憎しみと共に川に沈む

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 それは一人の女の物語だった。年若く清い僧に惚れ込んで、妻にして欲しいと願った。僧は自らの立場からそれをきっぱりと断るべきところ、若さ故か弱さ故か女を突き放すことができず、熊野詣での帰り道にまた必ず寄ると約束してその場を逃げた。女は僧の言葉を無邪気に信じ、男の帰りを今か今かと胸を高鳴らせて待つが、いくら待っても男は帰らない。もう熊野詣での行き帰りの日数は過ぎている。熊野帰りの人を捕まえて問えば、そのような若い僧はすでに熊野をくだり、帰って行ったという。つまり、女の待つ場所を避けて。

 嘘をつかれたのだと知った女は烈火の如く怒り、髪を振り乱し裸足で僧を追い、追われていることに気づいた僧は必死で逃げて川を渡る。舟に乗った僧は、これで女も追いつけまいと息をつくが、女の怒りはその川の水でも冷えることなく、恨みの言葉は長く裂ける舌となり、頭に上った血は角となり、乱れた髪はうねる体に。そうして女はその身を捨て、恐ろしい蛇の姿となって川の上を滑り、僧を追いつめて川の中へと引きずり込むのだ。

 ある寺の縁起として語られることもあったというその昔話を、祓い屋は祖父が昔見たという能の話を聞く中で知った。祖父が見たときでさえ古典芸能として知られていたその演劇を、祓い屋はディジタル画像でしか見たことがない。それも、あまりに退屈な動きなので途中で眠ってしまったくらいだ。

 その退屈な映像の中で祓い屋が一点だけ注目に値すると思ったのが、演技者――シテというらしいのだが――の付けている面だった。鐘供養の場に現れた若い女を演じるシテが付けていたのは白くのっぺりとした、けれどその柔らかな頬の曲線と口の引き上がり具合が妙に艶かしい女の面。それは人のように筋肉でもって動くわけでもないのに、俯き、横を向くその角度で微妙に表情を変えてみせる。美しいと思った女の顔は、その極度の緊張感の中での舞で吹き出すような狂気を纏っていく。能の中では狂気が最高潮に達した瞬間に舞台の上に吊っていた鐘の中に飛び込むわけだが、もし鐘の中に消えていなければ、と祓い屋は思うのだ。

 あまりの強い念に耐えきれず、柔らかな曲線の面は割れてしまったのではないだろうか、と。いま、修理屋の手に収まっている真っ二つの面と同じように。

「女の執念ってやつ? あなたは、どう思う?」

 執念によって異界との境界線となる川を渡った女はもうここにはいない。祓い屋は自分の仕事を果たした。そして、祓い屋の正面にある流華堂と書かれた低い看板の側に立っている修理屋も、その手に持っていた面が最初と違っていることが、仕事を果たした証拠となっているのだ。

 祓い屋の探るような目から逃げることもせず、修理屋は壊れた面の片方を持ち上げて自分の顔の半面にあて、ゆっくりと微笑んで答えた。

「隠されたものと明らかにされたもの、僕は前者の方が恐ろしいと思いますよ。真蛇になることのできなかった近江女は、この美しく感情を抑えた面の、さらに内側にあらゆる情を込めて燻らせる。それは隠せば隠すほど煮詰められ、沈殿して、濃くなっていく。それでもなお女の姿をとることができるというなら、この面の方がずっと恐ろしい」

 そうかもしれない。だからこそ、祓い屋はこの目の前に立っている男とも女ともつかない顔立ちの”人のような”存在が、怖いのだ。

「あなたのそれも、仮面のようなものなの?」

 恐怖心を抑え込んで、あえて挑発的な声音で祓い屋が指摘すると、その虚勢さえも見透かしているという風な顔で、修理屋は笑みを濃くした。

「なんのことでしょう」

 小首を傾げたその様子は、分かっていても答える筋合いはないという姿勢があからさまだった。挑発され返されている、と祓い屋は思った。だから安易にそれに乗ることはせず、話の矛先を変えてみた。

「ヨハネ経由で依頼した件は、受けてくれて感謝している。あたしでは、あの人形の行き先までは保証できかねたから」
「あぁ、あのテートジュモーですね。結局、ロシアのお嬢様にもらわれていきました。今頃髪を撫でてもらって、新しい服を仕立ててもらい、夜は一緒にベッドで眠る……よいお友達になっている頃でしょう」

 祓い屋からすると大分動きにくそうな袖の垂れた服を着ている修理屋は、片袖を押さえながら細い手を胸の上に乗せて言う。押さえたのは心臓か。本当にそれが脈打っているものならば。

「よかったと、思っているの?」

 そこに心が宿っているというのなら、本心から? 猜疑心を隠すこともせず尋ねる祓い屋へ向けて、修理屋は胸を押さえたままで口をさらに引き結び、薄めの唇を三日月型にして見せた。

「それは勿論。ここはただの修理屋。一時的に集まるものも、傷を癒して本来の場所へ旅立つ。その旅立ちを快く見送るのは、修理屋としての務めであり喜びです。そう……ここも一種の彼岸ですね」

 壊れかけのものにとっては、確かにここは彼岸なのだろう。完全に壊れて塵屑になってしまうか、それとも壊れた部分を修復され、もう一度誰かに使われるのか。けれど修理屋と言われているはずの目の前の人物の手は、何かを直す手ではなかった。それは手の形、肌の具合からではない。その手に宿る魂が、祓い屋にそう感じさせるのだ。

「あなたの手は、何かを直す手じゃあない。私は直接ルカにお礼を言いたかったのだけれど、”あなたは誰”? その顔の下に、何を抑えているの?」

 祓い屋の言っている言葉の意味が分からない、というわけではないのだろう。なんの事だと嘯くことはしないのだから。先程は祓い屋がかわした挑発を、今度は相手がかわして矛先を変えた。お互いの探り合いは、段々と複雑になり、矛の先で深くえぐられて危険な真実へ近づいていく。

「……僧と女。その対比は安珍と清姫、そして義湘と善妙の姿でもある。何故善妙は龍になり、清姫は蛇になったのか。どちらも美僧に恋をしたというのは同じなのに……。あなたはどう思われます? 祓い屋さん」

 腹の探り合いをしながらでも、別に考える価値はあるかもしれないと祓い屋は思った。ディジタルで見た能の一場面が浮かぶ。鬼と化した女を追い払うようにして数珠をすりあわせ、真言を唱える僧達。聖なる者を追っていた女は、聖なる者に追われる邪――蛇――となって川に消える。だが一方で、聖なる者を追って聖なる物になった女もいるのだ。

「何故善妙は龍になり僧を助け、清姫は蛇になり僧を殺したのか、ね。私に言わせればそれは逆だわ」

 きっぱりと言い放った祓い屋を見る修理屋の瞳はどこか面白そうだ。

「逆、ですか」

 こんな性別もはっきりとしないような存在に、説いて意味があるのだろうかと思ったことは確かだったが、祓い屋は自分の考えを口にした。

「なぜ義湘は殺されず、安珍は殺されたのか。女として何が違ったのかではなく、男として何が違ったのか。それを問うべきよ」

 今度ははっきりと修理屋の目尻が下がり、祓い屋の考えを面白がっている様子が見てとれた。

「善妙が龍になったのも、清姫が蛇になったのも、彼女達の力ではなかったと考えたらどうかしら」

 女の力でないとすれば、あとは男の存在しかない。修理屋は考えるように片手を鋭利な顎に添え、そして丸い爪で飾られた繊細な指を動かした。その滑らかな指の仕草が、蛇のように見えると言ったら修理屋は声を出して笑うだろうか。

「つまり、義湘と安珍という男の差が、彼女達の想いの昇華の形と、彼らの生死に繋がったということですね」

 そして別の国では楽園の追放に繋がったのだ。

「ようは自業自得ってことでしょう? それを女の情念の業のように言われてはたまらないわ」

 思わず吐き捨てるような口調になった祓い屋に、声は出さなかったけれど、修理屋はふっと息を吐いて笑いかけてきた。

「けれど、女性としても善妙の姿より、清姫の姿に惹かれるのでは? こうして……」

 言いながら顎に当てていた手を離し、修理屋は手の中の二つに割れた面を繋ぎ合わせ、そして無感動にまた二つに引き裂いた。

「女の身を捨ててまで男を追う姿に、いじらしさは感じませんか?」

 確かにそれをいじらしさと感じるのは女の業なのかもしれない、と祓い屋は思った。龍になって男を助け、また蛇になって男を殺す心を”女だから理解できる”と思ってしまうのは。しかしそれを。

「人の身を捨てているようなあなたに訊かれるのは不愉快ね」

 今度こそ吐き捨てるように、祓い屋は言い放った。それを聞いた修理屋はなお笑みを絶やさない。

「残念です。そうまで嫌われる理由に思い当たりませんが」
「よく言うわ。破壊屋は業を背負いすぎていて”まともじゃない”けど、あなたは何も負っていない。あなたの周りは”何もなさすぎる”。人ではありえない」

 そう、人であれば誰でも、どんなに一人閉じこもっていようとも業が絡みつく。祓い屋にはそれが見える。破壊屋はその業が多すぎて祓い屋の目にはもうそのどす黒い業しか目に入らないくらいだけれど、修理屋は逆にクリアすぎる。人に作られた人形だって、その人の想いが絡み付いて見えるくらいなのに。

「さて、人から生まれた者を人というならば、確かに僕は人ではないのでしょうが。それなら僕は何でしょうね? 何を言っても納得してもらえるとは思えませんが……でもそう」

 修理屋の白い手が持ち上がり、割れた半面がその手に従って片目で祓い屋を見つめる。

「僕は確かに流華ではない」

 ルカというのが走査屋に聞いて来た、流華堂の店主の名前だった。ハンドルネームも本名を使っているのだと彼は言っていたから、目の前の人物がルカではないというなら、それはすなわち流華堂の店主ではなく、また修理屋でもないということになる。こうして、事前に連絡をしていた祓い屋を当然のように出迎えておきながら、修理屋当人ではないというのか。

「あなたは誰なの?」

 自分で思ったよりもずっと硬い声になった。請け負う仕事の大半は質の悪い霊が相手だが、その悪い中でも最も悪い類いの相手に感じる時のように、首の後ろがちりちりと痛む。

「困ったお嬢さんだ。走査屋に何を言われて来たのか……」
「走査屋に? 何も言われてなんかいないわ」

 少し声が引きつったが、嘘ではない。走査屋はルカの話をしたことはあったが、祓い屋に何かを走査するように言う事はなかった。それは彼の仕事で、彼は例え祓い屋であってもその仕事に手を出される事は好まなかったからだ。だが、何も言わずとも分かってしまうことがある。特に祓い屋は走査屋のことを知りすぎていて、彼が気にかけていることは言われずとも自然と自分も気にかけるように習慣づいてしまっているところがある。

 走査屋がルカという青年に、あるいは修理屋という職人に興味を抱いていることはずいぶん前から気づいていた。だがその興味が単なる走査対象としてではなく、もっと並々ならぬものだと感じるようになったのは、あの外出嫌いの走査屋がネットを使わず、直にこの店を訪れ、そして帰って来た後からだった。そして、修理屋に並々ならぬ興味を抱いているのは、走査屋だけではなく破壊屋もだった。いや、走査屋はもしかしたら「破壊屋が興味を持っている修理屋」だからこそ興味を持ったのかもしれないし、それは祓い屋にも言えることだった。走査屋を通してではなく、こうしてあの怨念を自らここに案内してきたのはそういう理由からだ。

 壊すこと以外に関心のない破壊屋が、正反対の性質を持つ人間に興味を持つなんて。

 その人間はどんな人物なのか、会ってみたいと思ったのは確かだ。走査屋も同じ理由で修理屋に興味を持っていたとしても、彼に言われて探りに来たわけでは決してない。

「ふん、そうかい? でも手痛いしっぺ返しを食らう前に、走査屋は流華の走査から手を引くべきだ。お嬢ちゃんからもそう言ってやりな」

 修理屋の口調が急に変わり、その首を傾げる気怠げな仕草も今まで話していた相手とは全く違う人間のようになったので祓い屋は戸惑った。

「……誰? さっきのやつとも違う……あんた達、もしかして……」

 言いかけてはっと息を呑んだ。ほとんど変わらない身長の、細い体がこちらにひらりと舞って距離を詰める。身構えていたはずなのに、逃げる一歩が動かず、気づいた時にはこめかみの脇の髪を掴み上げられていた。 

「うっ!」
「もしかして? 続きを聞かせてちょうだいよ、お嬢ちゃん」

 今度は女だ。それも凶暴で残酷な女。抜き身の刃のように殺気を隠すことなく、隠さずとも最後に立っていられる力を持っているという自負がある人格。痛みに思わず瞑っていた目を開けると、目の前で赤い舌が淫靡に唇を舐め上げる仕草に肌が粟立った。まるで肉食獣のような女だ。最初に話した人格とは別種の恐ろしさを感じる。

「……別の、人格? ルカは、”眠っている”のね?」

 その体の中で。掴まれた髪の痛みに耐えながら祓い屋が指摘すると、修理屋の雰囲気がまた最初の人格のものに戻った。手が緩んだその隙に、祓い屋は後ろに大きく飛び退った。修理屋はそれを追ってくることはなかった。

「眠らせている。最近は特に、面倒な客が増えているからね。君のように、流華に興味を持つ輩には流華を会わせるわけにいかない」

 掴まれて跳ね上がった髪を手で撫でて直しながら、祓い屋は修理屋の言った言葉の意味を考えた。

「ルカというのは、一体何者? 走査屋が会ったのは、あなたなの? それとも別の人格?」

 修理屋の背後で、店の玄関を照らすスポットがチカリと瞬いた。その明滅によって、一瞬だけ影が揺らめいて笑えない残像を作り出した。角だ。蛇の角が、修理屋の頭に生えているように見えた。

「流華はアダムから作られた。人から生まれた者を人と呼ぶなら、人ではない。けれど聖書にはどう書いてあったかな? アダムのあばらからイブが作られた。彼女は人ではないのか? それともアダムという塵から作られた、彼女こそが最初の人類なのか」

 そしてあなたは、イブを誘惑した蛇なのかという問いかけを祓い屋は呑み込んだ。

「何が言いたいの?」

 おかしな謎掛けに惑わされるつもりはない。祓い屋が欲しいのははっきりとした答えだけだ。

「やれやれ、質問ばかりですね、祓い屋さん。どうせ何を答えても、君は覚えていられない。……君は川を渡れない」
「私は……」
「川へ送り出すだけだ。川を渡すことは祓い屋の仕事ではない。そうだろう?」

 そうだ。祓い屋の仕事は魂を彼岸へ送り出すことであって、その先川を渡すのは生きている祓い屋にはできない。けれど知っている。川へ送り出せば、何者かが魂を乗せ、川を渡す。確実に、川の向こう岸へ。だが祓い屋は渡し守の素顔を知らない。知ってはならないと、祖父に言われて育ってきた。

 それを知るのは、自分が川を渡る時。だからそれまでは、”祓い屋として”渡し守が誰なのか探ってはならないと、祖父は言った渡ったら最後、戻ってくることはできないのだから、と。人ならば決して、戻ってはこれないはずなのだから。

「あなたなら渡れると言うの」

 そして戻ってくることが。そんな事ができるというなら、益々彼は人ではない。祓い屋が戦慄しながら問うた言葉に、初めて修理屋が苦い感情をその顔に表した。

「残念ながら、僕にはできない。僕はそもそも川を渡るような存在ではないから。だが……だからこそ僕にしかできないこともある」

 感情らしきものが過ったのは一瞬で、すぐに修理屋は口元だけの微笑みをはりつけ、手にしていた壊れた面を左右の地面に放った。 
「何をするつもり」

 からんと乾いた音を立てて地面に転がった木製の面は、くるりと回転して一方は白く塗られた顔を、一方は木肌を上に祓い屋を見つめた。

「……そろそろ五月蝿い蠅を払い落とさなくては。仕事の礼として、川を渡すのは見逃してあげよう。でも……次はない。流華の眠りを何度も妨げるようなことは、僕もしたくないんだ」

 冷たい声で言い放つと、その男は目を閉じた。なにか仕掛けてくるのかと油断せず身構えていた祓い屋は、その瞳以外は動かなかった相手に益々警戒して足に力を込めた。いつでも、どの方向にも避けられるように。その気配を感じたのか、目を閉じたまま男は微笑んだ。冷笑に近い笑みを浮かべたと思ったら、次の瞬間本当にその整った顔が一切の感情を無くした。


 それは地面に放られた能面のようだった。
 幽霊であり、精霊であり、悪霊にも、神にもなれる。
 そのなだらかな凹凸と、刻まれた鑿痕に宿る陰影によって。

 やがてゆっくりと開かれた目はどこも見ておらず、祓い屋はそれを今まで出て来た人格とはまた別の人格だと感じた。彼がルカだ、と何故か思ったのだ。

「あなたは……」

 声をかけようとしたその直後に、ルカの口が動いた。どこか夢見がちに。そしてその薄く開かれた口から出た言葉を聞いた、と思った瞬間に世界が音と色を無くした。


「……れん、カレン!」


 若い男の声、よく知った声が耳に届いた。つい先程、世界はすべての音と色を無くしたと感じたばかりではなかったか、と可憐は訝しく思う。その訝しさがまた訝しい。

「え……? あ……ジュン……?」

 つい先程、といま自分は思ったが、しかし半時も前から可憐は幼馴染みの淳一と二人で話をしていた。そう、目の前にいる車椅子の青年と声を出して会話をしていたのだ。淳一の好む薄暗い、けれど決して色がないわけではない部屋の中で。

「カレン、一体どうしたんだ?」

 聞き慣れた幼馴染みの声は、可憐よりもずっと訝しそうな調子がある。

「どうした、って?」
「話の途中で急に黙り込んだのは君だぞ。具合が悪いのか」
「ううん、平気。でも……あたし、なんの話してたっけ」

 薄暗い部屋の中で、どちらかが僅かにでも身を乗り出せば唇が触れ合うくらいの距離にいるせいで、幼馴染みの眉間に刻まれた皺がより一層深くなるのを可憐は見た。

「仕事の話だ。あの気味の悪い仮面の、そして……流華堂の話だ」

 淳一の手が、苛立たしそうに車椅子の車輪を叩くのが見えた。何を誰に弁解するつもりではないが、矢部淳一、この世界では走査屋と呼ばれる両足が不自由な青年は、普段はこんなに不機嫌な調子で可憐に話しかけたりはしない。いまは可憐の様子を心配して、これまで話されていた仕事の話の続きに興味がありすぎて、不意にそれが中断されたことに不満を持っているだけなのだ。

「流華堂……そう、あの喫茶店だか骨董店だかの話だったよね」

 結局店の中には入らなかったので、喫茶店らしきカウンターも、骨董品も見ていなかった。しかし路地の奥に、小さな看板を出していたあの店の名前は、確かに流華堂だった。流華堂だった、はずだ。

「……本当に大丈夫か?」

 覗き込まれて咄嗟に笑みを返す。大丈夫ではない、という言葉が脳裏に浮かんだが、答えたのは全く逆の言葉だった。

「大丈夫よ、ジュン。能面は……どうやら近江女というらしいのだけれど。あれに憑いていた女の霊は自分の望んだ通り、あの面から離れて別の面に移っていった。真蛇と流華堂の店主は言っていたけれど、私には鬼に見えたわ。女の霊が離れた途端に、近江女の面は割れてしまって……修理屋がそれを引き取って修理すると言ったからあの店に置いてきたの」

 考える前から、録音された磁気ディスクのように既に記録された答えが口をついて出ているような、そんな気分を可憐は味わっていた。まるで自分が二人いるようだ。一人は決められた台詞を喋り、もう一人はそれを聞きながら困惑している。しかしその困惑している自分は表に出る事ができない。

「修理屋を……ルカをどう思った?」
「どうと言われてもね。あの着物っていうの? あれ、あたしは絶対に着たくないな。動き辛そうだし、寒そう」

 茶化している自分が恐ろしい。だが止めようがない。一体何故、ともう一人の可憐は考える。おそらく、考えている。これが夢でなければ。

「カレン、僕が訊いているのはそんなことじゃない」

 分かっている。淳一の言いたいことは。

「分かってる。苛々しないでよ。……あたしには分からないわ」

 自分には分からない。自分がこれから何を言うのか。

「修理している腕を見たわけじゃあないし、壊し屋が執着するような何かを感じることもできなかった。どこか幼い子どもみたいな……ちょっと頭が足りないくらいに感じたけど、全然危険な感じはしなかった」

 危険な感じはしなかった?

 そんな馬鹿な、と表に出られない可憐が叫んだ。何かを思い出したわけではないけれど、何かが抜け落ちていることは分かった。可憐の魂が、今の自分がおかしいと必死になって叫んでいる。

「全然……危険な……んて…………」

 危険がないなんて嘘だ。

「カレン?」

 魂と体が分離する。あのちらつくスポットの下で、一体何を目にしたのだったか。割れた能面、川、天を指して伸びた角。見た。いや、何も見ていない。近江女のうっすらと開いた唇。同じようにうっすらと唇を開き、修理屋はなんと言ったのだったか。


『    』

 面は修理する、と言ったのだ。本当に?

「気持ち、悪い……」

 明滅するスポット。真蛇となって川を渡った女。店の明かりを背景に、修理屋の唇は可憐に命令した。


「カレン、カレン!!」


 そこでスポットは切れ、すべては暗転した。

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