雨宿り

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 さすがに少し寒くなってきた。腕時計をするという習慣がないので、自分がどのくらいの時間こうして暗い土管の中に蹲っているのか分からなくなってしまった。もっと別の場所を探すべきなのかもしれない。濡れ鼠でも、動物同伴でも入れてくれるようなお店はこの辺りにあるだろうか。

 そろそろ体勢的にも苦しくなってきたし。弱々しい声が自分の腕に抱かれている温もりから漏れたけれど、正直私だってそんな声を上げたいと思い始めていた。

 心細い。

 これがそういう感情なのだろうか。そんなものとうに慣れた感情だと思っていたのに、いま感じているものはこれまでに感じていたものとは違う、とても新しく、強烈な感情だった。

 心細い、なんて当たり前。どれほど自分の周りに物と人が溢れていても、私はいつも一人。そう思っていたせいだろうか。汚いダンボール箱の中で震えていた子犬に手を伸ばしたのは。

 私はお前を利用したのかしらね。

 そう心の中で問いかけると、まるでそれが聞こえていたかのように腕の中の子犬が弱々しい鳴き声を上げた。私の言葉に肯定したのか、それとも否定してくれたのかはもちろん分からない。けれど多分、心細かったのは確かなのだろう。子犬も、私も。

 日常生活に不足しているものは何もない。けれど不自由していることは確かなのだと思う。贅沢だと思う反面、表面上は何もかも十分に足りているという不自由さは、それを味わっている者にしか分からない苦しみがあるのだとも叫びたくなる。家に帰りたくない私と、帰る家を持たない子犬。どちらがどちらを利用しても、それがお互いのためにならないということはないのだろう。そう信じたかった。

 私は狭苦しい土管の中で小さく息を吐いた。白く見えるほどではないけれど、大分体が冷えて、手にも肩にも不自然に力が入るようになってしまった。そろそろここを出なければ、私がそう思った直後だった。

「出て来いよ」

 低い、だけど若いと分かる張りのある声が土管の中に響いて、私の腕の中にいた子犬がそれに応えるようにして小さく弱々しい声を上げた。外はまだ降りしきる雨の音。私は腕の中の子犬の頭を撫でつつ、明るい出口を見つめた。

「怖くないから、ほら」

 再び若い男の声がかかって、外の光の中から暗い土管の中へと手が伸びてきた。手首から先だけがまあるく切り取られた出口から覗くのは、正直悪趣味な光景だと私は思った。怖い。いいえ、怖くない。怖がっているなんて、勝手に決められるのは思い切り癪だった。

「怖がってなんかいないわ!」

 だからそう言って、窮屈な土管の中から飛び出したのだ。外はまだ当然の雨模様で、けれど土管から飛び出した私と、腕の中の子犬に冷たい雨は降り注がなかった。それは飛び出した私の目の前に立っている学ラン姿の男が差している大きめの蝙蝠傘のおかげだった。

「……いや、俺は犬の方を呼んだんだけど……」

 どこかぬぼっとした印象を与える学ランの男子生徒は、微かに濡れた髪などが大きな黒い犬を思わせる姿をしていた。その視線が向いているのは、私ではなく私の腕に抱えられた子犬。

「だっ……だったらそう言いなさいよ!」

 自分の勘違いに恥ずかしくなって、私は思わず叫んだ。

「人がいるとは思っていなかったから」
「言い訳は無用よ!」

 私がビシッと言い渡してやると、ぼんやり男はぼんやり口を開いたまま何も言わなくなった。そうしているとますます間抜け面に見える。

「返事は?」
「……はい」
「いいわ、許してあげる」

 私は優しく、寛容だから。図体ばかり育った大人とは違うのだ。

「その犬、君の?」

 先ほどのやり取りでめげた様子もなく、男は私の腕の中の子犬を指差して言った。私は不躾なその指先から子犬を庇うようにして体を捻り、そして答えた。

「動物はものじゃあないわ。だから、私の“もの”じゃあない。でも、私が拾ったのよ」
「家で飼うつもりで?」
「そうでなければ拾ったりしないわ。無責任なことはしない」

 今だって、ちゃんと飼うつもりはあるのだ。ただ、私の意思だけではどうしようもない事態が、こうして私を土管に雨宿りさせた結果となって表れている。けれど、そんな複雑極まる事情を目の前の一介の高校生に話してみたところでどうにもならないと分かっているから、それ以上の説明はしなかった。それに男の方は別段それ以上の説明を求めてはいなかったみたい。私と子犬のことを交互に見つめて、それから何やら納得したように頷いたのだ。

「……ん。で、まさかその土管の中が君の家?」
「そんなわけないでしょう!」

 まさかでもそんな選択肢はありえないわ。どういう納得の仕方をしたのよ!

「散歩の途中でかくれんぼとか?」
「うっ! ま、まぁ、馬鹿らしいと否定できないところが辛いわね……」

 かくれんぼという遊びではないにしろ、隠れていたのは確かなのだから強く言い返せない。

「だったら、呼ばれて素直に出てきてはいけないんじゃあ……」

 何よ、まともなことも言えるのね、この男。確かに普通のかくれんぼなら、声をかけられたからといってのこのこ姿を現してはいけないのだけれど。とぼけた反応を返す男に突っ込みを入れてやろうと思っていたのに、反対に突っ込まれてしまう始末。貴方が納得できても、私は絶対に納得できないわ、この展開。

「お遊びのかくれんぼじゃあないのよ」

 だから貴方は正直お呼びでないの、と言いたかったのだけれど、無表情に首を傾げて至極真面目な様子で言った男の言葉に呆れて何も言えなくなってしまった。

「遊びではないかくれんぼ……? 仕事?」

 仕事のかくれんぼって何よ。尾行とか? 張り込み? じゃあ私は美少女探偵か。それは確かに悪くない響きだけれど……って、違うわ。危うく彼のおかしなペースに乗せられるところだった。

「冗談なの? それとも本気? 後者ならすぐに良い病院を紹介してあげるわよ」
「本気だけど、良い病院は後々のためにとっておくことにする」

 まぁ、それは非常に頭の良い選択ね……と私が言うとでも思ったのかしら。緊急入院が必要だわ、この男。

「……頭痛がしてきたわ」

 寒さのせいだけではなく、この男の奇天烈さは常識人の私には刺激的過ぎたみたい。

「じゃあ、俺が病院を紹介しよう」

 どこか得意げに男はそう言った。どうしてそこで得意になるのか分からないし、何だか嫌な予感がビシバシ私の体を叩いている。

「藪ね? 藪なのね?」
「ボロだけど藪じゃあない、と思う」

 と思う、じゃあないのよ。図体の大きな男が首を傾げて見せたって可愛くないわ。

「信用できないところを他人に紹介しないでよ!」

 何かあったときに責任がとれるの? って、そこまで言うと何だか安っぽいドラマの安っぽい男女の喧嘩みたいで嫌だから言わないけれど。そもそも私、どうしてこの男と話しこんでしまっているのかしら。傘は確かに持っていないけれど、近くの店まで走ってもっと別の場所で雨宿りするべきだわ。犬も一緒に入れてもらえる場所。

 そう考えて走り出そうとした私の目に、黒塗りの嫌味なほど高級感を漂わせた車が滑り込んできた。丁度公園の出口の前。まさに私が走って向かおうとしていた場所を塞ぐようにして停まった車の中から、黒い服と黒い傘が生えてきた。

「お迎えにあがりました、お嬢様。遅くなりまして申し訳ありません」

 四十五度に折れた背の下から静かな声が響いた。片手に開いている傘は真っ黒な烏のようで、そしてもう片方の手に下がっている畳まれたままの短い傘は黒に不釣合いの橙色。

「……迎えに来て欲しいと頼んだ覚えはないわよ、香坂」

 香坂という男は私の監視役だ。普段なら私が彼と離れていられる時間は夜の眠るときと、学校へ行っている時間帯だけ。今日は運良く一時間だけ逃げていられたけれど、それ以上は無理だった。見つかってから逃げ出しても、すぐに追いつかれてしまう。

「申し訳ありません。ですが、そろそろお帰りの時間ですので」
「帰らないわ」

 私の橙色の傘は確かに欲しいけれど、それを手にするために犠牲を払わなくてはならないのなら、少しくらい雨に濡れても悔いはない。そして帰る時間くらい自分で決める。できれば帰る場所だって自分で決めたいのだけれど、それができるほど私は大人ではない。悔しいことに。

「お嬢様。その子犬にはしかるべき引き取り先をお探しいたします。どうか、お帰りください」

 背を四十五度に折ったまま香坂は続ける。姿勢ばかり低くして見せたって、結局香坂にとって私はまともに一人で立てない、目の開いていない赤ん坊と同じなのだ。何よ、自分だって一人で立てない時期があっただろうし、私より先にまた一人で立てなくなる時を迎えるくせに。

「しかるべきって何? 私ではこの子にふさわしくないというの!」
「お嬢様……」

 困ったようなふりをして口ごもった香坂の考えを読むことくらい容易かった。私がこの子にふさわしくないのではない。この子が私にふさわしくない。それが香坂の考えなのだ。悔しい。どうして分からないのだろうか。それは余計に私を貶める考えだというのに。

「あの」

 あまりの悔しさに唇を噛んだ私の隣で、紺色の傘を捧げ持っていた男が片手を上げて私と香坂の話に割って入った。

「その子犬、引き取り手はここにいますけど」

 え? そんな話はしていないのに、いつの間にそんなことになったのだろう。まさか彼の脳内では私との間でそんな会話がなされていたのだろうか。だとしたらとんでもない妄想癖だわ。やっぱり緊急入院よ。

「失礼ですが、どちら様でしょうか? お嬢様とは?」

 一体どういうご関係で? と言うのだろうか。関係もなにも、ついさっき出会ったばかりで、しかも妙に疲れる中身のない会話をしていただけ。むしろ会話にもなっていなかったかもしれないというのに。

「彼女とは……」

 ちょっと待って! 何て言うつもりなのよ。あなたに口を挟ませるなんて、さほど会話もしていない私が不安いっぱいになるくらいだからとてもとても危険に違いないわ。何か言わなくちゃ。彼の妄想が展開して膨らむより先に私が!

「この人は私の恋人よ!」

 はい? 私は自分の口から出てきた言葉に驚愕した。恋人ですって? このぼんやり妄想癖男がこの完璧な私の? 何を馬鹿なことを言っているのよ、と思ったけれど言ったのは私本人なんだから怒りようもない。とにかく落ち着け、私。落ち着いてもっと別の、もっと信憑性があって、私の趣味も疑われないような良い答えがあるはずよ。

「お嬢様、そのようなご冗談はそちらの方にご迷惑かと」

 せっかく冷静になろうと思っていたのに、香坂の言葉にカチンときてしまった。香坂の奴、私がその場しのぎのでまかせを言っていると決め付けているのね。その通りだけれど。その通りだからこそ引き下がれないじゃあない。

「冗談で言っているわけではないわ。この人はこの子と私を迎えに来てくれたの! そうでしょう?」

 そうだと言いなさい、と私は目で訴えた。いいや、脅したのだ。

「……そう」

 脅されたから答えたのだ、とこの人が考えたかどうかなんてこの際どうでも良い。入院一歩手前のくせによく答えたわ、褒めてあげる。

「これからこの人の家に行くのよ。帰りも送っていただくの。お前はお邪魔虫よ、お帰りなさい! それとも何? この人のことも私にはふさわしくないと言いたいの?」

 厚顔の香坂もさすがに当人の前でふさわしい、ふさわしくないと口にすることは躊躇われたのだろうか。

「いえ、そのようなことは……。しかしお嬢様、お名前も知らないような恋人の家に行くような真似は、旦那様もお許しにならないかと思われますが?」

 しまった。さすが香坂だわ、と思ってしまったことが余計に私をしまったという感覚に陥らせた。その場しのぎの嘘など通用する相手ではなかったのだ。名前、恋人の名前を知らないなんて、いままさに結婚詐欺に引っかかっている状態の女くらいなものだろうに。

「名前? それくらい知っているわよ! ……えっと」

 どうしよう。こんなことなら開口一番この不審人物の名前を聞いておくべきだったのだ。聞いていないのだからいくら考えても隣に立つ男の名前が浮かぶはずはない。けれど、雨が間接的に私と子犬を救ってくれた。直接的に助けてくれたのは、信じられないことに隣に飄々と立っていた不審人物だった。

「海王さんよ。社木 海王(やしろぎ かいおう)さんとおっしゃるの」

 私が勢い込んでその名前を口にできたのは、傘に入れてくれていた不審人物が、雨に濡れないようにと私に接近していたことによる。頭の足りない木偶の坊かと思っていた男は、そ知らぬ顔をしながら傘を持たない方の手で私の背中に文字を書いたのだ。社木 海王と漢字で書いて、それからご丁寧にも読み仮名までふってくれた。それが偽名でもペンネームでも今の私には関係ない。香坂の意外そうな顔を見ることができただけでも非常に満足だった。だからこの芝居を最後まで続けようと思ったのだ。

 私は極上の笑みで香坂を見つつ、隣に立つ男の太腿部分に自分の名前を走り書きした。すると隣に立つ男は先程までの無愛想で何を考えているのかさっぱり分からない口調と打って変わって、やけに愛想の良い落ち着いた口調で香坂に言ったのだ。

「初めまして。社木と言います。お嬢さんは夕方までにきちんと送り届けますので、ご心配なく。行こう、乙花(きのか)」

 名前を呼ばれて、そして腕の中にいた子犬の頭を優しく撫でられただけなのに、私の体は不自然に震えた。何故だろう。普段あまり男の人に名前で呼ばれないせいだろうか。それとも子犬を撫でた手が思ったよりも大きくて、温かそうだったからだろうか。恥ずかしくて、頬が火照った。

■この小説はリクエストをくれた我が姉えあに捧げます.

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