坂上の化け物屋敷
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その一見してなんの変哲もない木造の平屋は、夏場には目眩を起こさせるような長くゆるい坂道の、蜃気楼の先にぽつんと建っている。今はもう残暑の熱も遠ざかり、蜃気楼も夏の彼方に消えてしまった。それでもまだ、日中はしっとりと汗をかくような気温まで上がる。そのくせ日陰に入れば冬の寒さを予感させる肌寒さ。十八の春に就職をしてから、こんなどっちつかずの秋を迎えるのは、これで二度目になるだろうか。
僕は歩き慣れたその坂道を、一歩一歩踏みしめるようにして登りながら一旦立ち止まり、帽子のつばを上げてその平屋を見上げる。相変わらず、大きさ造り共に普通の家だ。今日は家人がいるだろうか。いや、多分いないだろう。こんな平日の午後だから、忙しいお医者はきっと勤め先の病院で、患者を診ているに違いない。
そうすると、あの家はひとりで留守番か。
僕は自分の考えにくすりと忍び笑いを漏らした。なんて表現だろうか。”家”が”ひとり”で”留守番”だなんて。けれどあの家に限っては、そのおかしな表現もまんざら間違っていると言えないのを僕は知っているのだ。坂の途中で立ち止まったかと思えばひとり忍び笑いをしていた僕は、坂の頂点のさらに奥から聞こえる子供の声で我に返った。もう少し帽子のつばを持ち上げて確認すると、坂道の上から学校帰りの子供達が、ある子供は裸足で、ある子供は服を泥だらけにして掛け降りてくる。誰も坂の途中で僕のように立ち止まったりはしない。立ち止まるどころか、その場を逃げさろうとする勢いで旋風のように僕の脇を通り過ぎて、あっと言う間に遠ざかっていくのだ。
「早く来いよ!」
一瞬自分に呼びかけられたのかと思って慌てて背後を振り返るが、呼びかけた一番年長らしい少年の目は僕に向けられてはいない。下り坂の終わりの方でようやく立ち止まった少年達が見上げているのは、ひとり遅れて走っている少女に向けられたものだったらしい。その子はまだ振り返った僕の後ろ、ちょうどあの家の前を通るような位置を、ようやく駈けてきたところだった。
「来ないと化け物屋敷に捕まるぞ!」
他の子ども達も口々に囃し立てる。少女は怯えた目で一瞬だけ、なんの変哲もなさそうな木造の平屋を捉えるが、目にしたら余計に恐ろしくなったのか、泣きそうになりながら短い足で懸命に足を早めた。ゆるやかとはいえ下りの坂道で、そんなに懸命に走ったら足がもつれて転びそうだ。
はらはらしながら止まった足を慌てて踏み出し、坂道を上る足を早めると、案の定というべきか、少女の足がもつれてか小さな体が大きく前に傾いだ。最後の一足を大きく前に踏み出して、なんとか小さい体を受け止めて支えることができる。
「だ、大丈夫かい?」
しゃがんで声をかけると、少女は自分の状況をゆっくりと確認し、どうやら目の前の郵便屋に助けられたらしいことを理解するとおかっぱ頭を揺らして頷いた。
「……うん。ありがとう」
黒髪黒い目、薄い唇の、お人形のような子だった。着物でも来ていれば、市松人形か、それとも座敷童か。助けられたとはいえ、知らない大人に話しかけられて多少の恐怖心が働いているのか、硬い表情なのも、人形めいた雰囲気を一層強くさせている要因のようだ。
「どういたしまして」
制服を着ているせいで、自分の家に来る人とは違っても、僕が郵便配達員であることを少女は察したのかもしれない。右肩から斜めに下げている大きな鞄を見て、それからようやく僕の顔を見た。ふっ、とほぐれる硬い表情が妙に嬉しい。続けて少女が何か僕に話しかけようとして口を開いた、その時だった。
「お前、何やってんだよ」
坂の下にいたはずの、あの年長の少年だった。いつの間にか坂を逆戻りして、少女の小さい手を掴んでぶっきらぼうにそう言った。兄妹、には見えない。少しほぐれたはずの少女の顔がまた硬くなってしまったのを見ると、どうやら近所のガキ大将と言ったところのようだ。大人から見れば、そのぶっきらぼうな態度にも心配した様子が見て取れるけれど、少女の方は完全に怯えてしまっている。男の子のこういうぶっきらぼうな態度の裏に何があるのか、女の子が理解するのはもう少し大きくなってからだろう。
今は理解できなくていいと思う。だから僕はおもむろに立ち上がり、身長差で相手を圧倒しながら大きく声を張り上げた。
「こらぁ! 何やってんだじゃないだろ! 君の方が大きいんだから、ちゃんと手を引いて連れて行ってあげなさい!」
いきなり立ち上がって説教を垂れた若造に、少年は最初反抗的な目を上げた。けれどこれもまた着ている制服のおかげなのか、少年は僕の格好を見ると上げた視線をすぐに落ち着かなく彷徨わせた。僕がそのまま逃げるのは許さないとばかりに少し腰を折って顔を近づけると、かなり渋々な態度ながら、そのガキ大将は
「う……あ、はい」
と答えた。ちらりと僕が視線を向けると、見上げてくる少女の目が、また少し解れて笑っているように見えた。それで僕は溜飲を下げる。溜飲を下げた僕の顔を見て、ガキ大将は面白くなさそうな顔をしたけれど、返事をした手前、やると言ったことはやる男だった。
「ほら」
乱暴に掴んでいた手を一旦離し、手の平を向けて少女に差し出す。手の先にある顔が、照れたようにそっぽを向いているのはご愛嬌だろう。
「うん」
今度ははっきりと微笑むと、少女は少年のまだまだ小さいその手を、それよりも小さな手でそっと握った。微笑ましい光景に目を細めていると、僕を見上げた少女が先程少年に邪魔されなければ言うはずだった言葉を口にする。
「……郵便屋さん、あのお家に行くの?」
このまま歩いて行っても、坂の上にはあの家しかない。坂の向こう側から昇って来た子供達はそれを知っているのだ。少女の質問に、手を繋いで立っているガキ大将も興味深々といった様子で僕を見上げた。二人だけではない、彼らを迎えに坂道を戻って来た他の子供達もいつの間にか近くに来ていて僕の答えを待っていた。
「うん、そうだよ。郵便届けにね。それが郵便屋さんのお仕事だから」
当たり前のことを答えてやると、子供達は大きな目を見張る。そして高い声で次々と口を開くと、身長差のせいもあって、その様はまるで餌を強請る燕のヒナのように僕には見えた。
「怖くないの?」
「なんかされなかった?」
はてさて、これは困ってしまう質問だな。何かされなかったか、と言われて何かされたと答えれば彼らを必要以上に怯えさせてしまうだろうし、何もされなかったと言って下手に安心させてしまうと”肝試し”に行く子供が増えて、家人のお医者先生を困らせてしまいそうだ。正直に言えば、これまでに何度もあの家には”何かされている”。本来は人に”何かする”ようなものではないから、最初は確かに恐ろしいと思ったものの、今では少し楽しみですらある。
そんな風に思えるようになったのも、相手が”何”であれ、一応自分には大した害がないと理解したからだった。
「時々悪戯はされるよ」
それこそ、君達が時々大人に仕掛けるような悪戯はね、とは言わなかった。確かにあの家が仕掛ける悪戯は人間の子どもがするような他愛のないものばかりだったけれど、どうやらそれだけではないようだということも、あの家を訪れるようになってから理解したからだ。
記憶を辿ってみて、売れない三文小説のような書き出しをするならこうだ。
あれは二年前――。
あれは二年前、僕が地元の郵便局に就職してすぐに配属された集配業務で、担当となる地域の地図を上司に手渡しされたところから始まる。基本的には徒歩で回るその地域は、地元と言っても今まではそれほど縁のなかった地域で、僕の家よりも東北に位置する坂道の多めな区域だった。
「お前さん、どこの区域を任されたんだ?」
突然後ろから肩越しに覗き込まれて、内心では背が高くないことをからかわれたみたいで面白くなかったが、勤め始めて数日で人間関係に躓きたくはない。後ろから覗き込めばすでに見えているだろう地図を、しっかりと広げて見せると、その対応に安心したのか今度は前からひとりが迫る。
「はい、中町の……」
僕は後ろにも前にも見やすいようにと地図を少し下げた。すると後ろで覗き込んでいた男が、何とも形容し難い調子で言った。
「あぁ、お前さんがあの区域か」
なんだろうか。その可もなく不可もなくという、妙に引っかかる言い方は。気になって背後にいる男に確認しようと身を捩ると、その前に僕の前にいたひとりが地図を引っ張ってさらに押し下げた。
「へぇ、どれ? ……あぁ、本当だ」
そこまで顔を近づけなくても見えるだろう、というか、見えないと仕事に支障があるのではないかと思えるほど、男は地図の上に顔を乗せ、鼻がぶつかるような近さで確認している。そしてすぐに顔を上げると、それまで少し遠巻きにこちらを見ていた他の数人もまるでそれが合図だったかのように、わらわらと僕が持っている地図に寄ってくる。あれよという間の人だかりだ。
「おやまあ」
とひとりが声を上げれば、おやおや、ともうひとりもつられたように声を高くする。皆一様に顔を見合わせて、それっきり黙り込んでしまう。
「あ……あの、何か問題のある地域なんでしょうか」
その中途半端な物言いが気になった僕は、初めての仕事に不安を覚えていたところをさらに煽られたような形でおどおどと尋ねた。その怯えたような反応に、自分達の言い方が良くなかったと彼らが反省したのかどうかは分からない。さらに僕の不安を煽るような返事しか返ってこなかったからだ。
「問題っちゅうかねぇ?」
ひとりが視線を巡らせると、他の者はその視線を避けるようにして顔を反らしながら、あぁ、とか、うん、とか答えて口ごもる。嫌すぎる反応だ。問題があるならある、ないならないとはっきりして欲しいが、その反応で問題ないとはとても思えない。
「まぁ、嫌がる奴は嫌がるさ。な?」
語尾を上げると、うんうんと皆が一様に頷いて返す。それまではっきりしなかったくせに、それだけは皆ぴったりと測ったように反応が同じだなんて。
「な、何があるんです?」
わざと怖がらせようとしているとしか思えなかった。もしかして一種の洗礼だろうか。新しく仕事に加わった若い男性職員に対する、質の悪い入社式のようなものか。そう疑うことが出来た時点で、僕は自分としてはかなり冷静になったつもりだった。
「いや、なに、ちょっと変わったお家が一軒あるだけだ」
「家の人は若いが優秀なお医者でな。愛想はないが礼儀正しいいい人だ」
家人がいい人なら、そう含みのある言い方をしなくてもいいのではないか、と思う。愛想がないと言っても、そんな人間は掃いて捨てるほどいるわけだし、礼儀正しいというなら郵便を届けに行くだけの仕事だ、それで十分な気もする。基本的にはいい人だけれど、ちょっと変わったところがある、というくらいの意味だろうとその時の僕は解釈した。
「ただ家の方が……なぁ?」
またあぁ、とか、うん、とか口の中でもごもごと呼応しあって、彼らは意味深な視線を交し合った。益々分からない反応だ。トンデモないボロ家だとでも言うのだろうか。別に中に上がり込むような仕事ではないのだから、玄関先だけでも人が入れるようになっていればボロでも驚いたりはしないのだれど。いや、でも若い優秀なお医者の家が、そんなボロ家だというのはおかしい。僕のような薄給で暮らしているわけではないだろうし、と冷静になったつもりの頭で考えることは、やはりつもりだけのことで本質を突いてはいなかった。
「うん。でもまぁ、よほど嫌われなければ大丈夫だろう」
そのうち、結局は無責任なところに落ち着いてしまったそのやりとりに、僕は馬鹿正直にむっとなった。何だそれは。家の人に、ではなくて家に嫌われなければ大丈夫だというのか? わっと集まってきてもごもごと言い合って、それからさぁっと散って行ってしまった先輩達に、僕は内心の怒りをぶつける暇もなく、欲求不満はしばらく続いた。
けれどまぁ、その後はそれほど気にもならなかった。田舎の年寄り――というにはまだ若いが自分よりは大分年をとっている――連中の言うことだ。若い新人の自分をからかうつもりでもあって、大袈裟かつ意味深に言ってみただけのことだろうと思ったのだ。実際に配達をするようになってから一週間経っても、彼らの言うような奇妙な家には当たらなかったせいもあって、僕は特に問題もなく続く仕事に早くも緊張感を無くしていた。