらしてくださいな!」

 その剣幕に押されて、ロクサーヌはミシェル達に軽く頭を下げると、急いで屋敷へ戻って行った。それを見届けてから、アルスと同年代くらいであろう女性はミシェルに向かって深く頭を下げた。

「ようこそいらっしゃいました。私はお嬢様にお仕えいたしておりますマーサと申します。部屋はご用意いたしておりますので、どうぞ中へ」

 その風格だけで、ミシェルは彼女がアルスのようにこの屋敷の全てを知っているのだと察知した。

「ミシェル=フォードと申します。突然お邪魔して申し訳ない、マーサ殿」
「いいえ、とんでもない。大きいばかりの屋敷ですから、お客様が来てくださって喜んでおります」

 ベティが持っていた荷物を一つ受け取ると、マーサは先に立って歩き出した。それにミシェルとジュリアが続き、アルスとベティが荷物を抱えて従った。

「そちらのお嬢様は、個室がよろいしいですか? それとも、どなたかとご一緒で?」

 随分と子供に見られたようだ。ジュリアはむっとする。でもすぐに待てよ、と思い直す。ミシェルは病み上がりだ。一緒にいたほうが良いかもしれない。そう、浮気を監視するためにも。

「ミシェルと同じ部屋が良いわ。良いでしょ? 傷が心配なの」

 そう言えばミシェルが強く出られないことを、ジュリアは知っていた。

「ジュリア、傷はもう……」
「分かっているわ、でも心配なのよ。お願い」

 更に追い討ちをかければミシェルは拒むことなんてできはしない。絶対に、だ。

「……仕方ないな」

 溜息をついて折れた主人の姿を見ながら、アルスとベティがこっそり吹き出した。

Flower Top / 中編