山百合の残像
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ざわざわと、まるで木々の葉ずれのような音がやけに響く。また深く落ちていた意識に引っかかったその音は、やがて男の意識を引っ張り上げる形で大きくなっていった。男はたまらず身を捻って、片耳を枕で塞いだ。けれどその音は塞ぐことのできない、もう一方の耳から流れ込んできて、明確な意思を示して発せられていることが感じられた。最初は木々の葉ずれと感じられた音も、段々と人の話し声のように聞こえ始める。
一体何の声だろう。
低いような、高いような。けれどしばらくすると数人の男女が、声をひそめて討論しているような調子さえ感じられるようになっていた。知人の声だろうか。そう考えたのも、それを否定したのもまだ夢現の意識で、男は一向に止まない話し声に眉を顰めて再び寝返りをうった。
「あぁ……五月蝿い」
つい声に出してしまったのも、まだまだ寝言に近い。幽霊のおかげ開けることのできなかった障子と、知人が吊ってくれた蚊帳のおかげで蚊の羽音に悩まされることはなかったが、まさかこんな真夜中まで、近所の子供らが肝試しをしているというのだろうか。
ぼんやり思ったところで、急に意識がはっきりとした。こんな夜中まで、と思ったけれど今は一体何時なのだ。自分は一体、何時間眠ることができたのだ。それを考えた途端に、それまで聞こえていたと思ったはずの声がぴたりと聞こえなくなった。
不審に思って目を開けると、妙に辺りが明るかった。少なくとも、真夜中の明るさではない。そして何故か、寝ていたはずの体は起きて立っている。蚊帳はなくなっていて、おまけに布団もなかった。男は直立不動のまま瞬きをした。自分は眠っているのか、それとも起きているのか咄嗟に判断できなかった。
胡蝶の夢、でもあるまいし――。
何故自分が起きているのか、それとも眠っているのか。そんなことで悩まなくてはいけないのか。だが男を戸惑わせる理由というのが確かにあって、胡蝶の夢とは夢想家の見る夢の話よと笑って済ませられない事態に陥っていたのだ。
まず、目覚めてすぐは布団に横たわっているのが当然の自分の体が、はっきりと足を下にして立っているのだ。寝付きはいい方だったから、布団から転げ落ちたことはあっても、寝ぼけて立ち上がってしまうなんてことは今まで一度もなかった。それに、と男は思った。
立ち上がって目を開けたら、すぐに目に入るはずの蚊帳が見えない。部屋の中なのに妙に明るいことも気になった。目覚めたのではなく、夢の中で目覚めたような気になっているだけなのではないか。男はそう考え、その考えが的中したように思ったのは、自分の足下を見た時だった。
裸足、なのは布団に入っていた身としては当然で、しかし足の下にあるのが敷き布団ではなくむき出しの地面だった。家の外に出て、地面に立っている夢らしい。そう結論づけると、男はようやく思いついたように顔を上げて辺りを見回した。どうやら夢の舞台は泊まっている知人の家の庭のようだった。見覚えのある木々の配置。もうとっくに花の時期を終えた枝垂桜の小さな木、そして床の間に飾ってあった山百合がその隣くらいにあって、いくつかの花を開かせていた。
ちょうどその前のあたりに、男は自分以外の人間の姿を認めた。男に背を向け、庭にしゃがみこんでいるその背中は知人のものだった。寝る前に見た時と同じ、麻の縦縞模様の浴衣を着ている。男は夢の中とはいえ、知り合いを見つけられたことにほっとしてその背に向かって問いかけながら近づいた。
「おい、これは何だ」
混乱した頭で問いかけると、思わず口調はぶっきらぼうになった。しかも、このわけのわからない事態を知人なら理解できているはずだ、という言い方に自然となってしまったことに男は自身で驚いた。
「何だ、とは?」
背中にかけられた理不尽ともいえる問いに、知人は慌てることなく男に背を向けたままで答えた。背中越しでは何をしているのかよく分からないが、夏に茂った庭の草でも抜いているのだろうか。
「まさか本当に外に放り出されるとは……。しかもお前まで」
放り出されるといっても夢の話だから、眠る前に自分が気にしていたせいでこんなことになっているのかもしれないが。それにしても、口に出したようにまさか知人まで一緒に外に出されるとは、夢の中でも意外なことだった。そんな思いから口にした言葉だったが、知人はそれを聞いてようやくしゃがんだまま振り返って男の方を見た。
「放り出される、とは?」
どういうことだ、と上向きながら知人が尋ね返す。男はその反応を訝しく思って首を傾げた。
「だから、家に……」
あの悪戯好きの家に放り出されたからこそ、家の中ではなく庭に立っているのではないか、と男は確かめるように背後を振り返った。そこには一見平凡な平屋建ての、その実とんでもない化け物屋敷が――。
「……家が、ない」
なかった。
何もない。
家があるはずの場所にはただ空白が広がっていて、奥の風景さえも見えない。ただの白い闇がぽっかりと口を開けているだけだった。勿論部屋の中にあったはずの蚊帳や布団もありはしない。夢の中ならそういうこともあるだろうと思うが、影さえ浮かばない真白の空間は男を不安にさせた。
「おい、家がないぞ。お前の家はどこに行った?」
振り返って知人を問いただせば、知人はようやく立ち上がった。咄嗟に男は知人の足下を見たが、下駄履きの足の側には、別にむしった草が山になっているというわけでもなかった。では今までしゃがみ込んで、一体何をしていたのか。また、男は裸足なのにどうして知人は下駄をきちんと履いているのか。不思議な出来事もすべて夢の話と自分に言い聞かせても、当の夢の中にいる状態では納得できない。
「そう騒ぐな。あいつだって時折出かけることもある。すぐに戻ってくるさ」
しかし納得できないのは男だけで、知人は超然とした態度でこの事態を受け入れてしまっていた。これも夢の中だからなのかとも思うが、知人はおそらく現実で同じことが起きても――あり得ないことだが――こうやって受け入れてしまうような気がした。
「出かけるって……そんな馬鹿な。足でも生えて走っていくっていうのか?」
百鬼夜行に参加する九十九神の中にさえ、そんな大物はいなかったはずだ。
「さて、実際に出かけるところを見たことはないからな。走っていくのか滑っていくのか分からんが、住人は置いていくものらしいから、放り出されたとは言えないだろう」
置いていかれるのはこれが初めてではない、というような言い方だ。夢の中の知人は、現実世界の知人に輪をかけて浮世離れている。そう判断しなくては、男の方がおかしくなってしまいそうだ。
「走っていっても滑っていってもおかしいだろう。そんな……非常識な、こと……」
言いながらも男は知人が何と反論してくるのか、予想がついてしまって語尾が小さくなる。
「生憎、これがうちの常識だ」
そして知人の答えは男の予想通りだった。もういい、と男は肩を落として諦めた。家が出掛けるなんてあり得ないと思うよりは、とにかくいまここでは、家が出掛けるということもあり得るのだと考えて納得してしまった方がよさそうだと判断したのだ。現にそう考えれば、自分が裸足で地面に立っていたことも説明できる。放り出されたというよりも知人の言う通り、こつ然と姿を消した家は、確かにどこかへ出掛けていったのだ。中にいた人間は置いて。
しかし出掛けていったと一旦納得してしまえば、いらぬ好奇心が湧いてくるというものだ。出掛けていくというなら、その行き先は? 気になるのは自分だけだろうか、と思って
「探しに行かないのか?」
そう探りを入れてみたのだが、知人は行き先を知っているのか、単に興味がないだけなのか「必要ない」と首を横に振った。さて夢の中のことだし、家主がそう言うなら天敵ともいえる関係の男がわざわざ探し出してやることもないように思う。しかし天敵はいなければいないで気になるものだ。騒ぎ立てる必要もないと思いつつ、それでも足はぶらぶらと庭の中を彷徨う。そんな自分に気づいて、男は一人顔を赤くした。
馬鹿馬鹿しい。あんな大きなものが、庭の隅に転がっているわけもあるまいし。
だからというわけではないが、急に生垣の向こう側が気になった。出掛けていったというなら、そもそも庭の中にいるはずはなく、勿論”外へ”出て行ったのだろう。男は生垣に近づいた。外は暗く、家があった方が白い闇になっているのに対して、黒い闇が支配していた。しかしそれは真っ黒というわけではなく、夜の闇に近い。目を凝らせば、ぼんやりと景色も見える程度の闇だった。
男は腰まである生垣によって、身を乗り出して首を巡らせた。出掛けていった家の足跡が見つけられるかも、と思ったわけではないが、ただ家が帰ってくるのを庭で待っているのも面白くないと考えたのだ。しかし男が生垣から首を出すと、知人がすぐさま声をかけてきた。
「だから、すぐに戻ってくると言っただろう。下手に生垣から外に出ると、帰れなくなるぞ」
我慢のきかない子供をたしなめるような口調だった。それに憮然となるよりも、言われた内容に男は出していた首を引っ込めた。
「物騒な夢だ」
生垣から外に出ただけで帰れなくなるなんて。
「夢、か?」
男の憮然とした呟きに知人は訝しげに眉間に皺を寄せたが、こんな事態を夢と判断するのに、何を戸惑う必要があるだろうか。
「夢だろう? 家がのこのこと、どこかしらに出掛けて行くなんて、いくらあの家が変でも現実には有り得ない」
夢の中でこんなにはっきりと、それが”夢だ”と断定したことはないが、それを自覚して奇妙に思うことの方が男にはよほど奇妙に思えた。
「……そうか」
男がこの会話を夢と断じているのに対して、知人ははっきりとしない様子だった。自分の夢の中の知人は、やはり自分が作り上げたものなのだろうか。医者という職業柄か、物事にははっきりと答えを出す男だと思っていたのに、夢の中の知人はまるで自分が夢の中にいるようにぼんやりしている。
そんな様子を目にするとにわかに不安になる。おかしいのは自分なのか、これは夢ではないのか、と弱気になってしまうのが怖くて、男は逃げるように生垣の外へ視線を飛ばした。すると丁度向けた視線の先に薄茶にやけた紙の色があった。
「おい、あれは床の間に掛けてあった軸じゃあないか?」
男が生垣の外を指差すと、知人は首を動かし、少し目を眇めて同じ場所を見た。知人の目にも映ったのだろう。それは黒に近い茶の軸をもった掛け軸で、半分ほど巻かれて、半分は広がったままの状態で地面に放り出されていた。
「……あぁ、そのようだ」
同意しながらも、知人がそれを拾いにいこうと動く様子はなかった。生垣の外にあるからだろう。
「どんな移動の仕方をしたんだ。あんなところに掛け軸だけ落としていくなんて」
動かない知人の代わりに、男はその掛け軸を拾ってやることにした。一歩だけ生垣に近づくと、途端にかけられる静止の言葉。
「おい、生垣から出るなと言っただろう」
ますます馬鹿馬鹿しい、と男はまとわりつく不安を振り払うようにして考えた。夢の中だから何があってもおかしくないというのか。だが逆に言えば、生垣を出た途端に野犬に襲われるなんて展開になったとしても、夢の中だから大丈夫なはずなのだ。
男は思ったことをそのまま口にすることはせず、厳しい顔をした知人を振り返って、笑いながら生垣の間にある低い木製の戸に手をかけた。
「大丈夫だ。手を伸ばせばすぐに取れる」
実際、戸を引いて生垣から出ないぎりぎりのところから屈んで手を伸ばせば、体が全て外に出てしまうことはなさそうな距離だった。
「よせ」
なおも止めようとする知人を内心煩く思いながら、男は努めて明るく声をかけながら手を伸ばした。
「大丈夫だと言っているだろう。ほら、すぐ届く……」
手の端が広がっている掛け軸の紐にかかった。このまま引き寄せればいい。あんな難しい顔をしなくなって、簡単なことだ、と男が思った時、不意に背後から強い風が吹いた。
「おっと」
不安定な姿勢をとっていたせいで、その風に煽られて体がよろめく。咄嗟に踏み出した一歩で何とか踏みとどまったと思ったら、ついでに引いたのか、手に掛け軸がくっついてきていた。そのまま手繰り寄せて、男ははたと気づいた。
踏み出した一歩が、半分程度生垣の作る庭の境界線からはみ出ている。だがその時は何とも思わなかった。生垣を超えた瞬間に何かが襲ってくるというような物騒なことはなく、掛け軸の端は男の手にしっかと握られたからだ。男は掴んだ軸を手がかりにして、掛け軸をずるずると引きずって身に寄せた。そして踏み出してしまった一歩をまた生垣の境界線内に収めて立ち上がる。
「おい、取ったぞ」
振り返ってみても、何のことはない。家は相変わらずないものの、生垣と庭は変わらずそこにあった。ただ、先程までと違う点があるとすれば――。
「……う、そだろう?」
知人の医者が消えていた。それこそ、影も形もない。まるで、最初からそこにいなかったかのように、どこを見回しても知人のいた痕跡すら見つけることはできなかった。隠れるところなど、どこにもありはしない。だが、人がひとり、こんな風にこつ然と消えてしまうわけがない。
「おい、悪ふざけはやめろ! 近くにいるのだろう!」
どこか、うまく男から死角になっている場所があるのだ。そうとしか考えられない。家が消えて、その住人も消えてしまうなんて。それも、男が背を向けていたほんの一時の間に。
「おい! 出て来いよ!」
だがどんなに必死になって叫んでも、その声だけが空しく響くだけだった。男は白い闇にぎりぎりまで近づいて、庭の端から端まで歩いて、どこかに知人の姿がないか探したけれど、結局知人は見つからなかった。手には生垣の外に落ちていた掛け軸。男は再び生垣の外に出てみた。それから屋敷が消え、家人が消えて生垣と庭だけになってしまった空間を再び振り返った。家がなくなり、知人の消えた庭は、もう何も失うものはないと言わんばかりに、そこにあった。
生垣を出るな、と知人は言った。帰れなくなる、とも言っていた。けれど、もう生垣を出てしまった男は、ぽっかりと空いてしまった空間に戸惑うしかない。このままここで待っていれば、いつか家は知人と一緒に帰ってくるのだろうか。それとも、生垣から出てしまったから、ここに立っていても元には戻れないのだろうか。心細く感じてしまう自分を情けないと叱咤したところで、男は重要なことを思い出した。
そもそも、これは夢だったはずだ。
だから、家が戻ってくるのを待ったり、知人が現れるのを待ったりする必要はない。自分が目覚めればいいだけのことだ、と男は合点したのだった。しかし――。
夢の中でこれを夢だと悟ったとして、ではどうすれば目覚められる?
目覚めたいと思ってできるわけでもなし。男は溜息をついて、手にしていた掛け軸を何の気なしに広げた。そもそもこれのせいで、この理不尽な状況に悩む事態になったのだ、と半ば八つ当たり気味に眺めてみると、どうも昨晩と様子が違う。山奥の廃墟を描いた水墨画と思っていたのに、淡い色がついている。廃墟も、一目で廃墟と分かるような寂れた様子ではなく、人が住んでいると言ってもおかしくないようなしっかりとした形を持っている。おかしい、と思った瞬間耳を塞ぎたくなるほど大きな人のざわめき声が響いた。
思わず耳を塞ぎ、首を巡らせれば目の前に森が広がっていた。
男はこの悪夢のような事態についていけず、耳を塞いだまま庭の方を振り返った。奥は戯れに踏み出してみようとも思えないほど真白い闇。家はなく、知人の姿も見つからない。ただ若い枝垂桜と百合の花のある庭は、生垣を残しそのままの形で存在していた。けれど白い闇と逆の方を向けば、何故か山の入り口のような森が広がっていた。現実ではあり得ない、と男は何度目かの確認をする。知人の家の庭は、生垣を越えれば細い私道が通っており、私道を挟んで反対側には小さな畑があるだけなのだ。生垣の中にいた時はそのように見えていたし、そもそも知人の家は坂の上に建っているから、それ以上は上らない。後は下るだけのはず。
けれど男の前に現れたのは鬱蒼とした森だった。聞こえたと思った人声は、どうやらこの森の木々が強風に煽られて立てた葉擦れの音だったらしい。
選択肢が増えた。どうにかして夢から覚める。それか庭の中に戻り、知人か家が現れるのを待つ。とにかく庭の周りを回って知人か家を探す。さらに最後の選択肢として――。
森の中を進んで、山を登ってみる。
登ってみたところで何がある、というわけではない。家が出掛けていった先が山の頂上だろうと、男がそれを”持って帰って”来ることも、あの家相手に帰れと諭すこともできないことは分かりきっている。行ってどうなる、と思う一方でまた、”ここで待っていてどうなる”という問いも男の頭に浮かぶ。自らの意思で夢から覚める方法が分からないなら、自然と目が覚めるまでの間、この場で待っていても山に入っても同じことではないか。また不気味、という点では知人が突如として消えてしまった庭も、その代わりに現れたような現実にはあり得ない森も同じくらい不気味だった。そういう観点から見ても、ふたつの選択肢はどちらもどちら、という気がした。
男はしばらくの逡巡の後、手にしていた掛け軸を乱暴にまとめて、紐でとめ、庭の中に放った。足下が裸足なのが気になったが、夢の中の怪我なら痛くもないだろう。そう思うことにした。
そして先程の強風が嘘だったかのように、かさりとも揺れない森の中へ足を踏み入れたのだった。