色は見えずとも香気を知る
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イヌイはそう言うとリョーマをあるテーブルへ誘導した。そこには城の塀を乗り越えた辺りで顔を見たような気もしなくもない、人畜無害そうに微笑む青年が立っていて、再び騒がしくなった食堂でも聞こえるように、少し大きめの声で自己紹介をした。
「よろしく、リョーマ。俺が第一守備小隊長のシュウイチロウ=オオイシだ」
つまり、イヌイの言っていた”オオイシ隊長”が彼なのだ。年上ではあるが、うんと年上というわけではなさそうだ。隊長というには若すぎるのではないかと思わなくもないが、若かろうが年寄りだろうが、リョーマがとる態度はそう変わるわけではない。
「ども……」
下げたのかどうかも分からない程度に首を前に倒して爽やかな笑顔に仏頂面で応えると、すかさず上からイヌイの大きな手が伸びてきて、抗う暇もなくぐっと頭を下げられた。
「よろしくお願いします、オオイシ隊長。だよ、リョーマ」
上から頭を押さえられるのは大変な屈辱だが、思いの外強い力で頭を振っても外れないし、言うまでは手を離しそうにもない。いい加減本気で腹が減っていたリョーマは、渋々ながら手っ取り早い対応を実行することにする。
「……ヨロシクお願いします。オオイシ隊長」
心がこもってない、というような暑苦しいことは言うつもりがないらしく、口先だけの挨拶にイヌイの手はあっさりと離れた。
「というわけだ。オオイシ、多少は礼儀も教えてやってくれよ。生意気は性分らしいから覚悟しておいてくれ」
ぶるぶると猫のように頭を振るリョーマを見下ろして、オオイシは困ったような、だが仕方なさそうな顔をして笑う。
「はは、そりゃ大変だ」
口ではそう言うけれど、あまり大変そうには聞こえない。そんな大変さには慣れているという雰囲気をリョーマが敏感に察したあたりで、その”大変さ”はすぐに判明した。
「まっかしとけ、イヌイ! オレが先輩を敬うってことをテッテーテキに教え込んでやるからな!」
どん、と胸を叩いて宣言したのは、食堂の机を挟んで反対側にいる、あの猫のような男だった。
「てってーてき、って、意味分かって言ってるんスか?」
明らかに言葉の響きだけで使っている風な口調で先輩風を吹かされたら、それは、リョーマとしてはからかわずにはいられない。
「ふにゃ! 早速なっまいきー!! いいか、リョーマ! オレはエイジ=キクマル。第一守備小隊副長様! つまりお前の上司なの! エイジ様と呼べ!」
これが副隊長なら、隊長は確かに”大変”だろう。ふんと、鼻を鳴らして胸を張るエイジから目を反らして、肩を竦めて傍らのイヌイを見上げると、今まで見れなかった頭が目の高さにあった。彼はもう自分の役目は終わったと言わんばかりに席に着いて食事を始めていたのだ。けれどリョーマの視線に気づくと、手にしていた握り飯を置いて、手をひらひらと振りながら答える。
「あ、それはいいよ、呼ばなくて」
「オイコラ! なんでだよ、イヌイ!」
エイジが絡む相手を変えたため、放り出された形のリョーマに、食堂の向かいからにゅっと手が伸びる。
「よろしく、リョーマ。オレは第三騎兵隊小隊長のタカシ=カワムラだ」
へにょり。そう表現するのが一番適当と思われる目尻を下げた人の良い笑顔に、手を差し出されればそのまま無視するわけにもいかない。
頷くだけで、無言で手を差し出すと、大きく硬い手の平が暖かくリョーマの手を握る。鍛えられた手だが、腰に下げている剣を扱うための手ではない。リョーマが問いかけるような視線を向けると、それを別の意味にとったのか、カワムラと名乗った青年は自分の隣にいる男の腕を引っ張ってリョーマの前に引きずってみせた。
「それから……ほら、モモ!」
モモと呼ばれたふてくされ顔の男は、リョーマが猫と少女の次にこの城で出会った男だった。
「第五騎兵隊小隊長……タケシ=モモシロだ。その……さっきは悪かったな」
そっぽを向きながらぼそぼそと名乗り、謝ったと思ったら急にリョーマを見て声を荒げた。
「でもお前も悪いんだからな! あんなとこから入って来やがって、おまけにサクノ姫をナンパしようだなんていけねぇな、いけねぇよ。だいたいちゃんと正面から入ってくりゃあんなことには……」
リョーマがナンパしようと思ったのは姫――そもそも姫だと知らなかった――ではなく、どちらかと言えば猫の方だ。だがそんなことはどうでもいい。何故猫をナンパする羽目になったのか、元はと言えば 正門に立っていた門番のせいだった。もっと言うと送りもしないで置いてった、何にも考えていない唐変木の父親のせいだが、そこは言っても仕方ない。当人に言っても仕方ないのだから、他人には余計だ。
「正面に行ったら追い返されたんスよ」
思い返しても腹が立つ。それは、リョーマだとて自分の容姿がどのように周囲に――特に大人達に――見えているか、自覚がないわけではなかったが、そこいらの子どもよりはよほど独り立ちしているという自負がある。
「は? どうして? エチゼンだって名乗らなかったのか?」
「名乗ったし、天衣も見せたけど」
「こんな子どもがエチゼンなわけないって?」
リョーマが口ごもると、逆光眼鏡を押し上げながら、イヌイがにやりと笑う。なんだその、何でも知っているぞというような顔は。
「……見てたんスか」
非常に気に食わない。
「いや、推測」
推測で当ててくるところがまた、余計に気に食わない。そのやり取りを聞いていたエイジが、「おチビ、チビだもんな」と腹を抱えて笑うものだから、一層悔しいが、睨みつけようが唸ろうが、イヌイはどこ吹く風である。いけしゃあしゃあとこの期に及んでようやく自分のことを話し出した。
「ああ、そうそう。ちゃんと紹介していなかったね。サダハル=イヌイだ。一応この国の参謀長ということになっている」
それはそれは、陰謀謀略の得意な参謀なのだろう、とリョーマは内心舌を出す。それすらも見透かしたかのような、うっすらとした笑みを浮かべながらイヌイは続けてもう一人の青年を紹介した。
「それと、彼はカオル=カイドウ。王宮図書館の司書だ。声が出せないから話す時には筆談になる。覚えておいてくれ」
なんだ、愛想がないにしても一言くらい喋らないのかと思っていたが、そもそも声が出ないらしい。そのカイドウはイヌイの言葉に頭を下げるでもなく、ただリョーマの前に一人分の食事を配したお盆を置いた。どうやら先に二人から離れたのは、自分の分だけではなく、イヌイとリョーマの分も食事を用意するためだったらしい。
「……ども」
愛想がないのも目付きが悪いのもお互い様だ。けれどリョーマが口にしなければ相手は口に出せないというなら、食べ物の礼だけは言わずにおけない。カイドウはリョーマが首をこてんと前に倒しただけの礼を静かに――喋れないから当然だが――受け取り、それっきり興味をなくしたかのように自分の分の食事を置いた席に着いた。
とりあえず座れ、というイヌイの言葉に従って、リョーマは食事の席に着いた。右隣にイヌイ。左隣にはオオイシが座る。オオイシの正面にようやく笑い終えたエイジで、リョーマの正面にはモモシロ。モモシロの隣にカワムラ。そしてイヌイの隣がカイドウだ。後から来たリョーマ達三人以外は既に食事を終えているらしい。先に食べ始めているイヌイに遅れる形で、リョーマもようやく食事にありつくことができた。目の前には大きな握り飯が二つと焼き魚。温かい汁物には根菜類がたくさん入っている。それから青菜。母が時々作ってくれた料理に似ている。リョーマが好きなことを知っているくせに、母はたまにしかこういう食事を用意してくれないのだ。
故郷の味……ってことだったのか、な。
今まで気にしたこともなかった。ただ食材が手に入りにくいだの、今日は時間がないだのという母の言葉をそのまま信じていただけだった。けれどおそらく父の事情で祖国を離れた母が、帰ることのできない祖国を思い出す味をあえて避けていたとしたら。ほとんど故郷の味というものを知らずに成長したはずの息子が、たまに作った味を好きだと言ったとしたら。嬉しかったかもしれない。だが喜んでいいのか、悲しんでいいのか。それらがない交ぜになった複雑な心境だったのではないだろうか。正直、リョーマには複雑すぎて分からないけれど。
でも、やっぱり美味い。
母が作った料理の方がもっと美味かったけれど、好きな味であることに違いはない。あのちゃらんぽらんな父親は、きちんと母に連絡を取っただろうか。リョーマが青学にいるということを、手紙くらい送って知らせているだろうか。
黙々と食事を摂りながら、遠い土地に置いてくる形となった母のことを考えていたリョーマは、出された食事をきれいに平らげた。旅の間は保存食で過ごすこともあったし、お世辞にも美味いとは言い難い安宿の食事を口にしてきたこともあった。とにかく腹に入ってしまえば味は二の次、三の次の生活だ。特別不自由にも思わなかったが、この水準の食事を毎日口に出来るというなら、確かに城というのは良いところなのかもしれない。
食べている間はそれに集中しろというのが――食い逃げもしたことのある――父親の教えだった。リョーマは教えの通りに食事を胃に入れ込んでいる間は、騒がしい食堂のことはほとんど意識しなかった。ようやく人心地ついたところで、まるでリョーマの集中力の途切れを狙っていたかのように、テーブルに”それ”が置かれた。
「はい」
どん、と目の前に置かれたのは木製のカップに注がれた乳白色の液体。そしてカップを置いた手を辿ると、その先には乳白色の眼鏡。眼鏡としておかしいだろとつっこむ気さえ失せる。確かに、汁物だけでは足りず喉は乾いているけれど。
「……水でいいっス」
というより、水がいい。折角のおいしい食事の最後がこれでは、すべて台無しだ。
「おチビは大きくなりたくないのぉ?」
嫌がっていることが顔に出たのか、露骨に猫男が楽しそうな調子で口を挟んでくる。
「なりたいっスけど、別に牛乳なんて飲まなくても……」
チビチビと馬鹿にされて楽しいわけがないし、同い年でももっと背の高い子どもがいるのは知っている。だが成長は人それぞれのスピードで進むものだし、十分に食べて運動もしているのだから、”それ”とは関係のない時期的なもののはず。そうリョーマは自分に言い聞かせてきた。決して”それ”を避けたいがための言い訳ではない、つもりだ。
けれど、”それ”を差し出した長身が、ふむ、と年寄りめいた声を発したかと思うと、次に聞き捨てならない言葉を口にしたものだから目を剥く。
「大きくなるよ、牛乳。俺は実際、それで大きくなったし」
思わず箸を弄ぶ手が止まる。得体のしれない逆光眼鏡は立てばリョーマの遥か頭上にあることは、その後ろを歩いてここまできたのだからよくよく分かっている。その長身が、この乳白色の液体のおかげだというのだろうか。
「……マジで?」
「うん、マジで。勿論、食事もバランスよくとったし、実はちょっとドーピングもしているけど。牛乳はやっぱり大事だね」
じっと見つめるが、眼鏡のせいで胡散臭さが抜けず、どうにも嘘っぽい。探るようにその読めない表情を観察しながら、リョーマは小さく打ち明ける。
「……オレ、牛乳嫌いなんスよね」
それはもう、意地を張って隠すのも面倒なくらいに嫌いだ。絶対においしくない。そうすると、イヌイはそれをからかうでもなく、首を捻って何か考えている様子だったが、不意に手を打つ。
「ふむ、それならこれはどうだい?」
眼鏡を光らせたイヌイが取り出したのは、なんともいえない匂いのする液体。それがテーブルの上に出た途端、同じテーブルについていた数人から悲鳴が上がった。特にリョーマの斜め向かいで身を乗り出していたエイジは、ぴゃっと猫のように毛を逆立てて身を引く。
「うわっ、きた! 青学騎士団迷物、イヌイ汁!」
というか、いまそれどこから出した。リョーマがその液体のあまりにぶっ飛んだ色に目を丸くしていると、イヌイがその眼鏡を人差し指で押し上げた。本当になんなんだこの男は。逆光眼鏡が本当に、あり得ないくらいにウザイ。
「栄養バランスを考え抜き、ブーイングが多いので飲みやすさも一層の改良を加えてみた。名づけてイヌイ特製野菜汁フレーバー! ちなみに香りはストロベリーだ。残念ながらストロベリーの果汁は入っていない」
たしかに香ってくるのは甘酸っぱい苺の香りだ。これで果汁は入っていないだと? いやいや問題は匂いではなく、色だ。明らかに危険な色をしている。人間が飲むものではない色。匂いは苺で、匂いにだけ惑わされれば口に唾液が滲む。それなのに、視覚に訴えるその色とのちぐはぐさがリョーマを混乱させる。思わず、といった体でリョーマは向かいの大剣使いを見た。すると彼は笑おうと思って失敗したような顔をして言う。
「あぁ……毒は入ってねぇよ? 死にはしねぇんだけど……飲むなら死ぬ気で飲め」
最後は顔面蒼白で目を合わせもしない。馬鹿な、そんなものに命をかける物好きがいてたまるか。
「……牛乳でいい」
待っていても他の選択肢が出てくるとは思えなかったし、どちらかを選ぶまでは到底席を外せそうにない雰囲気だった。リョーマが嫌々ながら乳白色の液体の入っている杯に手を伸ばすと、最初に提供したはずのイヌイがその杯を遠ざける。代わりにぐいぐいと、後から出してきた危険物をリョーマの方に押しやるのだ。
「遠慮するな、リョーマ。ストロベリー・フレーバーが嫌なら、好みの香りをつけてやろう」
とても重要な部分なのでもう一度断るが、問題は匂いではない。
「味は変わらないんだろう? イヌイ」
どうにも苦労性な雰囲気が漂うオオイシが、頭を抱えながらつっこむと、イヌイも神妙に頷いてみせる。
「味は変わらない。何なら、牛乳を加えてイヌイ特製野菜汁フレーバー(牛乳入り)にしてもいいが? 多少マイルドになるかもしれないな」
だから牛乳は嫌いだと言っているだろうに。危険物と混ぜたら聖水にでもなると思っているのか。
「だって、おチビ。折角だから一度飲んでみるといいんじゃにゃい?」
明らかに他人ごと、というニヤニヤ顔で、エイジが無責任に勧めてくるが、冗談ではない。
「ただの牛乳でお願いします」
「つまんね。一回飲んでみればいいのに」
ぷうと子どものように口を尖らせるエイジに、なら自分で飲んだらいいじゃないかと言うと、「嫌だよ、罰ゲームじゃあるまいし!」という答えが返ってきた。それを言うならリョーマだって罰ゲームを受けなければいけないようなことをしたわけでは――礼儀云々を抜かせば――していないはずだ。拒否する権利は十分にある。
「ドーピングって、その汁のことっすか」
美味かった食事の記憶が遠のいていく中、リョーマは気になっていたことをイヌイに尋ねる。身長を伸ばすための方法があったとして、その汁に頼るのは絶対に嫌だが、他にあるのなら聞いておいても損はないだろうと思ったのだ。案の定イヌイはまだ汁を飲ませるのを諦めた様子を見せず、しかしリョーマの欲しかった回答を投げてよこした。
「いや、これじゃあない。俺の言ったドーピングっていうのは、これだよ。顕現武器」
これ、と良いながらイヌイは自分の手首に嵌った銀色のブレスレットを見せる。リョーマが武器型以外の顕現武器を目にするのはこれが初めてだ。とはいえ、武器型以外の顕現武器の存在も、父親から聞いていたから特に驚くことはない。驚いたのは、顕現武器が身長を伸ばすドーピング剤になるという話だ。
「……顕現武器?」
それが一体どんな役割を果たすというのか、とリョーマが尋ねる前に、エイジが身を乗り出して大きな声で割り込んだ。
「ええ? 初耳。何で鏡烏がドーピングになんの?」
キョウウというのは、イヌイの顕現武器の名前だろう。それにしてもいちいち声高に割り込んでくる男だな、とリョーマが呆れていると、もう一人大きく溜息をつきながら呆れた声を出した男がいた。
「お前は……予備学校で何を習ってきたんだ、エイジ」
先程から頭痛の種ばかり抱えていそうな顔をしているオオイシだ。向かいでカワムラも苦笑している。どうやら先程の識者という言葉といい、予備学校で習うような事柄らしいが。
「俺は予備学校なんて行ってないんすけど」
リョーマが改めて口を挟むと、イヌイが少し首を傾げた。
「ナンジロウ殿は教えてくれなかったのか。顕現武器はね、覚醒することで所有者の身体に何らかの形で影響を及ぼすことが分かっているんだ。俺の場合、分かりやすくそれが身長に出たってこと。勿論大半は牛乳のおかげだけど」
「……え、そんなことがあるならオレだって……」
覚醒はしている、とリョーマは視線を下げて天衣をみやった。覚醒したのがつい最近だから、まだ効果が出るのには時間がかかるというだけなのだったら大いに期待したいところだが、そう都合のよいものでもないらしい。
「残念だが、これについては顕現武器と覚醒者、その組み合わせによって様々らしい。俺は鏡烏を手にして以降、驚くくらい身長が伸びたけど、テヅカの場合は零式の影響で視力が下がった。全部良い方に影響がでるわけじゃあないみたいだよ」
少し喜んでしまっただけに、イヌイの回答には正直がっかりした。
「どんな風に影響が出るのか分からないなら、意味ないじゃないっスか」
それも悪い方に影響が出たら、余計に背が伸びにくくなるってこともあり得る。そんな可能性にはぞっとしてしまう。
「うん、そう。だから結局頼れるのは日々の努力ってこと」
そして牛乳に戻ってくるわけか、とリョーマは苦々しく白い液体を睨みつける。飲むなら一気にいってしまいたいが、そこまでして飲まなくても、と逡巡する気持ちがあって。それを見逃すイヌイではなかった。
「女王陛下も巫女様も女性としては背が高いよな」
背を押してくれているつもりなのか。上り坂ならそれもありがたいかもしれないが、崖っぷちから落とそうとするなら最低だ。ぱっとリョーマの頭に浮かんだのは、あの美しい巫女の手をとって、並んで歩いて行く黒衣の騎士の後ろ姿。あの黒には足りないと、痛感したあの時の悔しさが蘇る。
「……っ! あんた嫌な奴!」
睨みつけて思わず漏らすと、イヌイは初めて声を上げて笑い「それは光栄」と嘯いてみせたのだった。