恋愛 課外 授業
 神無が男の子と話す直前、四季と馨は神無の姿を見つけて気持ち物と人の陰に隠れた。その近くに高佳が居ないので再び視線だけで探すとチケット売り場に並んでいる高佳が目に入る。『何で並んでるんだ?』『さぁ?』と会話していると穂がチケットを手に駆け寄ってきた。

「‥‥なんでお前はそんなに早いんだ‥‥?」
「いや、ちょっとうちの親を知ってる人がチケット売り場に居て‥‥チケットを無料で押し付けられてしまった‥‥。そういうわけだからどうぞ」
「すごいな‥‥神生財閥‥‥。じゃあ遠慮なく頂きます(←主夫)」
「神無達は?」
「あそこ、神無だけ居るぜ。うぉっ!? なんかガキに声かけられてるぞっ!?」
「あ、可愛い〜。太刀守君、カメラまわして、カメラ」

高佳を撮りに来たんじゃなかったんだろうか? と思いながら馨は言われるままビデオカメラの電源を入れ、望遠にして神無と話しかけて来た男の子を撮る。自分にいつも見せる表情とは違う態度で男の子に接している神無はまるで別人だ。

「あんなん神無じゃねー‥‥。変な気分だ」
「どれ〜? 外人の女の子しかいないよ?」
「多分その外人に見えるヤツだよ」
「え‥‥? あのゴスロリちゃんっ!? どうしちゃったの!?神無!? あの青い目はカラコン!? 嘘ー!?」
「ずいぶんな言いようだね‥‥穂さん。あんまり大きい声出すと音入っちゃいますよ? 神無って普段からあんな可愛い格好じゃないの?」
「冗談‥‥。いつもは制服以外は作務衣か甚平、着てもパンツでスカートなんか着ないっすよ」

うんうん、と穂が横で頷き、『へぇ、意外だ』と四季が呟き、神無に目を戻す。『数ヶ月前なんて誰かさんに男と間違われたほど‥‥』と馨がさらに続けると、『それはっ!』と穂がうろたえるが反論のしようもなく、黙り込んでしまう。

「え? 神無を? 穂さんが?」
「いや‥‥その時は一人称『俺』だったんですよ‥‥。ずっと作務衣だったし‥‥てっきり‥‥ってこれ音入ってる!?」
「あー、入ってるかもなー」
「わー!馨君の意地悪っ! また神無に怒られるっ!」
「おう、高佳来た来た」

話題を逸らせて馨はビデオカメラを高佳に向けた。そのレンズの先を追って穂が相手とやらを探す。途端、言いようのない寒気――いや、鳥肌を立たせるほどの違和感かもしれない――が穂を襲った。人込みの中で時折垣間見える頭。無表情な若者がまっすぐに神無に向かって歩いていく。まさか‥‥と呟くがビデオカメラで追いかける馨と、同じように目で追っている四季はその呟きには気付かない。何故これだけ近くに居て気付かなかったのか‥‥。いや、それは仕方がなかったのかもしれない。自分さえ欺くほどの術が、念入りに彼を包んでいる。彼だけに目を留めなければ、うっかりと見逃してしまうほどの術が。

――なんでこんなモノが此処に‥‥何故人の中にっ‥‥!!――

向こうはこちらには気付いていない。若者は少しも表情を変える事無く神無に声をかけた。神無が振り返って微笑を浮かべる。あれがデートの相手だと言うのか‥‥?

「ちょ‥‥何!?あれ! 神無止めないと‥‥」
「あ、大丈夫ですよ、うちの弟ですから」
「弟!? だってあれは‥‥あれは『鬼』でしょう? 体は人の物だけど、中に居るのは人じゃないっ!」
「神無も俺も知ってるから大丈夫だって。それに高佳、危険なヤツじゃないぜ?」
「馨君までっ!? 危険じゃないって、君は『鬼』を知らないから‥‥。あー! とにかく止めないと! まさかあれが分からないわけじゃないだろうに、どうして神無はっ!!」
「まぁまぁ、『初めてのデート』なんですから保護者は干渉なしでいきましょうよ、穂さん」

『初めてのお遣いみてぇ』と馨は笑いながら十分に距離を取った後、神無達を追いかけて水族館のゲートに向かう。四季も追いかけようと歩き出すが、『ちょっとっ!』と興奮した穂に引き止められて振り返る。その両肩を掴んで――はたから見たら四季は完全に女性なのでちょっと怪しい――穂は四季に詰め寄った。

「あれが弟って、どういうことですか!? 四季さん! 貴公ほどの人ならあれが分からないわけじゃないでしょう!?」
「あれあれ言わないで下さい、高佳です。もちろん知ってますよ、それでも彼は俺の弟だ。この事は親父も公認です、亡き母も。ちなみに今日のビデオは親馬鹿なうちの親父のために‥‥」
「中身鬼なのに親馬鹿‥‥。一体どういう家族ですか‥‥」
「そういう家族ですよ。貴公だって同じようなものでしょう?」
「僕は‥‥」

言えない、言えるわけがない。死んだ穂の代わりに、『穂』という存在を死なせないためにこの体に入ったのだ。そうでなくても、自分の息子の魂が死んで『神』とは言え別の存在が入っていると知って、同じように息子として愛せる親が居るだろうか? それが『鬼』であるなら、なおさら理解できない‥‥。

「おーい、何やってんだ? 早く行かないと見失うぞ」
「さ、行きますよ、穂さん」
「四季さんっ! 百歩譲って家族公認としても、それが神無とデートなんて‥‥」
「黙って見守ってください、穂さん。でなきゃ太刀守君やご家族にばらしますよ?」
「(脅しっ!? こんな可愛いお兄さんがっ!? でも本気だ‥‥)はい‥‥とりあえずは‥‥」

けれど神無を騙しているのなら、そしてもし危害を加えるようならその時は‥‥と穂はきゅっと唇を噛み締めた。出陣を前にした武士のように気を引き締めながら、穂は入り口のゲートをくぐって別人と化した神無と『鬼』のカップルを追いかけた。

 ゲートを通り、案内表示に従って通路を行くと一般に想像する水族館よりも明るい場所に天井まで届く円柱型の水槽が何個も建っていた。わぁ、と歓声を上げて隣を歩いていた神無が駆けだし、手近な水槽を覗き込む。高佳はゆっくりと徒歩で追いかけ、神無の斜め後ろから同じように水槽を覗き込んだ。

「‥‥秋刀魚?」
「はずれ〜鰯でした〜」
「四季を連れて来たらいけない所だと言う事は理解した(『誰も水槽破ってまで捕らないよ』BY 四季)」
「あはは♪。此処は近海の魚だって。高佳水族館初めて?」
「いや、此処ではないけど昔一度」
「そうなんだ‥‥。魚屋さんとか食卓にのってる魚でもこうしてちゃんと水槽に入れたらそれなりに面白いよね〜。こっちはなんだろ?」

そう言って神無は次の水槽に映る。マグロと書かれたプレートに『ますますいけない』と高佳が呟くのに神無が笑い、じゃあ次、と楽しそうに水槽を移る。今度はふぐを見つけたらしく、指差しながら高佳を呼んでいる。やはり神無の斜め後ろに立ってそれを見下ろした高佳はあ、と声を上げた。『何?』と神無が見上げるとふぐが居た所よりずっと下を指差す。平べったい魚がゆっくりと泳いでいる様に、神無は小さく首を傾げた。

「カワハギ」
「ふうん? おいしいの?(『その問いはどうなんだ‥‥』BY穂)」
「まぁ、結構。じゃなくて、神無の片目の色と同じ」
「?」

屈んでその魚を見上げると、円らな金目が神無の方を見た――と思っただけで向こうにその気はないのかもしれないが。目の色は確かに同じだ。けれど、はれぼったい、というかたらこみたいな厚い唇、なのにおちょぼ口。愛嬌があると言われればそうかもしれないが、可愛いと言うには抵抗がある。

「‥‥。複雑‥‥」
「そうか、ごめん」
「同じなのは同じだけど‥‥どっちが可愛い?」
「神無」
「ならよしっ♪(『そりゃあそこでカワハギなんて言った日にゃ拳一発は堅いだろ‥‥』BY 馨)」

ご機嫌を直したらしく、神無はまた上機嫌に水槽を移る。中が広いのか、チケット売り場で見たほどの人込みではない。動きまわるのにはいいが、神無と高佳の組み合わせはやはり人目を引く。神無を見て『可愛い♪』と言うカップルやら高佳を見て『かっこいい♪』と感嘆する女子高生グループ、さらに二人を見て『恋人?』と首を傾げるお母さん方にはらはらしながら撮影部隊は後を付いていく。中には男だけの寂しいグループもあったが、彼らが神無を目線で追いかけると、すかさず高佳が神無をガードするように斜め後ろに寄り添う。その微妙な心遣いに穂は思わず唸り声を上げた。

――鬼なのに〜! なんて気配り十分‥‥――

「高佳ー!大水槽あるってっ♪」
「神無、あまり走ると危ない。この先は暗くなってるから」
「うん(『神無が素直だー!!!?』穂)」

素直に言う事を聞いて神無は差し出された高佳の左腕に掴まる。暗いトンネルは僅かに下に向かって傾斜している。神無に合わせてゆっくりと下りていくとしばらくして青い光が差して部屋いっぱいの大きな水槽の前に出た。歓声を上げて神無が駆け寄って行くのをゆっくりと追いかけ、さすがの高佳もその高さに首を曲げて見上げた。

「おっきーい! すごーい!」
「海の中にいるみたいだな」
「うん!そんな感じ! 高佳はダイビングとかしたことある?」
「いや、ない」
「高佳の前も?」
「‥‥そんな事は、考えた事もないな」

そっか、と納得して神無は精一杯顔を上げて水槽の上の方を見る。倒れそうだ、と思ったのか高佳がすっと背中を片手で支える。それに甘えて寄り掛かりながら神無はたくさんの魚達を、そのずっと上にある水面(みなも)を見る。水面の向こうは外なのか、それとも照明があるだけなのか、とにかく白と水色の光が波間のようにゆらゆらと揺れている。

「ほんとに‥‥海の中みたーい‥‥。ダイビングやってみたいな、沖縄とかさ、綺麗な海泳ぎたいな‥‥」
「‥‥悪くないかもしれない」
「お金かかるけどね?」

首を倒して高佳を見上げた神無がそう言ってくすっと笑う。

「だから無料(ただ)の水族館で我慢するっ!」
「経済的だな‥‥第一濡れなくてすむ」
「そういう事♪(『デートらしくない会話だな‥‥』四季)」

そう言った後、気に入ったのか神無はまた魚と水面を見上げた。高佳も文句も言わずそれに付き合って水槽を見つめている。さらにその後ろでは撮影部隊がトンネルと部屋の境で一人はビデオカメラを回し、一人はほのぼのと見守り、一人はおろおろ見守っている。ちなみに穂は勢い余って飛び出さないように片手を四季に捕まえられている。そのうちの一人、馨がぽん、と肩を叩かれて振り返った。後ろに居るのは強持ての警備員。

「あ‥‥撮影禁止‥‥っすか?」
「フラッシュをたかなければ別にかまわないけど‥‥何を撮ってるの? それに君達こんな所で立ち止まってたら邪魔なんだけど」
「えっと‥‥」
「あの女の子を撮ってるように見えたんだが、ちょっと警備員室まで来てもらおうか」

とうとう掴まったっ! と馨が嘆いていると『ちょっと待って下さい』と四季が警備員を止めた。ちなみにいつもの少し高いが男と分かる声ではなく、可憐な作り声だ。おっ? と警備員は顔色を変えて立ち止まる。いつの間にか周りに居た客までがこちらに注目していた。頼むぜ‥‥四季さん‥‥という馨の願いを察したのか、四季が可憐な少女のように両手を胸の前で組んだ。

「実はあの女の子はある国の名誉ある家のご令嬢なんです。あ、私はそのお世話役を務めさせて頂いてまして、そちらの彼は彼女の従兄です。お嬢様は以前よりあちらの方と文通しておりましたが、家の都合で会う事もできない身の上‥‥。今回念願叶って一日だけ、文通の君とお会いする事が出来たんです」
「それは良かったですな‥‥」
「しかし一日限りで国に帰らなければならない身、もう二度と文通の君にお会いする事は出来ないでしょう‥‥。だからせめて今日という日を記録に残して差し上げようとこうしてこっそりお姿をお撮りしているわけなんです‥‥。あ、ちなみにこちらの方はあの神生財閥のご子息です。今回お嬢様の来日にご協力してくださいました」
「そうですか、そうとは知らず‥‥失礼しました! 是非!良い思い出を作ってあげて下さい! 仲間にも事情を話しておきます! 全面的に協力しますとも!」
「ありがとうございます!」

おー、と周りの観客からも歓声が起こり、中には感動したのか泣いている人も居る。神無達に気付かれていないか、慌てて馨は大水槽の前を見るが、すでに飽きたのかその前には二人共居なかった。それじゃあ! と馨はそそくさと逃げ出し、穂と四季も少し遅れて小走りに逃げる。その後ろでまだ拍手が鳴り止まないが、とりあえず姿が見えない暗い廊下まで逃げてふう、と馨は冷や汗を拭う。

「名演技っす‥‥四季さん‥‥。ってか、なんで某国の令嬢?‥‥あれが」
「ごめん、とっさに思い付かなかった。でも、違和感なく受け入れられたみたいで良かった」
「だからってなんで僕だけ身分バラされなきゃならないんですか‥‥? あー、後がめんどくさい‥‥」
「そんなもの、そちらの権力でどうにかして下さい。すごいでしょ?神生財閥」
「すごいのは主にうちの母親です‥‥。大体僕、神生の家とか権力とか好きじゃないのに‥‥」
「そうだ、高佳達は?」

『って聞いてますか〜?四季さん』と穂が後ろでぼやいているが馨と四季はイヤホンの方に耳を傾けていた。少し離れたのかノイズが混じっているが、神無の声が『ラッコ』と言って騒いでいるのが聞こえた。

「ラッコの水槽前みたいっすね。じゃあ、この廊下を抜けた辺りか‥‥」
「よしっ!行こう!」
「聞いてないんですね‥‥ああ、もういいや、僕こんな所で何してるんだろう‥‥」

 穂達が警備員を振り切って追いかけているとは知らず、神無達は幼い子供に紛れてラッコの水槽の前に陣取っていた。と言っても水槽の端っこ、高佳はほぼ壁側で、神無の後ろから頭だけをラッコの方に向けている。これから飼育員が餌やりをするイベントがあるので周りは親子連れだらけ、二重三重に水槽の前を取り囲んでいる。

「ラッコって言ったらやっぱり‥‥貝を二個持って片方をおなかに乗せてとんとんするんだよね?」

神無が高佳を振り返って期待の眼差しで同意を求める。確かテレビでそんな光景を見たな、と思って高佳は少し考え、こくん、と頷いた。『楽しみ♪』と神無が水槽を振り返り、そんな期待を一心に受けているとは夢にも思っていないであろうラッコを目で追いかける。くるくると体を回転させながら泳いでいるラッコの愛らしさに周りの子供達から、そして神無からも歓声が上がる。そして飼育員が水槽の一角にある人工の島に現れ、バケツの中の餌を水槽の中に放り込んだ。

「♪‥‥。‥‥?」
「魚‥‥だな?」

神無が期待いっぱいに背伸びするが、水の中に落ちて来たものが期待通りでない事に首を傾げる。後ろから冷静に高佳が突っ込むがまだ首を傾げたまま。それを掴んだラッコはとんとんする素振りも見せず、口の中に運ぶ。首を戻して神無は再び期待の体勢を取るが落ちて来るのは全て魚だ。やがて飼育員は人工の島から立ち去り、餌やり終了の放送が流れる。しばらく水槽に噛り付いていた神無はくるっと振り返り、ご不満げに高佳を見上げた。

「‥‥魚っ!」
「ああ、魚だったな‥‥」
「貝じゃない! とんとんじゃない!」
「‥‥貝がなかったんじゃないか? それとも水族館のラッコは貝を食べないのか‥‥」
「むー、しょうがない、可愛かったから許すっ! じゃあ次は熱帯の海に行って仕上げはマンボウっ!」

神無の許しが出たので高佳は安心して(?)ラッコの前を去り、神無に付いて熱帯の海の水槽に向かう。エンジェルフィッシュやコバルトスズメといったペットショップでも馴染みの魚から、色とりどりの見た事もない魚まで、カラフルな天然色に囲まれた水槽に神無が感嘆を上げて駆けて行く。その行く先を確認しながら、ゆっくりと水槽を眺めて高佳は歩いて行く。と、前方で神無が高佳の名を呼んで手招きしている。水槽から目を離し、早足で追い着くと神無は目の前の水槽を泳ぐ魚を指差して楽しそうに言った。

「見て見て♪ぷちナポレオンフィッシュ♪。絶っ対そうっ!」
「‥‥ナポレオンフィッシュ?」
「知らない?こういう気持ち悪い顔の魚。何処だったかな、どっかの水族館にはいるんだけど‥‥。昔CMにも出てたでしょ?」
「‥‥(『気持ち悪いけど見せるんだね‥‥神無』穂)」

背を屈めてじっと水槽を見やると気持ち悪い、と称された魚が申し訳なさげに泳いでいく。先ほどのカワハギに負けぬ大きなたらこ唇、魚にしては異様に突き出た額、薄い青と緑を合わせたような体色。確かに気持ち悪いかもしれないが、見せられた所でコメントに困る。とりあえず下の解説を見ると、ナポレオンフィッシュという名前は載っていない。

「‥‥違う魚みたいだが?」
「え!? 違うの!? でも親戚だよ?絶対っ!」
「‥‥そうなのかもしれないが‥‥」
「ぷちナポレオンフィッシュよりあたしが見たいのはマンボウなの!」

勝手に話を振っておいて勝手に切ると神無は高佳の手を取って暗い廊下を矢印に沿って進んでいく。マンボウ‥‥と呟いて高佳はその風貌を頭に思い浮かべた。残念ながらデフォルメされた可愛い絵柄しか浮かんでこないので本物にお目にかかった事はないらしい。

「どうして、そんなにマンボウが?」
「昔ね♪母さんと父さんと別の水族館に行った時に見たの♪。ちっちゃくて可愛かったんだ〜♪。ペンギンとイルカとラッコとマンボウは水族館に行ったら絶対見るの♪」
「‥‥残念ながら此処にはイルカはいないみたいだがな。ペンギンは屋上階にいるらしい。アシカショーも屋上階だ」
「じゃあ♪マンボウ見たら屋上階に上がろうか♪」

異論なく高佳は頷いた。元から異論を唱えるほど執着する物は此処にはない。高佳が文句を言わないので神無はぐいぐいとマンボウの水槽の前に高佳を連れて行き、その前まで来ると手を離して水槽に噛り付いた。その前の大きな水槽にはマンボウが五、六匹、優雅と言えば聞こえは言いが、ほとんど身動きせずに浮かんでいた。高佳も定位置となった神無の斜め後ろからマンボウの水槽を覗き、おぉ‥‥と少しばかり感嘆を上げた。

「‥‥」
「結構大きいんだな、マンボウは」
「‥‥」
「瞬きしてる‥‥。瞼の動きが↑↓じゃなくて→←だ‥‥すごい」
「‥‥」
「あ、回り始めた。というか‥‥その動きは魚としておかしいだろう(『珍しい‥‥高佳が感動してる‥‥しかもマンボウに‥‥』四季)」

高佳が感動(?)のコメントをマンボウに寄せるが、神無は一言も発しない。不審に思って高佳が神無を見下ろし、名前を呼ぶとくるっと神無の体が半回転してきゅっと自分にしがみ付いてきた。その肩が小刻みに震えている。

「?‥‥神無?(『神無ー!? それは鬼なんだってばっ!離れなさいっ!!』穂)」
「こ、怖い‥‥」
「‥‥何が?」
「マンボウ‥‥」
「‥‥?(←理解不能のもよう)好きなんだろう?マンボウが。なのに怖いのか?」
「あたしが見たのもっと小さかった‥‥。それに小さい頃に泳いでくのをちらっと見ただけだし‥‥」

震える神無の肩をそっと抱き、高佳はありえないほどゆっくりの速度で回り続け、ようやっと水平になった目の前の一体を見つめた。大きい‥‥。下の解説を見るとマンボウは大人になると三.三メートルになるらしい。という事は目の前のマンボウは――水平からさらに回り続けている。逆さまになろうとしているのか元に戻ろうとしているのかは不明だ――まだ大人ではないらしい。にしても二メートル近くあるのではないだろうか。

「こんなに目つき悪いと思わなかったし、瞼が→←だと思わなかったし、回転の仕方が変でちょっと可愛いけどやっぱり怖い‥‥(『可愛いけど怖いのかよ‥‥』馨)」
「俺は結構おもしろかったが‥‥。屋上階に行くか」

しがみ付いたままこくこく神無が頷くので高佳はそっと神無の体を自分の足の進行方向からずらし、けれどしがみ付かせたままマンボウの水槽の前を通り過ぎた。『ごめんね、マンボウ‥‥』と少しだけ振り返ってマンボウにお詫びしている神無が可愛らしくて、思わず口元に微笑が浮かぶ。そんな事には気付いていない神無はエスカレータを確認すると高佳から離れてたっとエスカレータを二、三段駆け上る。

「ペンギン見ていい? ペンギン♪」
「ああ、多分ペンギンが一番近いだろう」
「やった! ペンギンは種類が違っても絶対可愛いから大丈夫だもん!」

ガッツポーズで気合十分な神無はエスカレータを転がるように降り、屋上階を見まわした。屋根のない吹きさらしのフロアは、振り注ぐ太陽の光と秋の澄み切った空で眩しいくらいに明るい。隣にアシカショーをやるであろうステージがあるので時間を確認するために神無は走り出した。気付いた高佳がゆっくりと後を追うと看板と取り出した携帯を見比べ、すぐに神無が戻って来る。

「今十一時半で、アシカショーは十二時半からだって」
「‥‥先にこのフロアをぐるっと見て、アシカショー前に席取りがてら弁当にするか? これを広げて見ていたら邪魔になるだろうから」
「賛成っ! じゃあ、カワウソ後回しでペンギンから!」

後回しにされたカワウソに僅かな同情を向けながら高佳はうきうきと駆け出す神無を追った。カワウソビレッジを迂回し、辿りついたペンギンビーチはすでに二重三重の人だかりが出来ていた。『あれ?あれ?』と見えないらしい神無がぴょんぴょん飛びあがっているが、人の頭の合間から少し背伸びをするだけで高佳はペンギンビーチの中が見えた。飼育員が餌やりをしている、込んでいるのはそのせいだ。どうしてもペンギンが見たいらしく、神無が諦めずに飛びあがっているので高佳は風呂敷包みを邪魔にならないように端に寄せて置いた。そして周りの邪魔にならないかぐるっと辺りを見まわした。

「‥‥あれ‥‥?」
「何?高佳」
「いや、なんでもない‥‥。ちょっと失礼、神無」
「!!」

神無の膝の後ろに右腕を回し、椅子のようにして神無を乗せ、左腕を背中に回して支えてやりながら高佳は神無を抱き上げた。びっくりした様子の神無の頬がかぁっと赤くなる。そんな事にはまったくお構いなしに自分より少し高くなった神無の顔を見上げ、高佳は見えるかと問う。

「う、うん、ありがとう(『!!?? 鬼っ!鬼なのにっ!優しくだっこ!? しかも神無顔赤くしちゃって‥‥何!?何事なわけ!?』穂)」

少し居心地が悪そうに身を縮めながら、それでも嬉しそうに神無はペンギンビーチに目を向けた。しかし次第に慣れて来たのか餌をもらうケープペンギンの群れに拍手を送ったり、かなり楽しそうだ。それを見つけた野次馬が逆に頬を赤らめたりしていたが、まったく気付かずに二人はペンギンの餌やりを堪能した。

「ありがと♪高佳っ! もういいよ、楽しかった♪」
「ああ」

神無を下ろし、代わりに風呂敷包みを持ち上げると次は何処へ? と高佳は問う表情を神無に向けた。が、神無は高佳を見上げてはおらず、もじもじと下を向いてしまっている。

「‥‥ごめんね? あたし‥‥結構重かったでしょ?」
「いや‥‥? 片手でも軽かった」
「‥‥高佳、優しいね‥‥。ありがと♪。次はこっち!(『重い、ヤツは重い‥‥昨日の俺の膝にかかった負担と言ったら‥‥』馨)」

事実を言っただけだが‥‥と首を傾げた高佳を置いて神無は駆けだし、特別展と書かれたゲートをくぐって中に入って行く。高佳は一瞬足を止めて特別展の内容を確認した。『わんタッチ・にゃんたっち広場』、どうやら犬や猫に触れるらしい。神無は早速仔犬の放されたゲージを跨いで中に入り、駆け寄って来る仔犬を手招きで呼び寄せている。

「おいで♪ちび助。そう♪お前♪。あはは♪可愛い♪」

笑いながら神無が抱き上げたのは柴犬の仔犬。毛色は茶色で、垂れた耳と鼻先だけが黒い仔犬は神無の胸の中でちょこまかと動き、神無の頬をぺろぺろと舐める。くすぐったい‥‥と神無が笑うその足元にも何匹もの仔犬が集まっている。

「神無、服が汚れる」
「へーきだよ♪。高佳も触って♪。毛がふかふかしてるの♪可愛い♪」

ぬいぐるみのような愛らしい仔犬は確かに触ってみたい、という衝動に駆られる。高佳が神無に歩み寄り、ゲージの外に立つと神無の足元にいた仔犬達が、波が引くようにざぁっといなくなる。それに気付いて高佳が足を止め、神無はあれ?と首を傾げて胸の中の仔犬を見た。仔犬はくるんっと丸まっていた尻尾を垂らし、くぅんくぅんと情けない声を上げて神無の胸の中で縮こまっている。

「え?‥‥あ、高佳が怖いの? 大丈夫だよ、高佳は優しいから。ほら、撫でてみて、高佳。大丈夫だから」
「‥‥。神無、可哀相だ、放してあげてくれ」

高佳が目を細め、小さく呟いて一歩ゲージから離れる。神無はまだ何か言いかけたが、言葉を切って身を屈め、地面に仔犬を下ろしてやる。

「ごめんね、みんなの所にお帰り」

仔犬が転がるように駆け出すのを見送り、神無はゲージを跨いで外に出、身を翻して特別展会場のゲートをくぐる高佳を追いかけた。体をぶつけるように腕にしがみ付き、見上げると高佳はいつもの無表情だった。

「‥‥動物には嫌われるんだ。神無だけ楽しんで来たらいい。此処で待ってるから」
「‥‥」

立ち止まる高佳に合わせて神無も立ち止まり、自分の髪を撫でたり、リボンに触れたりスカートに触れたりと忙しそうに動きまわる。何をしているんだ? と高佳が首を傾げるとはっと思いついたようにポシェットを手に取り、ファー素材で出来たそれを一撫でしてにっこり笑うと、高佳の方にそれを差し出した。

「触ってみて!」
「?」

言われた通りにポシェットを撫でると動物の毛のようなふわふわとした感触が手の平に伝わる。これが? と首を傾げて見下ろすと神無はふふっと笑った。

「さっきの仔犬、こんな手触り♪」
「!‥‥。神無は、優しいな‥‥。ありがとう」
「そっ? 高佳の方が優しいよ? アシカショーのステージに戻ってお昼にしよ♪。はしゃぎ過ぎておなかすいた!」
「‥‥ああ」

眩しい物でも見るように目を細め、微笑した高佳は同意の言葉を漏らした。その微笑には気付いていないのか、それとも気付かない振りなのか、あっと叫んで神無は高佳の手を離して走り出した。

「飲み物買ってくる! 先に席取ってて! あんまり前じゃなくていいよ、水飛ぶかもだし。お茶でいい?」
「ああ」

高佳が返事を返すとあっという間に神無は駆けて行ってその姿は見えなくなった。あの靴で良く走る‥‥と関心しながら高佳はステージの前に並んだ石の長イスの間を歩いて行く。階段状になっているので自分の身長が邪魔になる事はそうないだろうが、一応後ろの事を考えて前よりのやや端の席に風呂敷包みを下ろし、上着を脱いでその隣に広げて置いた。秋とはいえ、日差しの下にいるとそれなりに暑い。上着と自分で風呂敷包みを挟むように座ると、後ろからとんとんっと軽快な足音が下りてくる。

「お待たせ。冷たいので大丈夫?」
「ああ、ありがとう」
「‥‥、高佳、上着」
「そのまま座っていい」
「でも‥‥」
「イスが石だから結構冷たい。頂きます」

丁寧に手を合わせ、高佳は缶のお茶をあけて一口飲む。神無は戸惑ったように立ち尽くしていたが、高佳が不思議そうに見上げ、『別に汚くはないぞ?』と言うと少し頬を赤くした。そういう事じゃなくて‥‥と呟きながら、覚悟を決めてすとん、と腰掛ける。

「高佳って紳士だなぁ‥‥と思って‥‥(『鬼なのにっ!? ああっ!でも僕には思いつかないような紳士っぷりっ! 今度小夜子さんとのデートの時に‥‥』穂)」
「?」
「どうもありがとう‥‥。さっ!食べよっ。四季のみたいにおいしくはないと思うけど‥‥」

風呂敷をあけて重箱を崩すと一段目には小ぶりな三角おにぎりが。二段目の半分に里芋とレンコンの煮物、半分にきんぴら。三段目にはだしまき卵とから揚げ、別のパックに入れた梨が入っている。ふたの上に置いてあった割り箸をはい、と高佳に渡して神無も頂きます、と手を合わせる。

「すごいな‥‥全部神無が作ったのか?」
「うん。じいちゃんと二人暮ししてたから和食しか作れないけど‥‥。洋食は今修行中〜。食べてみて」
「ああ」

割り箸を手にして高佳は煮物の里芋を取り、口に運んだ。四季が作る物とは一味違う、神無の家の味付けなのであろう。けれど何処か懐かしさがあっておいしい。

「‥‥おいしい」
「ほんと?ありがと♪。おにぎり小さくてごめんね? 手小さいからあんまりご飯いっぱい握れなくて‥‥。でもいっぱい入れておいたから」
「ああ、ありがとう。‥‥おじいさんと二人暮しって、両親は?」
「今はいないよ。じいちゃんも今はいない、学校の寮に入ってるの。週末は馨ん家。寮に入る前も馨ん家だったんだけどね。馨の父さんが面倒みてくれてるんだ」
「‥‥、悪い」
「あ〜、気にしないで。あたし別に『可哀相な子』じゃないから。世の中には実の親に虐待されたり、殺されたりする子もいるし、両親の顔すら知らない子だっているもん。それに比べたらあたしなんか幸せ。両親との思い出はちゃんとあるし、じいちゃんも優しかったし、それに‥‥今だってちゃんと面倒見てくれる血の繋がった人がいるもん」

だからへーき、と神無は笑う。その曇りのない笑みに高佳は微笑を返した。そして神無の握った小さなおにぎりを手に取り、またおいしい、と小さく呟く。

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