桜下人形
---------------------------------------------------------------------------------
そうして次の晩。男はまたいつも通りの帰路を辿り、あの桜の木の下を通りかかった。何気なく足を止めて昨晩人形の首を拾った場所に視線を注ぐが、そこには茶色の土ばかり。思わず出てしまった溜息は安堵の溜息だろうか。それとも、期待を裏切られた失望の?
自らの問いに男は思わず苦笑した。捨てるのなら別に首と一緒にすべて捨てておいても構わないはずだ。人ではないのだから、身元を知られて困るでもなし。頭を振って、桜の前を行き過ぎようと大きく踏み出した足先が硬い何かにこつんと当たった。
ひやりとして再び男は立ち止まる。
それは腕だった。昨晩拾った人形の首のあった場所から、ほんの足一歩分程度離れた場所に、確かに血の通わぬ人形の腕が落ちていた。その上向いた掌の中に桜の花弁を一枚乗せた状態で、可憐な腕だけが一本。その手は力の抜けたように見えて、指の一本も動かない硬質さを保っていた。
翌日に見つけたのは胴だった。さらに次の日には右大腿部。そして次は左足首。打ち捨てられたというよりも、誰かが意図的に置いていったのではないかと疑ってしまうほど連日、人形の部位が桜の木の下に捨てられていった。
それを拾って持ち帰る自分もどうかと思うが、男はどうしても放っておくことができなかった。細かく刻まれた惨殺死体のように置き去りにされる人形の部位は、持ち帰って合わせてみると他の部位とぴたりと合うのだ。つまり、それは元々一体の人形を構成していた部位であったのだ。
だから当然のことながら、持ち帰った部位を糸で繋げてみれば白い肢体は美しい全体を再び構成する。最初に拾った顔にそうしてやったように、男は拾って帰った胴の、腕の、足の汚れを落としてやった。白い人形の肌は、どうあっても熱をはらむことはなく、ひんやりとしていて冷たいままだった。それは男が時折相手をしなければならなくなる人の死体に良く似ていた。まるで一度解剖した人の体をもう一度繋げて再生させようと試みているような。
背徳感、だろうか。人の身で死者を蘇らせようとしている。それか、男の身ひとつで人を生み出そうとしている。いや、それとも人ではないただの人形と分かっていながらこんなにも惹かれている事実に戦慄しているのか。
いっそピュグマリオンのように、神に祈るべきか。
この人形を人にして欲しいと。
人にして、妻にしたいのだと。
馬鹿な、と男は自嘲した。人形に恋慕するほど不自由しているわけではない。それにこの人形は恋情を抱くには冷たすぎる。一方でそう感じつつ、もう一方では人形を組み立てることに熱を上げている自分がいる。それを滑稽と思いつつ、男の中にはこの拾ってきた部位がやがてひとつの人形になることを望み、確信しているような部分があった。
それは最初の晩に訪ねてきた男と、同じ男だった。服装もあの晩と全く同じに見える。あの晩ほど家は騒がなかったが、その分沈黙が空気を尖ったものにしていた。家は確かにこの訪問者を嫌っている。嫌っていながらも家がこの訪問者を入れる理由は何なのだろうか。一体、男に何をさせたいというのか。
「今晩は、女を拾いませんでしたか? この角を曲がった、桜の木のところです」
虚ろに挙げられた手の示す方向は、あの染井吉野が咲く方向である。だが男の表情はそれに思い当たっても動かなかった。
「……いや、以前にも答えたが」
「……そうですか。それは、失礼いたしました」
そう言ってすぐに引き下がったけれど、この訪問者はまた明日も来るだろう、と男は何故かそう思った。そして明日には、あの桜の下には人形の最後の一部分が落ちているのだろう、と。
捨てられている部位を拾って帰るたびに、人形は元の姿を取り戻していく。そしてようやく最後の最後まで欠けていた右手首が揃うと、人形は完全な体を取り戻した。内部をめぐらせていた糸も、これで閉じることができる。すると人形はもう持ち上げても手や足がしっかりと首に、胴についてくる。だが当然、それだけではだらりと力のない、軽すぎる肢体。
初心な子どもでもあるまいし、駆け出しながら医者をしている手前女の裸など見慣れている。それに生身の女の体に比べたら、この人形の体は起伏が乏しすぎるだろう。量感のなさはまるで子どもの体のようだ。だがそれでも、男は人形を裸にしておくことが躊躇われた。妙に、本当に奇妙な感覚であるが裸の人形を直視できないのだ。
男には兄弟姉妹がいないためか、幼い人形遊びには昔から縁がなかった。近所の幼馴染と遊ぶことはあっても、それはやはり男ばかりで、人形遊びよりは木登りや悪戯など、いわゆる男の子の遊びというものばかりを経験してきたのだ。それはなにも特殊なことではない。きっと男と同年代の者は誰しもがそうであっただろう。男にとって、女の子達の持つ人形は子どもの玩具ではなかった。幼い童女と遊ぶ人形は、外から見る男にとってはもう一人の童女と同じ。女児が人形を妹のようにして扱うのと同様に、外から見ている男にも女児と人形は姉妹のように見えていたのだ。
ただ外から見ていた男には、表情のない人形を愛でる女児の心は理解できなかった。話しかけても応えず、微笑みかけても返さず。ただ女児にされるがまま動かされている人形は、男にとって決して愛玩の対象となる存在ではなかったのだ。
三十四で亡くなった母の着物は、母の死後、そして父の死後もそのままにしてあった。男は時折出して虫干しするくらいにしか開かなかった箪笥から、母親の着物を取り出した。物持ちが良かった母の、娘時代に着ていたのであろう振袖を一着。濃い青褐色の地に桜の花が舞う振袖に、臙脂の帯と金の帯止めを合わせる。
そして人形を籐の椅子に座らせて振袖を着付ける。褥を共にした女にもしてやったことがないことを、物言わぬ人形相手にしてやっている。そんな自分を滑稽に思う心と、それを声に出して笑えないほど真剣な自分とを男は意識した。
そうしてやらねばならない。
理由もなくそう思えたのだ。だから男は何かに憑かれたようにして人形の着物を整え、さらに紅を持ち出してうっすらと開いた硬い唇に引いてやった。
まるで死人に化粧を施してやる様に似ている。
男はそう思いつつ、最後に黒々とした人形の髪を梳いてやった。最初に首だけを拾ってきたときよりも一層丁寧に。髪は梳いてやるほどに艶やかさを増していく。夜の闇よりも濃い黒は白い肌を一層引き立てる。
そうして桜模様の振袖を着せた人形は、遠目には生きている人間のように見えた。ざわり、と一瞬だけ家が鳴る。それは男の行為を喜んでのことなのか、それとも咎めてのことなのか分からない。どちらにせよ、家はこの人形についてそれ以上何も言わなかった。