色は見えずとも香気を知る
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王宮図書館から神殿へ帰る途中で彼に会ったのは偶然だった。風の調べで、誰か自分の知らない人間が王宮を訪れたことは知ったものの、それがどんな人間で、王宮のどこを訪れているのか、そこまでのことは分からない。風巫女として分かることと言えば、その人物がこれから青学王国に――善悪は別として――大きな影響を与える人になるだろうということだけ。風は常に変化し、だからこそその調べは人々の変化を撫でて運び巫女に伝える。
風は人の善悪を判断しない。けれど巫女はなんとなく、それが人にとっていい風なのか、悪い風なのかを読み取ることができる。心地よければいい風、荒れていれば悪い風。フジが王立図書館で感じた風は、強く元気な風で、一歩間違えれば荒れる方に傾きそうだったけれど、感じたままを言えば暴れん坊ではあっても心根のすっきりとしたとてもいい風だった。
今までの青学では感じられなかった、特別な印象の風。そんな動きを感じさせた風の発生源に興味はあったけれど、元々外部の人間との接触は少ない自分の立場だったので、必要となればリュウザキ女王が紹介してくれるだろうという程度にしか思わなかった。ほぼ日課となりつつある図書館から神殿への移動時間に、いつものように図書館司書であるカイドウがフジについてきてくれて、丁度廊下を歩いている途中でイヌイを見つけ軽く挨拶をするつもりで呼びかける。
イヌイの背に隠れるような形になっていた彼には、最初まったく気づかなかった。まだ成長途中のほっそりした体と、大きな頭、ぱっちりとした目。その目は少し釣り上がっていて、勝ち気な様子が可愛らしい。その男の子が、新しい風を吹かせた主だと気づいたのは、彼がその勝ち気な目を細めてフジを褒めた時だった。少し悪戯な見上げてくるその目を見返したその瞬間に、風の匂いを嗅いだ。
こんな小さな子が、と思ったのは確かだったけれど、すぐに気づく。風の発生源は、少年だけではなく彼の持っている顕現武器も一緒だ。体に似合わぬ大きさの太刀だった。彼が持つなら、フジの飛燕の方が大きさ的には合っているだろう。けれどそれが顕現武器ならば、武器を持ちかえるわけにもいかない。彼が成長するしかないのだ。それが顕現武器というものだから。
「彼の顕現武器は、十二候だね?」
十分にイヌイ達と離れたところで、フジは傍らで自分の手をとって歩く男に尋ねた。
「……分かるのか」
さして意外でもなさそうに、傍らの男は歩みを止めず、フジの方を見ようともせずに答える。
「何となく。君の零式や、アトベ王の氷舞と同じ感じがしたから」
そうか、と口の中で呟いたが、それきりテヅカは口を噤んだ。こうなってしまえば、後はテヅカの方から話し出すまで何を訊いても答えないだろう。元々好奇心の固まりのようなフジはまったくの消化不良だったけれど、相手の性格を考えれば今ここで問い質しても無駄なことは分かっている。明日にでも、イヌイを問い質した方が早そうだ。彼らの歩く方向からして、きっと騎士団に連れて行ったのだろうから。小さな溜息を漏らしたフジの耳に、意外な言葉が降ってきた。
「あの顕現武器は天衣という」
ぱっと顔を上げてテヅカを見上げるが、視線は合わない。けれどそんなことはどうでもよかった。あの体では扱いづらいだろう立派な顕現武器の名は、天衣だとテヅカは言うのだ。ということは。
「天衣? 図書館で読んだよ。それは、エチゼン家の顕現武器だね? イヌイはリョーマとしか言わなかったけれど、リョーマ=エチゼン?」
テヅカ家と共に、この青学王国を守護してきたエチゼン家。先王が王妃と共に花音の災厄で亡くなった後、剣聖と謳われていたナンジロウ=エチゼンは突然妻と子を連れて王国を出て行った。未だ帰郷を望む声もある中で、王国を捨てた裏切り者として非難する声も消えないと聞いている。貴族達とは離れた場所で過ごすフジには、過去の詳しいいきさつも、残こっている彼らの感情のわだかまりも分からない。けれど、あの少年がその息子だというのなら、王宮内の事情を鑑みてイヌイが伏せてもおかしくない。どのみち、家名と直結するような顕現武器を持っていては気づかれるのもそう先のことではないように思ったけれど。
「いや、顕現ができるようになるまでは陛下がその呼び名を禁じられた。今はまだ、ただのリョーマだ」
だがテヅカの答えからすると、名前を伏せた理由は過去の、彼の父の事情とはまったく異なった理由かららしい。
「顕現、できないの?」
天衣を手にしているということは、覚醒はしているということだ。そうでなければ、顕現武器に触れることができない。上位覚醒にいたっていないとしても、また身の丈に合わない武器を手にしている成長途中の少年なのだから、そうおかしいことではない。けれどあの特別な新しい風を感じていたフジには、なんとなく意外に思えたので素直に問い返す。テヅカはそんなフジをちらりと横目でみやって、しばらくの沈黙の後重々しく口を開いた。
「おそらく、天衣が拒んでいる」
「拒んでいる? どうして」
その問いにテヅカは無言で首を横に振った。分からない、と言っているように見えたが、分かっていても言うつもりはないという意思表示にも見える。上位覚醒を拒むくらいなら、自分に見合わぬ体の大きさの少年を選ばなければ良かったのではないだろうか。図書館の記録を読んだ限りでは、この国を出たときも天衣の所有者はナンジロウ=エチゼン、つまりあの少年の父親であったはずなのだから。
釈然としないが神殿に着いてしまったので、大人しく日課である祈りの勤めに戻らなくてはなるまい。自分の仕事はあの少年と顕現武器の関係を探ることではないのだから。取られていた手を離し、神殿の扉に一人で向かう。けれどその背に、神殿の中に入るまで見届けようとしているテヅカの視線を感じて、抑えられぬ好奇心からつい振り返ってしまう。
「……君なら顕現できるようにしてあげられるんじゃあないの?」
識者としての能力で、フジの力を誘導したように。あの少年に対してもそれができるのではないかと問うたフジに、テヅカは今度こそきっぱりと答えた。そう、意外なほどきっぱりと。
「いや……天衣がそれを望まないなら、俺にできることはない」
連れて来られた時には、すでに夕食は始まっていて広い食堂は食欲をそそる匂いと、男達の喧噪に満ちていた。騒がしいが、街の酒場などとはやはり違う種類の騒がしさで、暴力的な雰囲気は感じられない。感じるとすれば若い英気のようなもので、少なくともリョーマの見える範囲では食堂内にいるのは父より若い男達だけだった。騎士団全員でこの年齢、ということはないのだろうから単純に考えて年齢によってか、それとも役職によって食堂が分かれていると考えるのが妥当だろう。皆食べるか喋るかに夢中で、新しく入ってきたリョーマ達に目をくれる者はいない。
イヌイの後ろを歩いていた目付きの悪い青年は、食堂に入ってすぐに二人から離れて行ってしまった。どうやら先に食事を受け取りに行ったらしい。できればリョーマもそちらについて行きたかったが、案内役のイヌイが動かないので仕方なくその場に留まった。すっとイヌイの大きな手がリョーマの後頭部に回り、そう強くない力で前に押し出そうとする。リョーマは渋々それに従い、長身のイヌイの隣へと並んだ。
「皆、聞いてくれ」
そこでイヌイが声を張り上げると、驚くほどよく響いた。背を見た時に思った通り、ただの文官ではないのだろう。きちんと腹筋も鍛えているし、軍式の声の出し方も分かっているのだ。イヌイの一声で食堂はすっと静かになった。音がするとすれば、タイミング悪く口に物を詰め込んでいた者達が口の中のものを嚥下する音だけ。それもすぐになくなった。いっぺんには数えきれないほどの二対の目がイヌイを向き、次いで傍らに立っていたリョーマに向けられた。中にはリョーマと同い年くらいの少年達の視線も混じっており、他の騎士達に比べて明らかな好奇の色を見せている。それより年長の青年達の態度はそれよりずっと慎重だ。騎士としてある程度感情を抑える技術を知っている者の視線。
「今日から第一守備小隊、オオイシの下で守備兵として働くことになったリョーマだ。正式にはリョーマ=エチゼン」
だがイヌイの言葉に、にわかにその場は騒がしくなった。リョーマにとっては、心地よいとは決して言えないざわめきだ。
「エチゼン?」
「まさか、エチゼン家の?」
どうとっても好意的とは言えない雰囲気だった。別に歓迎してもらおうなんて思ってもいないが、自分とは関係のないところで悪意を持たれるのは正直うんざりする。一体あのくそ親父はこの国で何をしたと言うのだ。何の説明もないまま置いて行かれた身としては、いい迷惑だ。そうやさぐれている間にも、食堂に集まる男達のざわめきの声は大きくなっていた。そして一点に集まる視線。
「それが本当なら……」
「あれは」
リョーマの腰に下がっている天衣に向けての、それは悪意というよりも畏怖の念が混じった視線だった。今はもう自分以外に触れられる人間などいないと分かっていても、リョーマは思わず天衣に手を伸ばしかけた。この場で武器に手をかければ、ただでさえ好意的でない男達を挑発することになる。リョーマ自身はそれを理解していたわけではない。けれど自分と天衣を守るためなら、もし争いごとになろうともリョーマは怯まなかっただろう。
しかしリョーマが天衣に触れるよりも先に、長身のイヌイがざわめきを鎮めるように手を挙げた。それだけで、食堂のざわめきはまた静かになった。ただ視線だけは奇妙な熱を持って天衣に向けられたままだったが。
「天衣は彼の手にある。彼がエチゼン家の当主だよ。ただし、陛下のご意向により、しばらく彼のことはエチゼンではなくリョーマと呼んでくれ。すぐにオオイシ隊長の監督下に入るが、異例のことなので守備兵としての勤めと、予備学校での訓練を半分ずつこなしてもらうつもりだ」
一体いつの間にそんなことまで決まっていたのだろうとは思ったが、大人しく口を噤んでいた。ここで掻き回して食事を食べ損ねることは避けたい。イヌイもリョーマに一言でも喋らそうものなら、収拾がつかなくなることが分かっていたのか、自己紹介させるようなことは言わずにさっさと切り上げてしまう。
「食事の邪魔をした。さあ、続けてくれ」