ようこそ、青学王国へー1st day

---------------------------------------------------------------------------------

 イヌイは巫女とともに一旦廊下へ出て、それからすぐに右に折れて本宮殿の西側へと向かった。隣を歩く巫女は、イヌイの差し出した手にほんのりと自分の手を重ねている。イヌイが眼鏡の奥から視線を向けると、まずは小さな頭の、綺麗な右巻きのつむじが目に入る。艶やかな蜂蜜色の髪は、天使の輪のようにまあるく光を反射して、歩くたびにちらちらと揺れている。この年の女性にしては背がいくぶん高めであるが、同い年の男と考えると――イヌイが飛び抜けて長身であることを差し引いても――小さい。

 もちろん、これから成長するという可能性は十分にある年齢だが。

 滑らかで柔らかな手の平を感じてしまうと、その可能性もあまり高くないように思えた。それに自分の半分くらいしかないような肩幅、細い首、まるで宙に浮いているかのような軽やかな歩みを見てしまうと、本当に同じ性別なのかと疑ってみたくなる。正直鏡烏を通して見た時よりも、実際に目の前で見た今の方が、よっぽど美しい女性に見えるのだから、疑い深くなって当然ではないだろうか。

 でもまぁ、服を変えれば物語の中の王子様、と言えなくもないか?

 髪をもう少し短くすれば、年若い王子様として女の子が夢見るような理想の王子様になりそうな気もしたが、あいにくイヌイは女の子ではないのでそういう夢は見れなかった。どちらかといえば、髪を長くして理想のお姫様に近づけた方が早いように思えたし。

 つらつらと本人には聞かせられないような失礼なことを考えつつも、イヌイは歩調を巫女に合わせ、この王宮で巫女が常駐することになる神殿へと向かった。それは小さな神殿で、王宮とは渡り廊下で繋がっていた。城門を南とすると、こちらは丁度王宮の西側にあたる。元々青学の王宮は切り立った山に背面を預けた形で、山から突き出る島のように建設されているから、神殿も同じようにその片面をむき出しの岩に預けていた。細い渡り廊下は、下を見るとずいぶん高いところにあることが分かるだろう。繋がっている先は神殿の二階部分であり、巫女の住む部分はその下、そして風神殿としてもっとも大切な屋上は、三階の神殿部から登ってさらに上にある。イヌイはまず二階を通って、三階から屋上へと上がってみせた。それから一階へ下り、小さな寝室と風呂場、それから普段過ごすことになる少し広めの部屋を案内し、それに面した空上の庭園を見せた。

 巫女は寝室以外にも自分の部屋があることを知ると、少し驚いたようだった。青嵐の神殿ではもっと小さい寝室ひとつだけが、自分の居住スペースだったということだ。イヌイは一応、すぐに生活するには十分なものを揃えたことを告げ、軽く確認をして他に何か必要であればすぐに持ってくると言って、巫女に部屋の中を確認させた。巫女はイヌイの言う通り、部屋の中を少し歩き回って自分の荷物を入れることになる長櫃などを覗き込んだ。特になくて困るようなものはなさそうだったが、自分に背を向けた巫女の姿を見て、イヌイにはちょっとした悪戯心が湧いた。

「本当に、他に必要なものはないかい?」

 それまでバカ丁寧な言葉遣いをしていたイヌイが、急にくだけた口調になったものだから、巫女はぎょっとしたようだった。

「……いえ、特には」

 緊張した面持ちでイヌイの方を振り返り、それから足が一歩、庭園の方へ向かって動いた。それを見て、なるほどとイヌイは思った。神殿で自分が狙われたことくらいは、テヅカから説明を受けて本人も自覚しているらしい。

「俺は君の事情を知っている。大丈夫だよ、他には誰もいないから、もっと寛いだらいい」

 穏やかな口調で言ったことは真実だったけれど、巫女の緊張は解かれなかった。

「テヅカ様と陛下だけかと……」

 視線はしっかりとイヌイを捉え、巫女の足はまた一歩、庭の方へ動いた。テヅカがイヌイのことを言い忘れる、という可能性は二十%と踏んでいたのだが、どうやら道中巫女の質問に答えるのに精一杯で、本当に言い忘れてしまったらしい。やれやれ、とイヌイは首を振った。

「あいつも説明が足りないな。君のことを知っているのはテヅカと陛下、そして俺。専用の従女はつけられないけれど、不自由はないね?」

 君の事情を知っている、とイヌイは言ったがその事情については何も言及していないため、まだ信用はできないという意味で巫女の目はしっかりとイヌイを捉えて、彼が不意に動くことを警戒している。

「大丈夫です。神殿でも身の回りのことは自分でやっていましたから」
「用心深いんだな」

 そういうところは、イヌイのよく知っている彼に似ている。それもあってか、イヌイは巫女の警戒心の強さを好ましく思った。王宮内の安全性に関しては鏡烏の能力もあって自信を持っているが、それに甘えて警戒心を忘れるような巫女はごめんだと思っていたからだ。

「テヅカ様なら、油断するなというところでしょう」

 そして頭の回転の早さを感じさせる切り返しには、思わずイヌイも吹き出してしまった。確かにテヅカならそう言うところだろうが、それを会ってまだ三日もない相手から指摘されるとは思わなかった。案外今後、あの難しい近衛隊長の良い理解者になれる逸材なのかもしれない。

「あぁ、よく分かっている。でも、本当に大丈夫だよ。俺には周囲五十メートルほどの範囲で、あらゆるものの気配を察する能力があるから。この顕現武器”鏡烏”のおかげでね」

 イヌイが笑いながら腕につけている銀色の顕現武器を見せると、巫女は興味をそそられたのだろう、一瞬警戒の色を薄れさせて首を傾げた。

「顕現武器? でも、それはブレスレットに見えます」

 おや、とイヌイは眼鏡の奥で目を見開いた。どうやら道中テヅカに向かってたくさん質問をした割に、顕現武器に関してはほとんど何も知らないらしい。テヅカもとりあえず詳しい説明は避けたのか、それとも説明するタイミングを逃したのか。おそらく後者だろうな、と思いながらイヌイは説明した。

「知らないのかい? 顕現武器というのはあくまで総称でね。実際には武器の他に、玉や装飾品もあるんだ。俺の鏡烏は偵察用の顕現武器でね。建物の壁やなんかを無視して、俺と鏡烏で視覚を共有することができるんだ。顕現していない状況でも、気配くらいなら察知できる。だから正真正銘、この周囲には俺達以外にいないよ。誰かが来たらすぐに教えて上げられる。だから、もう少し緊張を解いたらいい。ずっとそれでは疲れるだろう」

 丁寧に説明をすると、ここでようやくイヌイのことを信用してくれたらしい。巫女はほっと息を吐くと、肩を下げて体の緊張を解いたようだった。

「……ありがとう」

 そう言って微笑む顔は、先程女王や姫に見せていたものとはまた違ったものだった。適度に力を抜いた、おそらく一番素に近い笑顔なのだろう。女性的だと感じられる部分が少し消えて、代わりに同い年の少年、というよりだいぶ中性的な印象の顔が覗く。ガラではないが、天使のような笑顔、という表現がイヌイの頭をかすめ、同時に心臓が自分でも驚くほど大きく跳ねた。一瞬のことだったので、自分でもその反応をどう捉えていいのか分からず、イヌイはとりあえずそれまでと変わらないと思える態度で説明を続けた。

「どういたしまして。この棟は丸々風巫女のための棟だから、昼間は流石に手伝いの者を入れさせるが、夜は入り口に近衛騎士二人の護衛を置くだけで空になるからね。勿論、俺みたいな偵察用の顕現武器を持つ者もいるだろうから油断はして欲しくないが、何かあればすぐに駆けつけられる位置に、俺もテヅカもいるから安心していいよ」

 その言葉を、巫女はゆっくりと噛み締めて本当にイヌイのことを信用してくれたようだ。とりあえず窓側に逃げるようにして伸ばされていた片足を戻して、イヌイに呼びかけた。

「イヌイ様」
「イヌイでいいよ」

 間髪入れずにイヌイが訂正すると、巫女は一瞬きょとんとした顔をして、それからまたあの”天使のような笑顔”を見せる。それを目にすると、イヌイの心臓はやはり制御しようもなく大きく跳ね上がるのだ。

 まずいな、癖になりそうだ。

 制御できないそれが、不快ではないのだからなおさら。

「じゃあ、僕のこともフジって呼んで。イヌイ、僕はこんなに広い場所で生活するのは初めてだから、ちょっと配置がよく分からないんだけど、説明してくれる? 君やテヅカは普段どこにいるの?」

 打ち解けて僕、と言ったフジのその一人称には思ったより違和感を覚えなかった。ただ本人にとっては残念なことに、ボーイッシュな少女が自分を呼ぶのに”僕”と言っている、ようにしか見えないのだが。

「座っても?」

 イヌイが部屋にあるテーブルセットを指差すと、フジは笑って頷いた。

「勿論」

 椅子を引いて先にフジを座らせると、イヌイは丸いテーブルを挟んで向かい側の椅子に腰掛けた。それからテーブルの上に手を伸ばして、まずフジの左手側の一点を指差す。

「ここが君の生活する王宮内神殿。本宮殿から右に歩いてきただろう? 真っ直ぐ来るとこの神殿。手前で左に曲がると奥院がある。ここにリュウザキ陛下とサクノ姫がいらっしゃる。近衛隊長であるテヅカはこの奥院の一番手前に部屋がある。だから神殿には近い。俺はテヅカの部屋のもう少し奥にいる。ちょうど五十メートルの範囲にリュウザキ陛下とサクノ姫の部屋が入るような位置で、常に目を光らせているってわけ」

 イヌイはテーブルの上で指を滑らせながら、王宮内の配置を描いてみせた。フジは身を乗り出すようにしてイヌイの指を熱心に追って頷く。

「うん。他には? 例えば、僕を出迎えてくれたオオイシ隊長は、どこにいるの?」

 その問いに、今度はフジの右手側へ向かってイヌイは自分の指を滑らせた。丁度本宮殿を挟んでこの神殿と反対側になる位置だった。

「オオイシ達騎士団の連中はちょうどこの神殿と本宮殿を挟んで反対側だ。俺やテヅカ、オオイシと守備隊副隊長であるエイジ、そして騎兵隊第一小隊長のカワムラは同期なんだ。君とも同い年ってことになるね」

 そう言うと、フジの顔は眩しいくらいに輝いた。もしかしたら同い年の男友達を期待しているのかもしれないが、風巫女という立場上はそう上手くいかないだろう。だがそれをこの場で指摘し、せっかくの明るい表情を曇らせるようなことをする必要もないな、とイヌイは思って黙っていた。

「若い人が多いの? この国の騎士団は」

 イヌイの心のうちなど知る由もないフジは、その眩しく輝く表情のまま質問を続ける。なるほど、この調子で質問を繰り出されていたら、元々口数の少ないテヅカにはそれに答えるだけで精一杯だっただろう。イヌイは自分も質問が好きだし、好奇心に応えていくのは苦にならない人間だったから、フジの反応の良さは素直に楽しいと思えるのだけれど、テヅカの場合は困惑が先に立って楽しいとは感じられなかっただろう。

「そうでもないよ。他にも三つの大隊、七つの小隊がある。それらの隊長は皆俺達より年上だ。でも、顕現武器を持っている比率は、確かに俺達の年代が一番高いかもしれないな」
「君の役職はなに?」
「俺は、ひとりっきりで部下もいない参謀長。収集した情報を元に、リュウザキ陛下のご相談に乗る特別な役職だよ」

 イヌイがちょっと茶化して言うと、フジもそれに乗って軽く笑いながら、

「カッコイイね」

 と茶化して返した。フジは冗談も理解してくれるようだし、話していてとても気持ちが良い。イヌイは自分でも気づかないうちに、自然と笑顔になっていた。

「ありがとう。普段は殆どサクノ姫の教育係をしているんだけれどね」
「僕にも色々教えてもらえるかな?」

 それは尋ねられるまでもないことだった。今回の風巫女就任に関して、責任の一切はテヅカにあるが、彼は近衛隊長としての仕事があり、とても風巫女の教育までは手が回らない。その点、イヌイは事情を知っている三人の中で、一番動きやすい位置にいるわけだし、鏡烏のおかげで護衛にもなる。すでに女王の命令を受けて、イヌイはこれからサクノとフジの二人をそれぞれ教育することになっているのだった。

「勿論。そのうち王宮内を色々回ってみよう。オオイシやカワムラにも会えるし、興味があれば図書館も案内するよ」

 図書館、と聞いてフジの顔はさらに輝いた。サクノも熱心な生徒だったが、これからはフジも熱心な生徒になるだろう。美人二人の教育係とは、かなりの役得だなとこっそり眼鏡を光らせたイヌイは、そこで思い出したように声を上げた。 

「あぁ、でも各部隊の隊長や副隊長には、君の歓迎会で会えるかな」
「歓迎会?」

 会話が楽しくて、という理由でイヌイまで伝えなければいけないことを忘れてしまっては、後々テヅカをからかえなくなる。意外な言葉を受けたフジが首を傾げるので、イヌイはその趣旨を説明する。

「あぁ、君の顔見せを兼ねて宴を行うことになっているんだ。急には君も困るだろうから、三日後にね」

 イヌイが言うと、三日後でも困る、という顔をしてフジは首を振った。

「わざわざそんな……」

 たかが王宮付き巫女の就任に、そこまでしなくても、とフジが考えていることは理解できた。しかしイヌイはフジの言葉を遮って強く主張する。

「いや、それくらいしておかないと、新しい巫女様を一目見ようと色んな連中が入れ替わり立ち替わり神殿近くをウロウロしても困るだろう?」

 実際には、各部隊長が目を光らせてそんなことをする馬鹿者が現れないように努力するだろう。逆に言えば、それくらいの努力をしなくてはならないほどの事態だ、ということだ。それはイヌイが狙っていた事態でもあるわけなのだが。

「そんなに珍しいの? ただの風巫女だよ? 前任者の方だっていたんでしょう?」
「ただの風巫女なら確かにそう珍しくもないかもね。ただ君の場合は……」

 ちょっと特殊な状況になっているのだ、と言いかけたところに部屋の扉をノックする音が響いた。イヌイは扉が開かれるよりも先に、その奥に立っている人物に向かって呼びかける。

「テヅカ、丁度いいところへ来た」

 まずイヌイの声が返ってきたことを、テヅカはいぶかったようだ。部屋の主であるフジの返事を待たず、テヅカは扉を押して中へ入ってきた。

「何だ? お前、まだここにいたのか、イヌイ。巫女様はお疲れだと……」

 入ってきた途端に説教を始めようとするテヅカを、イヌイは手を振って制した。

「まぁまぁ、座れ。巫女様はいきなり青学に連れてこられて色々不安なんだよ。こうして座りながら説明するくらいいいだろう。お前ときたら、俺のことも碌に説明していなかったようだからな」

 テヅカはイヌイの示した椅子には座らず、扉の前に立ったままフジを見やり

「……話していなかったか?」

 と言った。

「全然」

 フジが椅子に座ったまま憮然と言い返すと、テヅカは少し記憶を探るような沈黙を置いて、やがて確かに言い忘れていたと認めて素直に謝った。

「そうか、すっかり話しているつもりになっていた。すまない」

 すっかり話しているつもりになるくらい、いつも以上に喋ったということなのだろう、とイヌイは脇で聞いていて理解した。フジの方はあっさりと謝ってきたテヅカに少し不満そうな顔を見せたものの、溜息をついて謝罪を受け入れた。こちらは自分でも質問してばかりだったという自覚があったせいだろう。

「もうこれ以上、僕のことを知っている人はいないんだよね?」

 それでも念を押すように確認したフジに、テヅカはすぐ頷いて返した。

「あぁ、しばらくは、陛下と、俺とイヌイだけだ」

 椅子に座ったまま二人のやりとりを観察していたイヌイは、その距離感に内心で驚いていた。男でも女でも、テヅカとこんなに急速に距離を縮めた人間は、今までいなかったように思ったからだ。イヌイはオオイシ達よりも早くテヅカと知り合っているが、知り合って二ヶ月は、意思の疎通どころか会話を続けるのすら苦労していた記憶がある。テヅカもイヌイも頭の回転は速いが、何よりテヅカは必要最低限のことしか喋らないのだ。二ヶ月して会話が続くようになったのも、イヌイがテヅカの会話特性を理解したからに過ぎない。冗談を言ってからかえるようになったのは、半年以上過ぎてからのことだった。

 それがどうだろう。フジとは会話が続いている。続いているどころか、お互い遠慮のない話し方をしていてまるで長年の知り合いのような雰囲気まで感じられる。

「分かった。それで、なんの話をしていたんだっけ?」

 本人達は、それを感じていないのだろうか、とイヌイは不思議に思ったが、それを口にすることはせずまずは素直にフジの問いに答えた。

「風巫女が珍しいか珍しくないかっていう話だね」
「あぁ、そうだった。それで? 僕の場合は何で珍しいわけ? 男だからっていうのはなしだよね? 君達しか知らないんだから」

 その疑問を受けて、結局イヌイが最初に勧めた三つ目の椅子に座ることもせず、立ったまま壁際にいるテヅカを見やってイヌイは肩をすくめて見せた。

「テヅカ、自分で話すかい?」
「……話すも何も、俺はまだ納得がいかん」

 イヌイはその答えに肩をすくめたまま首を振った。そんな二人のやりとりを見て、フジは益々疑問を深めたようだった。

「何のこと?」

 説明して、と首を傾げながらの言葉が大層可愛らしいので、イヌイはテヅカに説明させるための説得をあっさりと諦めて自分が答えた。

「つまり、君が珍しいというよりはね、フジ。珍しいのは、テヅカの方なんだよ」
「益々分からないよ。テヅカが珍しくて、何で僕まで注目されなくちゃいけないわけ? そもそも、テヅカは青学の人なんだから、珍しくもなんともないじゃあないか」

 まるでテヅカがそうしているように、フジまで眉間に皺を寄せたものだから、イヌイは慌てて言い添えた。

「ごめん、ごめん。謎かけみたいな話し方は止めよう。単刀直入に言うよ、よく聞いて」
「うん」

 真剣な表情で頷いたフジに、イヌイは同じように真剣な顔で息を吸うと、一息で次の言葉を言いきった。

「今度迎えられた風巫女は、青学一の堅物が神殿で一目惚れして、是非にと望んで連れてきた美少女だ」

 そして早口で言いきられた台詞に、フジはぽかんと口を開けて、

「……は?」

 と返すだけだった。その反応ごもっとも、と思いながらイヌイはフジの頭が追いつく前に続けて言った。

「ということになっている。この青学では」

 そして近日中には様々な国でその噂話が流れるだろう、とイヌイは予測している。電波速度に関しては、もう少し考えてみる必要がありそうだが、遅くても一週間。早ければ五日以内に北の氷帝国まで流れ着く、というのが今のところの予想だ。

「今度迎えられた風巫女っていうのは僕だよね?」

 そろそろと自分を指差しながら、フジは確認するようにイヌイを見て言った。

「そう」

 イヌイが頷くと、フジは首をひねってテヅカを見る。おそるおそる、といった様子で。テヅカはフジの視線を受けても、腕を体の前で組んだまま黙って動かなかったので、フジはもう一度イヌイを見て確認した。

「青学一の堅物っていうのは……テヅカ?」

 またまたイヌイは頷いて返した。

「うん」

 フジは絶句して、一生懸命イヌイとテヅカの顔を交互に確認したが、二人ともそれが冗談だと言わないことに絶望したようで、テーブルに両手をついて突っ伏した。

「つまり、テヅカが僕に一目惚れして青学に連れてきたって……そういうことになっているの? 何で!」

 フジの叫びに応える代わりに、イヌイは立ったままのテヅカを見やった。テヅカはイヌイの視線を感じると、眉間の皺を濃くして睨んできたが、イヌイはその鋭い視線を難なく流してしまった。やがてイヌイの視線に合わせてフジの視線まで感じられるようになると、テヅカも観念したのか深く溜息をついてから口を開いた。

「イヌイの主張によると、お前の身の安全を確保するため、ということだ」

 あくまで自分は納得していない、という姿勢は崩さないつもりらしい。おやおや頑固なことで、とイヌイが両方の眉を上下させると、テヅカはますます渋い顔をしてイヌイを睨みつけた。

「どうして……あぁ、もうわけが分かんない!」
「混乱させた?」

 テーブルに突っ伏して首を振るフジにイヌイが問いかけると、ぱっとフジの顔が上がる。

「初日から頭が痛くなるくらいにね」

 恨みがましい顔で見られても、何となく微笑ましく思えるのはフジの人柄のせいなのだろう。イヌイは勝手に緩んでしまう口元をなんとか誤魔化して、申し訳なさそうな顔をしながらフジを宥めた。

「それは悪かったね。でも、王宮内ではすでに端から端まで伝わっている噂だから、後から人づてに聞くよりは今はっきりさせておいた方がいいと思ったんだよ」
「その気遣いは嬉しいけど……」

 できればもっと納得しやすい話をして欲しかったよ、とフジは言った。

「とりあえず要点だけ。この噂は、君の秘密を守るために必ず一役買うってことを覚えておいて。テヅカという存在が青学でどういう位置にあって、彼の名前でどれだけの効果があるのかは、生活するうちに分かる。もっとも、本人はよく分かっていないようだけれどね」

 そのご本人からは、そろそろイヌイが身の危険を感じるくらいの殺気が立ち上っている。明日の朝一で王宮内五十周は硬いようだ、とイヌイは覚悟を決めた。

「それと、この噂はあくまでテヅカが君に一目惚れして、ということになっているけれど、君はできればそんな噂なんて耳に入ってこない風に装ったほうがいい。下手にその好意を突っぱねた、とか受け入れたなんて噂が立つと、別の面倒が起きるからね」

 実際にその点に関して注意をするようにアドバイスをくれたのは、女王リュウザキだった。曰く、女の嫉妬ほど面倒なものはない、とのことだ。同じ女性が口にする言葉ほどリアルなものはない。イヌイは迷いなくそのアドバイスを取り入れたのだった。

「……分かった」

 頷いて言ったフジは、けれど納得はしていない、という表情だった。しかしこれ以上の説明や説得は、イヌイの役目ではない。

「また明日以降に、疑問があれば何でも聞くよ。とにかく三日後の歓迎会の件と、その噂だけは覚えておいて」
「うん」

 フジが答えたことを確認して、イヌイは座っていた椅子から腰を上げた。すでに十分長居してしまっている。フジもこれ以上質問をする気にはなれないようだし、言ったように明日以降も時間はあるのだ。

「じゃあ俺は先に失礼しよう。テヅカ、後はまかせた」

 立ち上がったイヌイの後に続いて部屋を出ようとするテヅカを押しとどめて、イヌイは自分だけ部屋の外に出る。

「おい」

 つまり本日はこれ以上の説明や説得をテヅカに丸投げするつもりで。もう五十周は確実なのだから、限界まで遊んでやらなくてはならない、とイヌイは妙な使命感に燃えて一言付け足した。

「ごゆっくり」
「イヌイ!」

 からかいに対して投げられた怒鳴り声は、扉を閉めて遮断してしまう。イヌイは上機嫌で風神殿を後にした。明日からのことを考えると、例え朝一に五十周走らされる運命が待っていると分かっていても気分が上向く。こんなに浮かれた気分になったのは、久しぶりではないだろうか。

 さて、これからどうなるやら。

 含み笑いを漏らしながら、上機嫌のままイヌイは図書館へと向かって歩き出した。

Back / Next