青学の風巫女

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 顕現武器“鏡烏”が、一際目立つオーラを捕らえた。鏡烏は顕現していない状態でも、イヌイを中心とした半径五十メートルの範囲を常に捕らえている。覚醒した当初は、鏡烏から得られるその情報量に頭が混乱し、体調を崩したこともあったが、今ではもうそれに慣れていた。気配だけなら鏡烏がなくても探れるが、顕現していない状態で鏡烏が捕らえているのは、人の気配ではなくオーラ。だからどんな暗殺者が気配を殺して女王や王女に近づいても、イヌイには分かる。

 その能力を買われてイヌイは一年前、テヅカが近衛隊長として任命される同じ時期に、騎士としては異例の参謀長という立場に抜擢された。部下もいない一人だけの参謀だが、イヌイ自身はこの役職、仕事を好んでいた。面倒見が悪いというわけではないから、同期のカワムラやオオイシのように一小隊を任せられてもそれなりにこなしただろう。けれど今の方が、時間的に融通がきく。イヌイには、仕事以外に時間を割きたいことがあるのだ。実現させたい夢が。

「あと五秒。五……四、三、二……一」

 イヌイは自分にしか読めないような悪筆でまとめられた分厚いノートを閉じて、広げていた資料に栞を挟んでばたばたと閉じた。多少は机の上を整理しておかなくては、またいらない説教を食らってしまう。同い年のくせに、その説教する姿がやけに様になっていて、正直父親に怒られるよりもずっと叱られている気分になるのだ、あの近衛隊長様は。

「ビンゴ」

 イヌイが囁くと同時に、ノックもなしに部屋の扉が勢いよく開かれた。その風圧で飛ばされそうになる紙類を抑えながら、イヌイは椅子に座ったままゆっくりと振り返る。そこには青学の近衛隊長が、いつも刻んでいる眉間の皺を一層濃くして立っていた。

「おや、もう神殿に行ったのかと思っていたよ、テヅカ」

 というのは嘘だった。サクノ姫がテヅカに会うことが確実であれば、九九%の確率でテヅカはイヌイの元を訪れるだろうと予測していたからだ。明日の天気を当てるよりもずっと簡単な計算だ。

「どういうつもりだ、イヌイ」

 しかもかなりお怒りの様子で。自分で撒いた種とはいえ、その成果に手を伸ばすには相当な覚悟が必要なようだった。

「何のことだ?」

 すっとぼけると、間髪いれずにすっぱ抜かれた。ひくり、とテヅカの眉がつりあがったのが分かる。

「とぼけるな。何故姫にまで俺が神殿に行くことを伝えた。まるで俺が――」
「結婚相手をいそいそと迎えに行く花婿みたいに?」

 先を引き取って言ってやると、テヅカの眉がさらにつりあがった。

「イヌイ!」

 無論テヅカがそんな気の利いた言葉を選ぶとは思っていなかったから、十分に脚色させてもらったわけだが。

「いや、冗談だ、三分の一ほど」
「本気の度合いの方が大きいぞ、それでは」

 あ、流石に気づいたか、とイヌイは肩を竦める。

「いや、だってさ、先のことを考えたら良い方法だと思うよ?」

 イヌイは本に埋もれていた椅子を引っ張り出してテヅカに勧めてやったが、テヅカはイヌイの気遣いをまるで無視して、立ったまま話を続けた。

「どういうことだ」

 腕を体の前で組んで仁王立ちしているテヅカはそれなりに威厳があって怖い。けれど、それに怯むようではイヌイもこの位置で働くことなどできないと分かっている。

「俺は内情を知らされているけれど、元王子様は巫女としてここに来るんだろう? 男であることは知られたくない。事情を知っているのはしばらくの間、陛下と、お前と、俺だけだ」
「……そうだ」

 不満げに唸ったテヅカを見て、イヌイは確信した。おそらく、最初は事情を知っている人間は女王と自分だけということにしたかったのだろう。けれどイヌイは鏡烏を持っているし、そもそもテヅカ自身があまり隠し事には向かないタイプだ。秘密をかぎつければイヌイが積極的に乗り込んでくることを見越して、それならと最初から共犯者に加えてくれたに違いない。ちなみに、信頼を置いているオオイシに打ち明けないのは、苦労性の彼を気遣ってのことだろう。

 テヅカにしては、なかなか気の利いた選択だ。

 イヌイは秘密が大好きだ。隠されているものは徹底的に暴きたくなるし、隠す側なら決して悟られないように全力を尽くす。テヅカとはまた少々違った意味で、イヌイもまた完璧主義なのだ。

「だがあの襲撃で狙われたのはその元王子様だ。死ぬ前に漏らしていた賊の話だと、これはほぼ百%真実。だとすると次の襲撃があることを予測しておかなくてはいけない」
「だからそれについての責任は俺が負う」

 イヌイはすかさず頷いた。何もそれを疑っているわけではない。いい加減付き合いも長いのだから、テヅカの性格や実力は十分に把握しているつもりだ。彼が責任を負うというなら、それについてイヌイが気を回す必要など何もない。悪意のある襲撃なら、この男が完璧に防ぎ切るだろう。

「うん。でもさ、敵は何も外だけってわけじゃあない」

 だからこそ、テヅカの考えが及ばないところをフォローするのがイヌイの役目だ。という意味で言ったのだけれど、テヅカはうまく意図を汲み取ることができなかったようで、つまり内側にも悪意のある襲撃者がいる可能性を考えてしまったようだ。

「なに?」

 それが顰められた眉間の皺の数で判断できたイヌイは、慌てて言い添えた。

「あ、凶悪なことを考えないでくれ。俺が心配しているのはもっと単純なことで、元王子様が見目にはまったく男と悟られないほどの美人だってこと」

 何せ鏡烏を通して巫女の姿を見ているイヌイでさえ、実際は男だと教えられて、いまだにそれを疑っているくらいなのだ。ちなみに、もう一人その巫女を見ているモモシロにさりげなく聞いてみると、彼は「ちょっと胸は小さめだけど、もうなんて言うか……神々しい? 崇めたくなるくらいの美女でしたよねぇ」と鼻の下を伸ばしていた。

 崇めたくなるくらいの云々はイヌイも理解できたが、胸の大きさについてはモモシロほどこだわりがない。とにかくイヌイは常備しているノートに「モモシロは胸の大きい方が好み」というデータを書き加えた。そして胸の大きさどころか、そもそも女性の美醜を他人と同じように判断しているのかどうか謎な男は、イヌイの予想通りの反応を返してきた。

「……は?」

 それがどうした、という顔をテヅカがして見せたので、イヌイは軽く溜息をついた。好みのタイプというデータは、この男に関しては今のところとれそうにない。そういう概念がないのだろう。全く、同じ年頃の健全な男子としては信じがたいことだ。

「やっぱりそこは考えていなかったね、テヅカ。いいかい。神殿巫女は神への奉仕というその職務から、男性との接触を断つという誓約を結んでいる。でも本来純潔は巫女としての条件に含まれていない。神殿から出れば、巫女は別に結婚しても構わないんだよ。だから神殿内にいた元王子様にも求婚の話がきた。ようは神殿から出ることを前提で、話を進めたかったってことだ」

 そんなことは分かっている、とテヅカは小さく漏らした。

「……それで?」

 今度はだからどうした、という態度をするものだから、イヌイはもう一度深く溜息をついてみせた。

「同じことを青学の男連中がまったく考えないと思うかい?」

 本気で青学第一のテヅカと違って、健全に異性に対して興味を持つ年頃の男の子達や、すでに結婚相手を見つけてもおかしくないような少し年上の男性連中が王宮には溢れているのだ。しかも彼らの多くは男ばかりの騎士団に所属し、家柄もさほど良くないとなれば、王宮で女性と出会う機会なんてたかが知れている。つまりみんな飢えているのだ、基本的には。

「美人な年頃の巫女様が現れて、しかも結婚には制約がないと分かっていれば、食いつくだろう、普通」

 普通、と言いきったイヌイに、テヅカが納得しきれていないことは表情で分かった。つまり、悪意のある襲撃者ではなく、好意のありすぎる飢えた男達を警戒する必要がある、とイヌイは主張しているのだが、おおよそこういったことに関する認識をすっ飛ばしているテヅカの反応は芳しくない。

「そう、なのかもしれんが。だからといって……」

 何故自分が、とテヅカは言いたいのだろう。けれど実際にはそこが一番重要なのだ。

「そう、そこでお前の登場」

 これから短期間のうちに王宮内外に広まるであろう噂の中心人物は、テヅカでなくてはいけないのだ。他の人物とは格段に効果が違ってくる。それが、テヅカ自身には分からないことだったとしても。

「だから何故だ」

 イヌイのデータがそれを裏付ける。

「青学一の男が巫女様にご執心とあれば、あえて対抗してやろうなんて考える男は確実に減るだろう。少なくとも、夜這いを考える奴は確実にいなくなるね。これによって元王子様の身も安全度が増すってこと」

 間違いなく、劇的に。自信満々で主張するイヌイを、テヅカが胡散臭そうに見るものだから、イヌイはちょっと意地悪をしてやりたくなって、まだ伏せておこうと思っていた計画をぶちまけた。

「だからできるだけ大々的に歓迎しようと思ってね、いま準備中だ」
「しなくていい!」

 案の定テヅカが肩を怒らせて抗議するので、本気で怒り出す前にイヌイは切り札を出した。

「へぇ? サクノ姫が楽しみにしているんだがね。そうか、仕方ない。計画は中止だな」

 残念がるだろうな、姫様は。あからさまにあてつけと分かる形で溜息をついてみると、テヅカは苦々しそうな顔でイヌイを睨みつけた。幼い頃から側にいる可愛い姫には、テヅカだって弱いのだ。

「くっ……! イヌイ、お前は後で王宮内三十周だ」
「オーケー。甘んじて受けましょう? テヅカ近衛隊長」

 笑って両手を軽く挙げ、形だけの降参をすると、流石にからかいすぎたのか途端に三十周が五十周に増えた。


 個人的に鍛錬は怠っていないものの騎士団所属の友人達ほどには運動をしていないので、たまにはいいだろうと鷹揚に受け止めてイヌイが王宮五十周のノルマを走っていると、同じように二十周を言い渡されて走っていたエイジと、モモシロと会った。汗を掻きながら十五周目を走っているエイジが言うには

「良かったじゃん、イヌイ。堀にぷかぷか浮かぶよりは、五十周のほうがましだよにゃ」

 だそうだ。つまり考えられるうちでも最悪のケースを想定して、それでもエイジはテヅカを止めようとはしなかったわけだな、とイヌイは頭の中にメモした。勿論、五十周走り終わったら、そのメモはノートのエイジの欄に転記されるのだ。そのデータが今後どのように生かされるかは、イヌイの心の中である。


 イヌイのせいで気分の悪い出立になってしまった。王都の上を飛んでいる間はそう思っていたテヅカだったが、冷静に考えてみればこの短期間に零式が上空を飛ぶ姿が二度も国民の目に止まっていれば、何かがあったと思われて当然なのだろう。テヅカ家の零式が予告なしに出ることは珍しい。近衛であるテヅカが王を城に残して一人で出ることは滅多にないし、近くであればテヅカも馬を使うようにしている。零式は確かに機動性があるが、目立つという点では利点も欠点も同じくらい大きい。その姿を見ただけで“零式”だと分かってしまうからだ。同時に、それに乗っているのは“テヅカ”でしかありえないことも分かってしまう。

 そんな目立つ零式に乗って出たテヅカが、別の人間を乗せて王都に戻ってきたとなれば、国民は何事かと噂する。その噂が変に膨れて歪まないうちに、王宮としては何らかの報告を出す必要があるだろう。

 青嵐の神殿から新しい風巫女を連れてきた。

 本来ならそれだけで十分な説明だが、“では何故テヅカが”迎えに行ったのか、ということも知りたいと国民は思うだろう。長く不在が続いていた青学の風巫女就任は、急務ではないからこそ長期の不在を許されていたのだ。それなら迎えに行くのは他の人間で構わないはず。

 それでもテヅカが迎えに行く理由はいくつかある。けれどそのどれもが、今後のためにも伏せておきたい理由ばかりで、結局それらを伏せた上で言えることといえば、テヅカが自らその巫女を連れてくることを望んだ、ということだけだった。

 イヌイはそれをもっと具体的に脚色しただけだ。つまり“青嵐の神殿で出会った巫女に一目惚れしたテヅカがどうしても彼女を青学の風巫女として連れてきたいと願い、それが陛下に受け入れられた”。だから自ら迎えに行くのだ、と。

 テヅカとしてはそれで民が納得するというイヌイの言葉を信じる気にはなれなかったが、他にうまい言い訳が浮かぶわけでもなし、言い訳を考えてもたつくうちに再度あの巫女が襲われては困るということでイヌイの案に従うことにした。とにかく今の大事は、あの巫女を顕現武器と一緒に安全な場所へ連れて行くことで、自惚れではなくそれはテヅカの側以外になかった。

「長巫女殿にお目通りを願いたい」

 零式に乗ったテヅカの姿は神殿からも見えていたようだ。降り立って門前神殿へ向かうと、まるで待っていたかのようなタイミングで若い見習い巫女が出てきた。奥には他の巫女達もいるようだが、テヅカはひそひそと言葉を交し合って固まっている巫女達は気にせずに、すぐ長巫女に面会を求めた。

「は、はい。しばらくお待ち下さい」

 見習い巫女は頬を高揚させながら、テヅカの視線を避けるようにして走って長巫女を呼びに行った。テヅカが待った時間は五分にも満たない。見習い巫女に連れられて、長巫女はすぐに門前神殿へやってきた。

「テヅカ様」

 長巫女はテヅカに近づくと、見習い巫女を退け、ついでに奥の方で固まってテヅカの方を見ていた巫女達も奥に下げさせた。テヅカは周囲に長巫女以外の人間がいなくなったことを確認すると、彼女へ向かって静かに神殿へ戻ってきた理由を告げた。

「事情をリュウザキ陛下に話させていただきました。受け入れた後の責任の一切を私が負うという条件で、風巫女の受け入れの許可をいただいています」

 テヅカの淡々とした言葉に、長巫女は目を見開き、そして何かを返答しようとして言葉を詰まらせた。

「あぁ……テヅカ様。本当に?」

 しばらく唇を戦慄かせて、ようやく出た長巫女の声は震えていた。

「はい」

 テヅカが頷くと、長巫女の頬を一筋の涙が伝った。

「感謝いたします、本当に……何とお礼を申し上げていいか……」

 長い月日を、秘密を抱えて生きてきたその皺だらけの手が、テヅカの手をぎゅっと握り締める。その手のか弱さと、涙に震える声にテヅカの胸は締め付けられた。本当は、まるで自分の子のように育て、ずっと見守ってきたフジを手放したくはないだろう。せめて、先の長くない自分の最後を見取って欲しい。そう考えて当然の繋がりだ。それでもあえて、彼女は我が子を手放そうというのだ。

 この先大切に育ててきた子どもがどんな生活を青学で送ろうと、長巫女はそれを見届けることができない。それでも、このまま神殿で過ごすよりも王宮へ行った方が幸せになれると信じて送り出すのだ。もう二度と会えなくても、我が子が幸せになってくれるなら。その瞳に浮かぶ絶望にも似た深い情が溢れる色が、かつて別の人に浮かんだ様を知っている。あの涙と同じ。テヅカは急に小さくなってしまったように見える長巫女から、視線だけをそっと地面に落とした。どんなに時が経とうとも、あの瞳を、あの涙を思い出すと心が震える。それを誤魔化すようにして、テヅカは努めて単調に聞こえるよう言葉を紡いだ。

「礼など必要ありません。私は青学のために、ひとりでも多くの覚醒者を迎えたいと考えているだけですから」

 言葉の内容に嘘はない。けれどそんな誤魔化しを必要とする自分が、幼く弱く思えて、悔しかった。大切な人達を失った、あの頃からまるで自分が成長していないようで情けなさを覚えた。

「フジ様はどこに?」

 感傷を振り切るようにしてテヅカが尋ねると、長巫女も涙を拭って背筋を伸ばした。

「いまお呼びします」


 年長の巫女に呼び出されて、奥神殿にいたフジはすぐに門前神殿へ行くように伝えられた。すでに日は傾いていて、巫女達は夕食後の祈りの時間へ向けて、ちょうど中神殿から奥神殿へ向かおうとしていたところだった。数人の若い巫女が、頬を赤く染めて黒いドラゴンを見た、と興奮気味に話しているのを聞いたフジは、あの黒衣の騎士が約束どおり再び神殿を訪れたことを知って、急いで門前神殿へ駆けつけた。

 駆けつけた先では、やはり黒いマントを羽織った男が、長巫女と並んで立っていた。昨日の、もう一度この神殿に戻るという騎士の言葉を、フジは信じてはいなかった。きっと意地を張って休もうとしないフジをなだめるための方便だったのだろう、と思っていたのだ。

 だって、わざわざ戻ってきて僕の山のような質問に答えて、それで? 彼に一体どんなメリットがある?

 何もない、とフジは思った。


 ただ災厄を振りまくだけで、僕には他に何もできない。
 彼のためになることは何も――。


 けれど騎士はこうして、約束通り神殿へ戻ってきた。フジは長巫女の側に立っている騎士へ向かって、ゆっくりと近づいていった。何故、と訊きたかった。けれどなんとなく緊張した雰囲気に声が出なかった。

 何故ここにいるの?

 目で問いかけても、騎士は何も答えてくれなかった。ただじっとフジが自分に近づいてくるのを待っている。やがてフジが長巫女の隣で立ち止まると、それまで視線を離さずフジを捕らえていた青学のテヅカは、すっと視線を落とした。そして、フジが瞬きする間に、テヅカは黒衣を広げてフジの足元に膝を折っていた。

「テ、テヅカ様?」

 急に自分の前で膝を折って頭を垂れたテヅカに、フジは戸惑って一歩下がった。テヅカはフジの戸惑いを気に留めることなく、頭を垂れた状態ではっきりと告げた。

「青学テヅカ、女王リュウザキ陛下より拝命を受け、青嵐の神殿に風巫女をお迎えに参りました。風巫女フジ様。貴方のお力が青学の助けになるように、青学風巫女の任をお受けいただきたい」

 よどみなく告げられた言葉を聞いて、フジは息を呑んだ。しかしその意味を飲み込むには時間がかかった。青学の風巫女。つまり王宮内の風神殿に常駐する巫女となるようにと言われているのだ。それが分かったところで、フジの中の戸惑いは一層強くなるだけだった。

「そ、そんな急に……」

 そう、あまりにも急すぎる。そして異例のことだ。通常王宮付の巫女を、と望む場合には申し出を受けた神殿側がそれに相応しい巫女を選んで派遣する。王宮側が特定の巫女を指定してくるなんてことは、しかもそれなりに圧力をかけてくることはあっても、こんなにはっきりと一人の巫女を望むなんてこと。少なくともフジはそんな前例を知らない。

「長巫女……」

 フジは助けを求めて長巫女を見た。テヅカがフジの疑問に答えるという理由だけで、神殿へ戻ってきたわけではないということは十分に分かった。テヅカは青学に風巫女を迎えるためにやってきたのだ。

 けれど、何故僕を?

 男であり、神力はあっても“正式な巫女”ではない自分を、事情を知っているはずの彼が何故選ぶのか。一体、長巫女とテヅカの間で、どういう話がなされたというのだろう。

「お断りすることはできません。望まれれば赴く。それが風巫女としての役目なのです」
「でも……」

 フジの戸惑いを目の前にしても、長巫女は微笑むことさえしなかった。それでフジには分かったのだ。本当に、断ることはできないのだ、ということが。長巫女はもう、全て決めてしまっているのだ。

 フジは自分の前に跪いて、じっと自分の答えを待っている騎士を見た。彼もまた知っているのだ。この状況、そして今の立場でフジにはたったひとつの答えしか許されていないということを。それでも、フジが自ら答えるのを待って、頭を下げたままでいる。一気に喉が渇いて、抑えられない戸惑いに体が震えた。しかし、フジは跪くテヅカの前で、そっと頭を下げて応えた。

「……テヅカ様、その任、謹んでお受けいたします」

 頼りなく震えたその声は、まるで自分の声ではないように、遠く響いてフジの耳に届いた。


 受諾の言葉を聞いたテヅカは、巫女が頭を上げたところでようやく自分も顔を上げた。下から見上げると、巫女は頼りなく、途方に暮れたような顔をしていた。親同然の長巫女に、急に放り出されたように思っているのかもしれない。しかしその心の内を察することができたとしても、ここで慰めるのはテヅカの役割ではない。

「どうか一晩お時間をいただけますね?」

 長巫女の言葉に、テヅカは頷いた。もとよりそのつもりで来ている。一晩は唐突な迎えに戸惑う巫女の気持ちが落ち着くには足りない時間かもしれないが、長巫女と話し合う時間くらいは取れるはずだ。できれば心からとはいえなくとも、自分を納得させるくらいの覚悟をしてから王宮へ来て欲しいとテヅカも思っていたから。

「勿論です。私は近くに宿をとらせていただきます。また明日の朝に……」

 迎えに上がりますというつもりだったテヅカに、長巫女は首を横に振った。

「いいえ、神殿にお泊まりください。護衛官達の休む棟があります。狭い部屋でよろしければ」

 いくら青学の正式な使いだといえ、それは破格の扱いだった。昨日の襲撃で護衛官が少ないことも影響しているのだろうが。テヅカはちらりと立ち尽くしている巫女の方へ視線を投げた。今はこの短時間に起こったことで頭がいっぱいで、テヅカと長巫女の話など耳に入っていないようだ。不安定な心は顕現武器にも影響する。

「……では、お言葉に甘えさせていただきます」

 一度覚醒してしまえば顕現武器がある程度力を制御するようになるから大丈夫だろうとは思ったが、油断はできない。なるべく側にいた方がいいかもしれないと考えて、テヅカは長巫女の申し出を受け入れた。


 どうやって自分の部屋に戻ってきたのか、フジは覚えていなかった。けれど気づくと青学の騎士はいなくなっていて、自分は部屋に戻り、長巫女だけが側にいた。フジがベッドの縁に腰掛けると、長巫女はそのすぐ側に座る。顔を上げて長巫女を見ると、彼女はフジの見慣れた優しい微笑をその顔に浮かべた。いつもなら自然と笑い返すのだけれど、今夜はどうしても頬が動かない。せめて言葉を、と思うのだけれどそれも駄目だった。顔の筋肉をどこかひとつでも動かせば、泣いてしまいそうだったし、不用意に口を開けば“離れたくない”と喚いてしまいそうだった。

 フジは微笑む長巫女の顔から目を逸らした。その微笑に涙しか返せないなんて嫌だと思ったのだけれど、顔を下に向けたら、それはそれで自然と涙が零れ落ちそうだった。俯いてぎゅっと唇を噛むと、落とした視線の先には自分の手があって、その上にそっと長巫女の手が重ねられた。

「フジ様、今夜でお別れです。最後までお仕えできず、申し訳ありません」

 長巫女の皺だらけの手が、フジの滑らかな手をゆっくりと撫でた。温かい。この手に、フジはずっと記憶にはない母の姿を見てきたのだ。

「……どうしても?」

 涙を堪えて返した言葉は、喉に引っかかって子どものように小さく、頼りなく響いた。それを励ますようにして、長巫女の両手が、フジの手を包み込む。ぎゅっと握られた手に、フジも同じように力を込めて、思いを込めて握り返した。僅かに涙で霞んだ目を上げると、穏やかに微笑む長巫女の目尻にも涙が光っているのが分かった。

「えぇ、どうあっても。これから先、何か辛いことがあれば、それは全てこの私のせいだと思ってくださって構いません」

 その瞳に涙をたたえながら、長巫女は力強く言い渡し、同時にフジの背を押した。

「そんなこと……」

 どうすればそんな風に考えられるだろうか。むしろ彼女はずっと、多くの辛い出来事からフジを守ってきてくれていたのに。

「いいえ。どうか何があっても、ご自分を責めるようなことはなさらないで。フジ様、テヅカ様は迷いなく迷信だとおっしゃってくださいました。あの方はとても真っ直ぐなお方です。どうか、私が信じたように、フジ様もあの方を信じて、青学へ向われますように」

 はい、と答えて頷くことは、フジにはできなかった。ただフジは無言で長巫女の腕の中に飛び込み、いつの間にか自分よりも小さくなってしまった彼女の体を抱きしめた。いくら我慢しても、涙は溢れた。長巫女の腕がフジの背に回され、優しく撫でられれば余計に。けれどどんなに嗚咽を漏らしても、結局フジは“離れたくない”と言うことはできなかった。

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