白雲かき消す新風の

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 鋭い声の響きとともに、その場の空気、そして手にした天衣がぐんと重くなったのを、リョーマは肌で感じ取った。まるで時間が止まったように、リョーマ自身の動きが止まる。

 止められる。

 一瞬どう息をしていいのか分からなくなって、苦しさで額に汗が浮いた。

 な、んだ? この威圧感!

 息を止められたまま、リョーマは何とか顔を上げた。すると、目の前で剣を振り上げていた若い騎士も、それまでの争いと関係なく、リョーマと同じように額に汗を浮かべて、血の気の引いた顔色をしていた。同じものを感じている、とリョーマは思った。同じように、この空気に威圧されて、息の仕方を忘れている。

 それに気づくと、ちょっと気持ちが軽くなってようやく息を継ぐことができた。けれど、思うように体を動かすことができない。それまで羽のように軽かった天衣が、鉛のように重く感じられる。

「……まだまだだね」

 自分を落ち着かせるつもりで吐いた強がりも、この息苦しい緊張感を削ぐには足りなかった。武者震いなどではなく、腕が震えて止まらない。こんな感覚は、いままで経験したことがなかった。

 圧倒的な存在感。
 一瞬で圧倒されたその気迫。

 けれど押さえ込まれて、そのまま縮こまっている自分なんて許せない。リョーマはぐいと思い切り顔を上げて、他とは違う存在感を持つ人物を睨み付けた。

 視線を向けた先に立っていたのは、黒と群青の軍服を身にまとった、整った顔つきの男だった。背が高い。しかし思っていたよりも線が太くない。確かにリョーマよりも年上だが、ずっと上、というわけではないのだろう。

 そして縁のない眼鏡をかけた奥にある切れ長の目は、呑みこまれそうに深い黒だった。髪も、服も瞳も。これだけ全身が闇色なのに、太陽の光の中にあっても違和感がない。リョーマの目に太陽の白い光がチカチカと瞬いて消えた。

 見たことが、あるような気がした。

 いつだったか、もっと近くでこの目を見たことがあったように思ったのだ。この存在感。その、太陽の光に映える黒い瞳を。

 親父の……?

 瞳に似ているだろうか。一瞬考えて、リョーマは自らそれを否定した。本当に真剣になったとき、ナンジロウの瞳も確かにこんな風に輝くかもしれない。けれどリョーマはそんなナンジロウを見たことがなかった。だからこの既視感の元は、ナンジロウではない。ナンジロウではないけれど、でも、確かに身近にいたような気がするのだ。

 くそっ、すっきりしない。

 舌打ちしたい思いで、つと視線を反らすと泣きそうな瞳と合ってどきりとした。猫を受け取った時に見せた笑顔とは打って変わって、曇った表情と心配げに寄せられた眉に、ほんの少しだけ罪悪感が沸き上がる。彼女はずっとリョーマ達の争いを止めたがっていた。それを聞かずに遊んだのはリョーマで、だがその結果がこの情けない震えだと思うと少しだけの罪悪感は簡単に消し飛んで、苛々が増した。

「それ以上続けるつもりなら、二人まとめて俺が相手をする」

 さらによく通る声が発したこの言葉で、リョーマの体の震えは別の意味で大きくなった。

「……へぇ? 二人まとめてなんて……大きく出るじゃん? 是非、相手してもらいたいね」

 あんたが誰だか知らないが、オレ一人だってまともに相手ができるわけがない、という皮肉を口にすることでようやく自分の調子を立て直した、と思った瞬間――。

「馬鹿言うな!」

 怒鳴り声とともに、上から拳が降ってきた。

「あだっ!」

 不覚にも黒づくめの長身に意識をとられすぎていたリョーマは、その拳をまともに受けて頭を押さえた。脇を見れば今まで争っていた大剣使いが、そのぱっちりとした目でリョーマを見下ろしていた。

「テヅカ隊長相手に勝負しようなんざ、身長が十センチは足りねぇよ!」
「ムカッ!」

 よりによって足りないのは身長か。怒りを持って睨みつけるリョーマの前で、先程までは厳しい顔をしていた上位覚醒者の一人が猫のような笑い声を上げた。

「身長確かに足んないよ。おチビ、チビだもんな!」

 なんだ、その頭の悪そうなコメントは。それにチビチビ連続して言うな、とリョーマが抗議しようとした時、隣に立っていた大剣使いに向かって静かに声がかけられた。

「モモシロ」

 静かだが、反論は許されないような響きを持つ声だ。

「は、はい!」

 それも予備学校での訓練の成果なのか、名前を呼ばれた大剣使いはリョーマの隣でビシッと姿勢を正した。

「剣を抜いたのはオオイシの命令か」

 黒づくめの男がそう尋ねると、モモシロという名前の大剣使いはちらりと少女を庇うように立っていた上位覚醒者を見やった。つまり、腹を抱えて笑っていた人物とは別の一人がオオイシという名前なのだろう。

 リョーマにはモモシロの視線を受けたオオイシが、何か言おうとして口を開きかけたのが分かった。けれどモモシロは小さく首を振って、潔く事実を答えた。

「……いいえ、俺の独断です」

 このやりとりでは間違いなく、モモシロにとってオオイシや黒づくめの男が上官にあたるのだろう。ここで自分が挑発したのだ、などと口を挟むつもりは毛頭ない。リョーマには関係ない、これは彼らの問題だから。

「その判断は正しかったか?」

 その平坦な声、そして動かない表情からは怒りもなにも感じられない。だが怒気はなくとも相変わらず人を圧倒するような雰囲気だけは醸し出している男に、モモシロはきっぱりと答えて言った。

「……いいえ。もっと冷静になるべきでした」

 重苦しい沈黙。それでもモモシロはきつい黒の眼差しから逃げることはしなかった。

「二十周だ」

 その短い言葉が何かしらの命令だったのだろう。

「はい!」

 モモシロは答えると素早く頭を下げて走り去ってしまった。


 そのモモシロと入れ違いになるように、オオイシ達のいる方へ歩いてきたのは長身のイヌイだった。彼は走り去るモモシロをどこかおもしろそうに見送ってから、

「やぁ、早速騒ぎを起こしていたようだね。モモシロと?」

 とオオイシに声をかけてきた。オオイシはそのイヌイの台詞に戸惑って、何も返すことができなかったのだが、イヌイは返事などなくても構わないという風に”騒ぎの元”へ向かって言った。

「陛下がお呼びだよ、エチゼン」
「エチゼン、だって?」

 思わぬ名前に声を上げると、イヌイがこちらを見て微笑んだ。その微笑みにさらに戸惑たオオイシは、エチゼンと呼びかけられてどこか憮然とした顔をしている小さな侵入者へ視線を移した。

 彼が、エチゼン。

 それが本当ならば、あのモモシロと互角以上にやり合えたことにも納得がいくような気がする。イメージしていたエチゼン家当主とは違っていて、にわかには認めがたいという気持ちも確かにあるのだが。

「ナンジロウ殿が息子に名前を譲ったってこと。そのナンジロウ殿はどうしたんだい? エチゼン」
「……さぁ。今頃はどっかの娼館にでも入り浸ってんじゃない?」

 息子から出たその言葉に、オオイシはさらにイメージを崩された。会ったことはないものの、青学の前近衛隊長ナンジロウ=エチゼンと言えば子ども達の憧れの的だったのだ。当時から噂ばかりが一人歩きしていた感はあったが、それでも一度植え付けられたイメージはなかなか払拭できない。まして、”娼館に入り浸っている”姿なんてとても。

 しかし同じ世代であるはずのイヌイには特別、美化された英雄めいたイメージがないのか、小さなエチゼンの答えにも怯むことはなかった。

「ふむ、そうか。まぁ、元々王宮には居つかない人だからね。さぁ、一緒に来てもらおうか。とりあえず陛下のところへ行こう。テヅカ、お前も」

 イヌイに声をかけられて、テヅカが頷く。そのテヅカは、オオイシの側にぴったりとくっついているサクノにちらりと視線を流し、オオイシに向かって短く告げた。

「オオイシ、姫を部屋までお送りしてくれ」

 きゅ、と服を掴んでいるサクノの手が強ばったのを感じたオオイシは、何とか彼女を安心させたいと思って、そっとその肩に手を添えた。

「あぁ、分かった」

 その答えを受けると、イヌイが先に立ち、幼いエチゼンの当主を連れて王城内へと歩き出した。テヅカはやや遅れて、イヌイとエチゼンの後をついて行く。そのきびきびとした歩き方に、黒いマントが規則的に揺れる様子を、オオイシは見送ることしかできなかった。

 やがて三人が建物の影に消えると、オオイシはまだ身を固くしているサクノを気遣って視線を下げた。すると、丁度オオイシの方を見上げたサクノの、泣き出しそうな目と合った。

「オオイシ、あのね、あの人、悪い人じゃあなくて。カルピンを見つけてくれたの、だから……」

 ぎゅっとカルピンを抱きしめながら、サクノは必死になって侵入者となったエチゼンの弁護をしようとする。それに加勢するように、サクノの腕の中でカルピンが鳴いた。オオイシは腰を落とし、不安がるサクノの視線をしっかりと受けて微笑んだ。

「大丈夫ですよ、サクノ様。陛下はよくお分かりです。さ、お部屋へ戻りましょう。彼にはまた、すぐに会えますよ」

 オオイシの確信を持った口調に宥められて、サクノは少し、体の緊張を解いた。

「……本当に?」

 それでもまだ心配そうに揺れる瞳に、オオイシはさらに優しく笑いかけた。

「えぇ、お約束します」

 彼が本当にエチゼンだというのなら、確実にその約束は果たされるだろう。はっきりと答えたオオイシが差し出した手に、サクノはそっと自分の手を重ねて、その言葉を信じるというように頷いた。


 前を歩くやけに背の高い男のかけていた光を通さない四角い眼鏡も気になるが、背後を距離を置いてついてくるあの黒づくめの男の存在感がリョーマを落ち着かない気持ちにさせた。振り返って睨みつけてやりたいが、実際に目が合ったらさらに落ち着かない気分にさせられそうで、リョーマは努めて後ろを気にしないように歩いた。

 前を歩いている男もリョーマを振り返ることはなかったので、リョーマは好きに視線を遊ばせて、歩いている広い廊下を見物した。石造りの高い柱、そして磨き上げられた床は確かに立派なものだけれど、王宮としてイメージしていたよりもずっと装飾が少ないように思えた。柱の上部に多少の彫刻が施されているものの、壁に絵が飾られているわけでもなし、使えない甲冑が飾られているわけでもなかった。

 いっそ素っ気ないと言ってしまえるほど、無駄なものが置いていなかった。それでも無機質な印象が強くないのは、外壁を伝う蔓植物の緑と、庭に植えられた大きな木々のせいだろうか。石と緑の調和した王宮。思っていた以上に居心地が良さそうで、きっと王宮なんてその雰囲気からして堅苦しくて窮屈で自分には長居できないものだろうと考えていたリョーマは、実際の様子を見て少し拍子抜けした。

 だからって、別に長居する気になったわけじゃあないけど。

 誰に弁明するわけでもなくリョーマがそう心の中で呟いた時、前を歩いていた男がある扉の前で立ち止まった。その扉も石造りで、しかし他とは違って面に施された彫刻が多く、細かい。何かの木が、おそらく花を咲かせている図案なのだろうとリョーマは扉を見上げて思った。

「陛下、エチゼンを連れて参りました」

 四角い眼鏡の男が中に向かってそう呼びかけると、すぐに中から返事があった。

「ご苦労、お入り」

 これもまた、ナンジロウの言葉からイメージしていたよりも”ばあさん”っぽくない声だった。はっきりとしていて、力強い女性の声だ。

「失礼いたします」

 重い扉が開かれると、眼鏡の男が中に入り、すぐに扉の脇に身を引いた。それで彼の影になっていたリョーマにも、部屋の中の様子が見えるようになった。リョーマは遠慮なく部屋の中へ一歩踏み出した。

 石の壁は流石に廊下と違って、一部がタペストリーに覆われて、それだけで印象が温かくなっていた。タペストリーは赤と白と青の複雑な花模様。よく見れば、床の絨毯も同じ模様で、それぞれの色が少しずつ暗い色になっていた。リョーマは無遠慮なくらい部屋の中をぐるりと見回し、背後で扉が閉められた音を合図のように捉えて、ようやく正面の椅子に腰掛けていた女性を見た。

 顔を見れば確かに島に住んでいたリョーマの祖母と同じくらいの年齢に見えた。リョーマからすれば”ばあさん”と言っておかしくない年齢なのだろう。しかし祖母と同じ”ばあさん”だとは思えなかった。今は座っているが、組んで無造作に前に投げ出された足の長さからいって背は高そうだし、長い髪を高い位置でひとつにまとめ、足にはブーツ、着ている服は騎士のような軍服姿。腰には細身の剣を下げている様子を見ると、本当にあの大人しそうな少女の血縁なのかと考えてしまうくらいだ。

 リョーマがまじまじとその姿を観察していると、向こうもリョーマをまじまじと観察して返した。しばらくお互いの様子を探るために無言だったが、やがて女性の方が先に口元を緩めた。

「ほぉ……ナンジロウがここを去ってから九年。それだけ時間があけば成長して当然か。まだ背は低いようだが」

 おそらくぱっと見それが一番目につく特徴なのだろう。全く嬉しくないことだが。

「……さっきから一番ムカつくところばかり指摘しやがって……」

 ついぶつぶつと文句を言うと、それを面白そうに見ていた女性がおもむろに立ち上がり、リョーマの正面に立った。やはり母よりもずっと背が高い。そしてまさに”女王”という風格がある。

「天衣を見せておくれ、エチゼン」

 別に意固地になって反発するつもりもなかったけれど、自分でも驚くほど自然に、リョーマはその声に、言葉に反応して、腰に下げていた天衣を鞘ごと抜いて持ち上げていた。すると女王はさらに一歩大きく踏み出して、天衣の前に立った。そして視線を一度、天衣の上に注いで滑らせる。

「あぁ……確かにエチゼン家の顕現武器。歓迎するよ」

 門番が見ても判断できなかった顕現武器を、女王は一目で認めた。そして最後は天衣から目を離し、リョーマを見てそう言った。

 温かい眼差しだった。リョーマは天衣を腰に差し戻し、改めて目の前に立つ女王を見た。猫を探していたふんわりとした印象の少女とは違って、目の前に立つ女性は確かに女王と呼ぶに相応しい威厳と、国をまとめる機知を存分に持ち合わせているように感じられた。年齢を感じさせない覇気を全身に漲らせている。

 彼女は自分が王であることを自覚して、実際に王であろうとしていた。

 悪くない、と咄嗟にリョーマは思った。おそらくナンジロウもそう感じたから、この女性に仕えていた時期があったのだろう。そして何らかの理由で離れた。それがこの女性のせいなのか、それともナンジロウ自身の問題であったのか、リョーマには分からない。

「あのさ、オレ、別にあんたに仕えるために来たわけじゃあないよ。親父が一度で良いから王宮へ行けっていうから来ただけ。これからどうするかは、オレが決める」

 すぐに出て行くから、という気にはならなかったから正直にそう言ったが、その無礼な口の利き方にも、女王は面白そうな表情を崩さなかった。

「まるで幼い頃のナンジロウを見ているようだよ、その生意気な口の利き方。直してやろうとも思えないね、ここまでくると」

 ナンジロウとの血縁関係を持ち出されるのは、はっきり言って本意ではないのだが、五月蝿く直されるよりはましか、と思ってリョーマは反論しなかった。

「好きにする、と言っても、持ち金もなく出て行くわけにもいくまい? 王宮に留まるというのなら、とりあえず宿と飯はタダで提供してやれるがね。どうする?」

 どうやらリョーマが現状無一文であることを、ナンジロウが先に教えていたらしい。それならしっかり門番にも伝わるくらいのタイミングにして欲しかった、とリョーマは心の中で父親を罵った。それから女王の言葉を検討する。ナンジロウの言う「俺より強い男」というのが誰なのか、まだ確信はしていない。そこまで居心地の悪いところでもなさそうだし、王宮に留まることを考えてもいいのだが。

「それなりの仕事はしろってことだろう?」

 置いてくれ、と自分から言い出すのは嫌だった。

「それはここを出て行っても同じことだろう」
「どうかな。退屈するようだったら、ごめんだね」

 騎士として、縛られるならそれなりの見返りがなくては。リョーマの視線を受けて、女王はその要求を感じ取ったのだろうか。一層この事態を面白がるような顔をして見せた。

「それは自分で確かめるしかあるまい」
「……確かめていいってことだよね」

 視線を背後の黒衣に一瞬だけ向けると、女王もちらりとそちらへ目だけ動かし、何か得心したような顔で微笑んだ。

「気の済むまで」

 不敵、というならこのような顔のことを言うのではないだろうか。だが、おそらくリョーマだって負けてはいない。

「……分かった。とりあえず、世話になるよ、ばあさん」
「陛下とお呼び。それくらいの敬意は払ってもらうよ。そしてお前は……顕現もできないひよっこが、エチゼンの名前を名乗るには早すぎる」

 それを聞いて、リョーマはひょいと肩を竦めた。陛下、という言葉は練習しなくてはいけないだろう。これまでリョーマの語彙にはなかった言葉だ。そしてエチゼンの名前については、それこそ肩を竦める以外に何ができるだろう。

「それは自分でも思ってたよ」

 なんせ天衣は受け継いだというよりも、放ってよこされたものだったから。それにくっついてきたエチゼンの名前は、できればうっかり受け取り損ねたかったくらいなのだ。

「お前の名はリョーマだったね」

 リョーマは素直に頷いた。

「リョーマ。それでは、天衣が顕現できるようになるまでは、エチゼンの名は封印しておきな」


 スミレの言葉に、大きな目をした少年はニッと口の端を上げて短く答えた。

「上等」

 スミレはその言葉に口元を緩めた。少年は知らないだろう。スミレが父親を騎士として叙任したときも、同じ言葉を聞いていたなんてことは。

「イヌイ」

 それまで影のように気配を感じさせず、扉のところで控えていたイヌイを呼ぶと、イヌイはすぐに頷いて頭を下げた。

「心得ております」

 何もかも察しのいい男だから、何を説明するでもなく、スミレの言いたい事は全て把握しているのだろう。スミレが頷き返すと、イヌイはおそらく今日一日で“生意気な新人”と騎士団員から呼ばれることになるだろう少年を手招きして、部屋の扉を開けた。

「リョーマ、付いておいで。とりあえず夕食を皆と食べよう。それから今日からの寝床と仕事場に案内するよ。俺はイヌイだ。これからよろしく」
「……どうも」

 やれやれ、同じ職場で働いていく先輩にもその態度かい、とスミレは呆れを通り越して感心してしまう。あのナンジロウでさえ、尊敬できる先輩にはそれなりの態度をとったものだけれど。

 でもまぁ、”今はまだ”尊敬できるもできないもない、ってことだろうさ。

 それならそれで構わない。あの性格なら多すぎる衝突も楽しんで突き進むだろうし、それをフォローできないような人間には、イヌイもリョーマを預けないだろう。

「では陛下、失礼いたします」
「あぁ」

 イヌイがリョーマを先に部屋から出し、自分が出て行く前に一礼して扉を閉める。二人が退室したのを見送ってから、スミレは背後の椅子に腰掛けた。部屋に残ったのは、忠実な近衛隊長だけだ。

 部屋にはしばらく沈黙が流れる。スミレは目を瞑り、先程まで目の前に立っていた少年の、大きな瞳を思い出した。生意気な性格をよく表しているその目。あれと同じ目を、スミレはずいぶん長く見てきたように思う。空白の九年間は、あの瞳を見ただけであっという間に埋まってしまった。懐かしい、と思っているのだろうか。スミレは自問する。九年など、スミレが生きてきた年月から言えばそこまで長い時間ではない。懐かしいと思うなら、きっとスミレは自分で思う以上にあの瞳が帰ってくるのを待っていたのだ。

 あの瞳は、スミレの息子と、そしてもう一人の男と共に、長い間この青学にあった。九年前まで、青学の近衛隊長の任についていたのは、ナンジロウ=エチゼンだった。彼が近衛隊長の任を捨て、家族を連れて青学を去った後、しばらく近衛隊長という重要な任は、誰も継ぐことがなかった。そう、二年前までは。

 スミレは目を開け、傍らに立っている男を見上げた。男はスミレの視線に気づいて、眼鏡の奥の瞳をそっと伏せる。

「さて、ナンジロウの奴、何を思って顕現もできない後継者を寄越したのかね。どう思う? テヅカよ」

 ナンジロウの代わりにリョーマ。スミレはそう考えつつ、ナンジロウの後を継いで近衛隊長の任を受けた男の反応を待った。

「あの人の考えは分かりません。ただ……」

 スミレの息子の代わりに孫娘のサクノ。

「ただ?」

 そして、もう一人。

「あの天衣はまるで、眠っているようでした」

 騎士団大将として青学の将軍職にあった男、クニハル=テヅカの息子。

「……覚醒者の手にあるのに?」
「はい」

 父と同じ力を受け継ぎ、それ以上の力を育て続ける名実共に青学最強の男。

「眠っている……か。テヅカ」

 リュウザキがテヅカと呼びかける相手は、目の前の青年で三人目になる。彼女が最初に女王として立った時から、長く彼女と青学を支えてくれたクニカズ。彼女の一人息子を、王位継承前から支えてくれていたクニハル。そして彼女と共に彼女の息子夫婦、自分の両親を喪ったあの幼い少年は、激しく燃える炎をその心のうちに宿しながら、動かない顔でそれを覆って彼女の前に起っている。

 クニミツ=テヅカ。一見冷たそうに感じられるその無表情の裏で、彼女の最後のテヅカは一体何を考えているのだろうか。

「お前さんなら、起こせるかい?」

 スミレのその問いかけに、テヅカはしばらくの沈黙の後、表情を変えずに口を開いた。

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