蒼い瞳の覚醒者
---------------------------------------------------------------------------------
最初は護衛官の鳴らす警笛の音だった。
丁度神殿で生活する巫女達はそれぞれの持ち場で、ある者は食事の支度を、ある者は神殿の掃除を、若い巫女達は一堂に集まって年長の巫女から神力と呼ばれる力の制御について教わっている最中だった。
巫女達は争いにその神力を使わない。つまり襲撃者達に対しては無力な集団だったから、神殿を守る護衛官達の足手まといにならないように、警笛が聞こえたら必ず一番奥にある神殿に逃げ込むことになっていた。フジは警笛を中央の神殿で聞いた。一人で神殿に吊るす鈴飾りの修理をしていたところだったが、警笛を聞いて作業を中断し、すぐに個室を出て北東に位置する奥神殿に向かって走り出した。
「フジ様、さぁ、お早く!」
奥神殿の入り口付近で、青嵐の神殿の長巫女である女性が立って、フジを呼んでいた。これだけ早いということは、彼女はずっと奥神殿にいたのだろう。
「皆は?」
フジは奥神殿の入り口で立ち止まって背後を振り向いたけれど、他に奥神殿に逃げてくる巫女はいなかった。皆一番遠い門前神殿にいたのだろうか。
「後から参ります、さぁ、早く!」
長巫女は立ち止まるフジの背を強く押して、奥神殿の中へ入って行こうとする。フジは戸惑ってその手から逃れようとした。
「皆が来るまで……」
神殿の入り口で待っているべきだといいかけたけれど、長巫女は首を横に振った。
「いいえ、おひとりだけでも」
「できない、そんな……」
自分だけまるで特別な人間のように、先に逃げて守られるなんて扱いは嫌だった。けれど背を押す長巫女も必死だった。嫌がるフジをぐいぐいと奥神殿へ連れて行こうとする。フジはその手に抗いながら後を振り向いて、他の巫女達の姿を探した。
すると、フジの目に飛び込んできた少女がいた。見習い巫女の短めの服を着て、必死になって奥神殿へ向かって走っている。その前につんのめりそうなほど必死な様子で、フジは彼女が追われていることを悟った。
「早く!」
フジがそう叫んだ時にはもう遅かった。護衛官では有り得ない、まるで狩人のような格好をした男が後から少女を捕まえてしまった。
「きゃあ! 何すんのよ! 離しなさい!」
「暴れるな、小娘が!」
軽々と体を持ち上げられ、少女は叫んで体をばたつかせた。けれど力の差は歴然としていて、少女が逃げ出すことはできない。
「トモカ! あなた……」
「申し訳ありません、長巫女様!」
男に捕まってしまった小さな体の少女は、確か青学の王宮から修行に来ている娘だった。栗色の髪を、頭の両脇で二つに結んでいる。見習い巫女の短い巫女服から覗く両足も、まだまだ骨のように細い。長巫女は彼女が捕まってしまったのを見て、奥神殿へ逃げ込むことを諦めたようだった。実際、少女を捕まえている男の後には、まだもう一人仲間がいて、もし他の巫女や護衛官が駆けつけたとしても、用意には少女を助けることができないだろう。
「お前達、一体何が狙いで神殿を襲ったのです!」
毅然とした態度で長巫女が叫んだ。それに対して、少女を人質にとっている賊の方はその顔に下卑た笑みを浮かべる。フジはそれを見ただけで、全身が嫌悪に震えた。
「なに、財宝なんて持っていないことは知っているのさ。俺達は雇われたんだ。この神殿にいるはずの人間を探し出して、連れて来い、とな」
「一体誰に?」
「それは言えねぇよ。ただ、こうして襲撃すれば一番重要な人物は先に奥に逃げるだろう。あんたら巫女は、武力に対して逃げるしかできないんだからな。だから、俺達の前にいる人物が、目的の人物だ」
なるほど、わざわざ正面から入り込んできたのはわけがあるということだったのか。そして彼らの読みは偶然にも当たってしまった。一番奥神殿に近い位置にいたために、フジが真っ先に奥へ逃げ込む形になってしまったのだ。
「長巫女。俺達が用があるのはあんたの後にいる女だ。その女を渡してもらおうか。この小娘の血で神殿を汚したくはないだろう?」
男は何が面白いのか声を立てて笑うと、長巫女を試すようにして、抱えた少女の白い首に短刀を押し付けた。
「お、長巫女様……」
喉元に鋭い刃を突きつけられて、まだ幼いとさえいえる少女は、勝気な瞳を不安に歪めた。当然だ。屈強な男に後からがっちりと体を押さえつけられ、さらに喉を引き裂かれそうになっている状況。そんなことになれば、フジだって血の気が引いて立っていられない。
自分のせいで、そんな恐ろしい目に合わせるなんて――。
フジには我慢できなかった。賊達が一体フジの何を望んでこうして取引を持ちかけているのか、フジには分からない。ましてフジのことを“その女”と呼ぶ彼らが、自分の秘密を知っているとも思えない。それならば、とフジは思う。
何が目的なのか、自分の身ではっきりさせる。
決意して一歩踏み出したフジを、長巫女は青い顔で見やった。
「いけません、フジ様!」
長巫女は当然止めるけれど、フジに止まるつもりはなかった。
「彼女を犠牲にして逃げることはできません」
恐ろしい、と素直に思う。ずっと、物心つく前から神殿で育てられ、外界とは隔離されて育ってきた。神殿の護衛官にだって、何度も会ったことがあるわけではない。正直言えば、外の人間を直接、こんなに近くで見たのは初めてかもしれない。十五年も生きてきて。
十五年も、無駄に生きてきて――。
フジはぎゅっと拳を握った。全身に力を入れなければ、体が震えてしまいそうだった。けれど、フジは真っ直ぐに囚われている見習い巫女を見る。いま彼女が感じている恐怖より、自分の感じている恐怖のほうが、きっとずっと小さい。そう自分を叱咤した。
「私が行きます。その娘を放しなさい」
「フジ様!」
フジは止めようとする長巫女の手を払いのけた。そして賊の一人を見つめて、凛とした声で言い放つ。
「さぁ、放しなさい。放さなければ行きません」
賊はトモカとフジとを見比べて、しばらく迷っていたようだが、フジが頑として動かないのを見て取ると、トモカの首元に突きつけていた短刀を下ろした。そしてトモカの肩をしっかりと掴み、彼女の体を乱暴に前に押した。
「……よし、こっちに歩いて来い。一歩ずつだ」
剣先でトモカの背を狙ったまま、賊はフジに歩いてくるように命令した。フジは言われた通りに一歩踏み出す。
「フ、フジ様……」
開放された少女の足は、歩くこともままならないほどに震えていた。フジは彼女を励ますことができるようにと祈りながら、微笑んで少女の名前を呼んだ。
「大丈夫、トモカ。ゆっくり歩いて」
少女は涙目になりながらもしっかりと頷いた。賊が短刀をしまい、腰に刺した剣を抜いて構えたまま見張っている中を、フジはトモカの歩幅に合わせて前へ進んだ。一歩、一歩。トモカは震えながらもフジとすれ違う。
賊が動いた。フジはすれ違うトモカの背を押して、長巫女のいる後方へ彼女を逃がした。賊の手は、トモカをまったく相手にせず、真っ直ぐフジの方へ伸びてきた。逃げるには遅い。伸ばされた手とは逆の手が、剣先を上げてフジをぴたりと捕らえている。反撃しようにも、武器も持たない、そもそも戦い方を知らないフジにはどうしていいか分からなかった。
相手の目的も分からないまま、捕まってしまうのか、とフジが唇を噛んだ、その瞬間だった。
「な、何だ!」
フジを捕らえようとしていた賊の顔を目掛けて、一羽の鳥が突っ込んできた。賊は目元を狙って攻撃してくるその銀色の鳥に足を止められ、フジを捕まえることもできず、懸命にその烏を剣で追い払おうとしていた。それを見ていたもうひとりの賊が、足の止まってしまっているフジに向かって走ってきた。フジは逃げようとして足を一歩引く。すると、また上空から何かの羽音が聞こえた。
風――?
羽音を聞いたと思った瞬間、フジは強い風にあおられて、思わず目を瞑った。神殿に飾られた鈴が一斉に鳴る。烏なんかではない。もっと大きい何かが、フジの上にいる。フジは風にあおられてよろめきそうになりながらも、天井へ向けて必死で目を開けた。
「ド、ドラゴン?」
神殿の天井近くにいて羽ばたいているのは、フジが限られた神殿の書物の中でしか見たことのない、ドラゴンの姿だった。フジには十分にひろい神殿の中も、その翼を広げたドラゴンには窮屈そうに見える。夜空の黒よりももっと深い闇の色。目が離せなくなるほど、美しい。
「黒い……まさか!」
賊の一人が叫んだ次の瞬間、フジの目の前に風と共に黒衣が広がった。ドラゴンと同じ深い闇色のマント。ドラゴンの上から飛び降りたその男は、フジを守るようにして賊と、フジの間に難なく着地した。
「”結晶せよ、零式”」
低い声が不思議な響きを持ってそう告げると、上空で眩しい光が発生して、突き出された男の左手に集まる。巨大な黒いドラゴンが光となり、その光が細い刀の形を作るのを、フジは逃げることも忘れてただ呆然と見ていた。
「青学の……テヅカ!」
引きつった賊の叫びに、驚喜の声が重なる。
「テヅカ様!」
フジの後から響いたのはトモカの声だった。そこに先ほどまで哀れなほどに震えていた少女の姿はない。絶対的な信頼と、安心感の元に目を輝かせているトモカに、最初に賊へ向かっていった烏が近づいた。
『無事なようだね、トモカ』
「イ、 イヌイ様?」
フジの耳には烏とトモカの会話など入っていなかった。ただ目の前の光景に、息を止めて見入っていた。
テヅカ、と賊やトモカから呼ばれた男は、ドラゴンから刀に変った、その武器を鞘から抜くことなく、フジに迫っていた賊のひとりに向かって走り出した。その一瞬のために凝縮された気迫に、賊は抜いていた剣を振るうことさえできなかった。あっけなく黒衣の男を懐にいれ、鞘で肋骨を強打される。骨の折れる鈍い音がしたが、同時に賊は意識を手放していた。
残りの一人は、味方が倒されたことに奮起して、剣を構え向かっていったが、黒衣の男はその剣先にひるむことなく、縦に構えた刀でもって、賊の剣先を横に弾き、身を翻して賊の右肩をやはり鞘で強打した。
格が違いすぎる――。
フジは無意識のうちに、ぎゅっと胸の前で手を握っていた。長い黒衣は、男の動作を決して邪魔しない。というよりも、男にとって賊ふたりは黒衣をさばきながらでも容易に相手ができるくらいに弱かったのだ。神殿内で血を流すことを厭い、剣を抜くこともなかった。
「テヅカ様……では、リュウザキ女王が……」
長巫女が呟く。
「テヅカ様、まだ外にも賊が!」
トモカが叫ぶ。
「分かっている」
そして、黒衣の男は言葉少なに頷いた。
『こいつらを縛っておいてくれ、トモカ。後で色々聞きだす必要がありそうだからね』
「はい!」
喋る烏の指示で動き始めたトモカを横目にしながら、黒衣の男は初めてフジの方へ顔を向けた。正確には、フジの側まできていた長巫女の方へ。
「長巫女殿ですか?」
長めの前髪、そしてすっと通った鼻筋。背筋を伸ばしたまま、優雅ともいえる足取りで歩き、そのたびに長い黒衣が揺れる。眼鏡をかけていたのは意外だった。初対面で先程の動きを見ていなければ、眼鏡の奥の切れ長の目から、学者のような印象を受けていたことだろう。
「そうです。救援感謝いたします、テヅカ様」
けれどまとう厳しい雰囲気は、一級の戦士のもの。そして――。
「いえ、それはすべて終わってから……」
その姿を見つめるフジは、先程から胸の前で握る拳を緩めることができない。じっとりと掌に汗が滲む。
何……? 胸が、熱い……!
それは恐怖とは違う。むしろ期待にも似た“何か”が、フジの胸を火傷しそうなくらいに熱くしていた。熱はフジの内部にひとつ、そして外部にひとつ感じられた。それはちょうどフジの部屋がある方向で、フジはその熱を、ここに呼びたくてたまらなくなっていた。
ヒ・エ・ン――。
フジの頭の中に、その三文字が浮かんだ。その名を呼べ、と胸の奥で叫ぶ者がいる。ドラゴンと同じ色の黒衣が目から離れない。
その名を呼んで、“彼に”見せたい。
フジはたまらなくなって、内部いっぱいに膨れ上がった熱を、外へ向けて解放した。