第2部<第7章>
薄暗くなって来た森を全速力で駆け抜けるパルスナの背を見失わずに追えたのは奇跡かもしれない。先を行くパルスナが馬の脚を緩め、やがて制止した。息を切らせながらようやくカイラも馬を止めると、そこに緑と薄茶の建物が建っていた。緑は絡む蔦の色、薄茶は変色した石の色だ。随分古いようだが、神殿か‥‥?
「夜になる前には着いたね、よっ!」
「! いけません!イアラ!」
ひょいっと馬から飛び降りたシアル、もといイアラはバランスを失って転倒した。慌ててパルスナが駆け寄り、馬を下りたカイラも心配げに見下ろす。が、そんな心配はよそにぺろっと可愛らしく舌を出してイアラは笑い飛ばした。
「シアルは足を傷めてたんだっけね。忘れてた」
「失礼を、イアラ」
「うん、ありがと、パルスナ」
「‥‥あのー‥‥イアラって‥‥?」
「どなたかいらっしゃいましたの?」
尋ねようとすると建物の中から声がして、カイラは反射的に口を閉じて振り返った。パルスナと、パルスナの腕に抱え上げられたイアラもそちらを見やる。出て来たのは巫女風の女性。盲目なのか目を硬く閉ざしたままだ。
「ジュクス!」
「ジュクス様、お久し振りです」
「イアラ様にパルスナ? それに、運命の星‥‥。まぁこのような森深く、良くお越し下さいましたわ。中へどうぞ、お茶をお入れ致しますわね」
「わーい! ジュクスのお茶おいしくて好き〜♪」
「え?あの‥‥セリキーレって??‥‥」
「中でお話いただけますよ、カイラ。簡単に説明しておきますと彼女は巫女です。それも、絶対神キルアーナではなくこの世界でただ一人のメターナ・ネウユを奉る巫女」
パルスナ達の村に関係ある人? と尋ねるとパルスナは一つだけ大きく頷いて後は何も言わずに女性に付いて中に入って行く。扉をくぐってすぐは祭殿、特に神殿らしい物は何も無い部屋だ。祭殿には両性体(であるキルアーナ神像の代わりに白い大きな鳥の像が奉られている。ジュクスとパルスナ達はさらに奥へと入って行った。カイラが駆け出して追い付く頃にはイアラはソファに腰掛け、すでにうきうきとお茶を待っている。
「どうぞ」
「わーい!頂きまーす!」
「セリキーレ、いえ、アリークの君とお呼びした方が正しいですか。どうぞ」
「! あ、どうも‥‥」
――彼女もフィディア殿と同じ、星見の巫女なのか――
ジュクスの差し出したお茶はアビス・プクト神殿で見た緑の物とも違う茶色のお茶。おそらく保存用に乾燥させてあるのだろう。緑の物より渋みが強いが、それがあっさりと口の中から引いて美味しい。
「アリークの君には何処までお話に?イアラ様」
「なーんにも。森の入り口で起きたばっかりだから」
「ジュクス殿の事は簡単に。それと、村の事は以前少し」
「そうですか、改めましてお初にお目にかかりますわ、アリークの君。フィディア殿は、すでにご存知のはずですわね。私はフィディア殿と同じく星見の巫女、このメターナ・ネウユの神殿『ジュクス』を奉る祭司でもありますジュクスと申します。フィディア殿から『セリキーレ』あるいは『シャテア』について何かお聞きになりまして?」
「いえ‥‥何も。それより‥‥シアルは、イアラは一体‥‥」
「はひ?」
お茶菓子を頬張りながら何? とイアラは言ったようだ。こういう子供っぽい所は何処となくシアル似なのだが、やはりシアルとは全くの別人だ。
「メターナ・ネウユの眠りを覚ます者が生まれる、という言い伝えはすでに話しましたよね?カイラ」
「うん。それがシアルなんだろ?」
「実はそれは秘密を守るための嘘で、もう目覚めてるんだよね。私がメターナ・ネウユ。と言ってもメターナ・ネウユは本来私が化した鳥の事で本当の名はイアラ」
「ええ!? じゃあシアルが神って事!?」
「違う違う、まぁ落ち着いて聞いてよ、カイラ王子。シアルはね、私が完全に蘇るまでの宿として一時的に体の一部を提供してくれてるの。つまりシアルは神を宿す巫女なわけ。私の体はまだ完全には目覚めてないんだ。本来私は性別を持たない(の神だし。そして、私が完全に目覚めるために君達運命の星(がいる」
「私‥‥達?‥‥」
そう、と悪戯っぽく笑うイアラに自分とパルスナを交互に指差すが、違う違うとイアラは笑って沈黙する。何のための沈黙かと思いきや、ただお茶が飲みたかっただけらしい。ふう、と一息ついて再びイアラはカイラに向きなおる。
「セリキーレは、流れ別れし一つ星。君のアリーク、君の陰星レフィン、そして分かれたもう一つ、シャテアの三つを示す」
「元々は、セリキーレという一つの星とその陰星レフィンが双子星と呼ばれていたのです。そのセリキーレが二つに分かれ、レフィンはアリークの元に残りました。今尊公の元にレフィンを持つ君が寄り添っているように」
「ではシャテアは?‥‥。一体誰がシャテアの星を持っているんです!? その人は今何処に‥‥」
「あら‥‥? アリークの君には確か双子の妹君がいらしたはずでしょう? ご誕生の年に人伝にお聞きした名は確か、リルス王女、リルス=アヌマーン王女でしたか」
「ええ!?」
驚くカイラの傍らでおや、やはり‥‥とパルスナが落ち着いた、しかも納得の言葉を漏らす。気付いてたの!? とカイラが詰め寄ってもはい、と答える笑顔は平静そのもの。
「顔立ちが他人とは思えぬ似でしたので血縁かな、くらいには。それに、彼女に対するフィリーンの態度がかなり妙でしたので」
「全然気付かなかったんだけど‥‥。フィリーンの血縁かと思ってた、あの様子から‥‥。じゃあ、私は‥‥実の妹に命を狙われてたって事‥‥?」
「それだけじゃあないね、カイラ王子。君は忘れてても、レフィンはしっかり彼女を覚えてるよ。そして君のアリークと彼女のシャテアは元を正せば一つの星、レフィンがシャテアの陰星となる可能性はとても高いんだよ」
「‥‥フィリーンは私を追ってくると言った。だから私はフィリーンを信じるよ。彼女の事も‥‥。彼女が何故私と別れ別れなのかは覚えていないけれど、彼女もラング・リ・ストゥも取り戻せると信じる」
「呆れた純真さだね、カイラ王子。でも‥‥悪くないよ、むしろそれでこそ、君こそアリークにふさわしい」
「耀ける暁の星、そして『信頼の星』アリーク。必ずや、尊公の望む未来が開かれましょう、アリークの君」
「じゃあ私からは君の星『アリーク』に、絶対なる勝利と幸運の祝福を」
何? と振り返るカイラの頬をそっと柔らかい手が包む。そして唇が重なってカイラは頬が熱くなっていくのを感じた。イアラの頭の向こうに、動揺した様子のパルスナが慌てて後ろを向く様が映る。盲目のジュクスは事態に気付いていないようだ。しばしカイラが硬直しているときゃあ! という悲鳴と供に突然体が突き飛ばされる。
「何々!? なんで私カイラとキ‥‥きゃあー!」
「それはむしろ私が言いたい‥‥。しかも何故私が突き飛ばされるんだ‥‥?(しかもパルスナいつの間にか仮面(に戻ってるし!!)」
「(このパターンはイアラがシアルと入れ替わる合図なんですよ‥‥)少し落ち着いて、シアル」
「あう〜、落ちつけないよぉ。カイラは嫌いじゃないけどその前の事覚えてないのに納得いかないったら‥‥。! 此処は?」
「シアルですね? お久し振りです。と言っても、貴女は覚えていないのですね‥‥?」
「あ、はい‥‥ごめんなさい」
名乗りながらジュクスは懐かしそうな笑みを浮かべる。それは、母が娘を見るような優しい眼差し。シアルにもそれが伝わったのか戸惑いも和らいだようだ。
「すっかり日が暮れたようですね。今日はこちらにお泊りを。食事をご用意いたしますわ。その後に石碑までご案内しましょう」
「あ、でも‥‥フィリーンが追ってくるのよね?カイラ。何処か分かる所にいた方がいいんじゃない?」
「あの時間に出てトグルまで行ったとしたら、あちらも着くのが遅くなっているのではありませんか? きっとフィリーンも泊まって来るでしょう。どう思います?カイラ」
「嫌がおうにも止められると思う‥‥(あの人にね)では、申し訳ないがお世話になってもかまいませんか?ジュクス殿」
「ええ。シアル‥‥ゆっくりと、話して差し上げますね、貴女の事、貴女の生まれた場所の事‥‥」
「‥‥はい」
引き留められたわりに特に収穫が増えたわけでもなかった。ソールの底なしの酒盛りに付き合わされた疲労だけが残ったような気がするが、わざわざ見送りに出てくれたソールには素直に礼を言っておこう。しかし、頭痛がひどい‥‥。決して弱いわけではないがソールに付き合ってはならなかった‥‥。
「道中気をつけてな、フィリーン。帰りはまたトグルに寄ってくれ。兵なりなんなり、助力は惜しまないつもりだ。場合によっては宮廷魔術師(も、な」
「ありがとう、ソール王子‥‥と言いたい所だがただ単にカイラで遊びたいだけなんじゃないか‥‥?」
「はははっ!それもある。そうだ、フィリーン。お前にこれを渡さねばと思っていた」
「‥‥?」
差し出されたのは金細工のマント留め。その体の金はミアーシを示し、深い藍(の瞳はストゥ・マイニアヌ王の衣を示す。双頭の鷹はストゥ・マイニアヌの家紋、覇王たる鳥。かつてストゥ・マイニアヌで王冠よりも大切にされ、代々の王がその胸に耀かせた双頭の鷹のマント留めだ。
「これは‥‥何故トグルに?」
「ラング王が正統なる王が継ぐまで、と我が国に預けられたんだ。これはお前に返そう、フィリーン」
「俺は、王になる気はない。俺にとっての王は‥‥」
「分かっている。だがその正統なる主はお前だ。お前の手で、お前の望んだ王に捧げるのがふさわしい」
「‥‥ありがとう、ソール王子」
「気をつけて。またな」
その言葉に一つ頷いてフィリーンは馬の背に乗り、それを駆った。城門で見送っていたソールはすぐに遠ざかる。当然、彼が何を言っていたかなどフィリーンの耳に届くはずは、ない‥‥。
――リルスよりカイラが大事なの?――
二日酔いのせいか哀しげな少女の顔が頭を離れない。そんな事はない‥‥続くのは弱く否定する自分の声。
――どっちが大事かなんて決められない‥‥。ただ、あの時守るべきだったのはカイラでリルス、お前じゃないんだ‥‥。お前がカイラを殺すというならば、俺は全力でお前を止めるしかない‥‥――
気分が悪かった‥‥。二日酔いか、嘘をつき続ける事にか‥‥。馬を小川に向け、方向転換させるとフィリーンは馬を下りて川の水を掬った。喉を潤すはずの水すら、今は息苦しい‥‥。
「リルスの事、忘れちゃったの?フィリーン」
「忘れるものか! ずっと‥‥リルス?‥‥」
「良かった♪。じゃああの約束も覚えてるよね?」
振り返るとたんぽぽ色の頭が迷わず自分の胸に飛び込んでくる。何故?という言葉よりも何故か安堵が先立った。完全に自分の元に戻ってきたわけではないだろうに、何故だろう‥‥? 抱きしめる肩は、撫でる髪は十年前の記憶と少しも変わらない。
「覚えて、いるさ‥‥。お前こそ、忘れてしまったのか? カイラはお前の双子の兄、お前達は兄妹なんだぞ?」
「うん、分かってる。だから‥‥カイラを殺すの。カイラが私の、そしてフィリーンの表だから。私達が表に出るためにカイラを殺すのよ」
「違う! 何故分からない! 表も裏も無い! カイラは失ってはいけないんだ! もちろんお前も‥‥。どちらが表でも裏でもない、二人は別々の人間なんだ、リルス。いい子だから、分かってくれ‥‥」
「分かってないのはフィリーンの方だわ。私の手はカイラを殺さない。殺すのは、貴公のこの手よ?」
にこっと浮かべる笑みはこの間とは違う。そういえばカイラが言っていた‥‥。リルスは二種の話し方‥‥二通りの人格を‥‥。まずい、と身を引こうとするが急に立っていられないほどの頭痛に襲われて思わず膝を突く。
「抵抗しても無駄よ?フィリーン。フィリーンは魔法に対する抵抗なんて出来ないでしょう? すぐに楽にしてあげるから我慢してね‥‥」
「魔法だと‥‥?」
「さぁ素直になれるお薬よ。カイラの事なんて忘れて、私のための、私だけのフィリーンになってね」
薬を含んだ唇が重なる。抵抗しようにもその力は皆無だ。流れ込んでくる液体が、少女の柔らかな唇が、次第に意識すら奪って行く‥‥。
一日遅れで辿り着いたテュラン神殿にフィリーンの姿はなかった。とりあえず先に石碑を見ようと三人は神殿を上がっていく。石碑は神殿の正面、すぐ目の付く場所に置いてあった。
「あ、ほんとに途中からだわ。ジュクス様の神殿のと合わせると『時は止まる事なき。昼と夜と朝方にして夕方なる者も止まる事を知らない。白き鳥の道標にて完全なる時へと溶けゆく』だね」
「昼は私、『アリーク』、夜は『レフィン』、朝方にして夕方なる者は『シャテア』の星を持つリルスか‥‥。この文句を見るとリルスと合流する事になるように思えるけど、どうかな‥‥」
「溶けゆく、よりは絡み合う、ですか。とにかく、お互い一日遅れですから此処は無理せずフィリーンを待ちましょう」
「うん、そうしようか」
「それもいいけどちょっと買出しに行った方がいいかもよ? 此処からメターナ・ネウユの神殿まで結構あるそうだし、神殿はトグルと言ってもはずれのはずれ、途中に町なんかは無いと思うわ」
「そうだな‥‥。じゃあシアルと仮面(で行って来てくれる? 私は付いて行っても邪魔になりそうだから、此処でフィリーンを待ってるよ」
分かった、じゃあね! とあっさりとシアルは手を振る。昨夜ジュクスからイアラの事は聞かされたはずだが、そんな素振りは全く感じさせない。ショックを受けていないはずが無いだろうに‥‥。まぁ、昼とは言え市の立つ通りに入り込める元気があるのだから大丈夫だろう。ちなみにカイラは一度行ったきり、とても苦手と理解したので容易に近付かないようにしているのだ。
「それにしても‥‥いきなり神は出てくるし命狙ってるのは妹だし‥‥わけが分からないよ‥‥」
戻ってきたら今度こそフィリーンを問い詰めよう、とカイラは決めていた。おそらく実の妹に命を狙われたカイラの心のショックを危惧して黙ってくれていたのだろう。確かにショックだった。けれどそれよりも何故妹がいなくなったのか、何故命を狙われているかの方が知りたい‥‥。
「カイラ!」
「!」
聞き覚えのある声に抱えていた膝を離し、カイラは顔を上げた。神殿の階段の下にフィリーンが立っている。気付かなかった、と苦笑しながらカイラは階段を駆け下りた。
「フィリーン! 私達も今来たんだ。途中で‥‥」
不意に身の危険を感じてカイラは階段を蹴った。先程までいた場所に刺さっているのは、リルスが持っていた短剣。とっさに剣に手をかけるが剣を手に襲って来たのは、フィリーン。
「悪いな、カイラ。ストゥ・マイニアヌ復興のため、死んでもらう!」
「っ! フィリーン!?」
――操られているのか‥‥?フィリーン。解毒剤は持ってない‥‥。ならば気絶させて動きを止めるしかないか――
「戦う気か? 今まで一度だってお前が俺に勝てた事があるのか? 剣王を継ぐこの俺に!」
「!」
加減の無い剣をかろうじて受け止めるがそれだけで肩までしびれ、淡雪に濡れた足元が滑る。手加減があってかろうじて反撃できたのだ、今は受け止めるのも精一杯。しかも足元は慣れぬ雪、そして剣は使い慣れた愛用の物ではない。
――駄目だ! このままじゃ止める前にやられる!――
『王子に勝てない?』
声と供に浮かんだのはラヤフの顔。こんな時に‥‥といまいましく思いながらも記憶はどんどんと押し寄せてくる。
『ははは!そりゃ剣の話っしょ? 王子は剣の腕は父君に似て天才っすが、剣以外はやってねぇんで反則攻撃には弱いっすよ。はは!そんな嫌な顔せずに聞いてくだせぇよ。こりゃ立派な戦法ですぜ? 戦場でもし王子と戦う事になったら俺なら‥‥足を使いやすね』
――そうだ、フィリーンの剣は正統すぎる剣術‥‥。剣では勝てない。だったら‥‥――
「やっ!」
「!」
剣を受けながらカイラは右足を蹴り上げる。フィリーンの鳩尾辺りを狙ったが、足元の悪さとリーチの差で入りが浅い。代わりにフィリーンの剣が腕を深く傷付ける。さすがに二度目はそう安々とは入れさせてくれないようで、フィリーンはさっと身を引いて間合いを長くする。次は足掛けでもするか?‥‥と考えている間にフィリーンの方が先に体制を整えなおして足を踏み込む。カイラは身を引こうとするがばっと割り込む黒い影。
「マス‥‥!」
「ナイスキックだ!カイラ王子! 後は任せろ!」
「!!」
黒い影はフィリーンにまとわりつき、一瞬の間動きを止める。その一瞬で彼には十分だった。忌々しそうにフィリーンが黒い影、ローブを振り払う。その仕草で空いた鳩尾に拳で鋭い突きが入った。それだけでフィリーンの長身がなす術なく地面に崩れていく‥‥。すかさず彼、短めの銀髪にフィリーンよりも背の高い姿を露にしたソールはフィリーンの背に己の体を乗せて押さえつけた。
「あっ‥‥ソール王子!? なんで!?尊公が此処に!?」
「パニックに陥ってる姿も可愛いぞ♪カイラ王子。フィリーンを押さえてなければ思いっきり愛でられたのに‥‥」
「お兄様! あれ程派手な行動はお控えくださいと! 此処はトグルではありませんのよ! お顔を晒すのもいけません!」
「わぷっ!‥‥」
お兄様!? とさらに驚いていると駆け寄ってきたソールと同じローブに身を包んだ小柄な人物が、そのローブを脱ぎ捨ててソールの頭からかぶせた。ローブの下から現れたのはソールと同じ、青みがかった銀の、腰の辺りまで伸ばした長い髪。動きやすさのみを重視したひょっとしたら男物かもしれない乱雑な作りの上着にズボン、これだけは女物か、ほっそりとしたブーツ。しかしそんな格好は気にならないほど少女――そう、現れたのはカイラと同じ年頃の少女だ――は雪のように綺麗だった。
「ラ、ランカ‥‥お小言は後にしてくれ。薬を持って来てるだろう?」
「分かっております」
拗ねたような口調で答えて少女は懐から小瓶を取り出し、フィリーンの傍らに屈むとその中身をまだわずかに抵抗するフィリーンの口に流し込んだ。しばらく様子を見るように少女はそのまま見守るが、次第にフィリーンの抵抗が弱くなっていく。
「その薬は‥‥」
「ミアーシ用の解毒剤だ。これで効くか?ランカ」
「‥‥多分、無理でしょう。ミアーシだけで人を操るなど、聞いた事がありません。魔法の気配も感じますし‥‥」
「ロア! ミアーシとロアを混ぜると人を操れるとクォレルが言ってました!」
「ちっクォレル殿か‥‥。そんな余裕はないな‥‥。ランカ、とりあえずこいつを担いでも安全なようにしてくれ」
分かりました、と答えて少女はなにやら奇妙な言葉を紡ぐ。聞くのは初めてだがそれが何であるかはカイラにも分かる。魔法を使えぬ者には理解できぬ言葉。呪文だ。ソール王子の妹が魔法使い(!? と驚いているカイラを尻目にソールはぐったりとしたフィリーンを肩に担ぎ上げ、少女はその隣に寄り添う。
「まずは早い所退散しよう、カイラ王子」
「待ってください! 仲間が町にまだ‥‥」
「はっ?連れが? フィリーンは何も言ってなかったが‥‥」
「言霊を残して案内させます、それで大丈夫でしょう。! お怪我を、リルアーヌ王子」
「あっ‥‥さっき‥‥」
「そのまま、動かさずに」
そっと手をかざすと少女は再び呪文を唱えた。その手から淡い光が放たれ、優しく出血と痛みを和らげていく。
「痛くない‥‥すごいですね」
「神意魔法ではないので完全には治せませんが‥‥。着いたらきちんと手当ていたします」
「着いたらって、何処にですか?ソール王子」
「秘密の場所さ。なに、付いてくれば分かる」
「?」
そう言ってソールは少女に被せられたローブのフードを調整して顔を隠すと足早に歩き出す。その後に少女、と続いてカイラも追いかけた。ソールはその足で町を抜け、小さな林の中に入っていく。こんな所に何が‥‥? と追いかけていくと林の中に二階建てのこじんまりした屋敷があり、躊躇う事無く二人は中に入って行った。カイラは一瞬立ち止まってドアの札を見つめる。
――ダウド家別邸‥‥?――
「こちらに、カイラ王子。お怪我の手当てをしなければ‥‥」
「あ、私よりも先にフィリーンを‥‥。魔法をかけられているのでしょう?」
「そうだな、そうしろ、ランカ。しかし‥‥久し振りだな♪カイラ王子♪。少し背が伸びられたな♪。顔も心なしか凛々しくなられたようだ」
「はぁ‥‥わぁー!」
定例、『お久し振り』のご挨拶。嫌がるカイラの首に片腕を回してぐりぐりと頭を撫でまわすという単純な挨拶だが、ソールの長身かつ握力でやられてはたまったものではない。
「お兄様! リルアーヌ王子はお怪我をなされてるのですよ!」
「そう怒るなよ、ランカ。ちゃんと傷ははずしてる」
「魔法に集中できません!」
「分かったよ。やれやれ‥‥怒られたか」
「(ああ‥‥助かった‥‥)ソール王子、この方は? 確かソール王子と同じ銀髪のご兄弟はおられなかったはず‥‥」
ソールの父王の金髪を受け継いだ兄弟ならば幾人か会った事もあるがソールの母譲りの銀髪、しかもカイラと同じ年頃の妹はいなかったはずだ。一番年が近いのは弟だったはずである。
「ああ、うん。でも俺の妹だ」
「はっ?」
「カイラ王子だから言うがな、俺とランカは父が違う。姓もな。ランカはブランカ=ダウド。母と宮廷魔術師(であるダウド家の者との間に生まれた。ちなみに他の弟妹も公式には伏せてるが母親が違うぞ」
「ええ!?」
「というわけで内密にな♪。でも俺に似てるだろ? 美形な辺りが特に」
「お兄様! 軽々とそういう事を口になさらないで下さい! 私と父は良いですが、お母様とお兄様にご迷惑が‥‥。相手がリルアーヌ王子だったので良しとしますが、以後お気をつけ下さいませ‥‥。お座りくださいませ、リルアーヌ王子。傷の手当てをしなければ」
このソールを叱りつけられる人物などそうそういないだろう。悪戯が見つかった少年のように参り気味に舌を出すソールなど見た事が無い。兄を負かした妹の方は棚から医療器具の入った箱を持ってくるとカイラの上着を脱がせ、丁寧に傷口の消毒を始める。
確かに‥‥髪だけじゃなくて面差しもソール王子、いや正確に言うなら第二妃似なんだよな‥‥。ソール王子は美形って言っても女顔ってわけじゃないんだよね、体格のせいもあるかもしれないけど。って彼女もわりと中性的な顔立ちか‥‥。でも、白(の名の通り、肌とかすごく白くて綺麗だ‥‥。
「しみませんか?リルアーヌ王子」
「あ! 大丈夫です!ブランカ殿!」
「どうぞ、ランカとお呼びください。それに、私は一介の宮廷魔術師(に過ぎません。敬称も敬語も不用です」
「でも‥‥。あ、私もカイラで構わないので‥‥。下の名前で呼ばれるのはあんまり‥‥」
「そう照れるな♪カイラ王子。ランカは貴公に会わせようと思って連れてきたのだぞ♪」
「はぁ‥‥? それはどういう‥‥」
意味ですか?と続けようとしたが「お兄様が私の制止も聞かず付いて来られたのですわ」とブランカから辛口の一言。冷たいぞ!ランカ! となんだか兄妹喧嘩のようになってきた。あの‥‥とカイラが口を挟もうとした声はばんっ!とドアが空く音で途切れる。ブランカに睨まれていたソールもブランカもおや? と顔を上げて音のした方を見やった。はしたないですよ、ほっといて! という会話はおそらく‥‥。
「すみません‥‥お二人共。どうやら私の仲間が‥‥」
「カイラ!大丈夫!?」
「シアル、もう少し声を押さえて‥‥」
「腕ケガしてるの!? フィリーンが!?」
「シアル、私は大丈夫だから落ち着いてよ‥‥。お騒がせしてすみません、お二人共」
「いやぁ‥‥元気の良いお嬢さんで俺的には好ましいが? このお二人がお仲間か?カイラ王子」
はい‥‥と膝に飛び乗ってきたシアルを乗せたままカイラは力なく頷く。激しく動揺しているシアルにお騒がせしました、と声だけ愛想の良い仮面(。さすがのソールも一瞬呆気に取られたようで、ブランカの方はまだ放心している。
「それにしても、よくフィリーンに襲われたと分かったね?シアル」
「シアル、傷の手当てを。町に出る途中フィリーンらしき人物とすれ違ったのですよ。追おうとしたのですが例の三人に足止めを食らいまして、これはフィリーンに何かあったに違いないと。ようやく神殿まで逃げ、その後はそちらのご令嬢の言霊に従って‥‥。尾けられていたような気はしましたが、此処は大丈夫ですね‥‥。さすがダウド家のお血筋、強力な結界を張られておられる」
結界など魔法を使えぬカイラはまるで気付かなかったが、さすがは仮面(だ。しかし、魔法を使うからといっておいそれと気付く類の物でもなかったようで、ブランカが猫が警戒するような不信の色を仮面(に向ける。二人の紹介と説明をしようとカイラが口を開きかけるとソールが膝の上のシアルをひょいっと隣に座らせ、逆に座っていたブランカを持ち上げて向かいのソファに置く。そして仮面(に空いたソファを勧めながら、自分もブランカの隣に腰掛けて警戒の色を見せたままのその肩に自分の片腕を回した。
「さて、ご紹介いただけるかな?カイラ王子」
「なに〜?偉そ〜な人〜」
「シアル‥‥実際偉い人なの‥‥。私の仲間でシアルと仮面(です。シアルはさっきご覧になったように神意魔法を使います。仮面(は魔法を少々と魔法知識に長けているので驚かせて申し訳ない、えっと‥‥ランカ‥‥」
「照れるな♪照れるな♪。しかし、カイラ王子も隅に置けぬな♪。いつの間にこんな可愛らしいお嬢さんと‥‥」
「そういう貴公は誰? なんか言動不審なんだけど」
「‥‥。おっと、これは失礼を、レディ。私はトグル王国第一王位継承者、ソール=シクル=トグリッサだ。これは俺の妹でブランカ。態度がでかいのと言動の不審はいつもの事なのでお気に召されるな」
ほんとに偉い人だったの? と言ってくるシアルにそうだよ‥‥とカイラは脱力する。ソールはそんなシアルの発言が気に入ったのか、からからと笑っているが。
「その王子サマがどうして此処に? まぁすでにいるけどね、王子サマ」
「ん〜。簡単に言うと、フィリーンを騙して後を尾けたんだ」
「お兄様‥‥そのご説明では簡潔過ぎて分かりません‥‥。サルス様を起こさないと、無理ですか‥‥」
「ラング・リ・ストゥには転移できたんだったか?ランカ」
「いえ、私は‥‥。長ならばおそらく‥‥」
「ねぇどうしたの?フィリーン。このまま起こしたらいけないの?」
結局途切れ途切れになってしまっていたのでカイラは改めてフィリーンに襲われた旨を説明する。そしてフィリーンが飲まされたであろう毒、ミアーシとロアの事もだ。
「なーんだ、結局毒って事でしょ? だったら私の魔法で解毒すれば良いんじゃないの? ってそううまくはいかない?」
『‥‥』
「あ、やっぱり駄目?‥‥」
「気付きませんでした‥‥。そうですね、結局二つとも毒は毒なのですものね‥‥」
「試していただけるかな?シアル嬢」
なんか恥ずかしいな‥‥その言い方‥‥とぼやきながらシアルは仮面(に抱えてもらい、フィリーンが寝かされているソファに向かう。覚えたての呪文には確かな手ごたえがある。すっと光が止むと仮面(が空いた手でフィリーンの肩を揺すった。
「大丈夫ですか?フィリーン」
「うっ‥‥。!!」
がばっと跳ね起きたフィリーンは仮面(と驚くシアルなど視界に入らないかのようにせわしく辺りを見回す。しかし目的の人物がいないのか拍子抜けした表情を見せた。
「‥‥リルスは‥‥?」
「操られてたんだって、フィリーン。多分あの子にね。私達もあの子達に襲われたんだけど此処は大丈夫だって」
「此処‥‥? ! カイラ、ソール王子も? どうして?」
「サルス様、尊公は‥‥」
「ランカ、それは言わなくて良い。フィリーン、今度こそ本当に返すぞ」
「!」
放り投げられたのは小さな宝石箱。子供のおもちゃのように簡素な箱を開けると‥‥中には双頭の鷹をあしらったマント留めが。フィリーンは思わず前に受け取った物を入れた胸ポケットを探るが平らな自分の胸の上を撫でるだけだ。
「!! これは! じゃあトグルを出る時に貰ったあれは!?」
「ずばり!偽物だ♪。それとお前を囮に敵をおびき出してやろうと思ってな。お前が尾けられている事はランカの知らせで分かっていたからな。見事に敵は罠にかかって偽物片手に一安心だろうし、カイラ王子を助けて恩は売れたし♪。しかしもうちょっとピンチの時に助けてやりたかったのに、意外と勇ましかったな‥‥残念だ。まぁ凛々しく成長した姿を見れたから良しか?」
「お兄様‥‥」
「ねぇカイラ、この人絶対変よ。カイラの事好きなの?」
ブランカが頭でも抱えそうな表情で兄を宥める。それに似た表情でもう何も言うな‥‥とシアルに向かって嘆くカイラは暗に『変』の部分を肯定する。まぁ『好き』の方も好きには好きなのだろう。あくまで『玩具』として。フィリーンはそちらは気にしていないのか兄? と繰り返してブランカを見やる。
「貴女が‥‥ソール王子の実の妹君か」
「手付けたら殺すぞ、フィリーン。うちのランカはカイラ王子に売込み中なんだからな♪。お前には別に可愛いお姫様がいるだろうが」
「! ソール王子! 何処まで本気で冗談なんだ!尊公は!」
「お兄様! 戯言もいい加減になされませ! 失礼致しました、カイラ王子、サルス様。皆様このままメターナ・ネウユの本神殿に向かわれるのでしたら私が転移魔法でお送り致しますが、いかがなされます?」
それはまぁ、それが当初からの目的だったのだから異存はない。いいだろ? とフィリーンはカイラに同意を求めるがカイラは少し考える素振りを見せ、ちょっと、と話に区切りを持ちかける。
「そうして頂けるならとても助かるけど、少し時間を頂いてもよろしいですか?ランカ」
「私は一向に。お兄様のご公務が滞った所でお止めした私には何の非もございませんし」
「冷たいぞ!ランカ! お前を一人で行かせるわけにはいかん! と心配する兄心が分からないのか!?」
「‥‥ソール王子、さっきランカが言ってた事と全然違いますよ‥‥。‥‥、いい加減、聞かせて欲しいんだけどさ、フィリーン。リルスは、妹はどうして私と離れ離れに、クィーンネクタリアの元にいるんだい?」
「!! ソール王子‥‥?」
「ソール王子じゃないよ。とある人から聞いた。私達の星がかつてセリキーレと呼ばれる一つの星だった事、私のアリークと対を成すシャテアを持つのが双子の妹であるリルスである事も、ね。フィリーンが話したくないなら聞かないでおこうと思ってたけど」
――もう限界だよ――
その言葉は直前で飲み込んだ。それは、信用すると言った自分を自分で裏切りそうな気がして。けれど、フィリーンにはきっと伝わったはず。実際の所カイラも、操られていたとは言えフィリーンに襲われ、妹に命を狙われているという事実も相まってかなり参ってきているのだ。
「‥‥そこまで知っているなら仕方がないな‥‥。‥‥席をはずしてくれと言っても無駄か?」
「あら? 今更無関係なんて言うわけ?フィリーン。いいわよ? そういう事なら遠慮なく見捨てちゃうから」
「黙ってた罰だ、言え。と言う俺は知ってるがな」
「‥‥。はぁ‥‥。事は十年前だ。ジーマとファディが死んだと言ったあの事件、本当は死んだのは三人、リルスもあの時に死んだはずだった。いや、二人に殺されたはずだった」
「! フィディア殿が言っていた、三人共生きていたって話だね?」
ああ、と観念したように呟くフィリーンは少し疲れているように見えた。いや、実際疲れていたのだろう。封印を解いた事にか、秘密を守り続けた事にか‥‥。
「あの日、俺達はたまたま三人、俺と、お前と、リルスで城外に遊びに出ていた。まったく、平和ボケしてたよ、ラング王も、俺自身もな。付き添いで王妃と侍女とわずかな護衛がいたが皆たわいない話に夢中だった。あれはリルスが言い出したんだったかな、俺達はかくれんぼを始めて、俺が鬼になって崖のそばの茂みで真っ先にお前を見つけた」
「真っ先‥‥。もしかしてちょっと怒ってる? フィリーン。言い回しが意地悪だよ?」
「いや?本当の事だ。リルスを探しに行く途中でファディに会ったんだ。久し振りの挨拶をするファディにカイラの待っている崖の傍に行けと言って――何しろリルスはおてんばで‥‥自分を探しに来ないと拗ねて何をやらかすか分からない奴だったからな――リルスを探しに行った。今にしてみれば、それが一番の原因だったのかもしれないな」
「やーい!フィリーンの女泣かせ!」
「それを尊公が言うか!?ソール王子! とにかく‥‥ようやくリルスを連れて戻って見ると、ファディはカイラを羽交い絞めにして短剣を突きつけていた。何がなんだが分からず俺が混乱している隙に、今度はジーマがリルスを脇から攫っていった。そして二人はストゥ・マイニアヌのためにお前達を殺すと‥‥」
「ファディはフィリーンに惚れ込んでいたからな。そのフィリーンが久々に会った自分をほったらかしに他の少女を捜しに行ってしまった。愛する者のために手を止めようかどうしようか迷っていた少女には決定打だったんだなぁ。可哀相にファディ!‥‥」
ソール王子!とフィリーンの咎める声がでたらめを教えるな! と釘を刺すが百パーセント事実だぞ♪とソールは――何故か念入りにカイラに向けて――笑いかける。さらにある事ない事言いふらそうとするソールを闇討ちにすべきかフィリーンが迷っていると、ブランカがさっとその細い手でソールの口をふさぎ、どうぞ、と合図してくれた。
「えーっと、何処まで話した‥‥。そうか、二人を殺そうとしたって所だな。そんな事をしても俺は王位を取り戻す気はないとか二人と問答して、隙を突いてファディから短剣を奪ってカイラを取り戻した」
「! 私を‥‥先に?」
「‥‥カイラに王位継承権があるとか、その時は考えてなかった。その時は夢中で、ファディの方が隙があったし、二人が逆だったらリルスの方を助けてたさ」
言い訳じみている。それは分かっていた。相手がリルスに代わっても、自分はこの言い訳を用いるだろう‥‥。
「カイラに逃げて護衛を呼んでくるように言って、ジーマに捕らえられているリルスにも手を伸ばした。けれどジーマは、知っての通り人の心を読む。数秒先に俺の手を逃れ、リルスを連れたまま崖に身を投じた。その後を追ってファディも。此処からは推測だが、カイラ・リルス暗殺を二人に持ちかけたのがクィーンネクタリアとか名乗る女だったのだろう。崖に落ちたのも、最初からお前かリルス、あるいは二人共を攫うために‥‥」
「それは分かった。けど、何故六歳だった私が自分に妹がいた事も、その事件の事も覚えていないんだ?」
「忘れさせたのさ、カイラ王子。妹が目の前で死んだ、しかも殺されたのでは可哀相。幸い幼いからこのまま忘れさせようと城中の、他国の者まで一緒になって大人達がリルス王女のいた痕跡も、カイラ王子自身の記憶も消してしまったのさ。俺は妹を忘れる方が辛かろうと思ったが‥‥フィリーンが、何も言わないので止めなかった」
「俺は正直安心したよ、お前が妹を忘れていく事‥‥。俺が、守り切れなかった事を含め、ね」
「‥‥残念だよ、フィリーン」
落胆の声を漏らすカイラを、フィリーンは見てはいなかった。だからカイラは立ち上がって近付き、ようやくフィリーンの目を見る事が出来た。黒い、今は疲れたような目。そして、突きつけられる悲しみの声を待つ目。
「見くびらないでほしいな、私を」
「! カイラ?」
「妹を助けてくれなかった君を私が憎むとでも? 君は、何年私の兄でいた? 答えはそれで十分だろう? それともまだ言葉が足りない? 十二歳の少年だった君に、同じ年頃の二人を相手に私とリルスの両方を助けろと言う方が無理だ。助けてくれてありがとう。そして、リルスを取り戻すためにこれからも、私と共にクィーンネクタリアと戦って欲しい、フィリーン」
「‥‥ああ、当然だ、カイラ。俺達からリルスを奪った事、必ず後悔させてやる」
「なんせリルス王女はフィリーンのよ‥‥」
「!! ソール王子!? 何故それを!」
言いかけたソールの口を反射的にふさいでフィリーンは叫んだ。あの事件の事は話したがリルスとの約束までは絶対に話していない。よりによってソールには。何?まだ何か隠してるの? とシアルが向ける視線が背中に痛い‥‥。
「だって俺はリルス王女本人に相談を受けたんだからな♪。フィリーンが絶対断れないように助言したのも俺だ♪。とりあえずうんと言うまで念を押せと‥‥」
「急に妙な事を言い出したかと思えば尊公か!主犯は!」
「何々? 洗いざらいしゃべるんじゃなかったの?フィリーン」
「シアル嬢、これはプライベートなので二人だけの秘密だ♪。な?フィリーン」
「‥‥リルスの奴‥‥よりによってなんでソール王子なんかに相談してくれたんだ‥‥。普通は母親とか侍女だろう‥‥」
フィリーンがさらに憔悴しきったように見えるが――事実げんなりとして肩に乗せられたソールの腕を振り払う気力もないらしい――それでも、ソールは不思議と場を和ませていた。年長だからなのか、本来の気質なのかソールには昔からそういうクセがあった。まぁ多少方法に問題があるように思うが‥‥。不意に、がたっとブランカが立ち上がった。何事かと見上げる目には緊張に強張った表情が映る。仮面(も同じ危険を感じたのかゆっくりとブランカを見上げる。
「ブランカ殿‥‥」
「ええ、結界が一つ破られたようです」
「お前の結界だ、俺は心配していないぞ?ランカ」
「お兄様はもっと心配なさってください! 宮廷魔術師(である私の結界が破られるなど、非常事態ですよ!? 一国の王に成る者が、危機感が足りません!」
「分かった分かった。まったく‥‥お小言はお前の父親だけで十分だぞ? 俺もメターナ・ネウユの本神殿には興味があるが‥‥。‥‥待て、ランカ、あるがとしか言ってないぞ? ランカが睨んでいるので大人しくトグルに戻ろう。ランカ、無事カイラ王子達をお守りしてくれよ? それから、お前も無事俺の元に戻ってくるように、命令だ」
「はい」
大事な物を扱うようにブランカを抱き寄せるとソールは彼女の額に唇を付ける。相手が女性だからなのか、自分の時と違うぞ‥‥とカイラが一歩引いていると彼女から何か受け取り、では、と手を上げると同時にその硝子玉のような物を砕いた。その瞬間にソールはすっと姿を消してしまった。
「! 何?‥‥今の‥‥」
「結界はあと二つ、時間がありませんので説明は後です。皆様転移魔術は初めてですか?」
「転移魔法はあるが魔術はない。カイラは当然ないな」
「シアルもありませんね。私は実際に使った事はありませんが心得はあります」
「分かりました。ではこれを、仮面(殿。シアル殿をお願い致します。私はカイラ王子とサルス様を連れて先に飛びます。私の魔力を追って頂ければ初めてでも大丈夫でしょう。そうだ、それと‥‥。相手方は三人とも魔法使い(のようですが、中に魔術師(か魔具師(は?」
「リルスが自分で魔具師(だと言っていたな。他の二人は分からんが、ジーマは元神官だし、禁呪を使っていたから魔法には長けていると思う」
分かりました、と答えるブランカの表情は少し硬い。が、失礼を、とフィリーンの手を取り、逆の手でカイラの手を取る頃には消えていた。ブランカが口を開きかけるとどんっと鈍い衝撃が屋敷全体を揺らした。シアルの小さな悲鳴に紛れてブランカが何かを叫んだ。浮き上がるような感覚が襲い、ふわふわと体が何処かを漂う。再び大きな揺れがブランカと自分の手を引き離したような気がした。けれどすぐに細い、あまり大きくもない手がカイラの手を掴む。
6章へ/8章へ