山百合の残像
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「おい、起きろ。朝一で東京へ行くのだと言っていただろうが」
無愛想な声が、男の意識を無遠慮に引っ張り上げた。
自分の体が横になっていることに気づくのに、しばらく時間がかかる。男は布団の上に横になっていた。昨晩と違うのは、腹の上にかけていた夏掛けが、足元で丸くなっていること、片腕だけ浴衣が捲れてしまったのか、直接布団に触れている奇妙な感覚がすることだけだった。
ふと首を捻って目線を動かすと、自然に目に入ってきたのは床の間の山百合だった。昨晩開いていたはずの花は、水上げが悪かったのか、萎れてしまっている。片腕の奇妙な感覚は、浴衣が捲れたためではなく、片袖がなくなっているためだった。
「お前は、寝ているだけで浴衣の袖を破いたのか?」
その破れた袖が、蚊帳を出て床の間の花瓶の下に敷かれていることを、蚊帳の外にいる知人はおかしいと思わないのだろうか。爽快感の欠片もない、じっとりとした汗を吸った浴衣が、男の体にまとわりついていた。まるで一晩走り続けたような深い疲労感に、睡眠による休息はちっとも感じられない。
夢だった。本当に夢だったのだ。あの長く恐ろしい異界の山での出来事はすべて、男の見ていた夢の中のこと。安堵すればいいのか、舌打ちすればいいのか分からない。あの女はどうなったのだろう。結局伸ばした手で、掴むことができなかったあの悲しい目をした女は。
その結果を知ることはできない。すべては、男が自分の夢の中に置いてきたのだから。それを思うとやはり安堵よりも悔しさの方が強くなる。男は唇を噛んで布団の上に起き上がった。
「……俺はもう二度とこの家には泊まらん」
訪れるだけでも碌なことは起こらないが、泊まればそれ以上だった。そもそも、夢の中であの家がいなくなっていたのが問題だったのだ。それがなければ、男はあの木戸を越えて山に入ったりはしなかった。山に入って、あの女に出会ったりはしなかったはずなのに。
「別に放り出されたりはしなかったようだが?」
男が見た夢のことなど、当然のことながら何も知らない知人は、床の間で花瓶の下敷きになっていた浴衣の袖を、特にどうとも思わぬ様子で引き抜いた。
「もっと酷い目に遭った」
その背に向かって恨みがましく男が漏らすと、知人は振り返って呆れ顔を返した。
「ただ寝ていただけだろう」
こちらではそうだ。けれど、夢の中では恐ろしいものに追われて逃げて。逃げ切れたと思った安堵の次に、あんな悔しい想いをしなければならないなんて酷い話ではないか。
「夢の中で酷い目に遭ったというんだ。絶対にこの家が絡んでいる。大体お前だって、夢の中で家が出かけるなんてわけの分からんことを言って……」
寝起きの悪い子どもの八つ当たりのようだ。分かっているくせに止まらない。男が怒濤のように漏らす愚痴を、いつもの無表情で聞いていた知人は、意味が通じるはずのないその愚痴の端を捉えて、さらりと塞き止めた。
「あぁ、確かに言ったな」
男はその言葉に息を止めた。引き裂かれた浴衣の袖を持って、知人は庭に面した縁側の障子を開け放ったところだった。
「……何?」
空耳かと思って問い直すと、夏の朝らしく真っ白に明るい日が作る強烈な影の中で、知人は首を傾げて答えた。
「あいつだって時折出かけることもある。すぐに戻ってくるさ。そう言ったな」
何でもないことのように知人は言うが、男はそんな風に軽く流せない。布団から四つん這いで這い出し、バタバタと蚊帳に腕を引っかけながら外に出ると、軽く首を傾げたままの知人を見上げて上ずった声で叫んだ。
「待て、俺の夢の話だぞ?」
自分の、という部分を強調して言ったはずだが、知人はそれがどうしたと言わんばかりの顔で頷いた。
「俺の夢にもお前が出てきた」
「……そんな馬鹿な」
男は絶句したが、”奇妙な出来事”に慣れきっている知人は事も無げに続けて言った。
「そうか? もっとも、お前は途中でいなくなったが」
それはお前の夢の話だ、と男は憮然となった。自分の夢では――。
「いなくなったのはお前の方だろうが」
一言もなく忽然と。おかげで自分は独り、どうしようもなくて山へ入って行ったのだ。山へ入って、”酷い目に遭った”のだ。
「だが俺の夢ではお前がいなくなってすぐに、家が戻ってきた」
「何だって? それは本当にこの家か?」
「生まれた時から住んでいる家を間違えるようなこともないだろう。確かにこの家だった」
淡々とした口調でそう断言されてしまえば、嘘だ、間違いだ、と喚くことはできなくなる。言葉に詰まる男に、そういうお前はどこへ行っていたのだ、と知人が逆に聞き返してきた。知人のその問いに、男はとりあえずだんまりを決め込んだ。話せるものか。男はようやく四つん這いの状態から立ち上がり、知人の開け放った障子の先にある縁側に初めて目を向けた。改めて思い起こしてみれば、昨晩は恐ろしくて閉じたままだったのだ。
「……あの女はどうした」
「女?」
朝日の下で見る縁側は、確かに強い日差しの作る影で暗く見えたけれど、陰湿な印象はなくとても爽やかだった。そこに昨晩は厭わしく思えた暗く悲しげな影はない。
「昨日縁側にいた女の幽霊だ」
男が言うと、知人は言われて思い出したという様子で、
「今朝起きたときにはもういなかったが」
と答えた。知人にとっては、家が勝手に連れてきた一晩だけの変わった客人程度の存在だったのだろう。男にとっても――恐怖の度合いの違いはあれど――そうだったはずだ。なのにあんな夢を見たせいで気になってしまう。
「成仏したのか?」
それとも、あの闇に捕まってしまったのか。夢の中で確か自分は、あの女と縁側の幽霊とは別人だと結論づけたのではなかったか。
「さあな。俺には分からん」
それなのに、知人の素っ気ない態度にはどうしようもなく苛ついた。
「じゃあ家に訊け。成仏したのか、しないのか?」
成仏したという返事をもらえれば、少しは救われるような気がするのはやはり、夢のあの女と幽霊とを結びつけて考えているからなのだろう。男の夢の中での出来事だ。男が勝手に結びつけても誰も文句は言わないだろう。言い訳めいた言葉を心のうちで繰り返しながら、唯一迷惑を被っている知人の視線を避けながら、男はそれでも答えを欲した。
「やけに気にするな。夢で何かあったか」
真面目な顔で心配されるよりは、いっそ面白そうに揶揄された方がましだった。
「いいから、訊けって!」
叫ぶと、いよいよ知人の顔は深刻さを増して、いたたまれないほど心配されていることが肌で感じられた。けれど引き下がろうとしない男に、知人はまるで子供に言い聞かせるかのように優しい声音で告げた。
「……俺は家と会話できるわけではないのだが……。それに、そんなにゆっくりしている暇があるのか?」
それは男が期待していた答えではない。けれど知人の言葉にはっとして時刻を尋ねると、予定ではもう家を出て駅に向かっていなければいけないはずの時間をとうに過ぎていた。男は寝巻きに借りていた片袖のない浴衣を体から引っぺがして、手早く体を拭くと、用意していたスーツを着込んだ。それから朝食を摂る余裕もなく家を飛び出す。出かかけ際に、知人にこう言い残すことを忘れずに。
「おい、今夜この家にお前の幼馴染を呼んでおけ! うまい酒を奢ってやるから、必ず来いと伝えておけ。絶対だぞ!」
果たして、男が仕事を終えてぶらぶらする間もなく汽車に飛び乗り知人の家に着いてみると、生真面目な知人は男の言い残した通り、幼馴染の警察官を家に呼んでいた。その幼馴染は仕事が終わってそのまま屋敷に寄ったらしく、警察官の制服を上着だけ脱いだ状態で、庭を一望できる内縁に腰を下ろしていた。偶然にも、そこは昨夜あの女の幽霊が立っていた同じ場所だった。
人懐こい警察官は、男がやってくると美味しい酒に釣られてお邪魔しました、と家人でもない男に微笑みながら断った。
酒は汽車に乗る前にかなりぎりぎりのタイミングで思い出し、近くの酒屋に飛び込んでそこそこの値段を払って手に入れたものだった。汽車の中で確認してみたが、引っ掴んだ酒は知らない銘柄の清酒だった。味の保障は出来かねるが、それを馬鹿正直に言って帰られてしまってはたまらない。
男は笑うと目が糸のように細くなる警察官に、自分でも分かるほど引きつった笑みを浮かべ、台所にいるという知人の元へ逃げ出した。どうにも、警察官という職種のせいか、男にしては柔らかすぎる性格のせいか、自分で呼んでおきながら、あの警察官と一対一で話すのは苦手だ。
台所では知人が袖を絡げて包丁を使っていた。職業柄、患者からの差し入れも多いときいているが、いま切っている漬物もそうなのだろう。おそらく酒の摘みにする気なのだ。
「猪口をくれ」
背後から近づいて要求すると、
「先に何か口に入れろ」
と無愛想に返ってきた。まるで口うるさい母親のようなことを言うな、と思ったが、性格なのだろうと思い直して素直に従った。
受け取ったつまみの皿と、ガラスのお猪口を持って内縁にとって返すと、知人の幼馴染みは先程と変わらぬ場所に座って、縁側の端から足を垂らしていた。ぷらぷらと両足を交互に揺らす様は、まるで小さな子供のように無邪気だ。その細い面が、何となく夢で見たあの女に似ている気がして、男はつまみの乗った皿を落としそうになった。
「そんなところで突っ立っていないで、早く座れ」
背後から知人が別の皿を持って男の背中を突いた。男はあ、とかう、とか、返事らしくない返事をしてのろのろと縁側に腰掛け、つまみの皿を置いた。おそるおそる知人の幼馴染みを正面から見てみれば、似ていると思ったのは一体どの部分だったのか分からなくなっていた。一瞬の印象だったのだろう。朝から彼女のことばかり考えていたから、何となくそう見えてしまっただけのことに違いない。
さて持ってきた清酒を開けて、つまみの漬け物やら魚の酢漬けやらを口にしていると、何故こんな風に呼び出したのかということを説明しなければならない時間がやってきた。くだらないことで呼び出して、と嗤うような人間ではないと分かっていても、たかが夢の中のことで朝から騒いで呼び立てたという事実を口にするのは、男としても気が重い。
けれど女の行方が気になって、このままではいられないという気分だけは強くあったものだから、男は昨晩夢の中で起きた出来事を、酒の力を借りながら知人達に語った。最後に女があの闇に追いつかれてしまったこと。男は手を伸ばしたものの、女を家に引き入れることができなかったということ。それから目が覚めて、何故か昨晩肝試しのために連れてこられたという女の幽霊の行方が気になって、知人を問いつめたこと。知人が、自分は家と会話できるわけではないからそこまでは分からないと答えたこと。
「それで僕が呼ばれたってわけ?」
この化け物屋敷に気に入られている、知人の幼馴染みなら「はい」「いいえ」くらいの答えはこの家からもらえるのではないかと、そう思ったのだ。
「すまんな、仕事帰りに寄ってもらって」
それは本来男の言う台詞だが、そこまで頭が回らなかった。
「いいよ。それでこんな上等な酒をいただけているのだから」
そう多く酒の席を共にしたことがあるわけではないが、確かこの警官はザルだったはずだ。男はすでに猪口三杯でほろ酔い気分だが、今日は体調や気分のせいもあって余計に酔っているような気がしている。自分だけ潰れてしまう前に、何でもいいから答えが聞きたかった。
「……それで、どうなんだ?」
絡むように問うと、知人の幼馴染みはひっそりと微笑んだ。昨晩の夢で女の笑い方に感じたように、それは俯いた山百合の姿によく似ていた。
「それらしい女の人はいないよ」
「そんなことは分かっている。ちゃんと成仏したのかどうかを聞いて欲しいんだ」
あの山の神に、再び捕まってしまわなかったのかを知りたいのだ。そう訴える男に、僕だってちゃんと言葉で会話できるわけではないのだけれど、と家人の幼馴染みは苦笑した。けれど男がさらに絡む前に、ザルの警官は猪口に残っていた酒を一気にあおり、何かに問いかけるようにして首を斜め上に上げた。
しばらくの沈黙。知人もただ酒を進めるだけで、何も言わなかった。家の中はひっそりとしていて、じいじいと蝉の声だけがあたりに響いている。鼻をくすぐるのは、酒の匂いと蚊取り線香の匂い。家は何かを告げているのだろうか。それにしては、普段騒がしいこの家が、家鳴りひとつしない。
男が焦れて声をかけようとした時、斜め上を向いていた首の角度が戻り、知人の幼馴染みは持っていた猪口を知人に向けた。知人は空いたそのグラスに、男が持ってきた清酒を注ぎ足した。
「何だよ、何だって?」
待ちきれずに男が問うと、家と無言の会話をした警官は猪口を持ち上げて答えた。
「弔い酒のつもりなら、もう少し静かに呑めって」
「別に弔い酒なんてつもりは……」
反論しかけて、その言葉の意味に気づいた男は息を呑んだ。
「つまり、そういうことなのか」
納得した、というよりは受け止め切れずに苦々しさを残している、という口調になってしまった。あの恐ろしい山の神に再び捕らえられるよりは、成仏してくれた方がよっぽどいい。けれど、どちらにせよ、もう二度と会うことはないのだと思うと素直に喜べない。
寂しく一人で逝こうとする、その一時に、せめて側にいてやりたかった。
懸命に伸ばしたけれど届かなかった、その手を男は不甲斐なく思って握りしめた。そんな男を気遣うようにして、童顔の警官は控え目に頷いた。そんな風にされると、ますます口の中の苦味が増す。
「……やはり俺はもう二度とこの家には泊まらんぞ」
そもそもこの家に泊まったからあんな夢を見たんだ。そう言って苦味を誤魔化すようにして猪口に残っていた酒を飲み干し、手酌で次を注いでいると、目の前で知人とその幼馴染が意味深に顔を見合わせた。
「何だ、二人して」
自分にだけ分からない何かを、他の二人が共有しているという事態は大層居心地が悪い。飲み下せない夢の結果と酒の酔いも手伝って噛み付くように問いただした男に、若い警官の方だけはちらりと申し訳なさそうな顔をして見せたけれど、知人の方は眉をちょいと上下させただけで淡々とした態度を崩さなかった。
「今のは俺にも分かった」
「何?」
ちっとも酔っていない風の二人は、再び顔を見合わせて、どこか悪戯めいた笑みを交わし合いながら同時に口を開いた。
『もう二度と泊めてやるか』
それはあの悪戯好きで自分勝手な、化け物屋敷の言いそうな言葉だった。男はその答えにむっつりと黙り込み、しかし結局酔い潰れてその晩も、知人の家に泊まることになったのだ。翌朝目覚めた時に、男が布団の中ではなく中庭に転がっていたとしても、家が出掛けていない限りはまだ許せる、と男は思ったのだった。
参考
野村純一ほか:遠野物語小事典,平成4年3.20,東京,ぎょうせい
青木俊明:遠野物語辞典,2003.6,東京,岩田書院