あの山を越えて
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山の頂きに月がかかる。今夜は二日月。引き絞った弓のように細い月の光には、まだ邪魔されずに星を見ることができる。センゴクは高い木の枝に渡した板で簡単に作った見張り台の上で、ひとり膝を抱えていた。夜空に消えていく自分の白い息を見送るその視線の先に、いくつもの星が瞬いている。
空だけ見ていれば、世界はどこまでもどこまでも続いていて、人も歩きつづければその空の下をどこまでも行けるのではないかと思える。空と山と月を見る度に、母が眠る村に置いてきた、センゴクの乳母でミナミの母でもある女性が語ってくれたお伽話を思い出す。
「山の上にかかる月が、夜道を照らし、一本の道を作りだしたのです」
月の光が作る長細い道が、山の上にかかる月に繋がっているように見える。その道を辿れば、月に行けると思った男がいた。男は月の土地を耕して、そこを自分の畑にしようと思い立つ。木なんて生えていない土地だ。根を掘り返して開墾する苦労もないだろうと、鍬を担ぎ、穀物や花の種の入った袋をその端に結んで、男は意気揚々と歩き出す。
さて月の道を辿って着いた先の、冷たい色の土地は果たして男が思ったような理想郷だったのか。男が渡ってすぐに、月は山から離れてしまった。その後男と同じ道を辿ることのできた人はおらず、ただこの地上から、今も月の土地を耕す男の影を見ることができるだけだ。
きっと月の土は木も生えないくらいに痩せていて、男は月に行っただけ無駄だったのだろうとセンゴクは思う。男が月で蒔いた種が、もし緑の芽を出していたなら、今も月があのように冷たい色をしているわけがない。
多分この話は、単に月の影に物語を当てた話というだけでなく、”現状で足るということを知れ”という意味の込められた話なのだろうと、センゴクは考える。実際、そんな教訓に頼ることなく、センゴクは自分の現状というものに、過度な要望を抱くこともなく、概ね満足しているのだった。
「オレ、別に王サマになんてならなくたって、今のままで十分ハッピーなんだけどなぁ……」
白い息と共にそんな溜息が漏れる。キヨスミ=センゴクは自分の身分というものを、正直理解できているようで理解できていない。物心ついた頃には王座とは程遠い、山奥の集落とも言えぬこじんまりした隠れ家で、ミナミやヒガシカタと暮らしていたからだ。微かに母親だろうという高貴な身分の、自分と同じ髪色の女性の姿を記憶してはいるけれど、顔はまったく覚えていない。美人だったような、という程度だ。
贅沢をしたことはないし、幸いにして我慢できる程度の飢え渇きを経験した時もあったけれど、絶望するほどの苦しみを得たこともない。もちろんそれが、周囲の助力あっての、危うい生活だと理解はしているつもりだ。ミナミやヒガシカタの父が、命をかけて稼いでくれた束の間の時間だということは。でも、実感はなかった。
うまくやれば、いつまでも逃げていられるのではないか。本当は、それが責任逃れの言い訳にすぎないことを、センゴクは心のどこかで分かっていた。”現状で足ることを知れ”ということは、”己れの現状を見極めろ”ということでもある。月まで行こうと思った男は、少なくとも己れの力で月まで行けることを確信していたのだ。その点センゴクは、自分が、自分の生得の権利だけで一国の王になるにふさわしいとは到底思えなかったし、それでは生得の権利以外に、自分に何があるのか考える度に見つからずに不安に思うのだった。
ミナミやヒガシカタの父の命を無駄にしないためには、誰かが彼等の理想とした国を作るべく立ち上がらなくてはならない。けれどこの国の王と認められる条件である、顕現武器”虎眼(コガン)”を有しているセンゴクは、実際”虎眼”を手にすることはできても、顕現することができていなかった。
顕現すれば、美しい雌の虎の形をとるという”虎眼”は、山吹の王に対してのみ頭を垂れる。そうして敬意を払われるべき真の持ち主は、他にいるのではないか。山吹の王にふさわしい、しっかりとした理想と、揺るがない意志を持った人間が。もちろんそれが、自分の父を殺した現王だとは思っていない。
「ねぇ、バン爺」
しかし翻って考えてみても、自分は誰かに誇れるような理想も、ぶれない意志もない。こうして、自分の運命に翻弄されているだけの、そんな運命にも満足してしまえるような男だ。この現状を少しでも制御出来ているとすれば、それはセンゴクが見張りを続ける木の下で、同じように地上を見張っている男の力によるところが大きいのだ。
「何です? センゴク君」
闇の中で、白髪まじりの淡い栗色の髪が揺れて、バン爺と呼ばれた男が顔をあげる。センゴクは見下ろす形で、先王、つまり自身の父の腹心であった男に問いかけた。
「バン爺は、オレが王サマになったら、この国が良くなると思うわけ?」
オレが先王の息子だから? という問いはぐっと呑み込んだ。そうだ、と言われた時の心構えができていない。自分は自分の父親がどんな父親で、どんな王だったのか、他人の話の中でしか知らないのだから。
ただ闇の中でもセンゴクが呑み込んだ言葉の、隠しきれなかった息を見たかのように、バン爺はセンゴクを見上げて微笑んだ。
「さて、どうでしょう」
どんな答えが帰ってくるのか、身構えていたセンゴクにとってみればあまりに気の抜ける答えを、バン爺は飄々と返してきた。
「どうでしょう……って。どうなのよ」
こういう人だからこそ、追手の裏をかきながらセンゴク達をうまく逃し続けてきてくれたのだろうけれど、身内に対してさえ、あまりに狸すぎる。信用しているからこそ、こういう時にはもどかしい態度に思えるのだが。不満を素直に顔に出し、センゴクは木の上から身を乗り出してバン爺を見返す。するとバン爺はセンゴクを見上げて少し首を横に傾げた。
「国王一人の力で国が良くなるものなら、私が王になってもよかった。そう思いませんか」
ぱっと目の前が開けた感じだった。それはとても良い考えだ。今まで思い浮かばなかったのが不思議なくらいに。
「それいい! バン爺が王様なら、きっと山吹は良くなるよ。そうしよう!」
バン爺なら、王の一番近くにいたんだし、頭はいいし、強いし、穏やかで人望は厚そうだし、狸な部分も人の上に立つからには必要だろうし。少し年齢が高くて長く王を続けられないのは難点かもしれないが、それ以外で難癖つけるところは見当たらない。頭も良くなくて、”虎眼”もろくに扱えなくて、目端はきくけれど青臭い若造の自分が王になるよりも、ずっと山吹の未来は明るいように思える。
「そう思いますか、センゴク君は」
「思うよ。ほんと、それが良いと思う」
勢い込んで答えたら、バン爺は元々細い目をもっと細めて何だか怪しいほどに優しい顔をして言った。
「では、君からミナミ君にそう提案してみて下さい」
賢いバン爺が言うのだから、これはきっと見込みがあるんだろうということで、明け方見張りをムロマチと交代したその足で、センゴクは朝食の用意をしていたミナミに提案してみた。そうしたら、ミナミは盛大に眉を顰めてセンゴクを見やって言うのだった。
「は? お前、馬鹿だろう」
「馬鹿だよ」
あまりに酷い反応に、センゴクはむっつりとして答える。まだきちんと睡眠もとれていないから、よけい苛々して、ああ、いっそ哀れんで欲しいほど馬鹿だとも、とやけになりつつ思う。バン爺よりもずっとずっと馬鹿だし、ミナミやヒガシカタより馬鹿だし、年下のムロマチより馬鹿かもしれない。だから、だから頭のいいバン爺を推したに決まっているではないか。
「だから、俺が王様になるより、バン爺の方がぜぇったい! いいじゃん。ね? そうしよ。それなら俺も思いっきり頑張って、今の王様引き摺り下ろしてやるし」
あまりに不甲斐ない自分が王になるため、というのではテンションが上がりきらないが、見込みのある他人を担ぎ上げるなら頑張れる気がする。それで自分達も逃げ回る生活をしなくて良くなるのであれば余計だ。
センゴクだって、今の山吹が決して”いい国”ではないと分かっている。それが今の王様のせいなのか、その人ひとりに責任を負わせるべきなのかは分からない。会ったこともない人だ。母の弟だというけれど、母のことも碌に覚えていないセンゴクにとってはあまりに遠い。父の仇だというけれど、その父を知らないセンゴクにとってはあまりに実感がない。それならば、よく知るバン爺の方が王様に”相応しい”と思う。それは浅はかな考えだろうか。でもセンゴクには、他に判断できる材料が何もないのだ。
ミナミだって、センゴクと同じような状況で育ってきたはずなのに。それなのに、この一つ上の幼馴染はきっぱりと言うのだった。
「俺はバン爺を尊敬しているし、頼りにしているけれど、バン爺が国王になるっていうなら、その手伝いはしない。センゴク。俺はお前に、山吹の国王になって欲しいんだ。これで何度目だ、俺がお前にそう言うの」
「……ひゃく、じゅう、なな回目」
ミナミの揺るぎない答えを聞いて、センゴクは急に力が抜けてしまった。夜中の見張り番の後では感じて当然の倦怠感と眠気がずっしりと体を重くする。のろのろと椅子に座り込み、テーブルに顎を乗せるとすぐにでも眠ってしまえそうだ。けれど話を持ち出したのはセンゴクの方なので、
「数えてたのか?」
と目を丸くするミナミを置いて、勝手に寝入るわけにもいかなそうだ。正直、眠気をおしてまで続けたい話ではなくなってしまったのだが。
「てきとーに言ってみただけ」
でもおそらく、五十は優に越えている。それもある時期から、センゴクにしてみればあまりに唐突に言い始めたように思われるのだった。どうしてなのだろう。センゴクが王の息子だからという理由だけなら、もっと前からミナミはそう言っていておかしくなかった。けれど以前はむしろ、ミナミはセンゴクに王になることを強いらないようにしていたと思うのだ。
ミナミは王になれとは言うけれど、「どうして」センゴクに王になって欲しいのか、それは言わない。センゴクも聞けない。バン爺に聞いたように「自分が王になれば国が良くなると思うのか」と問うことができない。
答えが返ってきた時に、自分がどう思うのか、何をすればいいのか、分からないからだ。男が月に向かったように、王都へ向かう自分の姿を想像できない。男が月に抱いた希望と同じようなものを、センゴクは王都に見出せないのだ。こんな何の志もないような男に、ミナミがどういう希望を抱いているのか、怖くて確かめられなかった。
「ほら、茶」
「おやつもちょーだい、ミナミ君」
茶化してねだっても大したものが出てくるわけではない。あったとしても、干した木の実くらいなものだろう。けれどミナミは渋い顔をして首を横に振った。
「駄目だ。寝る前だろう」
言っていることが母と離れてますます彼女に似てきたと、ミナミは気づいているのだろうか。懐かしさが少し心を軽くしてくれた。ふふ、とセンゴクは笑って、ミナミの差し出すお茶を受け取る。
「ミナミが王様になればいいよ。あ、オレ何回目だっけ、それ言うの」
「三十四回目だな」
熱いお茶を息で冷ましながら冗談のつもりで付け足した言葉に、驚くほどの早さで返事があって、センゴクは目をぱちくりさせた。
「数えてたの? 地味に」
「地味言うな」
でも地味に、正確に数えていたのだろう。確かに耳にタコとは言わないまでも、それくらいの回数は口にされているはずだから。センゴクの驚きよりも、地味という言葉に過剰に反応したミナミは、眉間に皺を寄せて何だかとても不味そうに自分の入れたお茶を飲む。
茶化したつもりだったのだが、何だかまたいたたまれない沈黙を背負うことになって、センゴクは逃げ出したくなった。さっさともらったお茶を飲んで寝ることにしよう、と杯に口をつけると、ミナミが言う。
「……もし俺が山吹の王になったら、お前は何するんだ、センゴク」
珍しくミナミが話を続けたことに、センゴクは瞠目する。今まではセンゴクがどんなにミナミを王に推しても、現実味がなく適当に流されてしまっていたから、そんな風に”もし”を考えてみたことはなかった。
ミナミは真面目だし、いい王様になりそうだと思うけれど、同時に王様なんて大変そうな仕事をし出したら、何事も真面目に取り組みすぎて胃が痛くなってしまうのではないだろうかとも思う。きっとそれでも仕事を頑張るミナミを、ヒガシカタが絶妙なタイミングで強制的に休ませたりするんだろう。
バン爺も仕事をしているだろうか。王様を助ける宰相とか。それともニコニコ顔で隠居を気取っているだろうか。ムロマチはきっと、何だかんだで王様が頑張るだけ、自分も頑張って手伝っていそうな気がする。
それでは、自分は? センゴクは想像する。ヒガシカタやムロマチのように王となったミナミを助ける自分というのは想像できない。かと言ってバン爺のように隠居という年でもないし、そんな生活に魅力は感じない。ミナミが王様になって、国が明るくなったら、自分のしたいことをするのだろう。したいこと。それが明確にあるわけではないけれど、ただ彼等の側にいられればいい。
「オレ? オレは……なぁ〜んもしない。あ、王宮に可愛い子見つけて、一緒にお茶飲んでるかも」
目に浮かぶようだな、と言ってミナミは笑う。そして笑顔のまま残ったお茶を口にして、粗末な木の杯を弄びながらミナミは言った。
「俺が王なら、そんな奴王宮に置かないよ」
「ひどっ!」
流石に予想もしていなかったことを口にされて、センゴクはショックを受けた。確かに不真面目な話だけれど、ミナミは決して自分を見捨てないと思っていたから、そんな風に言われる覚悟ができていなかった。ミナミは笑っているけれど、どうも冗談で流せるような雰囲気でもなさそうだ、とセンゴクは敏感に察する。
そんなセンゴクの様子を見て、ミナミは苦笑の度合いを濃くする。それがどこか寂しそうにさえ見えて、センゴクはたじろいだ。寂しいのは自分の方だ。追い出すようなことを言ったのはミナミの方ではないか。そう言いたかったけれど、うまく言葉にできなかった。ミナミは弄んでいた杯をそっと傾けて続けた。
「酷くないさ。俺は王になっても多分特別悪いことはしないけど、特別楽しいこともしない。だからきっと、俺が追い出す前に、お前は王宮を出て、もっと楽しいことを見つけるだろう」
傾いた杯には何も残っておらず、そのままテーブルの上にことりと倒れる。
「そんなことは……」
ないと言えるだろうか。ミナミのことは大好きだしとても大切だけれど、楽しいことを欲している自分のことも、センゴクはよく知っている。彼がいれば安心だからと、すっかり任せてどこかを飛び回る可能性は否定できなかった。自分はいいけれど、彼はどう思うだろう。勝手にミナミのいる場所を帰る場所として、その場所を彼に守って欲しいなんて。それはあまりに無責任な話だ。
「だから、お前が王になれ。王になって、楽しい国を作れ」
「楽しい、国を?」
豊かな国でも、正しい国でもなく、楽しい国。それは確かに、センゴクが目指すなら一番好ましい姿は”楽しい国”だけれども、ミナミからそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「お前が王になれば、俺たちは皆、お前と一緒にいてやれるぞ。お前が悪いことをしないように見張っていてやるし、地味で楽しくない仕事は手伝ってやる。こうして茶も淹れてやるし、王様だからな、茶菓子もおいしいものを出してやれるよ。外交だなんだって言って、国を離れて世界中飛び回るのも……まぁ、ちゃんと戻ってくるなら鷹揚に許してやる」
そのくらいの責任は持て、とミナミは言いたいのだろう。王の居場所を守ってやる代わりに、目指すものを持って立つ王になれと。そうすれば、皆一緒にいられるから、と。だがどうして、そうでなければずっと一緒にいられないような言い方をするのだろう。
「……王様のオレより、ミナミの方が偉そう、その言い方。それに……今だって、皆一緒に暮らしてるじゃん?」
そうだろう、とセンゴクがミナミの顔を覗き込むと、ミナミは一瞬だけ困ったような顔をしてから、考え直したような間を空けて答えた。
「そうだな」
彼の心の中に何があるのか、センゴクだって分かっているつもりだ。生まれてからのほとんどを、彼等は逃げ、隠れて過ごしている。もし見つかって、一緒に逃げることができないような状況に追い込まれたら。ミナミが憂えているのはそのことだろう。けれどこれまではずっと、逃げ続けることができていたのだ。山を越えずとも。頂上にかかる月に逃げ込まずとも。センゴクが知る限りの、小さな小さな世界の中で。
確かにその日までは、国内中を逃げ回る生活をしていたとしても、バン爺とヒガシカタ、ムロマチ、ミナミ、そしてセンゴクは一塊になって離れることはなかった。けれどそんな運命を憂うことなく、これからも決して離れることがない、という根拠もない思いを抱いていたセンゴクは、考えが甘すぎたのだ。
日の入りから夜中にかけて見張りをし、深夜に交代して、眠りに就いてからどのくらい経ったのだろうか。慌しい気配を感じて、センゴクは目を覚ました。外の様子からすると、まだ夜明けを迎える前のようだ。馬の嘶き。二頭しか確保していない馬を出すのは、どう考えても逃げるための準備だ。
飛び起きて反射的に手元にある”虎眼”を掴み、上着を乱暴に羽織って外套を拾いつつ小屋を出ると、皆が深刻な様子で顔を突合せていた。
「……ミナミ、ヒガシカタ?」
センゴクが不審に思ったのは、バン爺とムロマチは外套を羽織っていつものように逃げる服装なのに対して、ミナミとヒガシカタは外套を羽織らず、互いに顕現武器を手に、戦闘の準備をしているような雰囲気だったからだ。嫌な雰囲気だ、と逆立つ首筋の毛を感じてセンゴクは思った。
「アクツが出ているなら、足止めにもならないかもしれない。バン爺、ムロマチ、後は頼んだ」
呼びかけたセンゴクの方を向くことなく、ミナミは固い表情でムロマチの肩を叩いて言う。
「えぇ、計画通りに」
「はい。任せてください」
バン爺が短く言えば、ムロマチまで真剣な顔で頷いている。心臓が嫌な音を立てて脈打ったのを感じて、センゴクはぎゅっと自分の服を握り締めた。そして慌てて彼らの間に入って訴える。
「ちょ、ちょっと待った! なんか、何か変だよ? 計画って何? これからみんなでトンズラするんでしょ? ミナミ、大丈夫だって、オレ、ラッキーだから皆でちゃんと逃げられるよ」
「そうだな」
「でしょ、でしょ? だから……」
これまで通り皆で一緒に逃げようと言うと、ミナミは微笑み、服を掴むセンゴクの手を掴んで引き寄せた。
「でもな、キヨスミ」
優しく宥めるような声が、吐息と共に耳朶に絡む。その直後に脳が揺さぶられるような衝撃があって、意識が朦朧としてしまう。
「……ケ……ンタロ……?」
暗くなっていく視界の端で、ミナミの口元がまるで山にかかる三日月のような形で動いたのを見たと思った次の瞬間、センゴクの意識はぷつりと途絶えた。
「舞い込むラッキーを待つだけじゃあなくて、ラッキーを呼び込むための努力も必要なんだと思うんだ」
本来ならその努力は、全員がしてこそしかるべき結果をもたらすものなのかもしれない。けれどミナミは、本来ならセンゴクが担うべき分を自分が負ってでも、センゴクが作る国を見たいと、そう思ってしまったのだ。センゴク自身がそれに納得し、覚悟ができるより前に。
「……ごめんな、キヨスミ」
言い訳することが許されるなら、それは決してセンゴクが先王の血筋であるから、という理由ではなかった。ミナミのよく知る、キヨスミ=センゴクという男だからこそ抱いた想いなのだ。だが今は、その言い訳も胸に秘めておくしかない。
ぐったりと力を失ったセンゴクの体を一瞬抱きしめ、柔らかな明るい色の髪を撫でる。それから両脇の下に腕を入れて持ち上げた。
「ヒガシカタ、手伝ってくれ」
声をかけるより早く、幼馴染は長身を少し屈めてミナミの腕の下に自分の腕を入れ、センゴクの体を背後から持ち上げた。ミナミは上半身をヒガシカタに任せ、自分は腕を引き抜いてセンゴクの足を持つ。
そしてバン爺が手綱を掴んで押さえている馬の背に、二人でセンゴクを乗せ上げる。もちろん意識を失っているセンゴクの体は支えがなくては落ちてしまう。馬上に持ち上げられたセンゴクの体を、その後ろに飛び乗ったムロマチが抱えて、すかさずバン爺から手綱を受け取ったのを確認すると、ミナミとヒガシカタは手を離した。
「頼んだぞ、ムロマチ。何があっても馬から落とすな」
鐙にかけられた足を叩いて言うと、ムロマチは幼さの残る顔を強張らせながらもしっかりと頷いた。
「はい!」
頷き返して、今度は別の馬の背に登ったこの逃亡劇の先導役を見上げる。
「バン爺」
センゴクを、と口にしたつもりだが、声にならなかった。けれどバン爺はミナミの声にならなかった思いを汲み取って、馬上からいつも通りの笑みを返してきた。
「分かっていますよ、ミナミ君。センゴク君は任せてください」
任せるしかない。バン爺がいたからこそ、これまで逃げきれて、生き延びてこれたのだ。
「また、会いましょう」
「必ず」
「すぐ追いつくさ」
隣でヒガシカタがそう言ったのは、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ているムロマチに向けてだった。そんな顔をされては、まるで自分達が絶望的な死地に残るような気になるではないか。
そんなつもりではないことを、どうしたら分かってくれるだろうか。ミナミは笑ってムロマチに手を振る。行けという合図に、ムロマチはぎゅっと一瞬強く両目を瞑って、それから手綱を引いて馬首を翻した。そのすぐ後ろを、バン爺が追いかける。去っていく馬の足音と、それよりも大きな音で近づいてくる足音。
「ヒガシカタ、準備はいいか?」
ミナミは自身の顕現武器”蜂尾”の柄を握り締めて、傍らの幼馴染をちらりと見上げる。ヒガシカタはそれに応えて力強く頷いた。
「いつでも」
彼の手には顕現武器”三叉”が一本の長い棒の形になって握られている。この時、この場所に、ひとりではなく二人で残れることを、ミナミは何よりも心強く思った。けれど流石に緊張した面持ちの幼馴染を見て、自分も同じような表情をしているのだろうなと思うと、そう思えたことでかえって力が抜けた。
「お互い、派手に死ぬタイプじゃあないからな」
ミナミが笑って言うと、ヒガシカタは少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。
「ああ、地味にしぶとく生きる」
そう、自分達が生き残らなければ、センゴクの帰る場所がなくなってしまう。あの山を越えて、その先にどんな場所があろうとも、一緒がいいから戻ってくると言った。あの男の帰る場所を作るのが、自分の役目なのだ。