あの山を越えて
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山吹王国はその名の通り、国の領土のほとんどすべてを山地が占めている。どの山も標高が高く、人々はそんな山々の間にわずかに拓けた平地を探し、転々と集落を形成していた。国外から攻め込まれるようなことがあっても、険しい山々が守ってくれるが、逆に山々に分断されて国内の勢力も集まりづらく、痩せていて決して恵まれた土地ではない。売りにできるのは木材とわずかな鉱物資源だけだが、それも国や一部の貴族達の懐を潤している程度であって、庶民には規制が強く、還元されない資産だ。
首都さえも山の斜面を削り取って作られたような高低差のある都で、当然王宮は山の天辺に位置し、貴族街、商人街、ギルド、庶民街、そして底辺の城壁外に貧民街があった。わずかに採れる鉱物を巡って、他国からの商人の出入りはあったが、それも近年は厳しく制限されていて、新しい商人はなかなか許可証を得ることができなくなっているらしい。
この国は暗い。いや、正確に言うなら、暗くなってしまったというべきだろう。元々隣国の青学のように、土地に恵まれた豊かな国ではないが、それでも山吹の人々は陽気にやってきた、と母はいつも言っていた。ミナミには分からない。生まれてから、ようやく国の状況というのが見えるようになった頃にはすでに、山吹は今のように暗い国になっていたのだから。
すべては十三年前のクーデターが原因だった。朗らかで、陽気な王は妻の弟と軍によって殺され、美しく聡明な王妃は幼い息子と共に王宮を追われ、二年後に山の奥の粗末な小屋で息を引き取った。国民から好かれた王と王妃はいなくなり、誕生を全国民から祝福された明るい髪色の愛らしい王子は行方知れずとなる。貧しい中にもあった笑顔の芽はすべて摘み取られ、義兄を弑逆した弟は元々陽気な性格ではなかったが、自分の罪から目を反らすようにしてますます陰気になった。今では搾取する側の軍が幅をきかせ、搾取される側の王都の貧民街は拡張するばかりだ。五年前幼馴染みのヒガシカタと、人目を盗んで初めて訪れた王都は情けないほどに荒れており、貴族街と王宮だけが美しく整えられているその様は逆に醜悪ですらあった。
ケンタロウ=ミナミの父は、十三年前のクーデターの際に主君の家族と、自分の家族を守って王都を逃れた。マサミ=ヒガシカタの家族と、公私にわたって先王の相談役を勤めていたミキヤ=バンダが一緒だった。落ち着いた先で王妃は自分の弟が夫を手に掛けたことを悔やみ病を得、息子を残して命を落とし、ミナミの母が息子であるケンタロウとともに王子を育てた。ミナミの父と、ヒガシカタの父は、王妃が亡くなった後、家族を残して王都へと舞い戻った。王妃の遺品を持ち、主君の仇を討つために王宮へ入り込み、捕まって後見せしめのために処刑された。
「貴様の罪は決して許されはしない! 王を弑逆し、王妃を悲嘆のうちに死に追いやり、何の罪も亡い幼い王子を死に渡した!」
「必ず報いがあるぞ! それまで、罪に怯えながらその座にしがみついているがいい!!」
父達は耳を削ぎ落とされ、腕を切られても呪いの言葉以外には苦痛の声さえ上げなかった、と貧民街でパンを恵んでやった老人は語った。それは王に殉じるだけでなく、たったひとり生き残った幼い王子への追手を振り払うためでもあった。逃げた王妃とともに、王子も死んだ。それに憤った忠臣達の最後の叫びであることを印象づけるために、父達はあえてその身を捧げたのだった。
残された母は、父の死については何も言わなかった。ケンタロウが父のことを知ったのは、バン爺と呼んでいる剣の師匠、そして父の上司でもあった男から、一緒に育った王子のことを打ち明けられた話の流れの中でのことだ。父達は大きな犠牲を払った。自分の命を代償にして、しばらく主君の子が平穏に暮らせるだけの時間稼ぎをしたのだ。残された顕現武器は、ミナミとヒガシカタ、それぞれの息子に受け継がれ、王子とともに、王子の”ため”に育った。
キヨスミ=センゴク。王妃に似た髪の色を持った少年は、五つになるまで自分の身分を知らずに健やかに、そして朗らかに育った。自分の両親が既に亡いことは理解していたものの、小さな隠れ家のような村からほとんど外に出ることなく育った彼が”国”というものについて何の実感もなく生きていたとしても、それは当然のことであっただろう。
「王子サマって、本当はもっとおいしいものが食べられる身分なんじゃないかなぁ」
自覚がないと言えば、本来彼に仕えるべき身分の自分も同じことだ、とミナミは思う。ひとつ下の弟のようにして、戯れ、喧嘩をし、時に慰めあって育った彼に、今更物語の騎士のように、膝をついて忠誠を誓う自分は想像できなかった。正直にそう言えば、今はそれでもいいとバン爺は笑った。そしていずれわかる、とも言った。どこか遠くを見るような目をして。
いずれ、というのが一体いつのことなのか。十七歳になった今も、ミナミには分かっていない。父達が命を賭して稼いだ時間は、その命の重さに比べればそう多くない時間でしかなかった。王妃と王子が死んだという情報を手にしても、山吹の王には追わなければいけない行方があったのだ。
”虎眼”。
それは山吹の王が手にしていなければならない顕現武器。殺された王が最後まで手にしていなければならなかったその顕現武器は、死に際して彼の手元にはなく、そのため今でも現王は偽物の王でしかなかった。建国秘話の中に語られる、王を選ぶ顕現武器に選ばれなかった者は、決して山吹の王にはなれない。可能性があるというのなら、王に子どもが生まれたその時に、虎眼はその子どもを王として選んだということだ。そしてそれは正しい。虎眼はキヨスミを王に選び、世間的には死んだ王子の手から離れて、覚醒者を失い、”誰か”の手に渡って行方不明になった。現王と彼を擁立した軍は血眼になって虎眼を探しているのだ、今でも。
ある時、十歳になったミナミとヒガシカタ、そしてムロマチとセンゴクを連れて、バン爺はそれまで拠点としていた村を離れた。当然、ミナミ達は母と離れることになる。離れた方が双方にとって安全なのだ、というバン爺の言葉をミナミは無条件に信じた。そうであって欲しいと思ったのだ。父のように、母までがこの暗い国の犠牲になって欲しくなかった。
この国は嫌いだ。未来に希望の持てない暗い国。虎眼を追う王の追手は、結局それを手にしているキヨスミに辿り着く。死んだはずの王子に。それが分かっていながら、バン爺が国を離れないでいる理由をミナミは知らない。山沿いの国境には抜け道があるはずだし、国を離れたくないと思う理由は少なくともミナミにはなかった。父を殺したこの国に、暗くて貧しいこの国に、義理立てするような理由もないと思う。
そんなミナミの心の内を知っていたからだろう。バン爺が王都の様子を見てくるようにミナミとヒガシカタを送り出したのは。百聞は一見に如かず。稽古の時にバン爺が口にする言葉だ。けれどミナミ達はずっと閉じた人間関係の中で暮らしてきて、稽古以外のことで一見する機会はごく限られていた。それまでこの国の厳しい自然は目にしてきたけれど、人々の営みの厳しさまでは知らずにいた。追手から逃げながら立ち寄る村々は確かに貧しかったけれど、まだ”生きている”という力を感じた。王都というからには、人が集まりより生活力の溢れる場所なはず。それが父の死の色を残していたとしても、ミナミやヒガシカタにとっては初めての”都”だったのだ。
「……センゴク」
バン爺は何もかも、嫌になるくらいよく知っているのだ。一目見れば何もかもを理解する。そんな光景があること、そしてそんな光景に若者達がどんなに抗っても刺激されて止まないことを。
「ん? はに? ミニャミ」
バン爺のことは尊敬しているけれど、時々何もかも彼の思い通りに動かされているようで少し気に食わない。実際、彼の思うように動けなければ、早々にミナミ達は追手に見つかり、殺されているだろう。そう、目の前ですっかり固くなった黒パンを、今日ヒガシカタが仕留めてきた鹿肉の油で何とか柔らかくして口に放り込んでいる、暢気そうな男の命だって。
「口に物が入っている時には、飲み込んでから話せ。行儀が悪いぞ」
あと、焼いた鹿肉の油が口の端から垂れている。指摘するとぺろりと舌で舐めとろうとするが、既に顎にまで達した油には届いていない。小さな木造のテーブルの反対側についていたミナミは、咄嗟にテーブルにあった布を手に取って相手の顎を拭う。されるがままにミナミに拭わせておいて、センゴクは咀嚼を続け、ようやく固いパンと肉を飲み込んだ。
「ミナミが口に入っているタイミングで声かけるのが悪いよ」
途端に口から飛び出したのはミナミへの非難だ。続けて、あと固すぎるパンもいけない、と幼い子どものように口を尖らせながらセンゴクは言う。言いながらも、それ以上にいい食事は見当たらないのだから仕方なしという風に、残りの黒パンを一切れ口に放り込んだ。王宮で暮らしていたら、いくら貧しい国とはいえ、確かにもっとましな食事を口に出来ていただろう。けれどセンゴクは文句をいいつつも、これはこれでおいしい、と最後には満足げに食事を終える。十分な量が確保できない時でさえも。
「ごちそうさまでした」
この男が悲嘆にくれている姿というのは、あまり思い浮かばない。それは、確かにまだ幼い頃には夜に泣いたりもしたが、悲嘆にくれるというのとは違う。この暗い国にあって、一番暗くなっておかしくない状況にある男は、単なる能天気なのか、それとも一筋の光明なのか。前者が八割、と一番近くに生きてきた自分の感覚を信じたいところだが。
「……お前さ、他の国に行ってみたいと思わないか」
何を唐突に、と思っただろう。けれどミナミの問いかけはセンゴクにとっても魅力的なものだったらしい。目をきらきらさせて、少し興奮したように乗ってきた。
「思うよ。海の方とか行ってみたいなぁ。きっと女の子も開放的で、健康的な肌した子がいるんだろうなぁと思うし、北の方だったら色白の美人さんがいるのかなぁって思う。実際、行って一緒に遊んでみたいよねぇ」
最初に思い浮かぶのが、女の子の話ばかりというのがらしくて笑ってしまう。けれどこの国にはない海や、今は山を越えて行くことのできない北の異国の話をその間に紛れ込ませるセンゴクの気持ちを知って、ミナミの胸はぎゅっと心臓を掴まれたように痛くなるのだ。
「そうか、そうだよな」
叶えてやれるはずだ。父や母が殺されたこの国に、何故血筋であるというだけの理由でセンゴクが繋ぎ止められなければならないのだろう。そんな理不尽なこと、とミナミはずっと感じてきた。険しい山道を問わなければ、山吹を出る道はたくさんあるはずなのだ。でも、同じようにその可能性を知っていながら、センゴクは一度も自らこの国を出たいと口にすることはなかった。それは、自らが王の持つ”虎眼”を有しているということも理由のひとつだろうけれど、何よりミナミとヒガシカタの父親が自分を生かすために――それはいずれ彼が王に立つことを望んでのことだった――死んだことが負い目になっているのだろう。それこそ、一度も口にしたことはないが。
「いっそ世界一周してみたい。きっと楽しいことたくさんあるだろうし、色んなものを見るって素敵だよね」
バン爺の教えは、戦い以外にもすべてのことに適用される。世界を知りたければ見に行けばいいのだ。この国に留まっていは、百聞半分にも足りない情報しか手に入れることはできない。だが今想像だけで目を輝かせているセンゴクなら、外の世界に出てその瞳で捉えたすべての物事をあれよという間に吸収するだろう。
「あぁ、きっと面白い旅になるだろうな」
色々な柵から解放してやれば、お前ならきっと、どこでだって楽しく生きていけるだろう。やはり、とミナミは嘆息する。やはり、彼にはそれが相応しいのだ。分かっていたし、自分でもそう思ってきたではないか。この男を、この暗い国から解放してやるのだ。それが父の代わりに、自分が彼にしてやれる最善のことなのだ。
ミナミは決心して顔を上げた。今日バン爺はムロマチを連れて山を下り、情報を集めに行っていて不在。残っているヒガシカタを説得すれば、半日は先行して山を登れる。バン爺は今まで見たこともないほど怒るかもしれない。それでも、もし忠義というものがあるなら、これがミナミにとっての忠義なのだ。
「セ……」
粗末なテーブルの上を指先で旅するように、楽しそうに叩いているセンゴクのその手を取ろうと、ミナミが手を伸ばしかけたその時だ。
「でさ、とっても素敵な土地を見つけて、そしたら村に帰ろう」
センゴクは机を叩いていた手を引き、代わりに両肘をついてその手で顎を支え、ミナミに向かって無邪気に笑って言った。咄嗟にミナミの思考はそれについて行けない。いま国を出て行く話をしていて、きっと彼は鉄砲玉のように出て行けば戻ることはないと思っていたから。
「え、……帰るって? ここに?」
何の楽しみもないこの国に。聞き返すと、センゴクは首を横に振る。
「ここじゃないよ。おばさん達のいる村にだってば」
どちらもミナミにとっては同じだ。同じ”国”なのだから。
「い、いや、でも、素敵な土地を見つけたら、ずっとそこにいたいと思わないのか」
それよりも良い土地を見つけたいと思わないのか。この国に縛られたくないと、そう思わないのか。
「思うよ。思うから戻ってくるんじゃん。戻ってきて、今度はみんなを連れてその土地に移住するんだ。土地なんてさ、住む人が素敵じゃあないと、やっぱり駄目だよ。オレはみんなと一緒がいい。皆と一緒に住めば、その素敵な土地はきっと天国みたいになるよ」
山を越えたら、その先は一人で行かせるつもりだった。解放してやりたいと思いつつ、自分にはその資格はないと思う、そんなミナミの思惑なんて、何も知らないくせにどうして。
「お前……馬鹿だな」
掴み損ねた手で、思わず自分の顔を覆い、込み上げるものを飲み込んで溜息に変えた。声が震えたのは、呆れのためだと騙されてくれたセンゴクは、憤然と机を叩いて猛抗議だ。
「えぇ! なにそれ! ミナミが訊くから答えてやったのに。今の答え全然馬鹿っぽくなかったでしょうが! すっごい真面目だったよ!」
ぎゃあぎゃあと喚くセンゴクの顔を見ないようにしていると、測ったかのようなタイミングで扉が叩かれる。
「センゴク、交替の時間だ。頼む」
外からヒガシカタの声がして、膨れていたセンゴクが飛び上がった。
「あ、ヒガシカタ。ごめん、すぐ行く」
見張りの交代の時間なのだ。センゴクはわたわたと椅子に引っ掛けていた外套を手に取ると、走りながらそれを広げる。翻る外套の奥から、センゴクはミナミを振り返って歯をむき出しにした。
「ミナミの方が馬鹿だよ!」
捨て台詞を残して家を出て行くセンゴクと入れ替わりになるように、闇の中から長身の男の影が家に入ってきた。そして走り去るセンゴクを見送ってからミナミに向き直って、微笑む。
「……いや、やっぱり馬鹿はセンゴクの方だな。折角のチャンスだったのに……。そうだろう? ミナミ」
その苦笑に、ミナミも同じ苦笑で返す。
「聞いていたのか、ヒガシカタ」
「悪い」
反射的に首を振る。ヒガシカタなら、一連のやりとりを聞いていなくてもいずれはミナミの心情の変化を察しただろうし、もしかしたら、あの王都の様子を見てヒガシカタもミナミと同じように思うことがあったのかもしれない。
「いや、いいんだ。……そうだな、やっぱりあいつは馬鹿だよ」
そして俺も馬鹿だ、とミナミは呟いた。
理想とはほど遠い王都の様子を目の当たりにして、ますますこの国に失望した。けれど同時に、本当に極々自然と一人の男の顔を思い浮かべた。その時の自分の感情の高まりを、その後の墜落するような戸惑いを、今でもミナミはよく覚えている。暗い国だけれど、貧しい国だけれど。
もしセンゴクが王になったら。
どんな国になるだろうか。楽しいことが好きな男だから、楽しくさせるのも大好きな男だから、自分の望むように、そして他人の望むように様々なことを考え出すだろう。時に的外れで、周囲の人間を困らせるかもしれない。時に突飛すぎて、周囲を笑わせるかもしれない。なんせ今までミナミ達がそうやって振り回されてきたのだから。
けれどきっと――これまでとは違う、楽しい国になるはず――。
その考えはミナミの胸を高鳴らせた。一瞬。そう、一瞬のことだ。自分でその胸の高鳴りを感じた途端に、今度は自己嫌悪で谷底へと突き落とされる。
自分はセンゴクをこの国から解放してやりたいのか、縛りたいのか、どちらだ?
その疑問に、今日答えが出た。結局、自分では導き出せなかったセンゴクがくれた答え。”虎眼”が王を選ぶように、ミナミも自分の王を選ぶことができる。否応無しの血筋とか、そういう理由ではなくて、本当に自分勝手な思い。けれどセンゴクは、それと意識せずともミナミに免罪符をくれた。
ああ、センゴク。俺も、皆と一緒がいい。だから――。