桜下人形

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 今年の桜は遅い。週末に予定されていた花見の席が、その時期にはまだ五分にもならないということで延期になった。冬の寒さか、または初春の暖かさが足りなかったせいなのだろう。今日も昼は小春日和の暖かさであったというのに、日が落ちるとすぐに気温が下がってしまった。

 花見を楽しみにしていた老先生には申し訳ないと思いつつ、花見という名の宴会が延期になったことに男は正直安堵している。

 男は東京の医大を出てまだ三年と経たない新米の医者だ。医大を出てすぐに地元へ戻ったのだけれども、駆け出しの身でいきなり開業など出来るはずもなかった。自宅で開業することは、自分の医者としての経験や腕だけではなく、もっと別の問題から困難であると分かっていたので、ひとまずの就職先として自宅から近い小さな開業医の元で働くことを在学中から決めていたのである。老先生とこの界隈で尊敬と親しみを込めて呼ばれている腕の良い医者の小さな病院で、見習いとして働くことができるようになったことは幸運だった。

 大学に入る前に母を、そして大学を卒業する前に父を亡くした男は、東京で働くことを考えることもできたけれど、結局生まれ育ったこの土地に戻ってくることを選んだ。他に兄弟もいない。両親のいなくなった家をそのまま空けておくことはできなかったし、それなら、と他の人間を住まわせることもできない家なのだ。そのことについて、特別不満があるわけではない。元より東京の水は合わなかったし、片田舎と呼ばれるようなこの土地の方が暮らしやすい。

 だから帰ってきたのだ。地元に残っていた幼馴染はそれを手放しで喜んでくれたし、老先生にも気に入られている。自宅での開業が無理ならば、跡継ぎのいない自分の病院を継いでくれないかと言ってくれてもいる。それはまだ先のことになるだろうけれども、そうできれば、というぼんやりとした希望はある。

 育ちか、はたまた生来のものなのか人付き合いが苦手なことを除けば、医者という仕事にやりがいも感じている。十分過ぎる、と男は常に思っている。一人暮らしを終わらせてくれる出会いはないものの、それを急かす人間もいないのだから、これからものんびりとやっていくことだろう。それが一番性に合っているのだ。

 目下のところ、空いた週末の過ごし方など考えるといはなしに考えながら、男は勤め先の病院からの帰り道をゆらゆらと歩いていた。

 五分にもならないとはいえ、咲き始めた桜には自然と目がいく。普段から花を愛でるような人間でなくとも、淡い色の桜には自然と目を向けるように体の奥に仕組まれているのだ。路傍で梅の匂いを嗅ぎ取ってしまうのと同じように。

 水道に架かる橋のすぐ横に植えられた桜を見上げつつの帰り道で、橋を渡ってすぐの辻を桜の方向に曲がって男の視線はつかの間桜からその幹、そして根へと下がった。水道は昨晩の雨で水嵩が増して、さらさらという流れの音も普段より大きい。何気なく桜の木の根元を見やって、男はぎょっとして立ち止まった。

 乱れた髪をうねらせて、首が落ちていた。

 それが人の生首でないことは、一目見て判断できた。生気のある人の首ではなく、逆に血の気を失った死体の首でもない。何より虚空を見つめるその開いたままの瞳は水分に潤んだ瞳でも、白濁した瞳でもない。生身の人間にはあり得ない光沢を放つ石の瞳だ。

 だが大きさは確かに成人女性の頭と同じ、いくぶん小顔に作られているだけのようだ。生人形というほど人に似せてあるわけではないが、歩きざま目にすれば動揺して当然の出来だった。誰かの悪戯だとすれば趣味が悪すぎるが、男はそれと別の意味で眉を顰めた。

 血の通わぬ人形とはいえ、このまま道端に打ち捨てておくのが不憫に感じられたのだ。薄汚れ、髪も乱れた人形は、夜の薄闇に艶やかに咲く桜の下では一層憐れみを誘う。

 そうかといえ、ほぼ成人女性と変わらぬ大きさの首だけをむき出しで持って家に帰るのも、誰かに見られてはあらぬ疑いをかけられそうな光景であろう。袂を探って懐中時計を確認すればまだ宵の時間。他に誰かが通っても、何ら不思議はない時間帯だ。そしてそれは、今ここで何も見ないふりをして男が通りすぎても、他にこの憐れな人形を拾ってくれる人がいるかもしれない可能性を示していた。

 男はその場で立ち止まったまま、どうしようか考えあぐねて時計を袂に戻した。その時手に触れたのが、今朝老先生に借りていた本を包んで持っていった風呂敷だった。男は袂に手を入れたまま一時悩み、結局その風呂敷を取り出して桜の木の根元に腰を屈めた。

 藍染の風呂敷を広げ、その中央に土に汚れた人形の首を置く。それから長い人形の黒髪をまとめて捻る。手触りからして、髪は人毛を使っているようだ。首から上は目立たぬように白く塗られているが、木目がうっすらと見える。瞳は石がはめ込んであるようで、それを縁取る睫毛はあるものの瞼はない。男が風呂敷に包んでいる間も、じっと男を見ているようだった。

 そのどこかしこもが土に汚れた人形の首を、男は西瓜を包むようにしてすっかり風呂敷に包んでしまった。それから多少周囲を気にしつつ、立ち上がって再び我が家を目指し歩き出した。人形は木製だが中は空洞で、首だけということもあってさほど重く感じられない。まるで弁当の空き箱を持つようにして、男は軽く腕を振りつつ帰宅した。


 ゆるやかな坂道を上って、出迎える人もいない家へ帰り着くと、いつものように玄関には小指の爪ほどの大きさの石英が置かれていた。男はそれを拾って中に入った。この家には他人が知れば不思議だと騒ぎ立てるようなことが当たり前に起こる。石英は男がこの家で生まれてから、いや生まれる前から一日も欠かさず日が沈む頃になると玄関の前に置かれている。何のために、誰が置いていくのかということはこの家では考えないことになっていた。父も、嫁いできた母も、そして祖父母もその兄弟達も、この家で暮らしたことのある者は誰しもが暗黙のうちに了解していたのだ。

 そういうものだ、と思えばそれだけのことで、“彼ら”はこの家に住む人間の害になるような行いはしない。時々物が無くなったりもするけれど、それも子どもの他愛ない悪戯と大差ないのだった。玄関先に置かれた石英などは悪戯にもならない。“彼ら”にとって多分なにかしらの儀式めいた行為なのだろうけれど、それが男にどう影響するわけではないのだ。

 ただ放っておけば玄関先が石英だらけになってしまうため、置かれた石は男が拾って庭の砂利の中に紛れさせてしまう。男が産まれる前は父が同じことをしていたという。父の前には祖父が。それだけ長く続けられているにも関わらず庭の砂利に石英ばかりが目立たないのは、案外“彼ら”が玄関先に置く石英を当の庭から選んできているためかもしれなかった。

 何の役にも立たない連鎖。だが男は今日も石英を庭に放る。男にとっては儀式というよりも習慣となってしまった行為だ。それに役に立たないというのは男にとってのことだけであって、“彼ら”にとっては何かしらの役に立っているのかもしれない。何にせよ、この家はこういう家なのだ。家自体が意思を持って“彼ら”を養っている。

 “それ”が何の意思か分からないから、代々“家”の意思であるということにしている。神というほどありがたいものではない。第一ほかにきちんと神棚があり、多分神はそこにおわすのだろう。祟るという点では確かに八百万の神のうちの名も残らぬ一柱なのかもしれないけれど、家人には決して祟るものではないから別段恐れるでもない。

 男はひとまず持って帰ってきた人形の首を風呂敷に包んだまま自室へ置いた。男以外に家人はいない。他から見れば奇妙な家であると分かっている――そして近所にはすでにそれが知られてしまっている――手前、手伝いなどを雇うこともできないのだ。父のように理解のある嫁でももらっていれば別だろうけれど、男に連れ合いはいなかった。

 週末にでも寺に行って、供養してもらうのが良いだろう。

 そう思って泥で汚れた風呂敷を洗うために解いた。現れた人形の首は無理に風呂敷に収めたせいか、長い髪が絡みついて拾ったときよりも一層憐れな姿になっていた。さすがにこのまま寺に持っていくだけでは気が引ける。元は美しい人形であったようだからなおさらだった。

 男は使い古した手拭を箪笥の中から探し出して、それを水に濡らして汚れた人形を拭き始めた。乱暴に水桶に首を突っ込んで洗ってしまっても良かったのだけれど、しっかりと開いた黒い目を見ながらでは咎められているようでやりにくい。

 硬く冷たい頬を手拭でひと拭きすると、それだけで土が落ち、白く丸みのある頬が現れた。高くすっと伸びた鼻梁。広すぎない額。唇はぷっくりとしていてだが厚すぎず、ほんのりと開かれた口からは揃った前歯が覗いていた。
 今すぐにでもその口を動かして、男に語りかけてきそうな。そんな妖艶さを持つ人形だった。無残な首だけの姿であるのが惜しい。

 惜しいからといって、首から下を作ってやるわけには勿論いかず、男は湿り気の残る人形の首をとりあえず空にした桶の中に置いて乾かすことにした。そして自分は着替えてから簡単な夕食を作り始めた。

 男がすっかり夕食と後片付けを終えて、いつものように先生から借りている医学書を読み、そろそろ風呂の準備をしようと思っていた時間のことだ。からからと乾いた音を立てて玄関の戸が開かれる音が響いたのは。

「ごめんください」

 擦れた男の声だった。いつも来る郵便屋の声ではない。そもそも郵便屋の訪ねて来るには遅すぎる時間だ。知らない男の声に、家の空気がざわついた。元々知らぬ人間には頑なになる家ではあるのだが、今日のざわめきようは普通ではなかった。

「夜分に失礼いたします」

 常ならぬ家の様子に気を取られて、出るのが遅れてしまった。男は部屋から小走りに玄関まで出て行った。だが廊下の途中で足を止めたくなってしまった。玄関に不吉な印象を与える真っ黒な影が立っている。影のような訪問者だった。

 元々薄暗い玄関ではあるが、訪問者の衣服が見事に黒づくめであるために一層暗く見えた。家がざわつくのも分かる、と男は内心思った。山高帽を目深に被った小柄な訪問者は、男が玄関に出ても俯いた顔を上げようとしない。

「……何か」

 家と同じように警戒心を強めながら、男は訪問者に尋ねた。するとどこか卑屈な慇懃さを感じさせる口調で訪問者は言った。

「ひとつお尋ねしたいのですが」

 訪問者が口を動かすたびに、家が警戒してカタカタと小さく動く。それほど嫌な相手であれば、最初から戸を開けなければ良かったものを、と男は訝しく思った。現にこの家はこれまでにもそうやって気に入らない訪問者の何人かを追い返しているのだから。

「今晩、女を拾いませんでしたか?」

 その言葉に反応して、家の空気が一層ぴりりときつくなった。その反応に、女の人形なら拾ったが、と正直に答えようとしていた男は開きかけた口を閉じた。言うべきではない、と警告されたように感じた男はそっと唇を舐めて答えを変えた。

「……いや」

 嘘をついたわけではない。男が拾ったのは人形だ。それも首だけ。長い髪とふっくらと作られた唇から女の人形であることは推測できたが、それでも男が拾ったのは“人間の女”ではない。

 訪問者は山高帽の下から男に疑わしげな視線を向けた。だが男はそれ以上何も付け加えようとは思わなかった。

 何も言うなと、家が言っている。

 じっと直接は絡まない視線で向き合っていると、不意に山高帽が小さく上下した。

「……そうですか。どうも失礼いたしました」

 そう言って訪問者は出て行った。黒い外套と、黒い山高帽。僅かに襟足を剃ったあとの肌が除く以外は、その髪も、靴も、手袋も全て黒一色。喪服といっても行き過ぎているような装いだ。訪問者が出て行くと、家はぴしゃりと戸を閉じた。そう嫌がるのなら、やはり最初から入れずにおけばよかっただろう、と男は声に出して指摘したが、家は何も応えようとはしなかった。

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