白雲かき消す新風の---------------------------------------------------------------------------------
テヅカ家の屋敷は、王都の東北に位置していた。その歴史は古く、しかし歴史ある貴族にしては、テヅカの領地も屋敷もささやかな規模だった。顕現武器零式に選ばれた当主は必ずテヅカの屋敷ではなく王宮で王の側に仕えるため、この屋敷には当主の両親や兄弟が住むことになる。彼らもまた、ほとんどが王宮に出仕し、結果としてテヅカには管理する領地も、手入れに手間のかかる大きな屋敷も必要ではなかったのだ。
今は若い当主が近衛隊長として王宮で暮らしているため、このテヅカの屋敷に住むのは当主の祖父だけだった。彼自身もあまりに若くして当主の座についた孫が十三になるまでは王宮に出仕していたが、それ以降は王宮を離れ、今はテヅカの屋敷で隠居の身となっていた。
毎日の日課となっているささやかな庭の、簡単な手入れをしながらも、クニカズの腰には長剣がある。いままでずっとこの重みを感じて生きてきたためか、必要がなくても下げていなければ上手くバランスがとれないように思えてしまうのだ。庭全体の手入れは専門の庭師がいて、庭の大半を占めるクニカズ自身の妻と、息子の嫁が植えた花の手入れをしてくれていた。だからクニカズが手を入れるのは、背の低い庭木くらいのものだった。
その庭木のひとつに鋏を入れていたクニカズは、ふと顔を上げて庭木の奥に現れた顔にその鋏を取り落としそうになった。
「よぉ、爺さん」
何でもなさそうな顔でひょいと手を挙げてみせたのは、かつてはクニカズの部下であった男だった。
「エチゼンではないか! いつ戻ってきた」
今は青学の近衛服ではなく、旅にくたびれた格好をして無精髭を生やしている男は、クニカズの目には記憶よりも痩せたように映った。けれど元気そうな、そしてどこか恥ずかしそうな顔で鼻の頭を掻く姿が、手のつけられない悪ガキだった頃から今も変わっていない様子を見て、クニカズは安堵した。
「昨日かな。戻ってきたというか、ちょっと荷物を置きに寄っただけだぜ。それに、もう俺はエチゼンじゃねぇ」
その言葉の意味することが、クニカズに分からぬはずがない。
「……息子にエチゼンを譲ったということか。確か、姫と同じ年じゃったな。十三になるか」
「まだまだチビっこだがな。天衣ごと、ばあさんのところに置いてきた」
家督を譲るには早い年齢だったが、早すぎるというわけではない。
「十三で天衣を顕現できるのか?」
クニカズの孫がテヅカ家の零式を七歳で顕現し、家督を継いだように、エチゼン家の天衣を顕現できるのなら家督を継ぐ理由はそれだけで十分だと言えるからだ。だがナンジロウは首を横に振って否定した。
「いや。覚醒はしたが、顕現はできねぇ」
「何と! それでエチゼンの名を譲ったと言うのか」
再会して初めて、クニカズの声に非難の色が混じった。するとナンジロウは鼻を掻いていた手を上げて、今度は幾分苛立たしそうに髪をかき混ぜる。
「仕方ねぇだろ。あいつはこれ以上俺といても、上位覚醒にはいたらねぇ。だからと言って、王宮に戻るつもりのねぇ俺が、いつまでも天衣を持っているわけにもいかねぇし……」
王宮に戻るつもりのない俺が、か。
そこをすぐさま追及する気には、クニカズもなれなかった。こうしてクニカズの元に顔を出すことも、さんざん悩んでの結果だろうということが、一定の距離を置いた立ち位置で十分に理解できたからだ。
「……奥方は元気にしておるか」
クニカズが当たり障りのない質問をすると、ナンジロウは明らかにほっとしたような顔をして手を振った。
「あぁ、元気、元気。ちょっとは結婚当初みたいに、しおらしくして欲しいくらいだぜ」
そんな天の邪鬼なところも以前と変わらない、とクニカズは思わず微笑した。自分が惚れに惚れ込んで嫁にした女性に対して、ナンジロウはいつも口では不満を示すのだ。
ふと、笑えたことでクニカズの方も覚悟ができた。ずっと引き止めておくことができないのなら、なおさらここで告げなくてはいけないことがある。クニカズは腰に天衣とは違う、もっと刀身の短い刀を差しているナンジロウをしっかりと見据えて口を開いた。
「いつまでも引きずるな、ナンジロウ。誰もお前を責めはせん。青学にはお前の指導を必要としている騎士がたくさんいるのだぞ?」
単なる慰め、と思われないくらいの月日は経っただろうか。少なくとも、ナンジロウはクニカズの言葉に、すぐさま背を向けてここを立ち去るという行為には出なかった。
「俺は誰かを教えるなんて、向いてねぇよ。だから自分のガキだって放り出したんだ。誰かを教えるなら、クニハルの方がずっと向いていた」
その名前を口にするとき、ナンジロウの声がほんのわずか、小さくなった。クニカズはそれを聞き逃さない。
「ナンジロウ」
咎めるつもりは毛頭ない。けれどつい、呼びかける声が強くなってしまう。するとナンジロウは五月蝿そうに顔を顰めて首を振った。
「何を言っても無駄だ、クニカズ爺さんよ。俺は……王宮には戻りたくねぇんだ」
瞬間、ナンジロウの瞳に大きな空虚を、クニカズを見た。死人が生き返ることのないように、その空虚を埋める術はもうない。長く生きてきた分だけ、クニカズの方がその空虚を多く持っている。誰よりも愛した妻、そしてその妻と共に育て上げた一人息子。我が子が生みの親を慕うようにして自分を慕ってくれた、美しい息子の嫁。できれば見送るよりも、見送られる側でいたかった、と今もふとした時にそう考える。けれどナンジロウは、常にそれを考え続けているのだろう。
あれから九年経ったというのに、この男は――。
不真面目なふりをして、軽く器用に見えるように振る舞っておきながら、その実はなんと不器用なことか。そんな部分こそ、九年間で変わってくれれば良かったのだ。変われないからこその、”エチゼン”なのだと分かっていても、そう思わずにはいられなかった。その不器用さは、クニカズの孫にも通じるところがある。
「……クニミツには会ったか?」
「いや」
その否定が“会わせる顔がない”という色を帯びていなかったことに、クニカズはひとまず安心した。クニカズも、テヅカの名を継いだ孫も、彼にそんな風に自分を責めて欲しくないと思っているのだ。
「会わなくても分かる。腕ばかりの俺の強さじゃねぇ、クニミツの強さが、志が、俺の息子には必要だ。天衣がずっと、エチゼン家に求めていた強さ。それは俺の時よりも強くなっている。天衣が俺の上をいくことをあのガキに求めるなら、俺とばかりやりあっていても、あいつは俺を超えられねぇ。下手に才能がありやがるから、あのガキ、あんな子どもの癖に他を求めようとしねぇんだ。それでは、天衣が満足しねぇってことに気づいてもねぇ」
「……息子に何を求めさせたいというのじゃ、ナンジロウ」
静かに問うと、それまで真意を見せなかったナンジロウの顔が一変した。それはテヅカ家と共にリュウザキ家を守るという誓いをたてたエチゼン家の当主、顕現武器“天衣”を手にして高みを目指した男、ナンジロウ=エチゼンの顔だった。
「強さを。守るべきものを、守り切る強さを。エチゼン家を継ぐ者として、それはこの青学にしかない。当然だろう?」
守るべきものを、守り切れなかったという思いを抱えたまま青学を去った男は、クニカズに向かってそう言った。王を喪った近衛隊長。本来なら、王の側で死んでいたのは自分だった。しかし死んだのは守るべき王と、幼い頃からの親友だった。
俺は何も守れなかった。俺は――強くなれない。
そうやってナンジロウが無言のうちに自分を責めるのを、クニカズは止めることができなかった。自らも息子と嫁を喪った身としては、クニカズからの慰めを、ナンジロウは余計に重荷に感じてしまうだろうと思ったからだ。だから妻と息子を連れて国を出たナンジロウを、追って留めようとはしなかった。エチゼン家が青学から離れるという事実に当時王宮は混乱したけれど、クニカズは黙っていた。決して、ナンジロウを非難する言葉は口にしなかった。
こうして、ナンジロウが戻ってくることを予感していた、というわけではない。ただ、ナンジロウが言うように、エチゼン家を継ぐ者は決して青学から離れることはできないものだと確信していたのだ。テヅカ家がそうであるように。
「エチゼン家を継ぐ者として、お前が捧げた忠誠は、変わらず青学にある。ナンジロウ、その時が来たら、必ず戻って来い」
待っている。その時が、必ず来ると信じている。
「……爺さんが死ぬ前には、また顔を出してやるよ」
最後まで戻ってくるとは言わずに立ち去った男の影を追って、クニカズはしばらくその場から動かなかった。完全に白くなった頭の、上の方を柔らかな風が撫でていく。その風を、何故かクニカズは”新しい”と感じたのだった。
時代が、変わるか。
それもいい、とクニカズは思った。その変化が壊す過去を、創る未来を、クニカズも見てみたいと思ったのだ。
お気に入りの窓辺に座って本を読んでいた巫女が、何かに気づいたように不意に立ち上がり、本を席に置いて窓を開けた。古い紙や防虫剤、乾燥剤の匂いが篭っていた図書室内に、無臭の風が入り込む。カイドウはその風に撫でられ、まるで錦糸のように柔らかに滑る蜂蜜色の髪を眩しく眺めた。
「風が動いた」
優しい響きの声がそう告げる。風はいつも動いているはずだ、とカイドウは思ったけれど、もちろん風巫女の言わんとしていることがそれとは別の意味を持っていることもよく理解していた。まだ風に髪を遊ばせながら、巫女は窓の側から、本を整理している途中だったカイドウの方を振り向いた。
この風巫女が青学で務めるようになって一年。勉強熱心で頻繁に図書室を訪れる巫女を、カイドウは見慣れるほど見てきた。けれど――。
「これから空気が変わるわ、カイドウ。どんな風に変わるかは、まだ分からないけれど……きっと青学のためになる」
ふとした時に、何度でも思い知らされる。その美しさは初めて会ったときよりも艶やかさと華やかさを増し、それを痛感した瞬間、カイドウはまたこの巫女に初めて出会ったような気分にさせられるのだ。
「楽しみね」
その微笑に、カイドウは確信する。青学を変えるというその風は、この巫女をさらに変化させることだろう。それならば、自分はその変化について行かなくてはいけない。巫女を見失わないように。そして今度こそ、大切な人達を守れるように。