青学の風巫女
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テヅカが零式に乗って青学の王宮に戻った時、時刻はすでに深夜になっていて、彼の身を案じていつもより遅く起きていたサクノも、イヌイやリュウザキの説得を受けて床に就いてしまった後だった。モモシロの率いる部隊は神殿で一泊し、早朝には馬を駆って半分が王宮へと戻ってくるだろう。もう半分は、しばらく警備のために近隣の町に待機することになっている。二度目の襲撃がないとも限らないからだ。
とりあえず狙われている人物は特定できたので、しばらくあの巫女の部屋の前に、他の巫女を交代で待機させると長巫女は言っていた。テヅカは青学に戻る前に、巫女以外に触れることのできない顕現武器を、長巫女の頼みで巫女の部屋に運んだ。長巫女は所有者の近くにあることで、また飛燕が暴走するのではないかと心配していたようだったが、弱っている巫女に対しては顕現武器の方が自制するだろうということを伝えておいた。
部屋に入ったとき、フジという名の巫女は簡素なベッドに横たわって、身じろぎもせず深い眠りについていた。本当に限界まで意地を張っていたためか、疲れた顔で眠る巫女は、部屋で多少煩くしても目を覚ますことはなさそうだった。
部屋の中が、他の巫女と違って特別広いとかいうことはなかった。男であることを隠すために必要なこと以外では、長巫女はフジを他の巫女達と同じように扱っていたようだ。テヅカは元々飛燕が入っていたというベッド下の箱に、その小太刀をしまい、それから長巫女に見送られて青嵐の神殿を後にした。半月が時折流れる雲に隠れるその夜を、テヅカは王都へ向かって飛んだ。
眼下に広がる王都は、一部の繁華街を例外として、大部分の家が火を落としていた。それは王宮も同じことで、警備に必要な灯り以外の無駄な光は見えなかった。テヅカは闇に紛れてしまえる零式が警備の者達を警戒させないように、マントに留めてある飾りピンを抜いて、零式の高度を下げた。外堀を越える前に、その飾りを頭上に掲げて規則的に振る。飾りピンの裏には夜光塗料がぬってあるので、それに気づいた警備兵がテヅカと同じ動作で松明を振った。テヅカは松明の灯りを確認すると、そのまま零式で外壁を越え、零式用に用意された広い王宮の屋上に降り立った。
零式から降りて、結晶化させるとテヅカの到着に気づいた年上の近衛兵が一人屋上に上がってきて、リュウザキが部屋で報告を待っている旨をテヅカに伝えた。テヅカはそれに頷いて、降り立った本殿の屋上から、真っ直ぐリュウザキの部屋のある奥殿へ向かった。
奥殿のリュウザキの部屋の前で、控えていた近衛兵に黒のマントを預け、側仕えの空けた扉から部屋の中に入った。部屋ではリュウザキが、寝巻きに近い軽装に剣を帯びた姿で椅子に座っていた。
「ただいま戻りました」
テヅカが声をかけると、リュウザキはテヅカの方を見て微笑んだ。
「おぉ、ご苦労だったね、テヅカ。報告は聞いたよ。賊の最後については、疑問が残る形になったがね」
椅子ごとテヅカの方に向き直って、足を組んだリュウザキに、テヅカは頭を下げた。
「申し訳ありません」
結局、捕らえることができた賊達は、テヅカ達に何の情報ももたらすことなく死んだ。捕らえた直後に毒などを含んでいないかどうか口内を確認していたから、最初から飲み込んでいたのかと疑ったが、それにしては血を吐いて死ぬ、そのタイミングが“みな同じすぎた”。モモシロが対応できなかったのは当然の、不可解すぎる出来事だった。
おそらく後に誰か糸を引いている者がいる、とあのちぐはぐな襲撃団の様子を見ていて感じていただけに、テヅカは自分の対応の甘さを痛感していた。そんなテヅカの内心を察してか、リュウザキは頭を下げるテヅカに向かって明るい調子で声をかけた。
「気にするな。神殿の被害は最小限に食い止められたようだから上々だ。あと、報告にはなかったが巫女殿の中に上位覚醒者がいたと?」
リュウザキが目線で席に着くようにテヅカへ促したので、テヅカは小さく頭を下げてからそれに従って、リュウザキの斜め前にある椅子に座った。
「はい。それに関しては、直接お話した方が良いかと思いまして」
「そうかい。では報告してもらおうか」
テヅカは順を追って、賊に捕まっていたトモカを助けに奥神殿へ向かったこと、そしてそこで長巫女と、若い巫女に会ったことを語った。ずっと神殿で暮らしてきた巫女が、テヅカの零式に誘発された形で上位覚醒したことを伝えると、リュウザキは微かに頷いた。
それから自我を失った巫女の顕現武器を、テヅカが結晶化し、賊を捕らえて、神殿内の騒ぎを抑えたことを説明し、顕現武器の所有者が神殿にいたことを問いただすために長巫女と話したことを伝えた。その長巫女がテヅカに語った事実を、テヅカはほぼそのままの形でリュウザキに伝えた。ただ、長巫女がテヅカを選んで要求したことに関しては、テヅカは口を噤んだ。
リュウザキはテヅカの話を最後まで聞き終えると、考え込むように額に指先を押し当てた。
「……なるほど、確かにカオン王家の第二王女が風の神殿に入ったという話を当時聞いたね。まさか王子だったとは思わなかったが……」
そう言って首を横に振ると、リュウザキは近くにあった水差しを引き寄せて、グラスに注ぐとテヅカに手渡した。テヅカは軽く頭を下げるとそれを黙って受け取り、グラスの中の水を含んで返した。
「陛下」
リュウザキはテヅカが返してきたグラスを机の上に置きながら応えた。
「なんだい?」
「陛下はその、男の神力保持者が災厄を引き起こすという話を、信じられますか?」
テヅカの視線と、リュウザキの視線がしっかりと合った。
「迷信だね」
リュウザキ女王はテヅカから目を逸らすことなく、きっぱりとそう言い切った。思っていた通りの答えとはいえ、テヅカはその答えに安堵した。迷信でもなんでも構わない。あの災厄で花音王宮へ招かれていた息子夫婦を失ったリュウザキには、そう考えて逃げる道もあったはずだ。けれどテヅカと同じように、リュウザキはその道を選ばなかった。
テヅカはそれを我がことのように誇りに思った。彼女がリュウザキだからではない。彼女がこういう考えの持ち主だからこそ、テヅカは彼女の前で膝を折る。それはきっと、歴代のリュウザキと、テヅカが繰り返してきたことに違いない。テヅカがリュウザキを守るに足る騎士であり続けようとするように、リュウザキはテヅカが仕えるに相応しい王であり続けようとする。他家のように決して惰性で続いてきた主従関係ではないのだ。だからこそ、テヅカ家は今もリュウザキ家の一番近くにある。
「だが、そう思えない人間は多いだろうよ」
リュウザキの冷静な指摘に、それもまた真実だとテヅカは頷いた。テヅカはその考えを弱いとは思わない。だがその考えは、現実から逃げているとしか思えないのだ。少なくとも、花音の災厄に関してだけは、そうとしか思えない。
その時、テヅカの脳裏には蒼い瞳を伏せて、自嘲気味に俯いた巫女の姿が浮かんでいた。そしてテヅカは浮かんだその姿に微かな苛立ちを覚えたのだ。
「……陛下、昨年近衛隊長に就任した折り、何か褒賞を、と言われてお断りしましたが、いま申し上げてもよろしいでしょうか」
唐突にテヅカが一年前の話を持ち出すと、リュウザキはちょっと目を見張って、それからテヅカの意図を察して困ったように微笑んだ。
「お前も律儀だね。そんな風に言わんでもいいのに……」
「いえ、このことについては責任を持たせていただきたいのです」
今この判断が、今後何を呼ぶことになるのか、テヅカには分からないのだ。ただ零式が持たないテヅカ家の紋を、“何故かあの飛燕が”持っている。その事実がテヅカの心を大きく揺さぶる。
「……分かったよ、言ってごらん」
テヅカは立ち上がり、そしてリュウザキの前に進み出ると膝を折って頭を垂れた。まるで、何が大きな力がテヅカにその望みを口にするように促しているような気もしていた。けれど、テヅカは迷わなかった。覚悟はできている。
「青嵐の神殿から、フジという名の巫女を、この青学付の風巫女としてお迎え願いたい」
テヅカの望みに、リュウザキも立ち上がって答える。彼女は帯びている剣を抜き、それを跪いたテヅカの肩に添えて背筋を伸ばした。
「よろしい。テヅカの名を継ぐ者として、お主が近衛隊長の任を全うし、青学王国に害をなすものを全て退けるために力と心を尽くすなら、青学女王としてこのリュウザキがその褒賞を与えよう」
リュウザキはそういい終えると、テヅカの肩に置いていた剣を戻す。次はテヅカが、受け継がれてきた顕現武器、零式を鞘ごとリュウザキの前に示す番だ。
「近衛隊長として、そしてテヅカの名を継ぐ者として、この零式と共に、己の全てを賭け、青学王国に害をなすものを全て退けると誓います」
そのための覚悟をしたからこそ、零式がテヅカの手の中にある。運命という流れがこの世界にあるのかどうか、テヅカには分からない。そして、分からないものに振り回されることはない。
運命が青学に害なすのなら、それも退けるだけのこと。
その日は朝から雲ひとつなく、気温も湿度もほどほど。絶好の訓練日和だった。守備隊の他の仲間、そして予備学校の兵達と一緒に、早朝のランニングと軽い体術訓練を終えたシュウイチロウ=オオイシは汗を拭っていつものように朝食を摂り、その後守備隊の隊長会議に出席した。
隣国の山吹王国に比べて、リュウザキ女王の治める青学の治安は安定している。特に王都は民間人の小競り合い程度のことはあっても、ここ十数年賊に攻め入られたなどの被害は全く出ていなかった。王都から離れていても、国境付近は守備隊が駐屯している砦が点々と守っているし、小さな村々も定期的に騎兵隊が見回るようにしている。
オオイシは半年前に守備隊第一小隊の隊長に任命されたが、毎日行われている隊長会議に出席して、襲撃の報告を受けたのはこの日が初めてのことだった。しかし場所は普段なら騎士団が入ることのできない青嵐の神殿。例外的な襲撃に、砦を中心に活動する守備隊の対応が遅れたことは当然といえば当然のことだった。
襲撃の事情、賊の最後については疑問点が多いものの、リュウザキ女王はとりあえず神殿側の被害が少なかったことを評価しているという報告だった。神殿を守りに飛んだテヅカは昨晩のうちに帰還し、神殿に残った騎兵隊も半分は午前中に戻る予定だ、と第一大隊の隊長が伝え、詳しい事情とこれからの対応は明日以降に、ということで会議は解散された。
そうか。テヅカは夜遅くに帰ってきたから、朝の訓練に顔を出さなかったんだな。
おそらくリュウザキ女王に、今朝はきちんと休むようにと命令されたのだろう。そうでなければ、数時間の睡眠でもテヅカは起き出して、訓練に参加していたはずだ。
それにしても、いくら自治区のような場所といえ、やはり雇われの護衛官達だけの守りでは足りないのではないかな。不信心かもしれないけど、直接風の神が守ってくれるというわけでもないんだし……。
会議室を後にしたオオイシは、そんなことを考えながら一旦宿舎に戻ることにした。いつもより長引いた会議のおかげで、あと小一時間で昼になってしまう。オオイシ達の第一小隊は、午後から予備学校の後輩達を教えに行かなくてはいけないのだ。隊員を集め、昼を早めにとって訓練内容を確認しなくては。
元々神力は争い事には使えない。襲撃に備えるといっても、男は少人数しか受け入れたくないというなら、護衛官でも騎士でもあまりかわらないか……。もし今後も襲撃の可能性があるなら、いっそ紅部隊を配備したらどうだろう。
紅部隊はリュウザキ女王が五年前から試験的に集めている、女性だけの騎士部隊だ。リュウザキ女王が直接指導することもあるこの部隊では、技量的にもこの五年で優秀な騎士が育っている。神殿側にも同じ女性なら警護に十分な数の騎士を受け入れてもらえるのではないだろうか、とオオイシは思う。
提案してみようか。
そう考えてすぐに、その程度のことなら将軍や女王が既に考えているだろうと思い直した。それに、部隊長としては一番若いオオイシに、まだ自身の提案を口にするほどの勇気と自信はない。
でもテヅカなら――。
既に考えられているだろうという意見でも、臆せず口にすることができるのだろう。同い年とはいえ、テヅカ家の当主と商家出身のオオイシとでは育ちが違う。けれどそんなことを言い訳にしなくても、クニミツ=テヅカという男は真っ直ぐで、オオイシはその姿勢を見るたびに自分の背も真っ直ぐに伸ばさずにはいられない。生まれ育ちの違いなどという理由で諦め、片付けてはいけない。オオイシはテヅカと約束したのだ。
……やっぱり明日の会議の後で、守備隊長に意見を聞いてもらおう。
あの約束を果たせるようになるまで、小さなことから乗り越え、成長しなければ。
よし、頑張るぞ、と本宮殿と寄宿舎の連絡通路の途中で立ち止まって、気合を入れなおしていたオオイシが再び歩き出した瞬間、宿舎のある向かい側から幼い頃からよく知っている人物が走ってきた。
「なぁなぁ、オオイシ聞いたぁ?」
オオイシが隊長を務める守備隊第一小隊の副部隊長、そしてオオイシの幼馴染であるキクマル家のエイジは飛び跳ねるような走り方でオオイシの前までやってくると、前振りもなく突然そう尋ねてきた。
「何を?」
幼馴染の唐突な疑問珍問には慣れていたので、オオイシは穏やかに説明を求めた。我ながら、こんな態度はまるで兄弟か親子――同い年なのに――のようだと苦笑してしまう。
「昨日、青嵐の神殿が襲われたじゃん」
一方のエイジもオオイシのちょっと困ったような笑いには慣れていたので、苦笑の理由なんて関係ないとばかりに説明を始めた。
「あぁ、さっき隊長会議で報告を聞いたよ。何だか後味のよくない結果だったみたいだけど……」
「それはそれでいいとして」
よくはないんだけれどな、と再度苦笑した後に、幼馴染の大きな瞳がこれ以上なく輝いているのを見て、オオイシは予感した。彼は単に襲撃の状況について説明を求めているのではない。この次に出てくる言葉は、聞かない方が身のためだ、と。だが止めに入っても止めきれるものではない。特に、幼馴染がこんな風に目を輝かせている時には、まったくお手上げだった。
「その神殿にさ、めっちゃくちゃキレーな巫女様がいて、テヅカが一目惚れしたんだって!」
それにしたって、こんなことを言い出すとは思わなかった。
「ぶっ! 誰だ、そんなことエージに吹き込んだの」
「えぇ? モモだよ」
帰っていたのか、とオオイシは思った。会議で聞いた、神殿に半数を残し、半数が午前中に帰ってくる騎兵隊とはモモシロの隊だったからだ。
「モモシロ!」
エイジにそんなことを吹き込んだからには、近くにいるはずだとオオイシは声を張り上げた。案の定、モモシロはその叫びのような呼び声を聞きつけて寄宿舎から顔を出した。おそらく調理場に行って強請ってきたのだろう。口にはパンが詰まっている。
「へ? なんスか、オオイシ部隊長」
パンを飲み込みながら、モモシロは目を丸くして尋ねてきた。今は食べ物のことでいっぱい、というその暢気な頭を叱ってやりたかったけれど、エイジの発言にかき回されたオオイシの頭は、咄嗟に言葉が組み立てられなかった。それを狙っていたわけではないだろうが、目をきらきらと輝かせたエイジが、尻尾があったら目いっぱい振っているだろうという様子でモモシロに問いかけた。
「なぁ、テヅカが一目惚れした人ってホントにキレーなの?」
エイジが言うと、モモシロは“あぁ、その話なら”といった様子で嬉しそうに話し出した。
「いやぁ、それがホント美人でしたよ。髪がさらさらしてて、睫長くて」
もぐもぐ。モモシロは残りひとつになっていたパンを口に放り込みつつ喋る。
「ふんふん」
「肌が真っ白で唇がピンクで」
もぐもぐ。まったく行儀の悪い。それに、直属ではないとはいえ、隊長、副隊長相手に失礼だ。
「目がものすごっく綺麗な蒼なんス」
言いたいことはたくさんあったのに、オオイシは口を挟むことができなかった。興味津々で頷くエイジを叱らなければいけないと思いつつも、オオイシ自身もモモシロの話を聞きたいと思ってしまっている。
だって気になるじゃあないか。
惚れられた、告白された求婚された、という噂が二ヶ月に一度は飛び交うあのテヅカが、自分から一目惚れしただなんて噂は、今回が初めてなのだから。
ごっくん。モモシロがパンを飲み込んだ。オオイシも、不謹慎だと思いつつ息を呑んだ。
「……あぁ、俺もあんな人に満面の笑みで抱きつかれてみたいなぁ……」
そしてモモシロがだらしなく鼻の下を伸ばして言った爆弾発言には、エイジだけでなくオオイシも顔が真っ赤になってしまった。
「な、何?!」
一目惚れした相手に、抱きつかれた? まさか聞き間違いだろう、とオオイシが否定しようとした側から、エイジが叫ぶ。
「えぇー、何それ! 抱きつかれたの? テヅカの奴が?」
これで聞き間違いという希望は打ち砕かれた。そして追い討ちをかけるようにして、モモシロが頷く。
「えぇ、もうなんて言うか花の咲くような? そんな笑顔で、こう……がばっと!」
がばっという効果音と同時に、モモシロはその時の巫女の仕草を再現したかったのか両手を挙げて足を一歩踏み出す。それから挙げていた両手を下ろしながらクロスさせた。おそらく、架空のテヅカに抱きついているのだろう。肝心の巫女の姿を直接目にしていないオオイシとしては、そのままテヅカに抱きつくモモシロ、という形でしか想像できず鳥肌ものなのだが、エイジはそこをどう処理したのか、さらに興奮度を上げたようだった。
「うわ、うわー! 何それ! 相手も一目惚れってこと? あの仏頂面のテヅカに!? 信じられない!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら“信じられない”を連発する幼馴染の気持ちは、オオイシにだって十分理解できた。いや、テヅカに一目惚れする女性がいるということに関しては何の驚きもない。おそらく現在青学であのテヅカを“狙っている”女性の半数以上が一目で彼に落ちているだろうから。
オオイシが信じられないのは、あのテヅカが、その巫女を懐に入れてしまうほどの隙を見せたことだった。堅物のテヅカも、騎士であるからには女性に対してそう無碍な態度もとれない。必要であれば、よろけた女性の体を支える程度の接触はするだろう。けれどそれ以上にもたれかかられたら、テヅカはきっぱりとそれを押しのけるはずだ。そういうことに対しては、オオイシが心配してしまうほど潔癖な男だから。だから余計にモモシロの語った事実が信じられない。たかが噂と思っていたけれど、まさか本当にテヅカの方が一目惚れしたというのだろうか。
「いや、でもその後……」
パンを全て飲み込んだモモシロが、何だか笑いを堪えているような顔をして目を細めた。その後、と言われた先が気になってエイジの体が前のめりになる。それにつられて、オオイシの体もモモシロの方へ傾いてしまいそうになったのだが。
「……仏頂面で悪かったな、エイジ」
背後に聞こえた不機嫌な声に、傾きそうになっていた体がぴっと真っ直ぐになる。
「にゃあ! テ、テヅカ!」
先程オオイシが歩いてきた王宮本殿から歩いてきた近衛隊長には、エイジの大きな声が丸聞こえだったのだろう。気配を完全に消した状態で、いつの間にかオオイシ達のすぐ後まで近寄ってきていたようだ。
「モモシロも、面白い話をしているようだな」
モモシロだけが本宮殿の方を向いていたのだから、長身のテヅカが近づいてきていたら先に気づいてもよさそうなものなのに、“綺麗な巫女様”の話に気をとられすぎていて気づかなかったのだろう。
「い、いえ、これはそのぉ……」
近づいてくる他人の気配に気づかないというのも騎士としてはあるまじきことだが、それ以上に今まで話していたその内容がよろしくない。オオイシも内心冷や汗というか脂汗ものだったが、調子よくべらべらと話していたモモシロはそれ以上だ。内心どころか、額から実際に汗をだらだら流している。借りてきた猫のように大人しくなったエイジと、目を逸らして汗をかいているモモシロをねめつける近衛隊長は、腕を体の前で組み、すっと息を吸った。
「二人とも、王宮内二十周! 今すぐ行って来い!」
それこそ王宮内に響き渡るような鋭い声に、エイジとモモシロは文字通り飛び上がった。予想していた言葉とはいえ、オオイシは二人を止められなかったことを悔やんで頭を押さえた。
「は、はいぃ!」
逃げるように走り去っていく二人と、軽く頭を押さえているオオイシ見やって、青学を支える若き近衛隊長は小さく溜息をついた。
「まったく……」
溜息をつきたいのはオオイシも同じだったが、昔からの習慣でつい幼馴染を庇ってしまう。しかも、自分も気になって一緒に聞いていたのだから、なおさらだ。
「俺が止めるべきだったよ。今回は何だか噂ばかりが先行して、一人歩きしているみたいだから。ごめんな」
今からでも一緒に走ってこようか、と考えるオオイシに、テヅカは首を横に振った。噂に関してはさほど怒っていないということらしい。まさか、本当のことだから気にしないという意味ではないよな、とオオイシは思わず苦笑いしてしまう。
「……今回の件については謎が残る。俺にとっても気に食わない結果だった」
テヅカの声はいつもの淡々としたものだが、その口調が少し苦々しさを含んでいた。オオイシもそれを聞いて、浮かべていた苦笑をさっと引っ込める。
「そうだね。俺も気になるよ。その後はどうなっているんだ?」
やはり噂よりも真実を知らなければ。
「引き続きイヌイに探らせてはいるが、何も掴めそうにはないな」
テヅカの簡潔な言葉に、オオイシの表情は曇った。あのイヌイが探って何も掴めないというのなら、それだけで今回の顛末の不可解さが増す。
「そうか……。しかし本当に巫女を狙ってのことだったら、お粗末過ぎる襲撃だよな。本当は他に何か……」
別の目的が? そう目線で問いかけると、おそらく、といった様子でテヅカは重々しく頷いた。しかしそれがはっきりと分からないから、気に食わないと彼は言うのだろう。襲撃の目的が分からないまま、肝心の襲撃者がそろって死んでしまったことで、事態はかなり厄介なことになっているようだった。オオイシは少し考えて、思い切って自分の意見を言ってみることにした。
「襲撃者が死んだとはいえ、やはり青嵐の神殿には今後継続的に警備する人間が必要だと思うんだ。それも、民間の傭兵ではなくて、ちゃんと青学から……」
言いかけたところで、オオイシの言いたいことが分かってしまったらしいテヅカが頷いた。
「その件に関しては、俺の方から陛下に紅部隊の派兵を提案してある。おそらく、陛下もご了承くださるだろう」
「そ、そうか」
流石はテヅカだ、頭が回る上に対応が早い。感心すると同時に、オオイシは何だか恥ずかしくなって俯いた。
そうだよな。やっぱり俺なんかがでしゃばらなくても、テヅカや隊長はきちんと考えてくれているよな。
明日守備隊長に言うのは止めておこう、と少し赤くなった顔を隠すように俯きながらオオイシは思った。既にテヅカが言っているなら、それでおそらく問題なく決まるだろうから。そんな風に考えたオオイシに、テヅカが少し困惑の混じった声で尋ねた。
「オオイシは、何か違う考えだったのか?」
俯いてしまったから、先を浚うようにして答えてしまった自分の意見と違う意見だったのかと心配したのだ。オオイシは誤解させてしまった、と慌てて顔を上げてテヅカに応える。
「いや! 同じだよ。……神殿は男子禁制だし、紅部隊ならその点を気にする必要はないから。明日にでも、守備隊長に提案してみようかと思っていたんだ」
必要なかったみたいだけれど、と内心で呟いたオオイシは、次にかけられたテヅカの言葉に目を丸くした。
「そうか。同じ考えとはいえ、守備隊長にはオオイシからの意見として別に伝えておくべきだろう。陛下も色々なところからの意見を求めておられるだろうからな」
テヅカのことだから、オオイシに気を使って、ということではないのだろう。おそらく、本当に必要だと思うから言ってくれているのだ。こういう意識しない言葉に、オオイシはずいぶんと勇気づけられている。
「そう、だな。うん、そうするよ」
オオイシが頷くと、見間違いかと思うほど微妙に、テヅカの顔が優しくなった。
安心したのだろうか。
そうだったらいい、とオオイシは微笑んだ。少しでも、テヅカの支えになれればいいと思う。青学を支えるこの男の、ほんの一時、ほんの一部分だけでも支えることができたら。背を預けるという形でなくても、せめてこの肩を貸せるくらいになれたら――。
「テヅカ!」
その高い声のした方へ顔を向けると、今日は白に黄色い小さな花模様のドレスを着た青学の姫、サクノが後ろににやにや顔のエイジとモモシロを連れて立っていた。
「姫。……エイジ、モモシロ。お前達はまだ二十周走っていないだろう」
テヅカが咎めても全く気にならない様子で、エイジは隣に立つモモシロと顔を合わせて答えた。
「だって、姫様ってばお前に会いたいっていうのに、全然違う方向行くんだもん」
エイジが言い訳すれば、モモシロもそれに頷く。
「ご案内差し上げなくては、と思いまして。ね、エージ先輩」
「そうそう!」
まったく現金なものだが、確かに案内は必要だっただろう。青学の姫は決して物覚えが悪いというわけではないのに、生まれてからずっと暮らしているこの王宮内で、不思議とよく迷子になるのだ。だからサクノが部屋を出て別の場所へ行くときには、必ず側付の者が一緒についていくようになっているはずだった。
「姫様、お付の者はどうしましたか?」
午前中であれば教育係のイヌイが共を申し出たはずだろう。けれどもう午後になっていて、サクノはおそらく自分の部屋にいたはずだ。呼べば誰かは駆けつけたはずなのだけれど、と思ってオオイシが尋ねると、サクノはちょっと申し訳なさそうな顔をして答えた。
「ごめんなさい。急いでいたから、誰も呼ばずに来てしまったのです、オオイシ」
急ぎだからこそ迷わないように誰かを呼ぶべきなのだと思ったが、自分でも分かっているらしく頬を赤くして俯くサクノに、それを指摘することはできなかった。
「お急ぎで……テヅカに?」
代わりにオオイシはサクノへ向かって優しく微笑んで、それからテヅカと視線を合わせた。オオイシの視線を受けて、テヅカは渋い顔をしながらも小さく頷いた。急ぎだったということを考慮して、一人で出てきたことに関しては目を瞑ることにしたようだ。
「何かありましたか、姫」
「テヅカがもう一度青嵐の神殿に行くと聞いたので、これをトモカちゃんに渡して欲しくて……」
目をそむけたはずのところに話が戻ってしまったようで、オオイシは慌てた。とりあえず、近衛隊長がもう一度青嵐の神殿へ行く、とは朝の会議では言っていなかったはずだと思い返してみる。緊急のため機動性の高い零式が出動するはめになったが、本来は今回のような襲撃で真っ先に近衛隊長が王宮を離れることはないのだ。最初に襲撃を沈静化した時点でテヅカの役目は終わっていたはずなのだが。
「テヅカ、何か事後処理でも残っていたのか?」
オオイシが思わず確認すると、間髪いれずにモモシロの悲鳴が上がった。
「そんな! 俺、ちゃんと片付けたはずですよ、隊長!」
実際に事後処理を行ったモモシロが叫ぶと、テヅカが珍しく口篭った。
「いや、それは……」
そんなテヅカに助け舟を出したのがサクノ姫だ。
「違うの。テヅカはずっと空位になっていた青学の風巫女様をお迎えに行くのよ」
だがそれは助け舟というよりは、無邪気な追い討ちに近かった。
「えぇ!」
モモシロが叫べば、エイジが飛び跳ねる。
「なにぃ! それって例のめっちゃくちゃ美人の巫女さんか?」
やはり避けたはずの話題に戻ってしまった、とオオイシとしてはうろたえるしかない。
「ほ、本当なのか? テヅカ」
いや、巫女が美人なのかどうか訊いているわけではない。本当にその巫女を迎えに行くのか聞いているのだ、と誰にともなくオオイシは心の中で弁解した。そんな恐慌状態の三人を避けるようにして、テヅカがにこにこと嬉しそうにしているサクノに尋ねた。
「姫、その話は誰から……」
「イヌイが言っていたの。とても綺麗な方だって。私もお会いするのが楽しみ」
あのイヌイも言っているなら、美人というのは本当らしい。いや、そんなことを確認している場合ではない。はっとして、オオイシは急に飛び跳ねるのをやめた幼馴染の顔を見た。にっこり微笑むサクノの後で、エイジの頬が高揚している。目もやはり、オオイシが危険を感じるあの輝きを取り戻していた。無謀にも吐かせる気満々だ。
「正直に白状しろぉ、テヅカ!」
両手をわきわきさせながら、テヅカに飛びつこうとするエイジを、オオイシは体を張って止めようとしたけれど、そんな必要はなかった。好奇心丸出しのエイジに向かって、テヅカが絶対零度の鋭く冷たい視線を投げかける。
「うひゃ!」
それだけでエイジの動きは止まった。ついでに直接睨まれたわけでもない、モモシロやオオイシの心臓まで止まりそうだ。
怒っている。
テヅカは常に怒ったような顔をしている男だが、これは空気が違う。完全に怒り心頭の状態だった。
「承知しました、姫。これをトモカに渡せばよろしいですね?」
それでも大切な青学の姫に対してだけはいつもの雰囲気―笑いはしないが怒りも表に出さない――であるというのが、他から見ているオオイシ達としては一番恐ろしい。
「えぇ、お願い」
「はい、お任せ下さい」
大変可愛らしくお願いをする姫と、真面目に頷く近衛隊長。この光景を微笑ましいと思わなければなるまい、とオオイシは額に浮かんだ汗をこっそり拭った。エイジとモモシロは先程から本当に息を止めている。近づけば切り裂かれそうな空気は、きっと自分の気のせいだとオオイシ達が思い込もうと努めているその最中に、近衛隊長が振り返った。眼鏡の奥の切れ長の目が三人を順番に捕らえる。
「……エイジ、モモシロ。お前達は二十周の続きだ。オオイシ」
「あ、はい」
その迫力に、必要もないのに思わず敬語になってしまう。
「姫をお部屋までお送りしてくれ。それと、そういう理由で俺は一晩留守にする。後のことは頼む」
頼まれても、実際にたかが小隊長のオオイシができるようなことは殆どないのだが、ここは黙って頷いておくべきなのだろう。
「あ……あぁ、分かった。これからすぐに神殿へ向かうのか、テヅカ」
「一旦イヌイの所へ行ってくる。姫、神殿にはその後に向かいます」
前半をオオイシに、後半はサクノに向かって声をかけたテヅカに、オオイシはただ頷き、サクノはすっとテヅカの手に自分の両手を添えていつもの“お見送り”をした。
「行ってらっしゃい。テヅカ、気をつけてね」
「はい。では、失礼します」
サクノの手が離れると、くるりと踵を返してテヅカは足早に去っていった。その背から立ち上る青い怒りのオーラが見えるようだ。
「お、おっかな〜。イヌイの奴、五分後には堀に浮いてるかもなぁ」
同じ背を追っていたエイジが、テヅカの気配が十分に遠ざかるのを待ってから“ご愁傷様”と言って、イヌイの部屋の方向へ手を合わせて頭を下げた。
「ふ、不吉なこと言うなよ、エージ!」
いくら何でもそこまで怒っては、いない、と思いたかった。けれど咄嗟に脳裏に浮かんだのは、エイジの言うとおり、城の外堀に浮いているイヌイの長身だった。
「……あ、胃が……」
痛い。こんなことで、果たして約束は守れるのだろうか、とオオイシは大いに不安に思った。自分の努力だけではカバーし切れない部分というものがある。どいつもこいつも個性的というか、自分勝手というか、御しがたい性格をしていることは間違いない。イヌイだって、きっとわざとサクノ姫を仕掛けたに違いないのだから。
「オオイシ? 大丈夫?」
テヅカの怒りの火の粉が降りかからないところにいるサクノが、他の三人の反応を見て不思議そうに首を傾げる。口では「はい」と答えつつ、内心では大丈夫じゃあないです、と少し涙目になりながらオオイシはこっそり胃を押さえた。