ようこそ、青学王国へー3rd day

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 右手が、零式の柄を掴んだ。慣れた重さと冷たさに、テヅカの意識は一気に覚醒する。腹筋だけで上半身を起こすと、カチャリと傍らの零式が硬質な音を立てた。

 なんという――。

 夢を見たのだろうか。額に流れる汗を、テヅカは左手で拭った。中盤までは今までにも何度も見ていた夢だ。心が不安定な時ほど、あの時のことを夢に見る。変えられない過去を、テヅカは夢の中でさえ変えることができずに、何度も何度も、無力なまま母を死なせてしまう。

 テヅカは寒くもないのに身震いした。いつもは意志の力で抑え込めるはずの心臓が、大きく脈打って頭に血が上る。雑念を払いたくて目をきつく閉じれば、浮かぶのは神殿の庭で舞っていたフジの姿だった。テヅカは身の脇に横たえていた零式をきつく握りしめた。こんな夢を見た理由。それがテヅカには分かっていた。


 テヅカが風巫女を、と望んだすぐ後に、それなら新しく巫女服を仕立てるつもりだとリュウザキから聞いて、テヅカは母の祭服のことを思い出した。墓に入れた一着を除いて、ほとんどは祖父のいるテヅカの家に置いてあるが、神殿で使うかもしれないと鈴などの祭具と、式服を一枚くらい王宮の自室に置いていたのだ。結局後任が決まるまでに時間がかかりすぎ、テヅカも時折風通しをさせる以外ではその存在を忘れかけていたのだが、部屋を探してみれば確かに小さめの箱に入れられてそれはあった。中を見てみればまだ使えそうな状態だったので、深く考えもせず人を呼んでそれを神殿に届けさせたのだ。

 イヌイに伝えた通り、それを是非使って欲しいと思ってのことではなかった。ただそのまま使われずにおくのも、もったいないような気がしただけのことなのだ。だから、祭服を着て舞っているフジを見た時は本当に驚いた。母が着ているところは一度しか目にしたことがなかった祭服なのに、鮮やかにその一度きりの光景が目の前に浮かんできたからだ。

 そして驚きと共に戸惑うほど感情の昂りが起こった。母の記憶とは関係なく、風になびいて金色に光るフジの髪と、白い祭服に包まれた細い体を見ながらテヅカは必死で足を動かさずにいた。今も、その時と同じような昂りを、テヅカは必死で抑えている。きつく閉じた瞼の裏に、あの時のフジの様子が浮かんでくる。まるで風そのもののように身軽に舞い踊る、伸ばした手足の優美さ、翻る指先の繊細な形。舞を見られて恥ずかしそうに頬を赤らめ、そして立ち尽くすテヅカの心内を知らずにふわりとした足取りで近づいてくるあの姿を。無防備に、そしてどこか心配げにテヅカを見上げる首の角度。今まで他の誰にも、感じたことのない衝動だった。

 抱きしめたい――。

 テヅカは確かにあの時そう思ったのだ。目の前にあるその体を無理矢理にでも引き寄せ、腕の中に閉じ込めてしまいたいという。全身が粟立つほどの、狂気にも似た衝動だった。あの時、相当苦心してようやく触れたのは祭服の袖だった。手を伸ばさないでいることはできなかった。まるで、自分のものではないかのように制御の利かない感情に屈して、テヅカは手を伸ばしたのだ。今だって、自然と手が伸びる。フジの気配がする顕現武器に――。


 しかしそんなテヅカを咎めるかのようにして、握っていた零式が急激に冷たくなった。


 それですっと、頭に上っていた血も冷えて、テヅカは冷たい零式を持ち上げ、両手でしっかりと握り締めて目を閉じた。しばらくそうしながら呼吸を落ち着けていると、まるで他人の心のように制御できなかった妙な昂りが零式に吸い取られるようにして治まり、頭もだいぶすっきりとしてきた。ようやく、平静さを取り戻したと感じた頃に、テヅカは目を開けた。まだ暗い部屋の中。当然ひとりきりで、手の中には零式の柄がしっかりと収まっていた。

 零式を手に握ったまま、テヅカはベッドから降りて窓辺へと立った。空が白み始めるにはまだ早い時間のようだった。そうかといって、この状態で再び寝付けるとも思えない。灯りを点けて何か本でも読んでいようか、と思ったところでベッドを振り返るとそこに横たえられた飛燕が目に入る。先程までの妙な感情の昂りはなく、テヅカは冷静にその刀を見つめた。しばしの思案のあと、テヅカの視線は窓の外、城内の風神殿のある方へ向き、それからまた預かっている顕現武器へと戻った。

 確かめてみるか。

 テヅカはベッドに戻り、その縁に腰掛けると、自分の零式をベッドの上に置いてその代わりにフジの顕現武器飛燕を手に取った。抵抗感はない。起きている時には感じられるはずの、フジの意識の端のようなものも、今は感じられない。こんな時間だ。昨晩はほとんど眠っていなかったようだから、今日は流石に疲れて寝入っているのだろう。この様子なら多少無茶をしても気取られずにすむと判断して、テヅカは手の中にある刀を両手で持ち上げ、まずはその鞘をじっくりと眺めた。

 零式と同じ、黒塗りの鞘で模様や金物はない。太刀緒は紫。全体の重さはその大きさからか、やはり零式よりも軽い。目を滑らせて柄の方を見ると、柄巻も暗い紫の紐だった。握りはテヅカの手には少し細く感じられたが、フジの手には逆に少し太いくらいかもしれない、とテヅカは自分の手に重ねられたフジの手の感触を思い出して考えた。

 次に見たのは鍔の部分だ。最初に目にした時から、気になっていた部分でもある。テヅカは柄を下にして、飛燕を縦に持ち直した。 鍔に施されている装飾はやはり、見たことのある紋だった。花藤の文様は、テヅカの屋敷近くにある墓に刻まれている文様と同じもの。正式にテヅカ家の紋として使われているのは真向月の紋なので、代々の墓にはその紋が刻まれているのだが、ひとつだけ離れた場所にある墓には花藤の紋が刻まれていたのだ。幼い頃は祖父に言われて花を手向けたり掃除をしたりしに行っていたから、よく覚えている。ひとつだけ違う紋を刻んだ墓にも深く気にせず花を供えたりしていたが、心のどこかで疑問を感じていたのも確かだ。他家から嫁いできた人の墓なのか、とも思ったが、祖母も母もテヅカ家の墓に入っている。その花藤の墓に入った人が誰なのか、テヅカは知らないのだ。

 青学の図書館で、家紋を調べてみたこともある。けれど集められた各家紋の中に、花藤の紋は一切見当たらなかった。それどころか、藤が少しでもあしらってある、そんな家紋も見当たらなかった。それは奇妙なことだった。藤の花は青学でも古くから愛され、その花や葉の形をあしらった刺繍などは多く残されている。けれど家紋として採用する家はなかった。しかしそんなこと、いままではあまり深く考えたことはなかった。テヅカは学者ではない。墓の紋ひとつにこだわって調べ尽くすというところまでは及ばなかったのだ。

 けれど、この顕現武器が現れた。
 テヅカ家の零式に良く似た意匠のこの飛燕が。

 調べてみるべきなのだろうか。だがそれで一体、何が分かるというのか。自問しながら、テヅカの手は自然と柄と、鞘に分かれて置かれていた。そのまま水平に持ち直し、刃を上にすると、鞘尻を上げてするりと鞘を抜いた。暗い部屋の中で、月明かりに飛燕の刃が白く輝いた。

 やはり似ている、とテヅカは思う。その鋼の色。刀身の伸び。飛燕は小太刀なので勿論大きさは違うが、テヅカの零式に似たものを感じる。同じ手によるものなのかどうか、テヅカは職人ではないから分からない。けれど多くの武器を扱ってきた経験が、二つの刀に共通する何かをテヅカに訴えている。

 その時、闇の中で美しく伸びる刀身に目を奪われていたテヅカは、傍らに置いた自らの顕現武器が警告のようにかちゃりと音を立てるのに気づかなかった。遅れて次の瞬間――。

「……っ!」

 テヅカの手の中にあった飛燕が火傷しそうなほどに熱くなったかと思うと、空気が破裂するような衝撃を残してテヅカの手の中から消えていた。右の手に収まっていた鞘も一緒だ。しまったと思ったがもう遅い。フジは寝入っている様子だったし、覚醒してからもほとんど離れていた武器と覚醒者だから、そこまで同調しているとは思っていなかったのだ。だが完全にテヅカの読みが甘かった。寝入っていても反応できるほど、フジと飛燕の絆は深まっていたのだ。例え物理的に離れていたとしても。そもそも、顕現武器とはそういうものではないか。自分だって、それくらい知っていたはずなのに。

「……謝りに…………行けるわけがないか。こんな時間に」

 他人に顕現武器を預ける行為がどれほど居心地悪いものか分かっていながら、それでも強く言って預かっていたのだ。信頼を裏切るような形で行われたテヅカの行為は間違いなくフジを怒らせただろうし、今はよほど混乱した状態で目を覚ましたはずだ。

 テヅカは額を押さえ、深く溜息をついた。余計に眠るどころではなくなってしまったが、自業自得だ。顔を上げて風神殿の方向へ意識を向けると、顕現された飛燕の力がゆらゆらと不安定に揺れている様子がよく分かった。このまま朝一番で謝罪しに行かなければならないだろう。きっとフジは細い体を怒りに震わせて、あの蒼い瞳でテヅカを見上げるだろうが。

 ……それを見たい、などと。

 そんな不埒な考えが頭をかすめて、かっと血の登った頭を振って、テヅカは再び額を押さえた。暗い夢は振り払ったつもりだったのに、腕の中に倒れ込んできた人の、力の抜けた体の重みがまるで現実のもののようにテヅカの体を重くする。テヅカは無意識に零式に手を伸ばした。そうしていれば、悪夢も零式が祓ってくれる。それを期待するようにして、テヅカはそのまま夜が明けるまで動かなかった。

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