Tulip - red -

---------------------------------------------------------------------------------

 多少押し問答をして、結局はミシェルが折れて、二人は同じベッドで眠った。しばらくすると、お腹がいっぱいになったジュリアは隣で小さな寝息をたてていた。深夜になって――時計は手元に無かったが、月の位置を見て深夜だろうと思った――ミシェルは突然目が覚めた。何か物音を聞いたわけではない。嫌な夢を見たわけでも。ただ唐突に目が覚めて、しばらく横になっていても再び眠りに就くことはできなかった。ジュリアは天使のように口元に笑みを湛えたまま目を閉じていた。ミシェルはその寝顔に微笑ましいものと、それとは別の、より熱い何かを感じた。ミシェルはそれに酷く戸惑って、ジュリアに気付かれないようにベッドから出た。

 さらにガウンを羽織ってバルコニーへ出ると、丁度中庭の塔が真横に見える。暗い塔は当然のことながら内部に光の影さえ見えなかった。岩にぶつかる波の音が響く。不意に海に何かが投げ込まれる音を聞いて、ミシェルはバルコニーから身を乗り出した。夜の暗い海。波の泡が白く網のように模様を作っている。そして予想できなかった赤の色彩に、ミシェルは心を奪われた。薔薇の花束だ。塔の下を見ると、そこに伯爵が立っていた。白い寝巻き一枚で、昼間は結い上げられていた髪も、風になびかせるままにしている。ミシェルは部屋に戻るとジュリアが眠っているのを確認し、こっそり一人で中庭へ降りていた。

 ミシェルが中庭の塔の横まで来た時も、伯爵は海の方を向いて立っていた。闇に浮かぶ姿は淡く発光しているように見えたし、薄い服一枚では美しい体の線がはっきりと分かって目に毒だった。

「死者への手向けですか?」

 ミシェルが呼びかけると、伯爵は風に広がる長い髪を片手で押さえた。

「さぁ、理由などありませんわ、きっと」

 彼女は振り返ると曖昧に微笑んだ。その微笑みさえも、月明かりの中で淡く輝いて見える。ミシェルは夢を見ているような気分になった。ただ身を刺すような冷たい夜風だけが、この場面が紛れも無く現実だと教えてくれていた。

「何故、暗殺者を殺して下さったのですか? 貴女は手を引くとおっしゃった」

 美しく微笑んだまま、伯爵は首を少し右に傾けた。

「余計な事でしたか?」

 ミシェルは首を横に振った。

「いいえ、感謝しています。あのまま私の意地を通しても、結局あの娘を危険な目に遭わせるだけでした」

 伯爵は一度海の方へ首を向けた。波に揉まれて、投げ込んだときは海面に浮いていた薔薇の花も、冷たい海の底に沈んでしまっていた。再び向き直ると、伯爵の唇がより艶やかに光って見えた。

「命を賭けて守るとおっしゃいましたね」
「えぇ」

 ミシェルが間髪入れずに答えると,伯爵は小さく溜息をついた。

「正直、貴方を助けるつもりはありませんでした」

 その冷たい言葉にも、ミシェルはようやく慣れて驚かないようになっていた。

「あの解毒剤のことですか?」

 冷静に切り返すと、伯爵は鷹揚に頷いて見せた。

「命を賭けてとおっしゃったからには、助ける必要もないと思いましたわ」
「では、何故?」

 何故気が変わったのか、とミシェルは尋ねた。言葉を選ぶようにして星を見上げた伯爵は、夜の闇に舞い降りた月の化身のように見えた。一枚の絵のようで、しかしこれをそのまま表現できる絵描きは、この世には存在しないだろう。もはや地上の美ではなかった。

「ミシェル様。命を賭けて守られた相手は、本当にそれで幸せでしょうか」
「それは……」

 ミシェルは言葉に詰まった。頭にはジュリアの寝顔が浮かんだ。それを想うと、命さえ残ればそれで十分幸せなどとは口が裂けても言えなかった。その心臓は動いていても、その生活を、意思を枯渇させてしまった女性をミシェルは知っていた。結局は死を選んだ、ミシェルの母。そして死んでも良い、と消極的に死を選んでいたのは、ジュリアを守るという言葉を盾にしていたミシェルだった。死んでしまえばすべてから開放されると、あの時は思った。そしてミシェルは、残されたジュリアを自分の死に縛り付けるつもりだったのだろうか。ミシェルは母の死から逃れるために、母と同じ罪を犯すところだったのだ。

「私はそう思わなかった。ジュリア様のために、貴方を助けたのです」

 その優しさに、ミシェルは胸が詰まった。こみ上げてくる感情そのままに、ミシェルは伯爵に向けて言った。

「貴女のような方に、暗殺者など似合わない」

 しかし伯爵はミシェルの言葉を皮肉と受け取ったらしい。苦笑すると風に広がる髪の毛を手で押さえ、自嘲気味に応えた。

「……えぇ、そうですわね。私は本来なら赤薔薇になれない者なのです」
「……どういうことですか?」
「言葉通りです。私は異分子なのですわ。多分、赤薔薇は私で終わりでしょう」

 目を伏せた伯爵に、ミシェルはかける言葉が見つからなかった。伯爵の言葉が本当に悲しみなのかが分からなかったのだ。ミシェルのその反応は正しかった。伯爵は、赤薔薇が終わることに悲しみを覚えて目を伏せたのではなかった。ミシェルが黙って見詰める中、伯爵は晴れやかに微笑んだ。

「私、結婚して子供が欲しいのです」

 その言葉をそんなに無邪気に、子供のように言われてしまってはミシェルも反応に困る。まるでジュリアに好きだと告白されたときのようだ。どこか現実的な重みが足りない。

「それは……伯爵家の当主としては当たり前のことでは?」
「伯爵家としては当然でも、赤薔薇としては当然ではありませんの」

 まだ晴れやかな笑みをたたえたまま答えた伯爵に、ミシェルは首を傾げた。赤薔薇と伯爵家の当主は歴代同じ人物ではないのだろうか。伯爵はそんなミシェルの考えを察して答えた。

「歴代の赤薔薇には、血の繋がりなどありませんのよ」

 伯爵はもう一度波立つ海へ視線を向けてから、ミシェルの脇を通り抜けて屋敷の方へ足を進めた。ミシェルはその場に立ったまま、伯爵の姿を追うようにして首を巡らせた。そして伯爵の後ろ姿に呼びかける。

「どういうことです?」

 伯爵は立ち止まって、細い肩を腕で抱くと振り返って答えた。

「言葉の通りです。私はムアストレイの孤児でした。先代が私を拾って、暗殺の技術を授けたのです。先代も、先々代に拾われました。そうやって赤薔薇は代々この伯爵家を続けてきたのです」

 思いもしなかった赤薔薇の秘密に、ミシェルは愕然とした。そこまでしてこの伯爵家を続け、赤薔薇として暗殺者を狩ることに意味はあるのだろうか。

「一体何故?」

 その疑問をミシェルは真っ直ぐに伯爵にぶつけた。伯爵は苦笑しながらも、ミシェルの後ろにある大きく黒く聳え立つ塔の上に目を向けた。そこから低い咆哮が聞こえたのは、ミシェルの気のせいだったのだろうか。

「さぁ。意味などもう失われてしまいましたわ。少なくとも私には、人を殺すことに意味はないのです。だから、もうおしまいです。陛下にも許可はいただいていますわ」

 意味のない殺人を、しかし彼女はもう幾度も行ってきたのだ。それでも彼女は美しく、そして優しかった。何故だろう。

 伯爵は屋敷の中へ消えて行った。僅かな光を纏った彼女の姿は、神聖なものにでも、触れてはいけない闇のものにでも、どちらにでも見えた。きっとそれが赤薔薇としての、彼女の本質なのだろう。赤薔薇のとしての彼女には、もう二度と会うことはない。会うべきではないのだ。ミシェルも、勿論ジュリアも。

 ミシェルは部屋に戻った。すっかり体が冷えてしまった。布団から覗くジュリアの寝顔は、出て行ったときと同じように微笑んでいて、月の下での伯爵とのやり取りよりもずっと現実味を帯びていた。思わず戸惑ってしまうような熱い何かが、また胸をいっぱいにしたけれど、ミシェルはそれを楽しむことにした。いつかその何かが花咲くこともあるかもしれない。それがジュリアを不幸にするようなものでなければ、咲くままにさせておこう。

 ジュリアを起こさないようにベッドに潜り込んで、ミシェルは朝まで天使の謳う夢を見た。


「赤薔薇がこの島に?」

 朝、ルイスはカルロス将軍とともに、軍の駐屯地から森を抜けてキプロスを治める伯爵の屋敷へと向かっていた。赤薔薇のことも、カルロス将軍から譲られる任務のことも、今日初めて耳にした。この島に赤薔薇がいる。そしてカルロス将軍の後を継いで赤薔薇と国王との連絡係を果たす人間に、ルイスがなるのだ。隣で淡々と馬を進めるカルロス将軍をじっと見詰めながら、ルイスは唾を飲み込んだ。「暗殺者を暗殺する」あの赤薔薇に会える。

「ルイス、ここではキプロス島を治めるロミシュ伯爵だ。そうお呼びするように」

 カルロスは前を見据えたままそう注意した。ルイスの方は前をちらちら確認しつつも、カルロス将軍の横顔を見続けていた。その頭の位置は、馬が歩みを進めるたびに上下する。

「はぁ……。しかし、そのような役職が必要ですか? 陛下をお守りするのであれば、我々だけでも。暗殺者は、白薔薇で十分なのでは……?」

 ずっと訊いてみたかった問いを、ようやくルイスは口にすることができた。正直、赤薔薇の存在はよく思えない。勿論白薔薇もだけれど、彼らは国王命で動くだけ幾分ましな気がするのだ。赤薔薇は違う。その気になればいつだって国王を殺すこともできるだろう。ルイスの問いに、カルロスはやはり前を向いたまま苦虫を噛み潰したような表情をした。

「伯爵に直接お尋ねしろ。儂も、この任に就くときにそうした」

 渋い顔なのは、その時のことを思い出してのことだろうか。この将軍にこんな顔をさせるなんて、赤薔薇は一体どういう対応をしたのだろう。背筋が寒くなった。

「答えに納得はできましたか?」

 慎重に尋ねたルイスに対し、カルロスは憮然として答えた。

「納得はしておらん。戦争で人を殺すことに対して、国の認めた合法だからといって納得できんのと同じだ。ただ、口を噤むには十分な対応を受けた」

 ルイスは、カルロスのその言葉に口を噤むしかなかった。戦争、人を殺すこと、国王、国民、法と道徳。それはいくつかの大きな矛盾を呑み込んでしまわなければ、折り合いのつかないもどかしい関係のものだった。踏み潰される者がいれば、救われる者もいる。将軍はそれをこの国を守る者としてずっと見てきた。これからはルイスが、それを目前にして生きていくのだろう。


 並んで馬を進めて十五分ほどで、駐屯地の反対側にある伯爵家に着いた。駐屯地と同じくらい飾り気がなく、貴族の屋敷というよりは要塞だった。かろうじて、そこかしこに咲く蔓薔薇の赤と緑だけがその屋敷の明るさを保っていた。

 門前でアルスと、この屋敷の召使らしき女性とに出迎えられた。馬を降りてその馬をアルスに任せると、丁度ミシェルとジュリアが屋敷の中から出てきた。二人は籠に入った昼食を手に、浜辺を散策しに出かけるところだった。朝食の席で伯爵がそうするよう勧めてくれたのだった。ジュリアはそれに対して何の疑問も抱かなかったが、ミシェルは玄関先でルイスを見つけた途端に、それが控え目な厄介払いだったことを知った。

 ルイスはしばらくジュリアとじゃれあい、将軍に咎められて渋々屋敷の中に入った。ミシェルがいつまでもこちらを気にするように見ていたような気がしたが、玄関の扉が重い音をたてて閉められると、それも見えなくなってしまった。

「中庭でお待ちだ。行って来い」

 少々乱暴にカルロスに背を押されて、ルイスはよろけながら中庭に向かった。将軍は幾分説明を欠いているのではないだろうか、とルイスは思った。会ってどうするのか。そもそも本当にこの任務は自分が勤めなければならないのだろうか。そういった疑問を内に抱えながら、ルイスは中庭に入った。

 最初に目についたのは、一際高く聳える暗い塔。海からの風は、少しだけ淡い紅色の香りを運んできた。浜辺に散歩しにいった二人の様子を想像して、羨ましくなった。ルイスはさらに歩みを進めた。塔の下、崖に近いところに美しいシルエットの女性が立っていた。きっちりと結い上げられた髪は金色で、青空の下で眩しいくらいに輝いていた。

 ゆっくりと振り向いた女性は、どこか男性的な、体に密着した服を着ていた。無駄な装飾はなにひとつ施されていない。ルイスは息を飲んだ。腰に下げた小さな巾着に手を当てる。ルイスは首を横に振った。白昼夢だ。それも性質の悪い。そう思った。

「貴女が、何かの間違いだ」

 目の前に立つ女性は、表情を崩さぬまま細い手を耳元に当てた。ルイスは見た。そこに飾られた赤い、小さな耳飾を。それはルイスの手元にある巾着の中に入っているものと、対になるものだった。

「カルロス将軍に代わってこの任を受け入れてくださるのでしたら、私の本当の名前をお教えしましょう」

 この任を受け入れるということ。それは彼女の秘密を守り、彼女の本当の顔を知ることだった。そして、この任を受け入れなければ、ルイスはここで死ぬだろう。赤薔薇の顔を知ることができるのは、国王とこの任に就く将軍だけだ。カルロスは軍から身を引く。赤薔薇について発言することは、今後一切なくなるのだろう。

「貴女が、赤薔薇だったなんて……信じられない」

 あんなに無邪気に笑う女性が。ここまで美しく内から輝く女性が。

「えぇ、カルロス将軍も同じことを言われましたわ。私が十歳の時に」

 ただ、口を噤むには十分な対応を受けた。

 カルロス将軍の言葉が脳裏に浮かんだ。ルイスは気が遠くなる思いだった。目の前の女性は、ルイスが恋心を抱き、また会いたいと切に願った人。そして多くの同業者を闇に葬り、この国を――国王個人を――裏から支えてきた人間だった。

「そこで私は将軍と手合わせをいたしました。この場所で。ルイス将軍、貴公もそれを望まれますか?」

 薔薇姫の言葉に、ルイスは意識せず頷いていた。赤薔薇が存在する理由。そして彼女が赤薔薇であることの証明が欲しかった。

 赤薔薇は小さく細身の短剣を抜いた。そしてルイスには腰に下げた長剣を抜くよう促した。ルイスが得物の差に戸惑うと、赤薔薇は微笑んだ。その微笑みは王宮で出会ったときと、全く変わらなかった。

 どちらからともなく、証明は始まった。空を飛ぶ鳥は、地上で行われている無言のやりとりを気にすることなく通り過ぎていく。赤薔薇は強かった。恐ろしさを感じるほどに。長剣で間合いをとっているはずなのに、しなやかな動きで赤薔薇はその間合いに入ってくる。動きの素早さと切れ、反射的な戦闘的勘の冴え、どれもが普通の兵士以上だった。そして短剣のみでも戸惑い無く間合いに入ってくる豪胆さ。さらに確実に急所を狙ってくる正確さ。ルイスは段々と追い詰められていく。

 その中でルイスは気付いた。彼女と自分とでは戦い方が違うのだ。彼女の戦い方は、本当に力ある者の殺しに重点を置いている。しかもルイスのように戦場で力を発揮する強い者ではない。闇に踊る暗殺者を狩るための戦い方だった。もはや疑いようがない。彼女が赤薔薇だった。ルイスは一歩一歩剣によって追い詰められていくのと同時に、彼女に抱いていた甘く優しい幻想が音を立てて崩れていくのを感じた。この圧倒的強さ。瞳の中に宿る暗殺者としての暗さ。ルイスは胸が詰まって泣きそうになった。その隙をつかれて、小さな剣にルイスは屈した。いつの間にか背についた塔の冷たい壁。首には赤薔薇の短剣が突きつけられ、目の前で彼女の大きな瞳が瞬いた。

 風が吹いて、彼女の髪から優しい匂いが香った。ルイスはどうしようもなくなって涙を流した。嘘だったのだろうか。何もかも。優しい笑顔も、憂いを帯びた瞳も。明るく微笑み、水音のように響く声も。赤薔薇は静かに、ルイスが泣くのを見詰めていた。そしてルイスの首から短剣を離すと、鞘に収めて言った。

「……私の正体を誰にも漏らさないことを誓うのなら、軍を辞めて国を出なさい。事前に接触してしまった私に落ち度がありました。任を辞しても、命は取りません」

 涙で歪む風景の中、ルイスは赤薔薇の瞳に、王宮で見た女性の憂いを帯びたあの色を見た。ルイスは自分が彼女を全く知らずに、ただ恋という幻想を作り出していたことを知った。崩れた理想を選別して、ルイスは素顔の彼女を積み上げ、作ってみた。まだまだパーツが足りなくて、形にもならない。けれどそれに残忍さはない。

「……貴女が、好きでした」

 ルイスは言った。

「けれどそれは間違った好意でした。俺は、もっと正しく貴女を見たい。この任、受けさせて下さい」

 赤薔薇は微笑むと、ハンカチを取り出してルイスの頬を拭った。

「私の名前は薔薇姫。それが、私の本当の名前です」

 ルイスの本当に、本当の恋はこれから始まる。


 ジュリアとミシェルは海辺を二人きりで歩いていた。ミシェルは少し、友人と伯爵との間に行われていることに興味を持っていたが、昨日考えたようにこれ以上踏み込むことは禁忌だった。無邪気に伯爵の本当の――裏の、と言った方がきっと正しい――姿を知らずに、彼女を愛してしまったルイスが哀れだった。そして、非はないのにそんなすれ違いを生んでしまう伯爵も、悲しい存在だとミシェルは思った。

 ジュリアはお昼の入った籠を前後に揺らしながら、ミシェルの前を歩いていた。初めて踏んだ砂浜は歩く度にぎちぎちと音を立て、砂は靴の隙間から中に入り込んで思ったよりロマンティックにはならなかった。潮風に髪を揺らしながら、今度はもっと暑い時期に来たいとジュリアは思った。動きやすい服を着て、水に足を濡らしてみたい。

 靴を脱いでも良いかと訊くと、ミシェルは渋い顔をした。

「砂が入るのよ」

 冷たいから水には入らないように、とミシェルは言った。ジュリアは靴を脱いで、更に絹の靴下を脱いだ。素足で踏む砂は、ちくちくと痛痒い。ミシェルが岩に腰掛けたので、ジュリアは隣に籠を置いた。そしてスカートの裾が砂まみれにならないようまくると、しゃがみこんだ。砂は白く、貝殻や珊瑚の破片が混じっていた。ジュリアは砂の中から淡い桃色の貝殻を見つけた。今の自分がしている恋の色だ、と思ってジュリアは一人微笑んだ。

「ジュリア」

 ずっとジュリアの後姿を見ていたミシェルが呼びかけた。

「なぁに? ミシェル」

 ジュリアは貝殻を持ってミシェルの隣に座った。貝殻を手の平に乗せてミシェルに見せると、物知りな彼は貝の名前を教えてくれた。そして貝殻を間に挟んだまま、ミシェルは黙ってジュリアの小さな手を取った。ジュリアは夢よりずっと温かいミシェルの手を見つめ、次いで風に揺れる彼の髪を眺めた。何となく、瞳を見るのが怖かった。

「ジュリア。お前がもし、十八歳になっても私を好きでいてくれたら、その時は結婚しよう」
「……ミシェル……」

 ジュリアはミシェルの目を見詰めた。穏やかな露草色の瞳は、父親の目ではなく、兄の目でもなかった。相変わらず保護者めいた色を残していたけれど、今までとは何か違う。

「それまで待つよ」

 ミシェルが微笑んだ。ジュリアは慌てて尋ねた。

「ちょっと待って。今、今のミシェルは私のことどう思っているの? 私のこと好きだからそういう風に言ってくれるの?」

 嫁ぎ遅れた養女を、責任を感じて貰ってやる程度の感情ならジュリアは望まない。それは、責任を持ってくれと言ったのはジュリアの方だけれど。そんな同情めいた感情で満足する悲しい女ではないのだから。

「今はそう、まだ妹のような子供のような……そんな愛情だと思う。しかし、お前は本当に驚くほど早く大人になっているし、そう……綺麗になっていると思う」

 そう言ったミシェルの顔は少しはにかんだ様な、同い年の子供のような顔だった。その言葉に含まれているのは哀れみとか、責任だけとか、そんなものではない。愛情だ、とジュリアは感じた。ジュリアの求めていたそれに近い愛情。

「本気なのね、ミシェル」

 重ねられた手を、ジュリアは強く握り締めた。

「あぁ、本気だ」

 ミシェルも握り返した。やんわりと。しかし、簡単には離れない強さで。

「私だけを見ていてくれる? ずっと、私の成長する姿を見ていてくれる?」
「あぁ、約束するよ」

 その視線は確かにジュリアから離れない。波からの風に押されたふりをして、ジュリアはミシェルの腕の中に倒れ込んだ。少しだけ伸びた背、少しだけ幼さの消えた顔に、ミシェルは気付いているのだろうか。

「聞いて、私、貴方が大好きよ。ずっと、その気持ちも成長するの」

 ミシェルはジュリアの背に腕を回して、ジュリアの言葉に酔いしれた。まだ若い、寝かせて間もないワインのようだった。深みはまだ足りないけれど、人を酔わせるのには十分ではないだろうか。ミシェルの中の、恋と愛の中間のような感情もジュリアの言った通り成長するのだろう。

 先生、全ては尊公のおっしゃった通りになりました。

 ジュリアの笑顔によく似た、ヘンリーの顔が閉じた目蓋に浮かんだ。その顔は笑いながら二人に語りかける。


 今日からここが、お前の家だ。

 その言葉をかけた時、そしてその言葉を受けた時に。
 二人の手は繋がっていたのだ――と。


 余談になるが、この後ジュリアが十八になるとすぐに、ジュリアとミシェルは結婚した。ジュリアは自らも薬の勉強をし、教師であり夫にもなったミシェルとともに、国内外の患者のために薬の研究や販売を行い、フォード家は栄えたという。しかしどんなに栄えてもフォード家の生活は変わらず、その後当主ミシェルが男爵の爵位を得ても、当主と妻、そして2人の子供はアプリコットの咲く庭で忠実な召使達と共に穏やかに生活した。そしてジュリアとミシェルが結婚したその三年後、キプロス島のロミシュ伯爵家は爵位を返上し、キプロスは新たに爵位を賜ったギラン伯爵が治めることになった。ロミシュ伯爵がキプロスの屋敷を去ると、間もなく屋敷を飾っていた蔓薔薇は枯れ果ててしまったという。

中編 / Flower Top