ようこそ、青学王国へー1st day

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 イヌイという長身の参謀長が出て行ってしまうと、部屋の中には沈黙が訪れた。イヌイと一緒に部屋を出て行こうとしていたらしいテヅカは、目の前で扉が閉められるとしばらくその扉を睨んでいたが、フジがその背をじっと見ていると、やがて諦めたように溜息をついて振り返った。ずっと見ていたフジと目が合うけれど、やはり何も言わない。扉から離れて、椅子に座る様子も見せない。

「……納得いかない」

 先に口を開いたのはフジの方だった。頭の中で何度もイヌイの言ったことを繰り返し、短い時間で何度も繰り返し考えてみたけれど、やはり納得できないものは納得できないのだ。

「君、どうしてそんな噂を許したの?」

 憮然とした調子で問いかけると、説明の必要性は流石に感じたのか、テヅカは腕を組んだまま渋々といった様子で口を開いた。

「納得いかない、という点に関しては俺も同じだ。何故ほかの誰かでは効果がないのか、俺には理解できん。だがそもそも、そういう人の心の機微に関しては俺よりイヌイの方が聡い。あいつが、効果があるというならそうなんだろう」

 確かに、フジだって人の心の機微に疎いわけではないが、世間の事情というものに関しては疎い。少し話しただけでも、イヌイという男の優秀さ、賢さは感じたつもりだったし、さらにテヅカがそれを認めるというのならフジに口を挟む隙はないのだ。嫌々でも、イヌイの言葉を受け入れたということは、テヅカがそれだけ彼の力を認めているという証でもあって。

 僕が何を言えるわけじゃあないけど。

 それでももっと他の噂をひねり出すことができたのではないか、と考えてしまう。よりによって、テヅカが――。

「すまん。お前には不快な噂だろうが」

 フジの憮然とした顔を見たせいだろうか、テヅカは組んでいた腕を解いて体の脇に下ろすと、小さく頭を下げて謝ったのだ。フジはそれを見て慌てて首を横に振った。

「そうじゃあないだろ! 不快なのは、君の方じゃあないか。そんな気もないのに、一目惚れしたなんて噂を立てられて……君、本当に好きな人とかいないわけ? もしかしたらその人と両想いかもしれないのに、困るでしょう? それに、僕らはお互いに男同士だって分かっているんだから、余計に……不快に思うのは君の方だ」

 最後に声が小さくなってしまったのは、男同士と分かっていても本当に「不快だ」と言われれば自分が辛いような気がしてしまって、強く言えなかったせいだ。自分が望まれるわけがない、という不安を完全に払拭されたわけではなかったから、余計にテヅカの重荷になるだけの自分が、情けなく思えたのもある。

「男同士だと分かっているという点ではお互い様だと思うが。それに、別にそういう意味で好きな相手などいないから、困ってもいない」

 あっさりと言いきったテヅカに、フジの思考は一旦停止した。本当に困った様子を見せないということは、一般的な十五の男子はそういうもの、なのだろうか。それともテヅカだけが特別そういうことに興味のない性格なのか計りかねた。フジもいままで女の子に――なんせ今までは女の子との距離が近すぎた――特別な興味を覚えたことはないのだけれど、自分の場合は事情が特殊であるからして。

「……これから困るかもしれない」

 と精一杯常識的だと思われる結論を口にしたつもりだったけれど、テヅカには深い溜息をつかれてしまった。

「それを今から心配する気にはなれん。それに、陛下に是非にとお頼みしてお前を連れてきたのは、確かに俺だ。噂もまったく真実が含まれていないわけではない」

 真実といっても”是非にと頼んで”の部分だけではないか。それにそれは――。

「長巫女が……」

 テヅカに頼んだからだ。長巫女には先がないことが分かっていたから、彼には断り辛かっただろう。そういう事情を汲んでなお”是非にと頼んで”連れてきた、とは言えないのではないか。フジが言いかけると、テヅカはそれを否定するようにして首を振った。

「あの人の言葉は確かに切実だったが、俺はそれだけでは動かなかった。言ったはずだ。お前の力は必ず青学の助けになる」

 確かに彼の口からそれを聞くのは二度目だ。まるでそれだけが真実のように言うけれど、でもフジにはそう思えない。

「何もかも、青学のために?」

 それはあまりにも不器用すぎではないか、とフジの声には自然と非難の色が混じった。それを感じ取って、テヅカは僅かに苦笑して見せる。そして特に諦めたような様子もなく、平時と変わらぬ様子で言い添えた。

「俺はそういう生き方しかできない男だからな。お前が気に病むことは何もない」

 知ってる、とつい言いそうになって、フジはそんな自分に困惑して口を噤んだ。知っている、なんて、会って三日も経たない相手に言える言葉ではない。でも何故か、自然とそんな言葉が喉元まで上がってきたのだ。そしてその言葉を口にするのも、呑み込むのも同じくらいフジを苦しめた。

 何も言い返せずに喘いだように唇を震わせて、結局口を噤んで大人しくなったフジを見て、テヅカは道中の疲れが出たのだと思ったのだろう。

「湯浴みと夕食の用意をさせる。今日はもう休め」

 そう言って、部屋から出て行こうとする。フジは慌てて椅子から立ち上がり、扉を開けているテヅカを追った。

「あ……明日は、どうすればいいの?」

 扉の前で追いついて尋ねると、テヅカは部屋の外に出てから振り返って答えた。

「明日からのことはイヌイに任せてある。朝課は自分の体調を見て、できるようならやってくれ。朝食後あたりにイヌイがこちらに来て、明日からのことを話すだろう」
「あ……うん、分かった」

 胸元に上げた手が、つとテヅカの服の端を捕まえそうになっていて、フジは自分でも驚いて手を引っ込めた。もう少し、一緒にいて欲しいなんて、それこそ彼の重荷になるだけだ。初めての場所で一人になるのが不安だと言えばそうかもしれないが、これからはこの状態が普通になるのだから、幼い子どもでもあるまいし、早く慣れなくてはいけない。そう自分に言い聞かせるフジに、テヅカは短く告げた。

「何かあったら呼べ」

 その時ふわりと、まるでマントを一枚かけてもらった時のように体が温かくなったのは、テヅカの手が腰に下げた飛燕にかかったせいなのだろう。

「……うん」

 フジが答えると、すぐにテヅカは身を翻し、本宮殿へと繋がっている二階へ向かって階段を上って行った。フジはその背が消えるまで扉を開けたまま立っていたが、足音さえ聞こえなくなると扉を閉めて部屋の中へ戻った。


 しばらく何をするでもなく、新しく自分の暮らす場所となった部屋や庭を見て回っていたが、やがて自分より年上の従女が一人やってきて夕食や湯浴みの用意をしてくれたので、まずは用意された夕食を一人で食べた。フジが食事を摂り終わると、テヅカやイヌイから何か言いつけられていたのか、従女はフジに着替えを用意して、湯浴みの残り湯はそのままにしておいて構わないということを伝えると、夕食の皿を片付けて部屋を出て行った。神殿では何もかも自分達でやっていたので、そうやって食器を片付けてもらうことや、湯の後片付けをしてもらうことには違和感を覚えたが、今日のように疲れている時は素直に甘えてしまえと思った。

 それからフジは湯に浸かり、用意された服を着た。神殿内はとても静かで、イヌイの言った通りもう見張りの近衛兵が立っているだけなのだろう。疲れているし、湯に入って適度に暖まった体をすぐにベッドに横たえれば眠れたかもしれない。けれどフジは横にはならず、階段を上って屋上へと出た。

 空を見上げると、星がとても綺麗に見えた。青嵐の神殿でも夜空は見上げたれど、まるで初めて見るような、何とも言えない不思議な感じがした。視線を下ろして首を巡らせると、本宮殿の黒い影が目に入る。王宮は必要最低限の明かりしか灯しておらず、それは眼下に広がる王都も同じことだった。

 だからこんなに、星が見えるんだ。

 フジは暗い中、これから自分が過ごすことになる国を、飽きもせず眺めていた。背面の山から吹き下ろす風は、新しいこの国の巫女を温かい風で包み、その体が冷たくならないように優しく撫でたのだった。

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