蒼い瞳の覚醒者
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その日の午後、サクノは祖母であり、青学王国の女王であるスミレ=リュウザキの自室にいた。ある事件で両親を一度に亡くしたサクノが、王位を継ぐにはまだ若すぎるということで、一度王位を退いたスミレが八年前から再び王位に就き、青学を守っている。
やがてはスミレの代わりにこの国を継ぐことになるサクノは、午前中のうちに教育係であるイヌイに従って勉強し、お昼を祖母であるスミレと共に摂って、それからはずっとスミレと一緒に部屋で過ごしていた。女性としては闊達なスミレと違って、サクノは大人しい女の子だった。長い髪をゆるやかな三つ編みに結って、ふわりと裾の広がったベージュのドレスを纏っている。スミレがまるで騎士のような、体にぴったりとした服を着ているのとは正反対だった。
サクノは祖母のことが大好きだった。誰よりも国のことを想い、常に周りを見て、多くの家臣達をまとめながらこの国の先頭に堂々と立っている祖母を尊敬している。家臣達の前では厳しい顔をしている祖母が、自分と二人の時はくつろいで過ごしてくれている、ということもサクノにとっては嬉しいことだった。だから、お昼後のわずかな時間は、サクノがお茶を入れて、祖母と二人きりで過ごすという場を持つのが常だった。
その日もサクノは祖母のためにとっておきの紅茶を入れて、少し甘めのお茶請けを用意し、午前中にイヌイに教わったことを復習のため反芻して、祖母に話して聞かせていた。スミレは紅茶を飲みながら、足を組んで、リラックスした様子でサクノの話に耳を傾けていたのだが、今日は最後までその穏やかな時間を保つことができなかった。
サクノの教育係であるイヌイが、申し訳なさそうに部屋を訪れて、青学の女王陛下に報告したいことがあると言ったのだ。サクノもスミレも、大切な時間が短く終わってしまったことを残念に思いつつ、しかし自分達の立場をよくよく理解している二人は、それぞれの行動をとった。スミレはイヌイからの報告を聞き、サクノは使っていたお茶を片付けに入ったのだ。
サクノはイヌイがスミレに何の報告をしたのか、その場では聞かなかった。しかし報告を受けたスミレが、早急に近衛隊長を呼ぶようにと側仕えに命令を出すのを聞いて、何かが起きたのだと察した。サクノはお茶を片付けたら部屋を出て行くべきかと思ったけれど、スミレはサクノにこのまま部屋にいるように、と言った。それに従って部屋で待っていると、しばらくして青学の近衛隊長がやってきた。
少しの乱れもなく群青と黒の軍服を身に纏った長身の男。昨年、十四という若さで近衛隊長に任命されたクニミツ=テヅカは、部屋に入るとスミレと、サクノに向かってそれぞれわずかに身を折って敬意を表した。
「青嵐の神殿から連絡が入った」
スミレが早速そう切り出すと、長めの前髪の奥で、テヅカの目が僅かに細められた。青嵐の神殿といえば、王都から北東の位置にある、風巫女の神殿だ。神殿は青学の領内にあるが、その独立性は保持されていて、リュウザキの権力も、神殿内には及ばない。本当に小さな、巫女だけの自治区のようなものだ、とサクノはイヌイから受けた説明を思い出す。しかし神殿を守る義務は青学にあり、必要な援助を怠ることは風の神を怒らせることになる、とも。
「野党のような連中に襲撃を受けているそうだ。あの神殿には数人の護衛官以外の男はいない。巫女殿達だけでは太刀打ちできまい。早急に救援を送らなければならないね。イヌイ」
スミレに促されると、イヌイは四角い眼鏡をちょいと中指で押し上げて答えた。
「現在青嵐の神殿に一番近いのはモモシロの隊ですね。それでも駆けつけるには一時間は必要でしょう」
イヌイの冷静な言葉に、サクノは全身の血が引くのを感じた。
「そんな……あそこにはトモカちゃんもいるのに……」
青嵐の神殿には現在、サクノの従女をしていたトモカが行っている。元々あった風の神力を磨くために、一年の修行に出ているのだ。サクノにとっては身分を越えて付き合いの長い親友だ。彼女の身に危害が及ぶなんて、考えたくもない。顔を青くしたサクノにちらりと目を向けて、スミレは入ってきた時とまったく同じ姿勢を崩さない近衛隊長に向かって言った。
「テヅカ、お前の零式なら半時もかからないね?」
祖母の言葉を聞いて、サクノははっと顔を上げた。だからスミレはテヅカを呼んでくれたのだ。サクノが期待を込めてテヅカを見上げると、三つ違いの近衛隊長はサクノに向かって小さく頷いた。
「お任せ下さい。……イヌイ」
テヅカの視線を受けて、イヌイがすかさず頷いた。部屋の窓が開け放たれて、二人の男は黙ってバルコニーへ出る。そして二人は同時に利き手を体の前に突き出した。イヌイの右手には銀の腕輪があり、テヅカの左手の中には、細長い刀が柄にはめられたまま握られていた。
「”顕現せよ、鏡烏”」
「”顕現せよ、零式”」
イヌイが、続いてテヅカがそう言うと、それぞれ銀の腕輪と刀が強い光を発した。サクノはその強い光に思わず目を瞑ってしまう。次に彼女が目を開いた時、イヌイの腕には腕輪の代わりに一羽の銀色の烏が、そしてテヅカの前には同じく漆黒のドラゴンが現れていた。
何度見ても、その堂々とした姿にサクノは思わず溜息をつきそうになる。テヅカの零式ほど、闇色の似合う生き物はいない。そして圧倒的な存在感を誇る零式の前に立って、決して霞むことのない人間も、テヅカしかいないのだろう。
「頼んだよ、テヅカ」
テヅカは側仕えから自分の黒いマントを受け取り、スミレの言葉に頭を下げて応えた。そのまますぐにでも零式に乗っていってしまいそうなテヅカに、サクノは慌てて駆け寄る。
「テヅカ! ……気をつけてね?」
毎回、テヅカが城を離れる時にはそう声をかけてしまうのだが、この男に対してそんな言葉は不要なのだということを、サクノは良く知っていた。テヅカは強い。この青学で一番、いや、もしかしたら世界中で一番強い男かもしれない。それは分かっているのだけれど、サクノはいつまでたっても見送る時の不安を忘れることができない。
「……すぐに戻ります」
サクノには、そう答えたテヅカの表情が優しく緩んだのが分かった。イヌイや他の人間に言わせると、テヅカはいつも変らず仏頂面、だということだが、サクノには分かる。テヅカは強くて優しい人だ。現に、サクノを見る時のテヅカの目は、いつだってとても優しい。何より、テヅカはサクノの不安を誰よりも良く分かっていてくれているのだ。だからこそ、テヅカは毎回必ずサクノの元に、この青学に返ってくることを約束してくれる。
「さぁ、サクノ様。危険ですから、離れて下さい」
イヌイに促されて、サクノは零式から離れて部屋の中へ戻った。黒いマントを纏ったテヅカが、ドラゴンの背に乗る。そんなテヅカの肩に、イヌイの腕から離れた銀色の烏が止まった。
次の瞬間、周囲に強い風を巻き起こして、黒いドラゴンは空に高く舞い上がっていた。いまは半分銀色の烏に移っているイヌイの意識は、その急激な上昇に眩暈を起こしそうだった。自分で飛び立つ時とはスピードが違う。あっという間に王都が眼下へ広がり、そして小さくなっていく。イヌイはなるべく姿勢を低くして、細い足で掴んでいる足場から落とされないように力を込めた。
ようやく上昇が終わると、今度は正面からの強い風だ。それだけ、零式の移動速度が速いということなのだろう。何度かこうして“乗せて”もらったことはあるが、高い所が正直あまり得意ではないイヌイは、生身では絶対に零式に乗せてもらおうなんて思わないだろう。鏡烏と違って、イヌイ自身には羽がないのだから、落ちたら大変なことになる。
意識の半分で強い風を感じながら、もう半分の意識でイヌイは自分の体を椅子に座らせた。女王リュウザキと、その孫であるサクノの視線を感じる。この感覚を何と表現していいのか、イヌイには分からない。いま、イヌイには確かに生身の体があって、その二つの瞳が見ているものを感じることができるのだけれど、もう一方で、イヌイの目は、強い風に目をしかめることもなく真っ直ぐ前を見つめている男の姿を捉えることができる。鏡烏が肩に止まっているため、その男の顔もかなり近くで見えていることになる。
本当の鳥なら、きっとこんな風に見えてはいないのだろうな。
イヌイはそう思いながら、空の青にくっきりと映える黒の色彩を見つめた。やや長めの、風に流れる髪、そして真っ直ぐ前を見つめるその瞳も、同じ漆黒だった。ただ、肌は白い。まるで彫像のように整った横顔。それに見とれて溜息をつく女性の多いことを、イヌイは本人よりも正確に把握している。
同い年ながら近衛隊長という任についているこの男を、イヌイや同年の騎士達は昔から一種の崇拝にも似た尊敬心を抱いて見てきた。零式を持つことでテヅカの名を継いだこの男は、本当に特別な男だ。追い抜いてやりたいと思う気持ちがある一方で、決して追い抜けはしないという感情も同時に与えることができる。そんなこと、本人はまるで意識してはいないようなのがこれまた悔しいのだけれど。
恨む気持ちにはなれないんだよな。
何故ならきっと、彼の存在が、青学の大きな柱になっているからなのだ。リュウザキ陛下やサクノ姫とは違った形で、テヅカはこの国を支えている。成人として扱われるとはいえ、まだ十五歳だ。体もまだ出来上がっていないというのに、その力のある視線、その精神があらゆる人を惹きつけている。やっかみが多いこともまた事実であるが、気にしない本人に代わって、せめてそれくらいの盾になってやろうと思うことができるのも、ある意味人徳なのだろう。
ホント、呆れるくらい眩しいよ。
今回だって、テヅカひとりで事が収まると確信して、リュウザキ女王はテヅカを送ったのだろう。イヌイはあくまでサポートに徹するつもりだったから、鏡鳥だけを送って、自分は王宮に残ったのだ。
「見えたぞ」
テヅカが短く声を上げた。その声に促されて、イヌイはテヅカの肩から思い切って飛び立った。鏡烏の速度に合わせて、零式が速度を落としたのを感じながら、イヌイは眼下に見えた森の中の神殿に目を留めた。意識を神殿に集中させる。すると、鏡烏の目を通して、イヌイの視覚は変化した。距離や物質が、あってないような存在になる。ぐんと神殿が近く見え、続いて神殿の屋根の上から中の様子を透かして覗くことができる。イヌイは神殿の中を、縦横無尽に意識を飛ばす。
『こっちも見えたよ。神殿前に三人、護衛官と争っている。でも、すでに神殿内に入り込まれているようだな。内部に十人……いや、十二人だ』
鏡烏を通して聞こえる自分の声は、普段の声とは違って聞こえるのだけれど、他人が聞くとそうでもないらしい。イヌイの報告に、零式の上からテヅカが確認する。
「最奥には?」
イヌイは神殿の最奥と思われる北側に意識を向けた。見える。一番奥の北東の建物に、わき目も振らず突き進んでいる男がいた。
『二人。中庭の先、北東の建物だ。上から入れる』
「北東か……」
イヌイは走っている男達の先へ目を滑らせた。そして男達の狙っている先に、見知った顔を見つけて、すぐにテヅカへ報告した。
『……どうやらトモカがいるようだ。他に巫女が二人。追い詰められている』
イヌイの言葉を聞いてすぐに、テヅカは無言で零式ごと神殿へ向かって降下した。サクノ姫に頼まれているのだから、トモカを助けなければならないと思ったのだろう。追い詰められているというならなおさらだ。
しかし降下するのなら、そう一言言って欲しいものだ。零式の大きな体が急降下すれば、鏡烏の小さな体が強烈な風にあおられてバランスを崩すことくらい分かるだろうに。イヌイは風にあおられて回転する鏡烏の視界で目を回すことのないように、慌てて体勢を整え、降下していくテヅカと零式を追った。
Tennis Top / 中編