色は見えずとも香気を知る

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 振り返ると、長身の男が身を折って自分の主君に辞去の礼を取っているところだった。閉まる石の扉の隙間から、きりりとした顔立ちの女王がリョーマを見て目尻の皺を濃くしている。それに笑い返すこともせず――そんなつもりもなかったが――リョーマは閉まった扉を入る時と同じように見上げた。無数の花を咲かせるその木が桜だと知るのは、まだ先のことだ。

「さ、行こうか?」

 首を痛いくらいの角度で上げれば、きらりと光る四角い眼鏡が見えただろうが、別にそこまでして見上げる必要もない。リョーマは上から降ってくる声にだけ反応して、小さく首をしゃくった。そんな態度に何を言うわけでもなく、イヌイと名乗った青年はさっさとリョーマの斜め前に立って歩き出した。

リョーマは少し間を空けてそれを追いながら、イヌイの背を観察する。体格はいいが、騎士の服を着ていない。ただの文官にしては筋肉がつきすぎているように思うが、他の文官を見ていないからなんとも言えなかった。ただ背後から眺めていても隙がない。ゆったりとした歩き方に見えるが、気を抜いている雰囲気ではない。表情の読めない逆光眼鏡といい、なんだかとても不審な男だ。

 そんな不審な男に先導されて歩き始めて、まだ少しも進んでいないところだった。

「イヌイ様」

 眼鏡男を呼ぶ声が進行方向から聞こえて、リョーマの先を歩いていたイヌイが立ち止まった。自然、リョーマも距離を置いて立ち止まることになる。追い抜いても、どこに行けばいいのか分からないからだ。正面から誰かがこちらに近づいてくるようだが、無駄に高くて広い背に邪魔されて、リョーマの身長と位置からではその姿が見えない。横にずれれば見えなくもないが、そこまですることもないだろう。

「これは、フジ様」

 長くなるのだろうか、とリョーマが思ったのはイヌイの声のトーンが少しだけ高くなったからだ。夕食にありつけるなら早い方がいい。もう十分に腹が減っているのだから。そうやってリョーマが我関せずを決め込もうとしていたところを、イヌイの背がさっと横にずれたせいで、リョーマの目に二人の人物が唐突に飛び込んできた。

 途端、リョーマは目を見張り、ひゅっと息を呑む。

「こんなところで失礼いたします、フジ様。新しく騎士団に所属することになった、リョーマと言います。オオイシの隊に所属することになります。以後、お見知りおきください。カイドウも、よろしく頼むよ」

 イヌイの言葉に小さく頷いた男はずいぶんと目付きが悪い。だがそれも思い返してみてようやく意識できたことだ。この時リョーマは目の前の女性にしか意識を向けられなかった。蜂蜜色の髪をさらりと揺らし、白い服の裾から子鹿のような足先を覗かせつつ近づいてくる美しい人。口の悪い父親なら”極上”と評したかもしれない。人の美醜など、今まで特に意識したこともなかった――その必要性が感じられなかった――リョーマでも、目を奪われ、ただ息を呑む。その蒼い瞳は吸い込まれそうなほど透き通っていて、人間離れしていると言ってもいいほどだ。その瞳が、柔らかな光をたたえてリョーマを見つめる。

「初めまして、リョーマ様。風巫女のフジと申します」

 イヌイが名前でしか呼ばなかったから分からなかった。風巫女なら、その服は白で当然だ。神など信じてもいないが、人を超越した”何か”に愛されて特別な恵みをもらっていると思わせるような清廉さ。というか、そうとしか思えない。顔を見た印象からだと声は思ったより低いが、むしろ耳に心地よいトーンだ。ずっと聞いていたいと思わせるような優しい音の声。まだ一言しか聞いていないというのに――。

「こら、ぼんやりしていないでご挨拶を、リョーマ」

 言葉で咎められただけでなく、不覚にも大きな手に肩をつつかれてようやく、すっかり心奪われていたリョーマは自分を取り戻すことができた。十分に近づいてきていた巫女の、蒼い瞳が微笑ましそうに自分を見下ろしているのに、かっと頭に血が上る。

「あ……初めまして。すみません」

 まるで世間知らずの初心な子どものような反応が自分でも情けなかったが、それを顔に出さずすぐに気持ちを立て直すことができたのは、悔しいけれど世間擦れした父親の影響だろう。

「貴女のように美しい人を初めて見ましたので……フジ様。見とれて……声が出ませんでした」

 言葉は父親からの受け売りだが、本心からの言葉だ。そうやって自分では立て直したつもりで不敵に微笑んでみせても、一瞬見惚れて茫然自失としてしまったその後ではどうやら遅かったようだ。リョーマの容姿とも相まって、巫女にはその強気な態度が余計に子どもっぽく映ったのか、照れるどころかくすぐったそうに目を細められた。そんな反応が欲しかったわけではない。

「まぁ、お世辞でも嬉しいです、リョーマ様」

 けれど名前を呼ばれてらしくもなく動揺し、反論が遅れてしまう。こんなこと、初めてだ。

「お世辞なんかじゃ……」

 慌てて口を開いた時には、巫女の視線はもうリョーマに向けられてはおらず、最後まで告げることはできなかった。巫女は自分の斜め後ろに控えている目付きの悪い男に向かって優しく手を伸べた後、くるりと振り返るとイヌイとリョーマに向かって告げる。

「カイドウ、ここまででいいわ。ありがとう。また明日、今日の続きを読みに行きます。ではイヌイ様、リョーマ様、祈りの時間ですので失礼いたします」

 僅かに膝を曲げ、細い指先で服の裾を摘み、風巫女は頭を下げた。そのいちいちの仕草がとても優美で、旅の途中で様々な風景を見て、様々な人に出会ったはずのリョーマでも溜息を漏らさずにはいられない。お世辞なんて入り混む隙もない。

 綺麗な人だ。

 立ち去るその美しい人を引き留める術も、今のリョーマにはない。ただ呆然と見送るだけの自分に、不甲斐なさしか覚えられない。だがそう焦ることはない、といつものリョーマなら気持ちを切り替えることができただろう。自分はこの国に来たばかりで、巫女とは顔を合わせたばかり。滞在していれば、また話す機会があるはずだ。失態を挽回することだってできるはず。

 だがそうやって自分を慰める前に、リョーマは見てしまったのだ。不甲斐なさを感じたばかりの自分を追いつめるような、そんな光景を。


 ――あれは……。


 廊下の橋に巫女が近づいてくるのを待っているのだろう、黒い人影。圧倒的な存在感でリョーマを威圧した男。先程まで女王の側にいて仕えていた、あの黒衣の騎士だった。ぴんと張り詰めた空気を保ちながら立ち止まっている騎士の側に、真逆の印象を放つ柔らかな空気をまとった巫女が羽のような足取りで近づいていく。

 対照的な二人だった。騎士が黒なら、巫女は白。全くの無表情のまま迎える騎士に対して、巫女は親しげに微笑を向ける。しかし二人とも人目を引くという点では共通していた。おそらく、お互いが相手でなければ片方は強い存在感に消されてしまうだろう。けれど、鮮烈な黒と白は、対照的でありながら相反する性質を打ち消しあうことなく、かえってお互いを引き立てていた。

 容姿の点だけを見ても絵になる。悔しいけれど、そう認める他はなかった。いまリョーマが走って行ってあの巫女の隣に立っても、バランスがとれないだろう。それは身長だけの問題ではない。おそらく全てにおいて、リョーマはあの黒になるには足りていないのだ。それを認めなくてはいけないことが、今まで感じたことがないほどに――悔しい。

 その時立ち止まって見つめているリョーマに気づいているはずの騎士は、ちらりともリョーマの方を振り返らずに、巫女に向かって右手を差し出した。上げた手に、黒いマントが翻ると、腰に下げている彼の武器がリョーマの目に入った。それまでにも目に触れていたかもしれないが、気にはならなかった。けれどそれは確かに。

 顕現武器だった。それも、二つ。

 どちらもリョーマの天衣と同じ刀で、一本は太刀、そしてもう一本は小太刀だった。特にその小太刀を見た瞬間、リョーマの体はかっと熱くなった。分かる。太刀は確かに騎士の顕現武器だけれど、小太刀は違う。何故か違うと分かってしまった。

 なんでっ――。

 小太刀は巫女のものだった。何故、あの巫女の顕現武器を、本人ではなくあの騎士が持っているのか。何故、持つことができるのか。巫女は何故、それを許しているのか。認めたくない悔しさに、さらに追い討ちをかけるような光景が、リョーマの目の前で展開された。

 差し出された騎士の手に、美しい巫女は微笑みながら自分の手を重ねたのだ。それも初めて会ったリョーマが遠目で見て分かるほどの、強い信頼を込めた瞳を騎士に向けながら。


 目の前が真っ赤になった――。


 こんな、こんな想いは、今まで経験したことがない。


「カイドウ、丁度良かった。このまま一緒に騎士団へ行って、夕飯にしよう。ぼやぼやするな、リョーマ。行くよ」

 手を重ねることで、自然と寄り添い合う形になった二人が歩いていく後姿を、唇を噛みながら見送っていたリョーマは、促すように軽く叩かれた肩に怒りを助長された形で声を荒げた。

「ちょっと! どうしてあの巫女様の顕現武器をあいつが持ってるわけ?」

 それでも激昂した声を立ち去る巫女には聞かれないように抑えて、リョーマはイヌイという背の高い男に食い付いた。イヌイはリョーマの言葉に小さく首を傾げる。どうして顕現武器が巫女のものだと分かったのか、という意味だろうとは思ったが、リョーマにもそれは説明できなかったし、イヌイもあえてそのことについては追及しなかった。

「あいつ、じゃあなくて、テヅカ隊長。もしくは近衛隊長と呼ぶように。陛下もおっしゃっていたように、最低限の敬意は払ってもらうよ」

 苦言を呈する割には、歩きながらの台詞は咎めの色が薄い。城壁内に入り込んだ時に会った、あの大剣使いの男に比べればまったく熱がないと言ってもいいくらいだ。おざなりとは言わないまでも、本気で”最低限”でいいと思っていることが丸分かりの言葉に、巫女に従っていた男の眉間の皺が深くなる。あいにく、どれだけ条件を低く下げてもらおうが、0でないならリョーマにとっては無意味なのだから、今後男の眉間の皺はもっと深く刻まれることになるだろう。

「敬意なんて、今日会ったばかりの相手に払えるもんじゃあないでしょ。年上ってだけで敬意の対象になると思っているなら……」

「年上ってだけ、だと感じるわけ?」

 鼻息荒く、というほどでもなかったが苛立が隠しきれないリョーマに対して、イヌイは飄々した態度を崩さずに歩きながらさらりと言葉を被せてきた。

「……どういうことッスか」

 リョーマがその言葉を聞き咎めて思わず立ち止まると、イヌイは二三歩ゆっくりと先に進んでから顔だけ振り返り、眼鏡の奥で微笑んだ。

「だから、本当に一回手合わせして、ぼこぼこに凹まされないと分からないのかい? リョーマ=エチゼン」

 微笑んだというより、皮肉られたのだろう。未熟であることを理由に女王が禁じたその名前を、そのやりとりを聞いていたはずの男に呼ばれるなら、それは明らかな挑発行為だ。女王に言われた時は自分でも名乗るのは早いと思って納得した。それは確かだが、こんな風に使われると話は別だ。だがそれを狙った挑発に、ここで乗るのは得策ではない。求める答えを、まだ得ていないのだから。

「……ぼこぼこに凹まされるのはあっちの方かもしれないじゃん」

 それに、まったく腹立たしいことながら、どんなに粋がってみせても今はあの黒衣の騎士に戦いを挑んでも”勝てる”とはっきり口にすることができない。勝てる気がしない、とは口が裂けても言わないが、戦ってみなければ分からない、と言うのが精一杯だ。大抵のことには強気で押し通すし、実力だってあるリョーマだから、こんな風に仮定でしか答えを返せないのは自分で自分が歯痒い。そんなリョーマの内心の葛藤をまるで見透かしたように、イヌイは肩を竦めて答えた。

「かもしれない、か。そんな仮定を持ち出すくらいなら、言う通りにするんだね。別に俺に敬意を払えとはいわないし、君の言う通り、年上ってだけで敬意の対象になるという考えは俺も嫌いだ。見事テヅカを凹ませられるようになったら、好きに呼べばいいさ」

 なってやるさ、すぐに。口には出さなかったが、その強気な視線がすべてを語っていたのか、イヌイはひょいと器用に片方の眉を持ち上げると、「今はその心意気だけ買っておくよ」と飄々と言い放った。

「……で、なんで仏頂面の近衛隊長が巫女様の顕現武器を持ってるの」

 で、のところを必要以上に強調して再度答えを促すリョーマは、もうこれ以上のはぐらかしはごめんだと態度で示したつもりだ。

「仏頂面は君もいい勝負だと思うけど?」

 けれど返ってきたのはこの答え。

「さっさと質問に答えてくんない?」

 挑発されたのであれば、我慢するより乗った方が手っ取り早くことを進められる。それがリョーマがナンジロウから学んだ――というより盗んだ――現実的対処法のひとつなのだからして、そろそろ武器に手を掛けてもいいはずだ。すると物騒な様子を見てとったのか、目付きの悪い男が動いて、イヌイの前に出ようとする。イヌイは肩を竦めてその動きを止めると、ようやくリョーマにまともな答えを提示して返した。

「巫女は武器の携帯を許されていないから、が答え」

 なるほど、それは至極真っ当な答え。けれどリョーマの問いに対しては不完全な答えと言わざるを得ない。

「近衛隊長が持っていなくちゃいけない理由は?」

 よりによって、あの男でなければいけない理由は。

「テヅカが識者だということと、フジ様の身の安全を図るため」

 イヌイは誤魔化しなく問いに答えた。けれど今度はそれを受け取るリョーマの方に問題が生じた。識者という言葉の意味が分からない。顕現武器に関連した用語なのだろうが、ナンジロウの口からはついぞ聞いたことのない言葉だ。この場で説明を求めるのは癪だったし、もっと気になることがある。

「……危険があるわけ? この王宮」

 仮にも女王の住まう宮殿に、それ以上の安全を確保しなければならない理由があるのか。というよりも、あっていいのだろうか。

「何事にも用心を怠らないのがうちの近衛隊長でね。実際に、神殿巫女だった時に一度狙われているんだよ、フジ様は」

 その答えで、最初から王宮付きの風巫女ではなかったのか、とリョーマは知る。王宮によっては、王宮付きの巫女が世襲制である場合もあると聞いたことがあるからだ。それだったら、あの近衛隊長と風巫女は昔からの知り合いというわけではないのだ。おそらく神殿巫女だった時に狙われたというその一件からの知り合い。それにしても、リョーマにとっては愉快な話ではないが。

「誰に?」

 ただの神殿巫女が他人から恨まれるようなことをする機会はない。ましてやあの美しい人が誰から恨まれる? そんなことはありえない。あの美しさが外部に知れれば、それは確かに”狙われる”だろうが、イヌイが言ったのはもっと物騒なことだ。

「それがはっきりしないから用心している」

「調べ切れなかったってこと? ふうん? たいしたもんだね、青学の騎士ってのも」

 軽く眉が上がったせいで、逆光眼鏡の奥であってもイヌイが目を見開いたのが分かった。傍らの、カイドウと呼ばれていた男の目付きが余計に鋭くなる。今にも食って掛かってきそうな雰囲気だが、リョーマとて負けてはいない。剣呑な目で睨み合うリョーマとカイドウに対して、イヌイだけは面白そうに眉を上下させて首を傾げた。

「……あぁ、リョーマ。もしかして俺を挑発している?」

 さっき挑発されたお返しだ、と言ってもいいが、自分の性格を良く知っているリョーマとしては、先に挑発されなかったとしても皮肉のひとつや二つ、三つ四つくらいは息も継がずに言って返すだろうからここは逆に肩を竦めてみせるだけに留めた。するとイヌイはますます楽しそうに口の両端を持ち上げて言う。

「相手を挑発して余裕を奪い、引き出せる情報を多くするというのはとても賢い戦法だよ。相手を選んで使えばね」

 つまり自分には効かないと言いたいのだろう。現に、効いているようには見えない。効いているとすれば、イヌイにではなく先程からリョーマの首を絞めたそうな視線を向けてきているカイドウの方だ。けれどそのカイドウも、イヌイが軽く手を振っただけで、ふいとリョーマから目を背けてしまう。

「まぁ、お前の場合はその皮肉な調子が普通なのかもしれないけれど」

 ではイヌイはその飄々とした、というか掴み所のないうねうねした調子が普通なのだろう。今は慣れずにやりにくいが、いつかはその逆光眼鏡をたたき落としてやる。再び歩き出した背を追いながら、リョーマはそう固く心に誓ったのだった。

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