ようこそ、青学王国へー2nd day---------------------------------------------------------------------------------
これは……君のその思い出と一緒にしまっておくべきだと思う。
そう言われて、祭服を渡された時に触れた柔らかな手の感触が、眠りに就くその時までずっと残っていて。だからだろうか、テヅカは久しぶりに昔の夢を見た。
それは丁度、フジに話をした時の出来事で、国王と王妃に抱かれた一姫を一目見ようと人々が城の大広場に集まっていた昼間のことだった。三歳になっていたテヅカは、近衛であった父に連れられて一週間ほど前に一足先に産着に包まれたサクノに会っていた。まだ子どものテヅカから見てもサクノは小さく、ひと月ほど先に生まれていたエチゼン家の長男リョーマよりももっと小さく見えた。
これからテヅカの騎士として、お前がお守りし、仕えることになる方だぞ。
祖父から厳粛に言い含められるまでもなく、その小さな手に触れた瞬間から、テヅカの心はサクノの存在を受け入れていた。サクノの誕生を、この国で一番喜んだのは実はテヅカだったのかもしれない。
生まれたばかりのサクノは、リョーマよりもずっと大人しく、泣き方も耳をつんざくような金切り声ではなく、もっと穏やかなものだった。眠っている時間の方がまだまだ多くて、当然のことだが国民へのお披露目の日にも、サクノは母である王妃の腕の中でぐっすりと眠っていた。テヅカも、この時はまだその名前を継いではおらず、普段は祖父と共にテヅカの屋敷で過ごすことが多かった。けれどせっかくのお披露目の日、王宮付きの風巫女である母が祝いの舞を舞うというので祖父に連れられて王宮に来ていた。嬉しいことに、その日は特別に近衛代理としてバルコニーに立った父の側で――必然的に王や王妃、そしてサクノの側で――広場の中央に設置された舞台の上に立つ母を、本宮殿のバルコニーから見物することができたのだ。
『ほら、ご覧、クニミツ。これから母上が舞うよ』
誇らしげな様子で父が指差した先には、母が人々の投げかける花弁を浴びて立っていた。いつもは首の後ろでひとつに縛っている黒髪が、今日は丁寧に梳かれて肩を流れている。服は白を基調としているところはいつもの巫女服と同じだが、金の刺繍が太陽に輝き、普段はつけない金属の頭飾りも光を反射してちらちらと輝いていた。
冬の冷たい風の吹く中で、母アヤナの白い手が宙に伸びる。ざわついていた民衆が、その仕草だけで口を噤み、その場は風の音だけが支配する。差し出された両手が胸の上に置かれ、膝を折って頭を下げた後に、最初の一歩が踏み出される。足につけられている鈴が凛と鳴った。
素足の左が舞台についたと思ったら、その足を軸にくるりと細い体が回転する。長い服の裾と袖が、それに合わせてふわりと広がって、刺繍模様の蝶が舞う。くるりくるり。回転しながら流れる髪。微笑みながら、母は風のように舞い、やがてその舞に合わせるようにして風自身が舞う。風の神が、巫女の舞に惹かれて一緒に踊っているのだ。
『綺麗だろう?』
愛する人の美しく舞う様を見て、父は本当に嬉しそうで、誇らしそうだった。テヅカも、誰もが見惚れる優美な母の舞を誇りに思って答えた。
『はい』
普段も母はとても綺麗な人だったが、舞っている風巫女はテヅカの母親という立場を離れて、人よりも神に近い美しさに輝いていた。
幼心にも強く響く、本当に美しい光景だった。風が、人々の投げた花弁を巻き上げて巫女の舞をさらに華麗に演出する。巫女の舞を邪魔しない距離を保ち、舞い上がり、揺れて回転する白と淡い桃色の花弁は上気した巫女の肌と頬の色によく似ていた。テヅカがその花弁を、そして翻る巫女服の袖を無心に追っていると、唐突に風が強くなった。テヅカは小さい自分の手を風よけにするために目の前にかざしたけれど、それでも耐えられないくらいに強い風はテヅカに向かって吹き荒れた。優雅に舞っていた花弁が、まるで鋭い刃のようになってテヅカへ向かってくる。思わず、テヅカは目を瞑っていた。父の声が聞こえたような気がしたが、それも激しい風の音にかき消されてしまった。
ふと止んだ風の音に目を開けると、いつの間にか父も人々もどこかへ消えてしまって、母だけが真っ暗な闇の中で一人舞っていた。翻る長い袖。風が長い髪にまとわりついて遊ぶ。けれどあんなにたくさんあった白と桃色の花弁は、その一片も残さず消えていた。
舞は終わりに近づいていた。母が両足で地面を蹴ると風の力でふわりと宙に浮かび上がり、それから裾を広げて雪のように舞い降りた。両足が黒い闇に着くと、鈴の音がまた凛と鳴ってテヅカの耳に残った。舞の終わりに深く頭を下げた母は、立ち上がり息子を振り返って微笑んだ。
テヅカは唐突に、自分が幼い子どもではなくなっていることに気づく。そして癖のように自分の腰に手をやるが、触れるはずの刀に手が触れない。零式が、自分の手元になかった。ひやりと背筋を伝う冷たい予感。
はっとして母アヤナの方を見ると、彼女はテヅカの方に手を伸ばして、その小さな唇を開いた。
この夢は――。
テヅカは思わず母の方へ駆け寄りながら、それでも心の中では同じ言葉を繰り返していた。
この先を見てはいけない。
目の前がチカチカとして、警告のように目眩が起きる。それでもテヅカは走り続けた。手を伸ばして微笑むアヤナの、その手を取ることができないと分かっていて、また、これが夢だと分かっていて、それでもテヅカは手を伸ばし、アヤナの手を掴もうとして走った。
起きなくては。
けれどそう思っても夢から覚めることはできない。母は微笑み、そして口を開いて息子の名前を呼ぶ。
これは夢だ。いつまでも、こんな夢を見ているわけにはいかない。
いつまでも、こんな夢に心を乱されていてはいけない。そう思いつつ、テヅカの手は母に向かって伸ばされる。後一歩で、手が届くというその時――。
『テ・ヅ・カ』
――なに?
目の前が朱に染まった。伸ばされた手は触れ合うことなく、倒れ込んできた細い体をテヅカは受け止めた。腕の中を見ると、白い巫女服が血に染まっている。
見るな――。
テヅカの中で誰かが警告した。けれどテヅカは見てしまった。腕の中に倒れ込んできた人の、黒く長い髪。
いや――これは……。
母ではない。いつもの夢ならば、母は息子の名前を呼んで、その場に倒れるはずだった。テヅカはいつも、倒れ行く母を支えることさえできない。けれど今日は何故か、背を血に染めた人が腕の中にいる。長い黒髪ではなく、淡い蜂蜜色の髪をした、華奢な体が腕の中に――。