雨宿り

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 男と二人並んで歩き出しても、香坂は追いかけて来ない。本当に珍しいことに、まだ高校生くらいの男に気圧されたような形で香坂は歩き去る私と海王と名乗った男の後姿を見ているだけだったのだ。車に乗って追いかけてくる様子も、そのまま私の家に帰る様子もない。呆然としている、という状態が香坂にも当てはまることがあるなんて。

 私は一人笑いを漏らしてから、相合傘というよりは私の方に傾いているように見える傘を見上げた。そしてその傘を支えながら歩いている人に向かって視線を動かした私は、にんまりとした笑みを引っ込ませて、お互いの足が跳ね上げる雨粒の音を聞きながら思い切って声を出した。

「あの……」

 思ったより小さな声しか出なかった私に、それでも彼は気付いて視線を斜め下に向けた。

「何? 大丈夫だよ。うちここから近いし、そんなに歩かない」

 あぁ、良かった。寒くて疲れていて、このまま長く歩き続けるよりもへたり込んでしまいたいと全身が叫んでいるような状態だから、って。

「そうじゃあなくて……。本当に、この子を飼ってくれるの?」

 まずは帰る家が一応存在する私のことよりも、腕の中でまどろんでいる子犬のことだ。あの場を切り抜けるためについてくれた方便だというのなら、残念だけれど他に良い人を探してあげなくてはいけない。私の中の不安が見て取れたのか、彼は小さく微笑んだ。ドキッとするくらい、優しい笑みだった。

「うん、うちにはもう一匹いるし。あと一匹くらい平気。面倒見は良いから、気に入ってもらえれば大丈夫」

 それは多分、そのすでに飼われているという犬に、ということなのだろう。本当に言葉の足りない男だ。彼の周囲には、その足りない言葉をきちんと補って解釈してくれる人ばかりなのだろう。羨ましい。

「あ、あと……その、ごめんなさい」
「何が?」

 な、何がって……。察しなさいよ、この鈍男。

「勝手に、恋人だなんて言って……。迷惑だったでしょう? 後で、香坂には説明しておくわ」
「別に良いけど」

 あのね、本当にどうでもよさそうな声でそんなこと言わないで。

「……あなた、恋人いないの? それともあたしみたいな子どもが好みなの?」
「子どもだっていう自覚はあったんだ」

 あるわよ! あるけれど、そんな風に他人から言われるのは我慢ならないわ。怒った私が睨み上げると、海王はしれっとした顔のままこう続けた。

「……というのは冗談で」

 嘘だ。咄嗟に私はそう思ったけれど、よく考えれば出会ってから今までの短い時間で彼の変人っぷりは身に染み渡るほど理解できた。多分、本当に冗談だったのだろう。

「あなたの冗談は本当に苛つくわ」
「それは失礼」

 彼は殆ど棒読みでその台詞を言うと、こちらの反応も気にせず続けた。

「恋人はいないし、別に幼女趣味じゃあない。でも、君は気にするほど子どもでもないと思うし、可愛いと思う」

 あぁ、今日は天気が悪いね。と言うのと同じトーンで、彼は言った。おかげで私は何を言われたかすぐには理解できなくて、ようやく理解した時には髪の毛が逆立つくらいに驚いていた。

 可愛い? えぇ、私は可愛いわ。自分で分かっているし、他人からだって言われる。言われ慣れていると言っても良いくらい。でも私は知っている。皆が言う“可愛い”はあくまで小学生の子どもに向けられた言葉。その可愛さは幼さとイコールで結ばれている。けれど、いま海王は可愛いと幼いを結ぶイコールを否定した。私は思わず立ち止まる。顔が見る間に赤く染まっていくのが自分でも分かる。嬉しい。そう思ったけれど、いいや、思ったからこそ私は海王に確認した。

「じ、冗談?」

 なの? と私が言うと、私に合わせて立ち止まった海王は首を傾げて先ほどと同じトーンで言った。

「俺の冗談は苛つくって」

 え? そう、そう言ったのは私だから……。だから、苛々しないってことは今の言葉は冗談ではなく、本気だということなのだろうか。何だかちょっと騙されているような気もするけれど、素直になればとても嬉しい。それに、恥ずかしい。

 それから不自然なくらい私は押し黙り、海王も特別話題提供をするつもりはないようで、私達は黙々と歩き続けた。そんなに歩かない、という海王の言葉は正しかった。私の歩幅でも十分程度の時間で彼の家に辿り着いたのだ。

 海王の家はお寺さんだった。しかもなかなかの大きさ。そして歴史もそれなりに感じさせる、どっしりとした本堂が門をくぐって正面にあった。一人でお寺になど入ったことのない私は、多少の緊張感を持って境内に足を踏み入れたのだけれど、隣の海王は自分の家であるということもあってか、今までと変わらないのんびりとした足取りで私を誘導した。

 本堂の脇を通り抜けて、渡り廊下で繋がっている母屋へと向かう途中、私達は渡り廊下で煙草を吸ってくつろいでいる男性を見つけて立ち止まった。

「おう! お帰り、海王」

 煙草を指の間に挟んだまま軽く手を挙げた男性は、セルフレームの丸い色眼鏡にやや長めの茶髪、そしてお坊さんのような法衣姿というおかしな組み合わせの格好をしていた。

「ただ今。……何ヶ月ぶり? 一葉(いちよう)」
「ん? そうだな〜。四ヶ月ぐらいか」

 煙草の煙を大口開けて吐き出しながら、勘違いしたチンピラにしか見えない男はのんびりとそう答えた。そしてその男と会話する海王もやはりのんびりとした様子だ。

「どうだった?」
「楽しかったぞ、色々。お前も一回くらい経験してみるべきかも……って、海王?」

 そこで初めて私に気付いたチンピラは、失礼にも私を指差して絶句した。

「何?」

 海王がチンピラの失礼な手を押し下げて訊く。チンピラは大人しく手を下げたけれど、驚愕に見開かれた目はそのままだ。重ね重ね失礼な奴だわ。私が可愛すぎて驚いたというのであればまぁ、許してあげなくもないけれど。

「……ふ、双葉(ふたば)ちゃん! た、大変だよ、双葉ちゃん!」

 あたふたとしながらチンピラはここにいない誰かの名前を叫んだ。甲斐性のなさそうな顔をしているけれど、もしかしたらこのチンピラは結婚しているのかもしれない。双葉という女性と。そうだとしたら悪いけれど、私はその女性の趣味を疑うわ。そうして私が仮想、チンピラの奥さんの趣味を疑っていると、お寺の方からこちらに向かって走ってくる音がした。それは板張りの床をぎしぎし言わせながら矢のような勢いで、騒ぎ立てているチンピラに突っ込んできたのだ。

「じゃぁかしいわぁ!」

 矢のような鋭い飛び蹴りだ。目の前で見たのは初めてで、驚いたというよりは思わずときめいてしまった。不覚、かもしれない。

「何しやがる! このくそ坊主!」

 格好だけ法衣を着たチンピラと違って、飛び蹴りを仕掛けてきた人はまさにお寺のお坊さんといった様子の人だった。相応にお年を召していらして、そして坊主頭に法衣姿。ただ手に日本刀のようなものを持っているところだけが、ちょっと典型的なお坊様の姿と違っていたけれど。

「黙らんか! この不良坊主が! 何のための修行だったんじゃ! 読経の途中でいなくなるなど不届き千万! 我慢に我慢を重ねてきたが、仏の顔も三度まで! 成敗してくれる!」

 私の目の前で漫画や下手なギャグドラマのような光景が展開されている。すらりと日本刀を抜く法衣姿のお坊様と、それに顔色を青くした若いチンピラのような男。

「あんたは仏じゃなくて坊主だろ! ぎゃあ! マジで刀を振り回すなぁ!」

 問答無用、とお坊様は閻魔様顔負けの形相で日本刀を振り下ろした。と、止めなくてはチンピラの方が本当に殺されそうだ。私があたふたと海王の顔を伺うと、彼はやはりぼんやりとした顔のままで、止めに入ろうとは微塵も考えていない様子だった。

「助けてぇ!」

い、一体私にどうしろと? と私は思ったけれど、私がどうこうするまでもなく追われたチンピラは家の奥へと消えていき、お坊様もそれを追っていなくなってしまった。遠くなっていく叫び声が少し虚しい。真っ二つに斬られていなければいいけれど。

「あ、お帰り、海王君」

 と思ったら、いまし方奥に消えていったはずのチンピラに良く似た人が現れてにこりと微笑みかけてきた。その笑みで、良く似てはいるけれど、チンピラとは別人だということが分かった。

「ただ今、双葉ちゃん」

 柔らかく笑うし、海王は“ちゃん”付けで読んだけれど、確かに男性だ。チンピラの奥さんではないということは確実だわ。

「……お友達?」

 その人は私を見て首を傾げた。先ほどのチンピラのように指を差さない程度には常識人らしい。私は少しほっとした。変人の周りには自然と変人が集まることを、私は知っているのだ。

「拾ったんだけど」

 その変人を集めそうな変人が平坦な声で双葉という人に説明を始めた。

「ちょ、ちょっと!」

 説明するには重要な主語が抜けているわよ、と私は言いたかった。それではまるで“私が”拾われたように聞こえるではないか。

「うん」

 うん、じゃあないわよ、そっちの人も! 間違って理解しないでよ。やっぱりあなたも変人なの?

「うちじゃ飼えないって言われたらしくて」

 別にはっきりと香坂がそう言ったわけではないのだけれど、そういう事情を察するところだけは変な思考が働かないらしい。至って常識的。幸いなのかそうでないのか。

「代わりにうちで飼ってもいいかな」

 双葉ちゃんと呼ばれた男性は、海王の言葉を聞いてから少し困ったような顔をして私の腕の中にいる子犬を見た。駄目なのだろうか。私が抱いた不安を見て取ったかのようにして、男性はすぐににこりと笑った。

「うん。別に構わないけどね、海王君」

 海王に顔を向けると、男性はまた困ったような顔をして見せた。

「うん」
「家ではそれでいいけど、外ではちゃんと主語をつけて話そうね? 誤解されるから」

 あぁ、その通りだわ。よかった、変人にきちんと常識を説いてくれる人がいて。海王は双葉さんの言葉に素直に頷いた。でも多分、双葉さんは同じ言葉をすでに何度も海王に言っている。だからちょっと困ったような顔で笑っているのだ。

「神(じん)は?」
「中庭にいるよ。いつものところ。神に挨拶したら母屋においでね。お茶とお菓子を用意しておくから」
「ありがとう、双葉ちゃん。行こう」

 どこに? と私が問うと、すでにこの家の住人となっている海王の飼い犬のところだという。そうか。その飼い犬に気に入ってもらえなければ、この子犬はまた別の飼い主を探さなくてはいけないのだ。私は慌てて子犬の頭や体を撫でて、少しでも見た目がよくなるようにと心を砕いた。しかし後で海王に聞いたところによると、犬は大層な近眼で、第一印象の善し悪しは見た目よりも臭いのほうが重要であったらしい。

「神」

 お寺の斜め奥に建てられた母屋の玄関を素通りして、海王は駐車場にもなっている自宅の庭へと私を連れて行った。玉砂利を敷いた一角に木製の犬小屋があった。でも中身は空だ。海王が小屋ではなく庭に植えられた金木犀の木に向かって呼びかけると、木の裏手からのっそりと大きな犬が姿を現した。本当に大きい。後ろ足で立てば私の身長なんて軽く超えてしまうだろう。

「い……犬なの? 本当に、ただの犬?」
「うん。大きいけど、ただの雑種。大人しいから触っても平気。神、お座り」

 海王の一言に、大きな白い犬は洗練された仕草で座った。けれど風格がありすぎて、私は触ってみようという気を起こせないでいた。ただ眺めて見ることはできるから、私は尻尾をぱたん、と動かす犬と向かい合って観察した。

「凄い……綺麗な毛並みね」

 ところどころ今日の雨で汚れているけれど、交じりのない真っ白な毛は艶やかで、雨の雫をまるで宝石のように飾っていた。とても大切にされているのだろうということが、その毛を見て分かる。

「女の子だから」

 綺麗にしてあげないと、と海王は言った。けれどやはり彼は言葉足らずで、後半は私が勝手に補ったのだけれど。

「え? め、雌なの?」
「うん」

 そう、私と同じ女の子なのね。きちんと見たら、睫も長いし美人だわ。私は勇気を出して神の真っ白な頭に手を伸ばす。私の手が近づくと、神は僅かに頭を下げて耳を倒し、そして目を細めた。触れてみると、見た目から受けた印象の通り、柔らかく滑らかな毛が手に馴染んだ。海王の言ったとおり、とても大人しい犬なのだ。そして人間のことを良く知っている。私はそう感じて思わず人に話しかけるようにして神に話しかけていた。

「神、この子、これから一緒に住んでも良い?」

 私は大人しく座って、尻尾以外は動かさない神の前に、抱えていた子犬を差し出した。ちょっと怖かったというのが正直なところだけれど、子犬の方はそうでもなかったみたい。興味深そうに私の手から身を乗り出して神の鼻先に自分の小さな顔を近づけた。すると神は少し伸び上がるような形で子犬に鼻を寄せた。

「良いって」

 言ったのは海王だ。けれど解説してもらわなくても私にだって分かった。神の仕草はとても優しくて、子犬だって少しも怯えなかったのだ。

「ありがとう、神。私は乙花よ、よろしくね」

 私が呼びかけると、神は顔を上げてその鼻を私の手に押し付けた。それがくすぐったくて、私は笑った。

■この小説はリクエストをくれた我が姉えあに捧げます.

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