山百合の残像
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その家は緩い坂の上に建っていた。
その坂は家の建っている場所を頂点にして、また緩やかに下り坂になり、長閑な田園風景へと繋がっている。
坂の上の一軒家は、一見して、何の変哲もないただの木造平屋建ての民家だった。特別大きな屋敷ではないし、入る前に立ち止まって深呼吸しなければならないような立派な門構えをしているわけでもない。
住人はたった一人。男が知り合った頃には、知人の若い医者はすでに両親を亡くして一人でこの家に住んでいた。化け物屋敷だという話は昔から近隣中に知れ渡っていて、それでもなお、と言って嫁いでくれる女は今のところいないらしい。
簡易な門の前で、男は一旦立ち止まり、手にしている鞄を持ち直した。日は傾きかけているというのに、まだじんわりと汗ばむくらいに暑い。夏だな、と何故か今更ながらに思った。坂の下の田んぼから蛙の声が聞こえる。どこか近くに蝉もいるようだ。男は門の前で汗を拭い、それから左右を確認し、慎重に足を踏み入れた。一歩だけ、中に入ると男は一旦停止し、また左右上下を確認する。
何も起こらない。いつもなら何度か門前払いを食らって、ようやく玄関をくぐることができるのだが、今日は何の抵抗も受けずに入ることができた。勿論、安心したところを狙う、という戦法をとられたこともあるので気は抜けないが。男は慎重な歩みで門をくぐり抜け、そして玄関前まで進んだ。玄関の戸を開ける前に、足下を見て小石がないことを確認する。いつも家主が外出から帰ってくると置かれているという石は今はなく、それで男は家主が在宅であることを確信できるのだ。
それからようやく、男は玄関の戸に手をかけた。がらがらという音が響き、戸をいっぱいに開けてから男はしばらくそのまま様子を伺った。ここでも何も起きない。家人が出てくる様子もない。はて、在宅かと思ったが、単にまだ小石が置かれていないだけだったのか。男は首だけを先に突っ込んで、玄関の中を確認した。いつも知人が使っている下駄が一足、鼻緒をこちらに向けてきっちり揃えられている。やはり、外出しているわけではないようだ。
「おい、いるんだろう! 邪魔するぞ」
勝手知ったる他人の家、と中に呼びかけて返事ももらわぬうちに男は家に入った。外出中にせよ、入るのにためらうような間柄ではないし、知人も分かっていて家にはいつも鍵をかけていないのだ。鍵をかけていない理由は他にもあるが、その理由が今日はやけに大人しい。ほっとするというよりは、余計に神経過敏になってしまう。
男は不気味なくらいに静まり返った家の中に入り、まずは持ってきた鞄を玄関に置いた。それから靴を脱いで上がる。きし、と床がきしむ音がした。右手を見て、台所には誰もいないことを確認し、左に折れてすぐの小部屋を覗いた。家人の書斎となっているその小さな部屋にも、人影はなかった。男の知人は書物に夢中になると周りの音を拾わなくなるのが常だったので、今日もそういう状態にあるかと考えてみたのだが、そうではないようだった。本当に留守なのかもしれないな、と男が身を翻して庭に面した内縁を見やったその時。男は目に飛び込んできた暗い人影に身を強ばらせた。
内縁に、ひとりの女が立っていた。
それも嫌に重い空気をこれでもかというくらい強力に発している。長い不揃いな髪、項垂れた立ち姿からはよくある柳の下の幽霊画が連想されたが、もちろん幽霊画よりも本物の方がずっと怖い。それも、はっきりと顔をこちらに向けておらず、俯いた顔が長い髪に隠れて見えないところがまた恐怖心を煽る。
正直言えば、自分がこんなものを見ることのできる体質だということを男は今日初めて知った。しかし本物の人間を見間違えているということではなさそうだ。この家に女がいないことは承知していたし、何より俯く女の体は、ほんのり後の風景が透けている。
だが足はあるようだな。
そんなに見るつもりはなかったのだが、恐怖ゆえに目が離せず結果的にその幽霊の姿をじっくりと見る羽目になってしまった。俯いていて顔はよく見えないが、薄めの唇は一文字に引かれ、悲壮感が漂っていた。それから着物。お世辞にもいい着物とは言い難く、所々擦り切ている小袖を腰で緩く留めている。大きくはだけた胸元からは、中の襦袢が見えていて、その白い襦袢だけなら死に装束のようにも見えただろう。足下も裾をからげていて、素足が覗いている。野良着、と言ってもこの周辺の女達ならもう少しましな格好をしているだろう。
よほど時代物の幽霊なのか、それともどこぞの田舎から出てきた幽霊なのか?
しかしわざわざ幽霊が田舎から出てくるということがあるのだろうか。盆なら田舎に帰ることはあるだろうけれど。一種の逃避に近い状態で、男は体を硬直させながら思考だけを巡り巡らせた。家の中はだいぶ涼しいと思っていたのに、汗が背を伝う。頼むから顔を上げてくれるなよ、と男は願いつつ、何とか足を動かして下がろうとした。
その時だ。内縁の奥から知人がのそりと出てきた。幽霊越しに見えるその姿に、男は声をかけようと思ったけれど喉がひくつくだけで声が出ない。彫像のようにただ突っ立っているだけの男に、知人は最初気づかずにそのまま庭へ降りていこうとした。けれどまるで何かに呼ばれたように足を止め、首だけを男のいる方へ巡らせる。
目が合ったと思うと、ああ、お前か、というように知人は一瞬目を細めた。男の方は、知っている顔が見えたことで体の緊張は少しほぐれたものの、未だに声を出すことはできない。いつもなら会ってすぐに何かしら声をかけてくる男が黙ったままでいるのを不審に思ったのか、知人は少し視線を前に移した。そこでようやく、目の前に立っている女の幽霊を思い出したようだった。鈍すぎる、と男は叫びたかったが、声は出ないし何より次に発せられた知人の言葉には怒りを削がれてしまった。
「悪いことはできないように抑えてあるから、通り抜けても問題はないぞ」
別段何事でもない、という風に知人は幽霊と男を交互に見やって言った。
「抑えてあるって……お前が?」
そんなことができたのか、という驚愕を込めて問うと、知人は露骨に嫌そうな顔をした。
「馬鹿を言うな。家に決まっているだろう」
そうか。それなら何の驚きもない。”この家なら”そんなことができたとしても不思議はない。不思議はないが、実際にやってのけるほど非常識だとも思っていなかったというのが正直なところだ。
「そもそも何でこんな嫌な感じのするもんを入れたんだよ。とうとう狂ったのか?」
つい愚痴がこぼれ出てしまう。通り抜けても問題ないと言われても、やはり人の形をしたものを素通りできるほど図太い神経は持ち合わせていない。男は幽霊を回避し、内縁から一旦座敷に入って大回りして通り抜けるつもりで足を踏み出した。しかし狂ったのか、とまで言われて家が黙っているはずがなかったのだ。男が片足を浮かせた状態で進路を変更しようとしたその時、残っていたもう一方の足を何かに掬われた。
「うわっ!」
体勢を立て直す間もなく、全身がぐらりと傾いたことが分かった。それも、俯いた女の幽霊の方向に。
男は何より先に目を瞑った。避けようとしていた幽霊に自ら飛び込んでいかなければならないこの状況に、耐えられるわけがない。次いで手を伸ばし、何とか顔面が床板に激突するという被害は免れた。だがまともな受け身もとれず、したたかに両膝を床に打ちつける。痛かったが、呻いている余裕もない。状況からすれば男は今、幽霊を下半身から生やした状態で倒れているはずなのだ。
実際それを目にする勇気は勿論なく、男は足をばたばたと無様に動かして前に這って出た。それから傷みで涙の滲む両目を開けると、知人の呆れたような顔がぼんやり見えた。何をやっているのか、と言わんばかりの顔だが今は反論する気にならない。差し出された手にも、素直に縋って立ち上がる。
振り返れば、女の幽霊の背が見えた。考えてみればこれこそ不思議だ。何故幽霊は透明なのに、正面と背面を同時に透かして見ることができないのか。そんなことを考えている途中で知人の言葉が聞こえて、男は一瞬何の話をしていたのだったか、と思い出すのに手間取った。
「生憎だが、毎年のことだ」
「毎年だって?」
何が、と聞き返して非難の視線を浴びる前に思い出した。何故幽霊なんかを入れるのかと――そもそもそんなもの達から家人を守るために存在しているのではないかとぼんやり考えていたから――不思議に思って尋ねたのだった。質問に対する答えは、毎年のこと、だという。毎年同じ時期に、こうして幽霊を入れているというのか。何のために。
「肝試しの仕掛けだ」
知人の答えは明確だった。肝試しに幽霊はつきもので、むしろ幽霊を見ることを期待して肝試しを行うのではないか。しかし、一体誰が。
「……誰の肝を試すって言うんだ?」
この家に出入りする人間は限られている。知人は勿論、自分の家なのだから出入りするが、今更幽霊の一匹や二匹。いや、百鬼夜行が目の前を横切ろうとも肝を潰したりはしないだろう。彼の幼馴染みだというあの童顔の警察官も同じだ。他に、この家に出入りする人間と言えば、と男が頭に思い浮かべると、まるでそれを読んだかのように知人が口にした。
「お前ではないな」
「おい!」
からかうな、と男が怒ると、知人は微妙に首を傾げた。からかったつもりはない、という意味だろうか。そして別段焦らす気もなかったらしく、続けてあっさりと答えを告げた。
「町の子供らだ」
その答えに男は自分の子供時代を思い出してみた。確かに、近所の悪ガキどもでつるんで夏祭りに出かけたり肝試しをしたりというのは毎年の行事だったように思う。
「だが、肝試しなら寺の墓場とかが相場だと思うぞ」
経験を踏まえての男の感想に、知人も頷く。
「それはそれで別にやるらしい。家に来るのは墓場では物足りない年長の子らだ。毎年違う趣向を凝らしてくれるから楽しい、らしいぞ」
墓場で物足りないとは何と贅沢な。そしてそれなら、とあえてこの化け物屋敷を選ぶなんて、子供というものは本当に恐れ知らずだ。
どうやら無愛想な家主はそんな恐れ知らずの子供たちを諌める必要性を感じていないようで、毎年のこと、といってしまえるからには結構前から続いている行事らしい。もしかしたら、彼が子供の時だって同じ年頃の少年達が夜中に押しかけてきていたのかもしれない。
夜中に生垣の外からそっと中を伺い、顔を見合わせながら胸を高鳴らせ、あるいは足を震えさせながら肝試しをする子供達を想像して、次いでそれを迎える準備を怠らない家を考えて男は頬を緩ませた。
「意外と子供好きなんだな」
ただ気難しくて我がままな――我があるということがそもそもおかしいのだが――家なのかと思っていたのだが。あまりの意外さについ声に出して言うと、途端に知人の眉間に深い皺が寄った。
「……誰が?」
「こいつ」
男が床を指差すと、家人の顔は見る間に苦々しいものとなった。どうやら実態は男が考えているほど微笑ましいものではないらしい。知人は苦虫を噛み潰したような表情で、男の微笑ましい想像を否定して首を振った。
「それは違う。普段悪戯に入り込もうとする子供は絶対に入れようとしないからな。こういう時だけだ」
こういう時、というのが分からない男が目線で促すと、知人はそれに気づいて言葉をつけ足した。
「自分が楽しいからだろう」
なるほど。この家の性質からしたら、子供達を迎えるためにいそいそと準備をしているというより、本気で子供達を驚かすために綿密な準備をしていると考えた方が、これほど納得できる理由はない。何よりも、自分が楽しむために。
今日男が門から玄関まですんなりと入れた理由も、肝試しの準備に忙しくて構っている暇がなかったのだと考えれるべきなのだろう。子供相手の肝試しよりも自分の扱いが軽いようなのは気に入らないが、それをわざわざ口にして追い出されるのは困る。
「なぁ、今日泊めてくれ。明日朝一で東京へ出るんだが、家からよりもここからの方が駅に近い」
そのつもりですでに鞄に荷物を詰めて持ってきているのだ。今まで泊まったことはなかったが、断られることもないだろうと思っていたため、知人の反応には少しまごついてしまった。
「……構わないが」
そう答えつつも、知人はまるで男の顔を初めて見た、というような様子でまじまじとみやるのだ。男は思わず身を引きながら思いついたことを口にした。
「何だ、含みのある言い方だな。誰か客が来るならもちろん遠慮するぞ。女か?」
ここに来る女性など限られていることを知った上での戯れ言だ。けれど知人はにやりともせずにこう答えた。
「女ならもう来ているだろう」
どこに、と目の色を変えて食いつきそうになって、それがあの髪の長い幽霊のことだと気づくと、一気に背筋が寒くなった。男はこの知人の神経を改めて尋常ではないと思った。しかし知人は知人で、男の神経を疑っていたようだ。呆れたように軽く首を振って言った。
「毎回遊ばれているくせに、それでも泊まろうという奴の気が知れんと思っただけだ」
確かに遊ばれている。しかし今夜は男以外にも遊び相手がいるから大丈夫だろうと踏んだのだが。
「……そこは、お前、家主の権限でよく言い聞かせてくれ。流石に寝ている間に外に放り出す、なんてことはしないだろうな」
念を押してみるが、相手は暖簾と同じ。
「家主の権限が通用する相手だと?」
するりとかわされてしまった。
「まぁ、外に放り出されてもこの気温ならば風邪は引くまい。蚊帳を出してやるから風呂にでも入っていろ」
やはり泊まるのは止めようかと考え直す前にそうやって追い立てられて、男は風呂場へ向かった。風呂場へ向かう途中で、玄関先に置き去りにした荷物を拾い、言われた通り風呂につかった。風呂から上がると知人が簡単な夕食を用意してくれていて、遠慮なくご相伴にあずかる。同じ男の一人暮らしとはいえ、いつも外食ですませる男と違って、知人はマメに家事をこなしている。今日は夏だけに喉に通りやすい素麺と、薬味は庭で摘んできた大葉と、肉味噌で和えた茄子だ。それから刻んだ胡瓜と卵焼き。さらに魚の酢漬けが用意されている。酒を少々いただいて、実に健康的な夕食を摂り終えた男は、片付けも手伝わずに本だけを借りてさっさと布団の用意された部屋に引き上げた。
いい気分で部屋に入ったが、自分のあてがわれた部屋があの幽霊の立っていた内縁のすぐ脇にあることに気づいて男は一瞬足を止めた。電球をつける前の部屋ではぼんやりと蚊帳の影が浮かび上がっている。恐る恐る障子を確認すれば、蚊帳越しに見える薄明るい障子は白だけで、幽霊の影は見えない。どうやら影の映り込むような存在ではないらしいな、と男は胸を撫で下ろした。まだ外にいるとしても、障子さえ開けなければ存在ごと忘れてしまえそうな気がしたのだ。
男はそろそろと部屋の中に入り、また蚊帳を持ち上げて中に入った。立ち上がって電球を点けて、ぼんやりと明るくなっていく部屋の中から用心深くもう一度障子の方を確認する。女の影はない。そんなに気になるなら先程まで食事をしていた茶の間に変えてもらえばいいことなのだが、蚊帳まで吊ってある状態でそんな申し出をするのはいかにも恐がりの子供っぽい。むしろ果敢に肝試しにくる子供達の方が剛毅だと言われるもの癪だったので、男は努めて障子の向こう側のことを忘れるつもりで布団の上にどっかと座り込んだ。
知人に借りた本を読むともなしに広げて、しばらくすると知人も風呂から上がった様子で、男の部屋に顔を出すと朝飯はどうするのかと尋ねてきた。朝食世話になるのも悪い、などと殊勝なことを考えて来たわけではないが、駅前まで行けば早朝でも何か売っているはずだ。出てから適当に食べると答えると、知人はそうか、と言ってそれ以上食い下がらなかった。ただ早いならいつまでも本を読んでいないで寝ろ、とまるで年長の兄か親のように声をかけて、自分の部屋へと引き上げていった。
俺に寝ろと言っても、自分は遅くまで本から離れられないくせに。
しかしまあ、知人は明日休診日で仕事がないのだ。夜中にやってくるという子供らを気にかけていることもあって起きているのだろう。それを思うと、確かに自分は早めに寝てしまった方がいいのかもしれない。子供らの声に眠りを妨げられる可能性もあるのだから、眠れる時間に眠っておかなければ明日に差し支える。男はそう納得して、元々そう気を入れて読んでいたわけでもない本をあっさりと閉じ、立ち上がって電球を消した。暗くなった視界でそのまま布団の上に座り、それから足を伸ばして寝転がった。幽霊が気になって障子を閉めたままだから、明け方には暑くて嫌でも目が覚めてしまうだろう。夏がけは、腹の上に引っ掛けるだけでいい。
そうして寝転がった男の、天井を向いた鼻先を強い香りがかすめた。暗闇の中、男は首をひねって匂いの元を探った。すると部屋の床の間に、山百合が生けられているのが目に入った。白地に青で絵付けされている花瓶に無造作に突っ込まれている。百合の香りは独特だ。離れていても、まるで鼻先にぬり込められたかのように強く香る。
花を愛でる習慣があるようにはとても思えない知人だが、花を飾る習慣はあるのだろう。男は寝転がったまま体を回転させ、うつぶせになった形で床の間を見た。今は山百合が飾られているこの床の間には、思えば季節ごとに違う花が、花に合わせた掛け軸と共に飾られている。男がこの家の若い医者と知り合ったのは、彼が大学を出てこの故郷に戻ってきた後のことだったから、知人の両親のことを、男は何も知らない。ただ何となく知人の母親が、こうして昔から花を生けていたのだろうと予想してみるだけだ。その習慣が、何となく抜けきらないでいるのかもしれない。そのうち知人の母親のように奇特な娘が現れたら、この家に嫁いで、知人の代わりにもっと艶やかな花を見栄えする形で飾るようになるのだろう。
だが今は、おそらく庭に生えていたのであろう山百合を、無造作に切って花瓶に突っ込んだだけ。花はひとつだけ大きく開いていて、後は蕾のままだ。その後の掛け軸は、山の奥の廃墟を描いたような、面白みの欠片もない水墨画。だが男とて、風流を理解して批評できるような趣味人ではない。幽霊画でないだけましだろう、と考えるような感性だから、こうして山百合と水墨画を選んだ知人の感性を、良いとも悪いとも評しがたい。
ただ、最初は強すぎると思った花の香りも、再び仰向けになって目を瞑れば眠りを妨げる要因にはならなかった。そうして百合の香りに包まれながら、男はいつの間にか眠りに落ちていた。