山百合の残像

---------------------------------------------------------------------------------

 夢の中で、これが夢ではなく現実なのではないか、と考えることは滅多にない。そもそも夢の中にあるうちは、見ている光景が夢だと、そう自覚することさえ稀だからだ。けれどその稀な事態を、男は今経験している。男は間違いなくこの事態を夢だと思って歩いているけれど、夢にしては、と思うこともまた事実だった。

 伸びた下草を素足で踏み分けながら進む森の中。夏の空気は緑の効果で幾分冷えているけれど、目に入るその色が、あまりに緑が濃くて息苦しささえ覚える。夏の湿気た土から上る、水分を多く含んだ空気も、喉に詰まって息苦しさを助長する。男は喘ぎ、空気を求めるようにして上を見上げたが、木の葉の隙間から空を見ることも適わないなんて、どれだけ深い森なのだろう。

 もう十分に歩いてからようやく、引き返した方がいいかもしれないと男は不安になった。この森はあまりに静かだ。それにどこを見ても当然木々ばかり。鳥の声も聞こえないし、虫の姿も見かけない。これではきっと、消えた家を見つけることなど叶わないだろうし、知人の姿だって見つけられないことだろう。一体何のために進んでいるのか。機械的に足を動かすだけになってきた様子に、男は自分で気づいて立ち止まった。こんな状態になってまで、山を登り続ける必要はない。

 真っ直ぐ歩いてきたのだから、真っ直ぐ引き返して家のあった場所に戻ろう。家が帰ってきていればよし。帰ってきていなくても、生垣の中で待っているべきだ。そのうち夢から覚めるにしたって、わざわざ夢の中で歩き回って疲れることはない。のんびり構えて、目覚めるのを待っていればいいだけのことだ。

 言い訳のように自分に言い聞かせ、男はくるりと方向転換し、帰り道を行こうとした。けれど男は飛び込んできた光景にぎくりとして立ち止まる。

 道がない。

 いや、正確に言えば、道らしい道は最初からなかった。けれど男が下草を踏み分けて作ってきた、その道とも呼べないような跡がないのだ。草は一本も倒れておらず、それにずっと上り坂だったのだから、振り返れば下り坂のはずなのに、何故か目の前はどこも平坦だった。夢の中だ、と男はもう何度目かになる言葉を自分に言い聞かせた。夢の中だから、こういう荒唐無稽な出来事もあり得るのだろう。とにかく、冷静に考えてみなければいけない。

 男は辺りを見回した。自分が百八十度方向を変えたと思ったのが、微妙にずれていたというだけのことかもしれないではないか。男は踏み分けてきた道を探して、ぐるりと視線を動かした。下草が折れている場所は三百六十度どこにもなかった。代わりに、と言うのもおかしいが、もっとまともな道が、いま男が立っている場所のすぐそばを通っていることに初めて気づいたのだ。

 その道は男が大股で一歩踏み出せば出られるような、そんな距離にあった。幅は男の足で二歩程度はあって、草は生えておらず、獣道というには広すぎるし、木の間を通したというよりも木を切って通したというような道だった。人の手の加わっている道。つまり道の先――それが山の上なのか下なのかはともかくとして――には、人の住む場所があるのだろうということを予感させた。

 自分の通ってきた道が消えてしまったことに不審は覚えたが、素足で歩くのに草を踏み分けるよりは既にならしてある道を通った方が優しい。男は一歩踏み出して道に出た。あまりに濃い緑の中、風もあまり感じられずに息苦しい思いをしたが、道に出ると少しだけ風を感じた。男は大きく息を吸って、また周囲を見回してみた。

 先程はどこも平坦で、どちらから登ってきたのか分からないと思って戸惑ったが、きちんと視界を確保すれば何のことはなかった。男がおそらく山の下の方面、と感じていた方向には、きちんと下り坂が見える。その下り坂の逆方面は、確かに上り坂だった。山の頂上は見えない。けれど坂の下よりは上の方が明るい気がした。少し歩けば、開けている場所に出るのかもしれない。上に行こう、と男は思った。上に行けば何があるというわけではないが、山頂でも見たらそれで満足して、山を降り、とりあえず知人の庭で待っている覚悟もできるかもしれない。

 男はじんわりと湿っぽい土を踏みながら、素足で山を登り続けた。しばらく行くと、道幅が狭くなって木々の枝が再び男の頭の上を覆うようになった。開けている場所があるかもしれないと思ったのは間違いだったか、と男が感じ始めた時、ぱっと目に飛び込んできたものがあった。目立つ黒木が道の両脇に一本ずつ立っている。それは確かに地面から生えた木だったが、異様なのは枝が――細いのも太いのも――ごっそりと切り落とされているところだった。さながら門のように道を挟んで生えているその木は、まるで燃えた跡の墨ように黒い。明らかに人の手が加わったその木に、男は安堵するよりもむしろ身が竦んだ。


 ”さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。”


 その時男の頭に浮かんだのは、最近地方への取材のネタになるだろうと思って読んだ本の一節だった。生まれも育ちも浜っ子で、海のないところに住んだのは現在の住まいが初めての男としては、山の近くで生活し、山を女神と崇める人々の語り継いできた民話は、同じ日本人が語る物語とは思えない、まるで遠い異国の物語のように思えたことを覚えている。

 目の前の風景がその一節どおり、”立派なる黒き門”に見えたということではない。黒木は枝を落としているものの、幹は確かに生きている木で、立派であったが門には見えない。けれどぱっと連想してしまったのがその一節だったと、それだけのことだったはずなのだ。


 それだけのことだったはず。
 なのに、一瞬竦んだはずの男の足は自然とその黒木の側を通り抜け、奥へ奥へと引き込まれていく。


 ”訝しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き、鶏多く遊べり。”


 頭の中では思わず連想してしまった本の一節から、その先が次々と浮かんでは消えていく。そんなに気を入れて読んでいたつもりはなかったから、覚えているなんて男自身も思っていなかった。その慣れない描写に戸惑いはしても、印象深いと感じたわけではなかったはずなのに、まるで脳が勝手に、この時のために蓄えておいたような記憶の奔流だった。

 黒木の間を通り抜け、中へと足を進めて出たのは、大きな庭のように開けた場所。頭の中に木霊する描写とは違って、紅白の花は咲いていなし、鶏もいなかった。けれど庭の奥に茅葺屋根の農家が建っていた。出掛けてしまったという知人の家ではない。あの家は瓦屋根なのだ。それに、目の前に建つ農家は知人の家の倍ほどの大きさがある。


 ”其庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多く居り、馬舎ありて馬多く居れども、一向に人は居らず。”


 男の足は止まらなかった。心の奥で引き返せ、と叫ぶ声があるにも関わらず、足は頭に浮かぶ描写に従うようにして庭の裏の方へ進む。牛小屋はなかった、馬舎もない。勿論、牛も馬もいなかった。辺りは一羽の飛ぶ鳥さえ通らず、静まり返っている。そして、人の気配もしなかった。

 引き返せという警報は、頭が痛くなるほど強まっていた。けれど男の体は、まるで別の人間のように脳が出すその警報を無視して動いていた。庭の裏手から戻ってきて、男は家の玄関に立っていた。玄関の戸は無防備に開かれたままで、男が少し首を伸ばすと、広い土間が見えた。靴や草履の類は一足たりとも見つからない。

 声をかけてみるべきか、と思ったのは果たして自分の心だったのか。だが中に声はかけなかった。その代わりに、というのもおかしいが男の体は勝手に土間に入り、家の中を覗いていた。


 ”終に玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀をあまた取出したり。”
 ”奥の座敷には火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見たり。”

 土間から上がることはしなかったものの、開け放たれた襖のせいで、次の間が目に入った。朱と黒の膳椀が並んでいる。だが一人分だ。それから右手奥の座敷には、確かに湯気を噴いている鉄瓶が見えた。誰もいないはずはない。食事の用意がされていて、火も焚かれ、味噌汁の匂いがしている。

「これは……マヨイガ、というやつか?」

 待てまて、早まるな。男は苦笑して自分に言い聞かせる。今は所用で奥に引っ込んでいる家人も、呼びかければきっと誰かが出てくるだろう。出て来なかったとしても、何を焦る必要があるだろうか。これは夢の中だ。誰もいない家の中に、食事の用意がしてあったところで不思議ではあるが”あり得ない”ことではない。

 いっそのこと勝手に上がって飯でも食らってやろうか。

 腹が減っているわけではないが、夢の中でも味噌汁の匂いというものには鼻と腹が刺激される。ものを食う夢というのも、今まで見たことがないわけではないのだから、食えないということもないだろう。もし本当に誰もいなかったら、と男は考えた。家に上がってみてもいいのではないか。この家がいなくなった知人の家とは違うと分かっていても、それでも中を確認してみることはしてみてもいい。少し足を休めて、それから山を下り、森を出る。その前に、味噌汁とはいわなくとも、湯気を噴いている鉄瓶から白湯でも注いで飲んでおきたい。

 男が土間から上がろうとしたその時だった。奥から板張りの床を歩く人の足音が聞こえた。咄嗟に男は身を引いて、土間から外へ出ようと身を翻しかけた。けれど、奥から出てきた女の姿を見て凍り付く。

 それは知人の家の内縁に立っていた女だった。

 肝試しのためにあの化け物屋敷が連れてきたと知人が言っていた、髪の長い女だ。

 最も、濡れた手を前掛けで拭うようにしながら歩いてくる女は、あの屋敷にいた時と違って生身の体を持っているようだった。体が透けて、背後の風景が見えるということはないし、俯いていた顔はしっかりと上げられ、乱れていた髪もしっかりと首の後ろでひとつに結われていた。

「何故、こんなところに……」

 言いかけて、男は口を噤んだ。同じ女だと咄嗟に思ったけれど、その生気のある肌の色を見ると途端にはっきりと言い切る自信がなくなった。元々、あの屋敷にいた幽霊の顔をしっかりと目にしていたわけではない。あの幽霊は俯いていたし、長い髪が垂れて顔を半分隠していたからだ。それに、何故こんなところに、と問われるのならそれは男の方である。他人の家に声もかけずに入ってきてしまったのだから。けれど中から出てきた女は、男が勝手に入ってきたことを咎めることはしなかった。それどころか、男の顔を見てにこりと微笑んでこう言ったのだ。

「おかえりなさいまし」

 え、という形で口を開いたまま男は固まった。不審な顔をされてもおかしくない状況で、何故微笑み、歓迎されているような言葉をもらえるのか理解できなかった。固まっている男をよそに、女は男の前に両膝をついて首を傾げた。

「夕飯の支度ができております。まぁ……どうして裸足でお出かけに? さぁ、これで足を拭いてください」

 そして袂から手拭を出して差し出した。男が裸足なのは、寝ていたところを”あの家に放り出された”からなのだが、そう言えば所詮夢の中のこと、と気にもせず山の中を裸足で歩き回っていたのだ。首を折って足下を見れば、相応に草の切れ端や土がついて汚れていた。拭かなくては他人の家に上がれるような状態ではない。

「どうなさいました?」

 だがお帰りなさいと、赤の他人の家の中に招かれるような、そんな状況でもないはずだ。手拭と女の顔を何度も確認するが、戸惑っている男に女は不思議そうな顔で首を傾げた。

「どう……って、あんたこそ、どうして……」

 こんな他に人もいない山奥に住んでいるのだ、と尋ねようとして、男は喉を詰まらせた。味噌汁の匂いに混じって、妙な匂いを感じたのだが、一瞬で消えた。何だか首筋の辺りがちりちりと引っ張られるように痛い。この家はとても嫌な雰囲気を感じる。だがその何となくの感覚を口にする前に、女の手から菱文様が入った手拭を受け取ってしまう。

 あれよという間に、男はその家に引き込まれていた。そして気がつけば朱塗りの膳の前で座って、女が用意した飯をじっと見下ろしている。足は渡された手拭で綺麗に拭き、代わりに汚れた手拭は女が片付けてくれた。温かそうに湯気を上げている白い米。汁物には青菜と椎茸が。山の中のせいか、魚はない。山菜のお浸しと、焼いた鳥の肉もある。

 夢の中だというのにはっきりと匂いも感じられる、彩りもそれなりの美味そうな料理だった。だが男は箸をつけるのを躊躇う。何故こうして膳の前に座っているのか、その状況がそもそも理解できないし、そんな状態だから毒など入っていないだろうか、と疑ってしまう。しかしそれを横で座って微笑んでいる女に尋ねることはできない。女は男の斜め横に座って、自分が用意した飯を男が口にするのを待っている。微かに優しく微笑むその態度に、含みは感じられない。

「お腹は空いておりませんか」

 男がいつまでも食事に手を伸ばさないものだから、微笑んでいた女の顔も当然曇る。

「いや……そういうわけじゃあないのだが」

 のんきに飯を食べている状況ではないのだ、と言ってすむならそうしたかったが、作った食事を食べてもらいたいという雰囲気の女に気を使って、男はそろりと箸に手を伸ばした。腹は空いていないが、食えないほどでもない。見た目にはとても美味そうに感じられるし、と男はこんもり盛られた白米に箸をつけた。

 温かく、柔らかな白米は甘く、夢の中でも旨いものは旨いと感じることができるのか、と男は妙な感慨を持ってひとくち、ふたくちと口に運んだ。米の次は鶏肉を、そして山菜を食べたところで汁物を口にしたくなって、男は味噌汁の椀を手にした。青菜と茸が浮いている味噌汁の、汁だけを飲んでそれから具を食べようとしてはっとする。

 確か、茸を食べて一家全員死んでしまった、という話がなかったか。

 首の裏がまた引っ張られるような、嫌な感覚がして今まで口にしたものをすべて吐きそうになった。男は乱暴に味噌汁の椀を膳の上に戻した。さらに膳を右手で前に押し出して口元を押さえ、吐き気をぐっと我慢する。

「悪いが、やはり片付けてくれないか。飯はいらん」
「あの……何か粗相でも……?」

 不安そうに下げられた眉を見て、とても酷いことをしたような気分になった。

「いや……ちょっと気分が優れんだけだ」
「そう……ですか。膳はすぐに片付けます。少し、お休みになったらいかがです? 床の準備も出来ていますので」

 確かに、少し休んだ方がいいのかもしれない、と男は思った。あの突如としていなくなった友人の家の庭から、歩いてこの屋敷までやってきて、一体どれほどの時間が過ぎているのか。夢の中だったとしても、ずいぶん長い夢のようだ。

 夢の中で休めば、またさらに夢を見ることができるのか。

 考える頭が重い。男は自力で立ち上がるも、歩くことができずに女の腕を借りて隣の部屋へ移った。女が行った通り、そこにはすでに布団が敷かれていて、男はそれを訝しく思う間もなく倒れ込むようにして横になった。恐ろしく、抵抗することもできないくらいに強い目眩がして、目を開けていることができない。

「ゆっくり、お休みください」

 女の声が聞こえて、遠ざかる足音が襖を閉める音で途切れる。横になったはずなのに、どこが床なのか分からない。目を閉じていても感じる、床が動いているような酩酊感。このまま眠ってしまいたい。いや、眠ってはいけない。すでに眠っているはずなのだから、起きなくては。相反するふたつの想いが交錯する。

 眠りたい。
 いや、夢から覚めたい。


 この家にいたい。
 いや、この家を出たい。


 ここが自分の家だ。この家で、眠りたい。


 ここが俺の家……?

 俺の家はここではない。

 俺の家は――。


 自分の家、と言える場所はない。ここ以外のどこにも。


 虚ろな意識で導き出した答えに、男は足をとられ、抵抗する気が失せた。ずるずると引きずられるようにして意識が遠のいていく。それは恐怖でもあり、快感でもあった。眠りに引きずられるというのは、死に近づくという感覚に近いのだろう。死。そこですべてが終わるという感覚はまさに恐怖と、開放感のある快楽への道でもある。すべてを投げ出して、この家に呑まれてしまいたい。この、自分の家。帰るべき場所で――。

*引用ー柳田國男:遠野物語 増補版,1935.7,東京,郷土研究社,pp48-49

Back / Next