Tulip - red -
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屋敷の中に通されてすぐに目に入ったのは上の階へ続く大きな階段と、その広い踊り場に飾ってある大きな肖像画だった。顔がどことなくロクサーヌに似ていなくもない。肖像画の中の女性は豊かな金の髪を結いもせずに肩に流している。ジュリアはまだしも、大人の女性がそれをするのは普通無作法であるとされるが、その肖像画の女性はそんな批判を撥ね退けるだけの美しさを備えていた。圧倒的な美しさは強い圧迫感を見ているものに与えた。意志の強そうな輝くサファイア色の瞳。確かにロクサーヌと同じだが、その雰囲気はあまりにも強すぎてジュリアは恐ろしかった。
思わず立ち止まってしまったミシェル達は、その右側の階段から降りて来るロクサーヌを見てようやく息をついた。ロクサーヌは先程とうってかわって女性らしい、清楚な水色のドレスをまとっていた。肖像画の女性と違い髪はきっちりと結い上げられている。彼女は踊り場で足を止めて肖像画を見上げた。
「これは初代伯爵の肖像画です。お美しい方でしょう? エリザベート=ロミシュ様ですわ」
先ほど圧倒されてしまったジュリアは素直にそれに答えることができなかった。ミシェルも曖昧に頷いて明確な答えを避けた。
伯爵は二人の心中を見透かしたかのように微笑むと、二人を部屋へと案内してくれた。アルスとベティはマーサと共に一階の部屋へ泊まらせてもらうらしい。先に伯爵が立ち、二人は二階へ上がって岬の先の方へと歩いた。ミシェルが中庭らしき方向を見ると、そこに古い塔がそびえ立っていることに気付いた。そしてこの屋敷がその塔を取り囲むようにコの字型になっていることが分かった。
「変わった造りだ。まるであの塔を守るために囲んだようですね」
塔はのっぺりとした石造りで、潮風のせいか日影には苔が生えていた。ミシェルの言葉に伯爵はちらりと視線を塔へ向けただけで、立ち止まりもしなかった。
「えぇ、確か五代目の伯爵が元々屋敷の北にあったあの塔を囲むために屋敷をあの塔の周りに移したのです」
「あの塔に何か?」
「さぁ。今では中に入ることも出来ませんのよ。鍵はないし、扉も潮風にやられて錆付いてしまったのです」
ミシェルが塔の下部へ視線を移すと、伯爵の言った通り錆付いた扉が目に入る。そして上部海側には、一つだけガラス窓が。それは物見の塔でも、灯台でもない。空中の牢獄のようだった。塔はその周りを囲む屋敷よりも明らかに古かった。
伯爵はコの字型の屋敷の端まで来て、二人を部屋へと入れてくれた。
「すごい、海だわ」
塔の窓ガラスと同じ方向にバルコニーがあり、そこに出るとすぐ下は切り立った崖になっていた。ミシェルの屋敷も高台に建っていたが、こんなに崖に近くはない。下を見ると、波が岩を打って水飛沫を上げている。しばらくジュリアは恐怖とも感動ともつかない気持ちで下を見ていた。そっとミシェルがジュリアの肩を押さえてくれていたのが嬉しかった。伯爵はしばらくその二人の姿を微笑ましそうに見ていた。
「夜にはカルロス将軍もお見えになりますわ。それまで町をご案内いたしましょうか」
伯爵の申し出に、ミシェルはジュリアの顔を見て尋ねた。
「行きたいか? ジュリア」
ジュリアは目を輝かせて頷いた。
「えぇ!」
三人は馬に乗って――ジュリアはミシェルの前に乗ったが――島を回ることにした。キプロス島は大きな島だった。島の北にあるのが本土との交易拠点となる港で、そこには大きな貨物船と定期的に旅行客などを乗せて本土と行き来する客船。そして島の者達の個人船――その多くは漁船のようだ――が碇泊していた。もちろんそれらはどれも木製だ。貨物船と客船のみが、中型の砲台を備えていた。それは海賊への対策だ。島では農業も盛んに行われていたがそれらは大概女と子供の仕事らしかった。男達のほとんどは朝早くに船を出して昼頃に帰ってくる。収穫は畑も海も、必要分だけを自家に残し、他は本土へ売りに出された。活気あふれる港を過ぎて島の東部分へ進むと、騎士団駐屯基地が見えた。伯爵の屋敷よりも新しいその砦は何故かとても排他的な感じがした。
島の南には森が広がっており、島の半分を占めるそこはすべて伯爵の所有だった。道は馬一頭がようやく通れる程度の広さしかなく、一本道で騎士団の砦と伯爵の屋敷を繋いでいた。三人は森を通って島の西に位置する伯爵の屋敷へ戻った。森から来てみると屋敷は島の一番高い場所にあることがよく分かった。薔薇の花の赤と、枝や葉の緑は昼を過ぎて少し傾いた日を受けて宝石のように輝いていた。
多少正午を過ぎてから三人は屋敷の中庭で昼食を摂った。塔は下から見上げると、日光を受けて普通の塔に見えたが、やはり影の部分は陰気で、何か恐ろしいものを感じさせた。マーサとアルスが協力して作った昼食はなかなか豪華だった。全員が同じ席について食べ終えた頃には、全員のお腹が満足した状態だった。しばらくこの島のことなどやミシェルの仕事のことなどを談笑し合って、マーサ達が片付けに入る。これといって午後も予定の無かったミシェル達に気を使ってくれたのか、伯爵がジュリアに言った。
「ジュリア様、よろしかったら衣裳部屋に来られませんか? 少し古いですけれども、着ていない服がございますの。色々試してみたら楽しいですわ。私もあまりお客様をお招きしたことがないので、一度女同士で着せ替えをやってみたかったのです。ご迷惑かしら」
そんなことをしたことがないのはジュリアも同様だった。是非、と言いかけたが相手が相手だけに恐縮してしまう。隣のミシェルを見上げると、彼が微笑んで背を押してくれた。
「ご一緒させてもらいなさい、ジュリア」
ぱっと顔を明るくして、ジュリアは伯爵にご一緒させてもらうことになった。その間ミシェルは屋敷の書庫を見せてもらう許可を取った。昼食の席でこの屋敷の蔵書についての話が出たから興味を持ったのだ。伯爵に付いて、ミシェルは二階の書庫へ。ミシェルと別れると、ジュリアは伯爵と並んで衣装部屋へ向かった。本当にこの屋敷は広い。ここに二人だけで住んでいるなんて、お掃除が大変だとジュリアは思った。多分ベティも同じように思っただろう。
ミシェルと別れると急に不安になる。地位のある人と、ミシェルなしで話したことは一度もなかったからだろう――その勘定にルイスは勿論含まれていない――。衣裳部屋に着くまで、ジュリアは伯爵の後ろに従いながらじっと黙っていた。やがてジュリアとミシェルの部屋から反対の棟にたどり着く。伯爵は畏まってカチカチになったジュリアに柔らかな笑みを浮かべて手招きをする。ジュリアは広い部屋に通された。伯爵は壁に歩み寄ると、小さな取っ手に手をかけて開いた。どうやら側面の壁はすべてクローゼットになっているようだ。
クローゼットの中には美しい衣装が数限りなく飾ってあった。服だけでなく、靴、帽子、髪飾りや手袋まで。伯爵一人だけの衣装だとすると、恐ろしく多い。伯爵に手招きされて、ジュリアは目を眩ませながらもおずおずとクローゼットの前に立った。伯爵は衣装の前を行ったり来たりしながら楽しそうに服を選んでいた。そして一着の服を持ってくるとジュリアの背に合わせた。そして何かが不満だったらしく、それは元の場所に返してまた別のものを持ってきた。
「これなんていかがでしょうか。浅葱色で、髪によく合いますわ」
それはジュリアもそう思った。お気に入りの浅葱のドレスよりも少し大人っぽいデザインで、帽子もついている。
「気に入りませんか?」
「いいえ! とても、素敵です」
伯爵はジュリアの答えに満足そうに微笑んで、手にした服を壁に掛けた。
「それではジュリア様はこれを。そして私のために一着選んでくださいませんか? そうしたら一緒に着替えましょう」
ジュリアは緊張しながらも伯爵の美しい金の髪に合うような服を見つけようと、クローゼットの前を何度も行ったり来たりした。とにかく衣装の数が多いので、その中から一つを選び出すことは本当に困難だった。結局ジュリアが選んだのは白のベースに、大胆に黒のレースを取り入れたすらりとしたシルエットのドレスだった。伯爵はジュリアの選び出した服に満足そうに微笑んで、二人は互いに手伝い合ってその服を着た。髪の毛の話や、ジュリアが最近興味を持ち出した化粧の話、服に合わせる装飾品のこと、女同士の話にジュリアも最初の緊張を忘れて没頭した。伯爵は本当に気取らない、しかしその芯にある気品は決して失わない美しい女性だった。ジュリアは伯爵に魅かれた。
「あの……」
「はい?」
「伯爵様は、ご結婚なさってはいらっしゃらないのですか?」
もしかしたら気分を害されるかもしれない、とドキドキしながらジュリアは伯爵に質問した。三着目の服に合わせて髪を結っていた伯爵は、一瞬きょとんとした。大きな瞳が開かれて、ぽろりと落ちてしまいそうだった。もしそんなことになったら、その瞳は宝石よりも高い価値を持つことだろう。そして咲き誇る薔薇よりも美しく咲く笑顔もまた、一級の価値を持つに違いない。
「えぇ、こんな島ですものね。あまり他の貴族の方とお近づきにはなれません。私自身は身分を気にする方ではないので、素敵な方と出会ったら結婚したいと思っておりますわ」
「身分を気にしないで?」
「えぇ、私、本当はそんな恋に憧れておりますの」
そう言って伯爵は幼い子供のように笑った。そうして無邪気に笑うと、ジュリアよりも幼く見えるのだから不思議だ。
「ジュリア様はもう、恋をなさっておいでなのでしょう?」
知っていたのだ、と思って顔が赤くなった。そんなに露骨だっただろうか。
「え……えぇ、まだ片想いですけれど」
と、ジュリアは一応の理を入れた。後でミシェルに怒られるのは避けたい。そこでジュリアははたと思い当たることがあって、慌てて顔を上げると伯爵の前で頭を下げた。
「そうでした。ミシェルに飲ませた解毒剤。あれは伯爵様がご用意してくださったものだと、カルロス将軍からお聞きいたしました。彼が助かったのは伯爵様のおかげですわ。本当に、ありがとうございました」
ジュリアがどんな手段で飲ませようとも、その飲ませるための解毒剤がなければミシェルは死んでいただろう。何故伯爵が解毒剤を持っていたのか、そして何故ミシェルの受けた毒の種類が分かっていたのかは、ジュリアは全く考えなかった。どんな理由であろうとも、伯爵はミシェルを救ってくれたのだ。頭を下げるジュリアに、伯爵は優しく微笑むとジュリアの肩に触れて、頭を上げるように促してくれた。
「礼など……必要ございませんのよ、ジュリア様。今、貴女が幸せであればそれで十分です」
伯爵はそう言った。ジュリアは顔を上げると同時に呆然となって、すぐに心に浮かんだ言葉を口に出してしまった。
「何故……?」
「何故、とは?」
はっとなって口元を押さえた。驚きのあまり無礼な訊き方をしてしまった。
「あ、申し訳ございません、伯爵様。でも私は今日初めて伯爵様にお目にかかりましたし……。どうしてそんなに気にかけていただけたのか……。その、ミシェルと以前からお知り合いだったのでしょうか」
伯爵は先程のジュリアの言葉を咎める様子もなく、やんわりと答えた。
「いいえ。お薬をお売りいただいただけですのよ、ごく最近。私は以前、貴女のお義父様にとてもお世話になりましたの」
「義父に?」
問い返すと、伯爵はこくりと頷いた。その瞳はきらきらと輝いて、ジュリアの後ろを見ていた。伯爵は本当に懐かしそうにその時のことを思い出し、言葉を選んでジュリアに言った。
「とても優しく、素晴らしい方でしたわ」
それはジュリアにとって、とても重い言葉だった。一生大事にしなくてはいけない言葉だと、ジュリアは思った。
「そう……でしたか。不思議です。私は家に居る義父の姿しか知りません。でも義父は、多くの方に知られているのですね」
ミシェルは義父の弟子だった。ミシェルと義父の繋がりを作ったのはアルスだった。伯爵は義父と知り合いだった。ジュリアの知らない義父の生きていた姿を、ジュリアの知らなかった人達が見て、ジュリアに今返してくれていた。
「それだけ偉大な方だったのですわ」
伯爵の言葉に、ジュリアは素直に頷いた。
「えぇ。きっと、そうなのですね」
しかしどれだけ偉大でも、ヘンリーはジュリアの義父で、それは一生変わらないだろう。それはとても幸せなことだと、ジュリアは思った。
その夜にはカルロス将軍が屋敷を訪れて、一緒に夕食を摂った。ジュリアは伯爵と最後に選んだ服を着て夕食に出た。まるで花嫁のような真っ白なシルクのドレスで、レースのリボンで袖口と、腰と髪を巻いていた。決していやらしくない程度に肩を露出して、その肩に髪を流していた。新しい服を着るたびにミシェルがどう思うだろうと考えてしまう自分が、ジュリアにはいじらしく思えた。食事は始終和やかに過ぎた。しきりにジュリアにお酒を勧めるカルロス将軍に対し、きっぱりとミシェルが断りをいれたことを別にすれば――相変わらず子供扱いされている――食事も会話も満足で、両方でお腹がいっぱいになった。食後はカルロス将軍を伯爵が見送りに行き、ジュリアとミシェルは先に休ませてもらうことにした。マーサとアルスとベティは、料理のことを楽しそうに話しながら片づけをした。
外でカルロスは馬の手綱を握ったまま、伯爵と小さな声で話し合っていた。
「薔薇姫、明日ルイスを連れて参るが、よろしいな?」
カルロスが慎重にそう言うと、伯爵は反対にあっさりと答えを返した。重大な話題であるのに、そうでないと錯覚してしまいそうだった。
「えぇ、そうなさって下さい。最低限のことは事前に」
最低限のことは、というのも難しいな、とカルロスは思った。
「承知した。ところで隠居の件だが……」
カルロスは意識して声の調子を変えた。これこそ重大でない話題だ。
「お答えをいただけますの?」
しかし重大でない話題のほうが返って、伯爵の口調を慎重なものにした。どうもずれているな、とカルロスは正直思った。
「ありがたく申し出を受け入れたい。陛下の許可はいただいておるので、後は後継者を選ぶだけだ。ここへ来るのは少し遅くなるが。本当によろしいのかな?」
カルロスの最後の念押しに、伯爵は晴れやかに笑って答えた。
「勿論です! お待ちしておりますわ、カルロス様」