第2部<第6章>
大陸最北の国、トグルの城はその高い塔を幾つも組み合わせた城にやんわりと白い綿化粧をしていた。青と白の配色が冷たい空気をさらに凍えさせるような気がする。そんなトグリッサ城を前にフィリーンは立ち止まって馬を下りた。薄着に白い息、けれど寒さに震える事もなく、その美しい雪の城を見つめ続けた。此処が、十六年前まで母のいた所なのだ。
「サルス様!? 何故此処に‥‥」
かけられた声にはっとして視線を下ろすとやや薄い防寒着を纏った、けれど見慣れた顔が駆け寄ってくる。
「ディヌン‥‥。カイラに無理言ってな、別行動を取る事にした。お前も今来たところか?」
「いえ、一刻程前に着いていたのですが足止めを食らっておりまして」
「足止め?」
「はい、何かもめているらしく、待たされております」
――ラング王が手回ししていたのか‥‥? せっかくのチャンスだというのに、何とか指輪の行方だけでも突き止めなければ‥‥――
「王子!そのような勝手なことをなされては‥‥」
「ああ!うるさい!! 石頭は黙っておれ! 雪の中で使者を一刻も待たせて失礼だとは思わんのか? 元はと言えば我々トグルにも落ち度はある! それとも助けを求める小国を振り払うような非人道的な国になったのか?トグルは! いつからだか言ってみろ!」
「王子! ですから父君のご判断をお待ちに‥‥」
「うるさい」
「うるさいではありません! 父君にお任せを‥‥」
「門を開けい! くたばりぞこないのスケベ親父など気にするな。俺が王だ!」
どさっ! とものすごい音がしたのは『俺が王だ』発言に即倒した大臣か誰かだろう。
――ますます暴言暴挙に磨きがかかってるな‥‥――
その顔を思い浮かべ彼は頭を抱えた。昔から悪童と名高い第一王位継承者、第二王子ソール=シクル=トグリッサがそこに来ているのだろう。第一王子は既に病死してこの世にはいない。今年二十五になる王子がこれではトグリッサ王もさぞかし頭が痛い事であろう。
「お待たせした、ディヌン殿。ご無礼お詫び申し上げる」
「いえ、先約もせず突然来訪した私の非にございます」
「おや? おやおやおや、フィリーンが来ていたとは初耳だ」
妙なリアクションをつけてソールは歩み寄ってじっくりとフィリーンを観察する。使者に敬意を払い、その主人にこういう態度をとるのは変わっているが、まぁこれは例外なのだ。
「いい男になったな、フィリーン。しかし、その格好は変装か? 随分良く似合ってるが」
「お、お褒めの言葉として受け取っておきます‥‥」
「素っ気ないな、フィリーン。この石頭は気にしなくていいんだぞ? カイラ王子に同行して旅に出たのではなかったのか?」
「王子、もう少しお言葉使いの方を‥‥」
むっとしたようにソールは必死に起き上がって追って来た大臣を振り返る。が、まぁいいかという感じでフィリーンの肩を抱えるように掴んで城の中に引きずっていく。
「で?旅に出たんじゃないのか?」
「セクアギまで来たんで、無理言って別行動を取らせてもらった」
「うんうん、その言葉遣いの方が好きだぞ」
「ソール王子‥‥」
――話を聞いてるんだか聞いていないんだか、この人は。先が思いやられる‥‥――
内心フィリーンは頭を抱えた。フィリーンでさえ調子を崩すのだ。カイラなどすっかり遊ばれてしまう。
「どうせならカイラ王子にも会いたかったな。彼は可愛いし遊べる」
「あんまり苛めんでもらえるか?‥‥」
「一度も苛めた事はないぞ? 遊んでいるだけだ」
それが苛めなのだ‥‥。フィリーンも良く遊ぶがソールほどではないと思っている。やっぱり別行動で良かった、とフィリーンは胸を撫で下ろしたい気分だ。
「ずいぶん大事なんだな、カイラ王子が。二人とも好みだからな、少し妬けるぞ?」
「‥‥。貴公が言うと冗談に聞こえないんだが‥‥」
「そうか? 冗談じゃないぞ」
「‥‥」
もうつき合ってられんと言わんばかりにフィリーンは黙った。きっとからかわれているんだろうがこれ以上のせられるのも嫌だ。それに気付いたのかソールは悪い悪い、と言うように笑い声を上げた。
「久し振りなんでな、思わず遊んでしまった‥‥。しかし、変わらぬようで何よりだ。で? 何用だ?フィリーン」
「‥‥来訪の目的はディヌンから聞いていると思うが?」
「ラング・リ・ストゥがやばいから助けてくれ、ってなら喜んで手を貸してやるのにな‥‥。お前達二人に恩を売っておけば後々楽しみなのに‥‥」
「はぐらかすのはやめてくれ‥‥ソール王子(さっきとちっとも変わってないじゃないか‥‥)」
「ディヌン殿お一人なら話しても構わなかったんだがな‥‥。フィリーンがいるとなるとまじめに親父殿のご判断とやらを仰ぎたいんだが」
「! ‥‥十六年前もそうだ。母上が亡くなったと言って、尊公は俺に遺髪を握らせてくれた。だけどそれだけだった! 死因も、本当の生死も分からない! 何故なんだ!?ソール王子!」
――‥‥あの時の俺ではそれが精一杯だったからな‥‥――
そのようなご勝手を!? と大臣が叫んでいるがまるっきり無視し、珍しくまじめな横顔でソールが言う。その表情にフィリーンは思わず責めの手を緩める。それに気付いたのか先程の余韻を残したまま振り返って、ソールはふっと笑みを浮かべた。
「あの時の俺は‥‥何故親父がお前にあの女の死を隠すのか分からなかった。だから、埋葬されそうになるあの女(の髪を一房だけ切り落として、夢中で隠した。誰にも、特に親父に気付かれていないか気が気じゃなかったよ」
「ストゥ・マイニアヌが堕ちて、俺がラング・リ・ストゥで捕虜になったから、か?」
「捕虜じゃないだろ‥‥。まぁそれもあるが‥‥。やはり俺からは言えんな。沈黙の十六年を破るには、荷が重い」
「ソール王子!」
「フィリーン様! お気持ちお察し致しますが此処はトグル、シクル王子のご判断に委ねるべきです」
「お心遣い感謝する、ディヌン殿。今教えてやれるのは一つ、あの女(は、お前の母は十六年前に亡くなってる。今もこの城の墓所で眠ってるよ‥‥」
母の眠る場所、母の生きていた場所、死んだ場所‥‥。十六年前に全て奪われた、全て失った。なのに十六年経った今、まだ道は閉ざされているというのか? 忘れていた涙が一筋伝う。おかしい‥‥あの時でさえ一筋の涙も流せなかったのに‥‥。気付いたらしいソールが自分よりも高いその長身でがっと頭を抱え、そのまま早足にずかずかと歩いて行く。
「ソ、ソール王子? 何を‥‥?」
「ちょっと借りていく、ディヌン殿。貴公は親父の所に行って貰えるか? フィリーンが来ている事を伝えて欲しい。お連れしろ」
「は、はぁ‥‥?」
「良いご判断です、王子。ではこちらへ、ディヌン殿」
ずかずかとソールはそのまま前進し続ける。振りほどこうと腕を振るがそれだけの力は入らない。知らなかった、涙がこんなに人を無力にするなんて‥‥。
「離してくれ‥‥ソール王子」
「分かってたよ、こうなるだろうと。だから、十六年黙ってた。ただ、もっと早くても良かったかもな。人形じゃない、立派な王子でもない。ただ、泣ける居場所を無くして、泣くタイミングが分からなかっただけ。泣けなくてずっと子供の部分を孕んでいたお前には話せない。だから泣いて、子供のお前を解放してやれ‥‥」
翳りそうな日に不安を覚えながらカイラはさらに馬を駆った。この先の寒さには耐えられなくなるだろうとフィディアがクラムを預かってくれたが、フィリーンもクラムも居ない状態故に余計に不安を感じるのだろうか。神殿で運良く馬を手に入れられたがやはり出立が遅かったかもしれない。宿どころか民家すらテュアナに入らないとないのだ。今度も前の時のような洞窟があれば良いのだがそううまくいくか‥‥。
「待って! カイラ」
「! シアル、どうかした?」
振り返ると森の入り口でシアルと仮面(の乗る馬が止まっている。森は何処の国にも属さない。広ければ広い程、危険の住処となる故にだ。
「仮面(? 森を行く気かい? 前のように急いでいるわけじゃないし、危険だからやめておいた方がいいと思うけど?」
「いえ‥‥そういうわけでは‥‥。何か、覚えはありませんか?シアル」
「私? この森に? ‥‥ううん、ないけど‥‥。どうして? 仮面(」
「ならば良いです‥‥。行きましょう、カイラ」
「え?‥‥うん」
「待ーった!パルスナ!!」
そう言ってシアルがいきなりがっと仮面(の首にしがみ付く。今まで見た事のない突飛な行動の上に、『パルスナ』と呼んだ事にカイラはびくっと身構える。しかし仮面(は取り乱した様子はない。確か大切な人に知られると狂戦士(になるのではなかったか?
「お久し振りです。そして、おはようございます、イアラ」
「もう!それじゃあ私がお寝坊さんみたいじゃないか。それと、レディに挨拶するならその無愛想な仮面はやめてよね。パルスナかっこいいんだから」
「それは失礼を」
「わわっ‥‥仮面(!?」
躊躇いなくパルスナはフードを落とし、仮面を手に取った。カイラの慌て振りとは逆にシアルは驚きもせず、にこっと満足げな笑みを浮かべただけ。
「『行く』つもりなら起こしてくれて良かったのに」
「いえ、尊公が目覚めなければカイラを連れて行くべき時ではないのかと」
「許可する、運命の星を案内しなさい」
「御心のままに」
「あ‥‥仮面(‥‥いやパルスナって呼んだ方がいいの? シアルは??」
「‥‥そろそろ説明しても構いませんか?イアラ」
いい加減混乱するカイラが哀れになってきてパルスナはイアラに問う。ん〜どうしようかな〜と笑うイアラはカイラの反応を楽しんでいるらしい。
「とりあえず私の事はイアラと呼んで。彼はパルスナで良いから」
「え?‥‥どういう事? シア‥‥いやイアラ?」
「事情は神殿に着いてから説明する、良いよね?パルスナ」
「異存ありません。遅れぬよう付いて来てください、カイラ。道を失うと面倒な事になりますから」
「いっ‥‥? わぁ!ちょっと待ったぁ! パルスナ!?」
言うなり馬を走らせるパルスナを追い、あわててカイラも手綱を取った。森の道は複雑で――というか道らしい道はない――油断すればすぐ様その背を見失えるだろう。とにかくどうなってるんだ? と言う疑問は頭の中から叩き出してカイラは夢中で二人を追いかけた。
ソールの手持ちの服から黒基調の正装の一つであるそれをあてがわれた時からフィリーンは彼の父、トグリッサ老王との謁見を予想していた。だが、待っていた部屋に入ってきたのは同じく正装に身を包んだソールだった。薄い青みがかった銀髪に、白基調の正装は彼の母似の顔に相まって彼の存在を儚く見せかけて外交的には良いのだろう。何しろ彼はかなり長身だと自負しているフィリーンよりも頭半分抜きん出ている。けれど外見儚げでもフィリーンには全く無意味だ。
「父王は病による体調不良のため、第一王位継承者ソール=シクル=トグリッサがその任を代行する。異存は? フィリーン=サルス=ストゥ・マイニアヌ」
「ありません」
「じゃあこの書類にサインしてな。一応中に目を通してからでも良いぞ。ろくな内容じゃないが。ったく俺とフィリーンの中でこんなかたっくるしいやり取り必要ねぇってのに‥‥」
ソールの愚痴に苦笑しながらフィリーンは書類に目を走らせた。長々と書いてあるが要約すると国家秘密級の内容をフィリーンに話す許可を与えるという事らしい。さらに、最後付近に書かれた一文が目を引いた。此処は、少し躊躇うような、前とは明らかに筆跡の違うもの‥‥。
『なお、この内容は次期王として受け継ぐべき記憶として我が第二王子ソール=シクル=トグリッサに聞かせたもので、その当時貴君同様幼かった当人には何の罪もない事を理解し、どうか今まで通り良き関係を保ってやって欲しい。真に勝手な願いであると自負するが‥‥』
――どういう意味だ?‥‥これは――
「こんなもんか‥‥? あ、そうだ。フィリーン、ディヌン殿の同席はお前が判断してくれ。まぁ、俺はどっちでも構わないが、お前の気分の問題だ」
――国家秘密を、今は俺の元にいるとはいえ本来中立の立場である神殿関係者に知られるわけにはいかぬ、か――
「悪いな、はずしてくれ、ディヌン」
「はい。その代わりと言ってはなんですが、少々わがままを、フィリーン様」
「何だ?」
「せっかくトグルまで参りましたので、この時期に失礼と思いますが本神殿に参ってもよろしいでしょうか?」
「そうか‥‥それは気付かなかった、悪いな。ついでと言ってはなんだが、ジーマとファディについて少し探りを」
「送らせよう、少し待っててくれ、フィリーン」
断ろうとするディヌンを引き連れてソールは扉を開けて、体半分出したままそこに控えているらしい誰かと会話する。はい、と同意する声は少女のようだったが、ソールの侍女だろうか?
――俺の部下である前に神官だったな、あいつは――
とフィリーンは何気なくディヌンの事を思った。部下、とはおかしいか、と思いながらも自然にそれは浮かんできた。もう、慣れていたから。王子と部下の関係を一番捨てきれないでいるのは自分なのかもしれない。
「悪い悪い。あーあ、見事に二人きりかよ」
「珍しくご不満そうだな、ソール王子」
「当たり前。俺はこの手の重苦しい話は嫌なんだよ。仮病使ってねぇで自分で出て来いってんだ、スケベじじいが」
「ソール王子、仮にも自分の親を‥‥」
「‥‥。お前の様にさ、以前は無心に尊敬してた、親父を。だけどうちのはカイザー王のような立派な王ではなくて、だから‥‥この話を聞かされた時から曲げちまったのさ、父親像って奴を。お前もきっと同じ思いをする。分かってるが‥‥話したくないがこれは俺が王になるため通らねばならぬ道。お前と、本当に気兼ねない友人になるためにも‥‥。最後の問いだ、正直に答えてくれ。お前の母親像を、十六年燻らせていた痛みを根底から引っくり返すような話だ。それでも真実を知りたいか?」
――知りたい‥‥――
フィリーンが意識するよりも早く、その言葉は静かに口をつく。そうだと思ったさ、とソールは微笑し、やれやれ、というように溜息をついた。
「さて、どっから話したものか‥‥。まずは順を追って話そう‥‥。お前、母君の、アナサシア妃の出身国は知っているか?」
「知らない。ただ、多少身分が低かった事は聞いた」
「アナサシア妃の出身国はトグルなんだ。下級貴族の娘だ。親父がお前の父上、カイザー=アスティ王に縁談をすすめたそうだ。当時はまだ十五だったかな、そっちにしてみれば結婚には早いだろう? 明らかにストゥ・マイニアヌを自国より格下と扱った政略結婚だったが、それでもカイザー王は快くアナサシア妃を娶った。多少年は離れていたが夫婦仲は良かったと聞いている。アナサシア妃が心を開くまで、決して強行に手をかけることはなかったそうだし」
「母上が俺を生んだのは、二十一の時だ‥‥。じゃあ、約五年待ったのか‥‥」
「そんなアナサシア妃を変えたのは、他でもない、親父だろう‥‥。年端の行かぬフィリーンを人質に差し出せと妃を脅し、トグルに呼び寄せると妃に手をかけた」
「なっ‥‥」
言葉は続かなかった。子供ではない、フィリーンとてその意味が何を示すのかは‥‥。母がストゥ・マイニアヌを出たのが二十三、かなりの美妃と聞いているが、いくらなんでも一国の王が他国の后を‥‥?
「最初は嫌々だったんが、諦めたのかまんざらでもなくなったのか‥‥。俺の下の弟妹は一人を除いて全員がお前の父親違いの弟妹だ。だから、ざっと四人だな」
「四人も‥‥俺に弟と妹が‥‥? 公式的にはソール王子の母君、第二妃の子になっていたはずだが‥‥」
「公式にはな。悪いがショックはまだまだだ。俺に兄がいたのは、お前知ってたか?」
「第一妃の子、確か、十五違いの王子が」
「よく出来ました。だから、義兄上は十六年前の戦が起こる前にはとうに成人してたわけだ。あまり仲が良かったわけじゃないが、他人にも自分にも厳しくて鋭い性格は良く覚えている。そんな義兄上が父の愚行に気付かぬはずがない。義兄上は親父に決断を迫った。トグルの誇りを保つため、妃を斬るかそれとも、妃の正式な夫、カイザー王を討って妃を娶るか‥‥」
「馬鹿な! どちらもストゥ・マイニアヌとの衝突は避けられないじゃないか! 一国の王子たる者がそんな事も分からないわけがないだろうに! それで‥‥母上を殺したのか?トグル王は」
仕草で落ちつけ、と示し、ソールは少し疲れたように溜息をついた。そして現実はそんなに優しくない、と静かに告げる。フィリーンはソールの心中を察して大人しく席に戻った。だが、心の中ではまだ認めていない。父を討ったあの男は、ソールの義兄などではない‥‥。ちょうど同時にクーデターか何かが‥‥。
「親父は後者を取った。そして義兄上は、直接手を下す事はしなかった。ちょうどストゥ・マイニアヌには、剣に長けた男がいて、その男はトグル貴族出身の娘を娶っていた。それに目を付けた」
「それが‥‥まさかラング王だと‥‥?」
「カイラ王子も、王妃も金髪だろう? ストゥ・マイニアヌ出身の者には金髪は皆無。義兄上は出産を前にして里帰りしていた娘を盾に、男に幾ばくかの兵士を付けて言ったんだ。カイザー王を討て、さもなくば妻子を殺すと。実際そんな手荒な真似はしなかったそうだから王妃は多分、まだ夫の野心による過ちと信じてるだろう」
「じゃあ‥‥父は、その政を疎まれていたわけでもなく、人柄に反感を持たれていたわけでもなく、トグルの誇りとやらのために、妻子を守ろうとした‥‥ただの男に討ち取られたのか?‥‥」
「ああ、そうだ。剣王、闘神と呼ばれたカイザー王は妃と息子の命を約束させ、自ら首を取らせたと聞いている。義兄上はアナサシア妃も、お前も、ストゥ・マイニアヌの血族全てを皆殺しにする気だったのに‥‥。実際、現ラング王、その当時はただの駒に過ぎなかった男にもそう命じていた」
「けれど‥‥あの男は俺に剣を向けて手を止めた。それどころか俺を、ファディを殺さず、その上この俺を手元に残したんだぞ!!」
「その時に兵士か誰かが入ってきたはずだ。そのせいで男は手を止めた」
ソールの言葉にフィリーンは目を閉じ、その状況を思い浮かべた。男の剣が自分の肩口に近付く。ああ、とうとう自分の番なのか、と乾いた心で思った。父が、血縁者が次々に殺されて行く中で恐怖はすっかり麻痺していた。その強い目で幼いフィリーンは殺人者を見上げて言った。この娘は自分の侍女だから自分を殺した後も娘は殺すなと。震えていたファディがきゅっと力を込めて背中を握ったのが分かる。言っては駄目だと。その様に彼の父を思い出したのかなんなのか、男は一瞬躊躇った。その一瞬の間に兵が駆け込んで来て男に何事か告げた。そして、男は一つ頷き、高々と戦の終末を宣言したのだ。
「確かに‥‥兵が一人。あれは‥‥ストゥ・マイニアヌの者でも、ラング王の配下の者でもなかった」
「トグルの兵だったからだ。その兵が告げたのが、義兄上の死と、親父からの終結の言葉」
「! 死んだ? 病死だと聞いていたが、何故突然‥‥」
「暗殺だ。毒殺によるらしい、とその時は伝えられた。毒が特定できなかったんだ。真実が分かるまでに三年がかかり、その間に義兄上の死は病死と発表された。だが事態はそんなに遅くはなかった。今思えば奇妙な事だよ。義兄上の時はあんなに巧妙な手を使ったのに、俺の時はお粗末過ぎた」
「‥‥母上が、ソール王子の義兄上を殺したのか?」
「そうだ。あの女(は義兄上の葬儀で本神殿に来ていた俺をそっと呼び出し、その時期荒狂っていた川に突き落とそうとした。まぁ、俺も結構抵抗したし、義兄上の件もあったからすぐに近衛兵が駆けつけた。その時に、勢い余ったのか自分からか――俺は後者だと思っているが――あの女(は川に身を投げた。すぐに救出に向かわせたが、すでに遅かったよ」
耐えかねたのかフィリーンが俯き、両手で視界を覆う。話は終わりではなかったが、察したソールは軽くその肩を叩いてやる。泣いているのかと思ったがそうではない。顔を上げて軽く手を振り払う表情は思ったよりもしっかりしていた。
――それでこそお前だ、フィリーン=サルス=ストゥ・マイニアヌ。この俺が認めた、王の器たる者。こんなところでへばられては困るな――
「まだ、続きがあるんだろう? 俺は大丈夫だ、聞かせてくれ」
「三年後に判明したその毒の素はなんと、ミアーシだったんだ。親父はこの事をラング王に伝えるべきか迷い、結局口をつぐんだまま、ラング・リ・ストゥでの事件が起こった」
「十六年前にすでにミアーシの毒が‥‥? ‥‥当然、トグルでは解毒剤は完成しているんだろう? ミアーシの原産国である、ラング・リ・ストゥを恐れぬくらいだからな」
「ああ、ラング・リ・ストゥには知らせるべきだと思っていたんだがな‥‥。それを話すと芋蔓式に全てが明るみに出るだろう? 臆病者のじじいのせいで、迷惑をかけたな。それと、カイラ王子達を危険な目に合わせてしまって申し訳ない」
「顔を上げてくれ、ソール王子。俺はそんなつもりでは‥‥。それに、尊公が謝る必要はないだろう? 確かに、カイラは危なかったがこちらの対応も何とか間に合った。まぁ、これからは無条件の協力をお願いしたい所だがな」
「当然だ。ディヌン殿が帰国される際に王宮付きの薬師を二、三同行させよう。もっとも‥‥クォレル殿の手にかかれば解毒剤などお手の物だろうが‥‥。お前は、まだ戻る気はないんだろう?」
見透かしたように微笑するソールに苦笑を返してフィリーンは頷いた。早く戻りたい‥‥と焦燥感に駆られるが、左手を握り締めてふともう一つの目的を思い出す。小指に窮屈そうにはまっている指輪をはずし、不思議そうな顔をするソールに差し出す。
「これと似た物を、母上がしてたはずなんだが。覚えはないか?」
「うーん‥‥確かにしていたな‥‥。肖像画にも確かあったし‥‥。だが埋葬する時にはなかった気がする。川の流れがひどかったから抜けたんだろう」
「そうか‥‥」
「今日は当然泊まって行くんだろう? 嫌だなんて言うなよ? 夕食の用意はさせてあるんだ」
「しかし‥‥ソール王子、申し訳ないが先を急いで‥‥」
「カイラ王子だってそういつまでも子供じゃない。その指輪の行方が知りたいんだろう? 調べてやるさ」
代わりに逃げるなよ? と微笑に隠された言葉を跳ね返す方法などない。しばらくおもちゃだな‥‥と溜息をついてフィリーンはしぶしぶ同意の意を示した。
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