第4部<第13章>
  ノックの音に中の声が答える。そっと扉を開け、中を覗くと儚げな少女がベッドの上で静かに寝息をたてていた。その隣に座っていた女性が振り返り、彼を見てまぁ、とでも言うように口元をほころばせた。
「相変わらずの可愛がりようね、ソール」
「ランカは?母上」
「ジェヴルの薬がよく効いているわ。私が手を貸す事もないくらい、おとなしいものよ? でも、こうやって病に伏す我が子の寝顔をこんなに間近で見るなんて初めてね‥‥。二人共自己管理がしっかりしているのですもの」
「それは、ご期待に添えず申し訳ありません、母上」
わざとらしく腰を屈め、ソールは母の手を取って軽く唇を付けた。妹と同じくらいの小柄な母、平均身長くらいの父。自分のこの長身は誰に似たのだろう? 今の自分とさほど変わらぬ年で逝った義兄も、幼い頃の自分には見上げても足りないほどに大きく感じたものだが‥‥。
「子供の不幸を期待する親などいないわ、ソール。‥‥ソール、こんな時に言うべき話ではないのでしょうけれど‥‥」
「分かっております、いつまでも妹ばかり構っていないでさっさと身を固めて安心させてくれ、でしょう? ああ、お気になさらず、先ほどジェヴルにもしぶーい顔で説教されて参りましたので。私がこのようだからランカも嫁に行く気がないなどと言い出すのだとね」
「私と陛下、ジェヴルの事が貴方の負担になっている事は分かっています。だから私のように望まぬ結婚をしろとは言いません。けれど‥‥」
「お待ちを、母上。実は今日ばかりはランカの可愛い寝顔はついで、重要なお話をしに参りました」
「重要な話?」
はい、と頷いてソールは母にベッドの傍らの椅子に座り直すように勧め、自分はその前に膝を折って最敬礼を示す。ソール? と戸惑う母の声が次を続ける前にソールは口を開いた。
「今までで最高の親不孝をお許しください、母上。私は、父上より王位を奪い取りに参ります。父上が交渉に応じれば即、ご引退願い、応じなければ首を取る覚悟にございます」
「! ソール!? なんと言う事を‥‥。何もそのような事をせずとも、王座は貴方の物、貴方以外にこの国を継げる者などいないのですよ? それを何故今‥‥」
「残念ながら老いぼれの老衰を待っている時間はないのです。半分以上諦めかけていた我が妃に迎うるべき姫君のため、私は早急に王位を必要としているのです」
「ソール‥‥。止めても、もう決めてしまって最初から私には決意の報告だけのつもりなのでしょう?」
「はい、良くご存知で、母上。その代わり、母上には何十年か遅れの本当の安息をお約束します。本当に好いた男と、愛らしい娘との生活。誰にも文句は言わせません。もう王妃の冠は捨て、自由になって良いですよ、母上」
「何を言うの!ソール! なんて‥‥なんて馬鹿な子なの?貴方は‥‥」
最敬礼したままのソールに母の体が抱きつく。年甲斐もなく照れながら母上‥‥と上ずった声をあげ、母の手を離そうとする。けれど母の腕はそう簡単には離れてくれない。
「愛しい息子の欠けた生活なんて要らないわ。ごめんなさい、娘を失った哀しみに貴方を置いていってしまった私を許して、ソール‥‥。そして、父の違うあの子を愛してくれてありがとう‥‥」
「母上‥‥。例えこの身の父が誰であろうと、私の父はジェヴル一人です。もっとも、ジェヴルには『自分の息子ならばこんなわがままは許さない!』と叱られましたけどね‥‥」
「お行きなさい、ソール。決して父上を殺める事がないように。そして、愛らしい花嫁を是非私の前に連れて来て下さいね」
「ええ、王座が整えばすぐにでも攫って参りましょう」
にこり、と笑みをむけ、ソールは身を翻す。視界の端に入った妹は相変わらず人形のように愛らしい寝顔を浮かべていた。そのまま扉を開こうと取っ手に手をかけると聞き間違いようもない怒声が彼の後頭部を直撃した。
「お兄様!! このランカを置いて行かれるつもりですか!?」
「! ランカ‥‥!? お前いつから起きて‥‥」
「ほほっ貴方がノックする前から察して起きていましたよ、ソール」
「は、母上まで‥‥。ランカ、別に本気で殺し合いに行くわけじゃないんだぞ? ただちょっと手荒い交渉に行くだけだからジェヴル一人いれば十分だ。それに、お前は父上の事が‥‥」
「此処で逃げては永遠に私の負けです。それに、私が気付かないとでも思っておられるのですか!お兄様! 私とて尊公様と同じ血を、そして代々の宮廷魔術師(テンプルソーサラー)の血を継いでおります! この異変に、向かわれるおつもりなのでしょう?お兄様。尊公様の『姫』のために‥‥。王位取得はその前座、違いますか!?」
違う、と言いかけて本気で睨みつける妹に『ち』も言えぬうちにソールは黙り込む。自分が父と呼んだ男のかみ殺した笑い声が聞こえてきそうで顔をしかめながらも、ソールはベッドの上で毛を逆立てている妹から目を逸らせない。
「ランカ‥‥分かっているだろう? お前では到底敵わぬ相手だ。俺はお前が可愛い。そして、お前にはカイラ王子達の助けと成るベく残ってもらいたいと思っている。それにお前は本調子ではない。だからお残り、ランカ。後に続くカイラ王子達の道標となるために」
「自分で拾った命を‥‥都合が悪くなればまた捨てますの!?お兄様!」
「いや、俺はそんなつもりじゃ‥‥」
「同じです! この身は御身に拾われ、御身を守るべく育てられし物! 尊公様は私のこの命を拾った時から私と生死を共にする義務を負っておられるのです! 私を置いていって、私の居ない所でお亡くなりになんてなられたら‥‥ランカは一生お兄様をお恨みします!」
「ランカ! 聞けランカ! お前を失って母上がどれだけ哀しまれたか‥‥。その命を危険に晒す事が母上を哀しませると分からないのか?」
「あら、その言葉、そっくり貴方に返しましてよ?ソール。ブランカが死ぬのは哀しくて貴方なら平気と私が言うとでも? 二人共、私より先に逝く事は許しません」
凛とした母の声と妹の睨みに挟まれ、ソールは完全に逃げ場を失った。その包囲網をふっと笑みを浮かべて開放してくれたのは母。先ほどまでとはうって変わった優しい口調に思わず気を引き付けられる。
「だから、ソール、ブランカ、お行きなさい。お互いを失わぬように二人で戦いなさい。良い事?」
「はい!お母様!」
「ランカ‥‥母上‥‥」
「自分で決めた道でしょう?ソール。迷う事は許しません。それから、貴方の愛らしい花嫁も、ブランカの花嫁姿も私は心待ちにしていますからね、約束ですよ、二人共」
「‥‥はい、母上」
「‥‥。はい‥‥」
ブランカの髪を整える、と言って母はソールを部屋から追い出した。己も正装するように言われながらソールは後ろ手に扉を閉める。ドアにもたれて嘆息すると待っていた『父』がその溜息だけで中であった事を察したようにくすり、と笑った。
「‥‥うちの女家族がこんなに強いとは思わなかった‥‥」
「おや、初めてですか? 私は王妃とは幼少よりのお付き合いですが、あれ程強い女性は他に存じ上げませんよ? ブランカも、その娘ですからね‥‥」
「ちっ‥‥。正装する。手伝え、ジェヴル」
「はい、殿下。いえ、陛下とお呼び致しましょうか‥‥」
「どっちでもいい。とりあえずランカが出てくるよりも早くだ」
――その夜、そして朝にかけて世界中をその報せは駆け巡った。トグリッサ王家第二王子、ソール=シクル=トグリッサが、約束された王位を父の手から奪い取る、という奇妙な事件の報せが――


 その報せは夜が明けてようやくラング・リ・ストゥの将軍家にも舞い込んだ。主人の寝室に入る事を詫びる、生真面目な男が告げたその報せの内容は、彼の主人をも呆気に取らせた。
「ソール王子が即位!? しかも昨日中にだと!?」
確かか? と疑わしげな視線を向けても御意、と頷く男の表情は変わらない。性質の悪い冗談を言うのは別の男の役目だ。分かっているが、それでも問い返さずにはいられない。マザスムの訪問の前から起き出していた仮面(マスク)はおやおや、と感動に欠けた声を漏らし、今まさにフィリーンの手によって起こされようとしていたカイラはフィリーンの声に、ぴょこりと寝癖のついた頭をあげた。
「ソール王子が何?フィリーン」
「即位したそうだ‥‥。しかも父君から王位を奪い取って、昨日のうちに」
「はぁ!? 昨日って、私達がトグルを発った後って事!? ソール王子は何も言ってなかっただろ!? なのに‥‥何処まで気まぐれなんだあの人‥‥」
「カイラ、お前は彼を誤解してるぞ。確かにあの人の行動が気まぐれじゃないと言えば全くの嘘で、気まぐれじゃなかった試しがないが‥‥」
「フィリーン、フォローになってませんよ」
「それでも、あの人は気まぐれな道化師の仮面をかぶった策士だ‥‥」
その全てが気まぐれ、その気まぐれの全てが、仮面の下の冷徹なまでに研ぎ澄まされた頭脳で組み立てられた策。長い付き合いの自分にでさえ、決してその内を明かさない、油断できぬ男、ソール=シクル=トグリッサ。その彼が名実ともにトグルの王となった。この時期を狙ってだ。
「こちらを害しようと言う事ではないと思うがな。しかし、何故突然に‥‥。何か変わった事はなかったか?カイラ」
「ん〜一番びっくりしたのはソール王子が(ランカ)に甘過ぎで頭が上がらないって事くらいだけど? あ、そう言えば‥‥シアルと仮面(マスク)を初めて見た時のソール王子、変な驚き方してたなぁ」
「え‥‥?」
「シアルが大声で叫びながら飛び込んできたってやつか? それはさすがのソール王子も驚くだろう」
「いや、そうなんだけどさ。ランカの驚き方はその通りだったんだけど、ソール王子の顔がね、一瞬『信じられない‥‥』とでも言いたそうだったんだ。ほんの一瞬だったけどさ。仮面(マスク)は見た?」
いえ、と呟く仮面(マスク)の表情は当然ながら見えない。その顔に一瞬の動揺が走っても、カイラもフィリーンも気付く事は出来ない。改めて仮面(マスク)は、心の中で仮面の存在に感謝していた。
「私はカイラとシアルに気を取られていて、気付きませんでした」
「気のせいだろ、気のせい」
「そうかなぁ。あ、でもまだあるよ。ソール王子、シアルの年正確に言い当ててた。私は教えてないのに」
「年くらい‥‥見ても分からないか‥‥シアルの場合」
「十八って言われても信じないよ‥‥誰も‥‥」
「あ、それは私が聞かれたのでお教えしたんですよ。シアル達を起こしてきますね」
仮面(マスク)の言葉に結局その話題は『カイラの思い過ごし』で決着し、フィリーンとカイラは今日対峙すべき相手の事を話し始める。マザスムは準備のために部屋を辞し、仮面(マスク)も部屋を出た。その仮面の下で、思案に暮れながら‥‥。


 幾日かの間、王城はその主も、全ての音さえも失っていた。立ち尽くしたままの兵士、職を失ったようにただ部屋で座っているだけのメイド達。そして、王座に腰掛けた偽りの王。
「‥‥長かった‥‥」
長い沈黙をその一言が破る。ゆっくりと女は瞳を開いた。暗い暗い薄闇の瞳。その奥には何の感情も宿らない。
「多くの手駒を失った。けれど全てが捨て駒。ええ、私は勝利を疑ってなどおりません。私は女王(クィーン)、この一手で、(あなた)に敵将の首を捧げましょう」
不意に、開け放たれた窓から風と共に異臭が漂ってきた。苦味を帯びた、薬のような臭いだ。動じる事もなく彼女は王座を離れた。彼女が窓に辿り付くよりも早く駆け込んでくるのは見張りを任せた兵士。
「クィーンネクタリア! 侵入者です! 空から薬のようなものを‥‥うっ‥‥」
ばったりと倒れる兵士には目もくれず彼女、クィーンネクタリアは窓から空を仰いだ。人影が二人、いや三人。確かに空中で何かを振りまいている。その一人を認めてクィーンネクタリアはくすりと笑い、王座へと引き返した。
「解毒剤‥‥。フフッ無駄な事を。そうやって無駄に足掻く姿も可愛いわ。私の‥‥」
最後の言葉は笑いごと消し去る。そのまま、しばし女は笑い続けた。静かに、そして不気味に‥‥。
 「空中から薬を散布した上に、風を起こすなんて‥‥名案だよ! 仮面(マスク)!リルス!」
そう言いながらシアルは思いっきりクォレルの発明品を振り回した。いささか大げさな気もするが、リルスも負けじと振り回している。
「リルス、風を制して三人も人を支えるのは大変でしょう。代わりましょうか?」
「ううん、リルス風系は得意なのよ。それに、シアルを運んだりして大分人を支えるのも慣れたから、仮面(マスク)はそのまま風を起こしていて!」
「分かりました。‥‥!」
仮面(マスク)‥‥? どうし‥‥!」
不意に様子を変える仮面(マスク)に敏感に気づいたシアルも表情を固める。リルスは一呼吸遅れてどうしたの?と二人に顔を向けた。二人の体が完全に動きを止めている。風を操作しながらふいーっと近付いて来てどうしたの? とリルスがもう一度首を傾げた。
「北で‥‥異変が‥‥。まさか‥‥早過ぎるわ!」
「タイミングが良すぎます‥‥。でも‥‥。行きましょう!シアル! リルス!後を任せても構いませんね!?」
「え? うん‥‥。シアル達は?」
――こちらへ、おいでなさい。私の可愛いリルス――
「!?」
「リルス!?」
不意にリルスの魔法が消え、三人の体は下降を始める。慌てて機械を放り出したシアルの手がリルスの手を掴み、仮面(マスク)が風の魔法を操って三人を包んだ。リルスも機械を落とし、しかも気を失っているようだ。
「あくまで邪魔しようってわけね‥‥上等じゃない!」
「どうした! シアル!仮面(マスク)!」
「計画が狂いました! フィリーン! カイラ! 多少荒事になると思いますがそのまま攻めて下さい!」
「分かった!」
フィリーンの指揮とともにマザスム将軍以下、残っていた兵士達が城内に雪崩れ込む。城外に待機しているのはクォレル始め、医師群とフィディア、ディヌンの神官組だ。その残りの方に仮面(マスク)は降り立ち、駆け寄ってきたクォレルにリルスの体を預けた。
「リルス王女! 気を、失われていますね‥‥」
「違うわ、クィーンネクタリアの呪縛と戦っているの! フィディアさん、ディヌン! 力を貸してください! 呪縛を解かないとリルスがカイラ達の背後の敵となってしまうわ!」
「分かりました。ディヌン、すぐに準備を」
「はい!」
「クォレル殿はあらゆる医学的手段でリルスの動きを封じてください。早く‥‥私達には此処で足止めされている時間はありません!」
「なんだか分かりませんが分かりました。常備薬に強力眠り薬を用意しておいて良かったなぁ」
急げと言っているのに特に急いでもないクォレルはなんだか危険なことを言っているがまともには請合ってられない。北での開戦は、此処の閉戦を待ってはくれそうにないのだから。


 沈黙の支配していた城を戦いの怒号が侵し始める。その中を飛び抜けて此処に廻ってくる気配が二つ。そう、二つだけ。全ては計画通りだ。そう、女は微笑した。女のいる部屋の扉が開かれた。そして、ずかずかと遠慮なく向かってくる足音と、それに寄り添う遠慮したような足音。
「貴様がクィーンネクタリアか? 顔を上げろ!」
凛とした声は若き日の『王』を髣髴とさせる。そう、笑いながら彼女は顔を上げた。小さい方の人影がはっと剣を構え、長身の人影には驚きと躊躇いが浮かぶ。それを確認して、クィーンネクタリアはさらに笑みを強くした。
「は‥‥母上‥‥?」
「!?」
「お帰りなさい、フィリーン。よく戻ってきたわ、仇の首を携え、この王座にね」
「フィリーン!? 何を言うんだ!? この女はクィーンネクタリアじゃないか! それに、君の母上は亡くなられたんだろう!?」
「フィリーン、この指輪を覚えているでしょう? 父君、私の愛しいカイザー王が私に贈って下さったこの指輪」
微笑んで見せつける指輪はイミテーションではない、本物だ。微笑む顔も、ソールがトグルで見せてくれた母の肖像と変わりない。けれど目の前の女は黒髪黒瞳。肖像も、ソールが昔握らせてくれた髪も金、瞳は穏やかなエメラルド。そして、母は今もトグリッサ王家の墓で眠っている‥‥。
「混乱するな!フィリーン! 私を見て、私と誓っただろう? 私達は何故此処に戻ってきた?」
「‥‥この国に起きた、馬鹿な茶番を終わらせるためだ! 援護しろ!カイラ! 母の姿を借る化け物! この俺が斬る!」
「可哀相にフィリーン‥‥。まだ騙されているとも知らずに‥‥」
「黙れ! !!」
「うわぁ!」
両サイドから斬りかかろうとした二人は同時にクィーンネクタリアから発せられた力に弾き飛ばされた。覚えのある感覚、魔法だ。舌打ちしてフィリーンはすぐさま立ち上がろうと身を起こす。しかしクィーンネクタリアがフィリーンの頭を抱き寄せるのが先。振りほどこうとするが体が固まってしまったかのように動かない。
「愛しいフィリーン‥‥。そなたをこの腕に抱く日をどれだけ待った事か‥‥」
――母上は死んだのだ。そして俺は、母上に抱かれた記憶はおろか、顔さえ覚えていない。なのに何故分かる? 何故、この体はこの女を母だと肯定するのだ!――
「トグリッサ王の策略にはまり、この身絶えてもずっと願っていた。トグリッサ王、ラング王に殺められし我が夫、そしてそなたの事を。そなたの手に我が夫の王位を戻す事を‥‥」
「いらない‥‥王座など要らない! 操られた民も、死んだはずの母も要らない! 俺の望みは‥‥」
「そなたの望みは?フィリーン。私は知っていますとも。この母と、父と共に暮らす事。弟か妹も欲しかったのでしょう? そして、父の後を継ぐ立派な王となる事。そなたがこの母と共に望みさえすれば、カイザー王(あのかた)も死の世界より蘇りましょう。案ずる事はない、フィリーン。母には力ある後ろ盾がいるのですから‥‥ね‥‥」
「そんなのは、昔の話だろう?」
「!」
視界に緋が散る。呪縛を解かれてフィリーンは母の体を押しのけた。首を失った体が、力なく倒れていく。その背後には、血の滴る剣を握ったまま立ち尽くしているカイラ。気丈な表情を浮かべた唇が、それでも小刻みに震えていた。自分ならきっと何とも思わなかっただろう。母であった骸を斬っても、父の斬首を目の当たりにした自分なら。けれど初めて己の手で人を刈る弟には、荷が重過ぎる‥‥。
「信じて、良いんだろ?君の言葉‥‥。私が王になって君はその傍らに在る。それが、今の君の、本当の望み‥‥」
「ああ‥‥その通りだ。悪い、カイラ。辛い仕事を押し付けたな。忘れていい、お前が斬ったのは‥‥母の顔をした、ただの亡霊だ」
人の死の恐怖に意図せず涙を流す弟をそっと兄の片手が手繰り寄せる。しかし人を呼んですぐに片付けさせよう、と思う兄の配慮をあざ笑うかのように笑い声が背後で響いた。笑っているのは‥‥落とされた女の首。
「! 何!? 下がれ!カイラ!」
「私は一度滅んだ身、私に二度目の死などないわ! 絶対神キルアーナ! 私に再び力を! その名の元に私は何度でも蘇りましょう! この僕の力をお使い下さい!」
「フィリーン!? 絶対神キルアーナって‥‥」
「戯言だ、気にするな。ちっ本物の化け物か‥‥。カイラ!仮面(マスク)を! 何か対処を知っているかもしれない!」
「無駄な事よ。怪人(ファントム)仮面(マスク)も所詮、キルアーナ神によって創られし化け物。私に敵うものではないわ。リルス!」
「はい、クィーンネクタリア」
驚きの視線を向けると開け放たれたドアからリルスが入ってくる。そしてドアは自然に閉じた。駆け寄ろうとしたカイラを背後に押しやり、フィリーンは剣を構え直す。虚ろな瞳、首だけのクィーンネクタリアが寄り添っても一片も変わらない表情。操られているのだ。
「ふふ、良い返事だこと、リルス。すぐにフィリーンも貴女と同じにしてあげましょう。さぁリルス、存分にカイラの血を浴びなさい。そして、貴女こそが真のセリキーレとなるのです!」
「させるか! 悪く思うなよ!リルス!」
カイラを突き放し、その足でフィリーンはリルスに斬りかかった。足を狙ってそのまま動きを封じる気なのだろう。しかしリルスはそのふわふわしたドレスには見合わぬ動きでそれを避け、まっすぐにカイラに向かってくる。
「カイラ! 構うな行け! 仮面(マスク)を!」
「シャテア、中立の星、闇と光、どちらをも含みながらそのどちらでもない」
「! リルス!?」
「リルスは操られている! お前は逃げるんだ!」
「そして、私が信頼の星、アリークだね。信じるよ!リルス!」
「カイラ!!」
リルスの手にした短剣がカイラの腹部を貫く。フィリーンが慌ててリルスを引き戻すがリルスの両手と短剣は血に染まり、カイラは腹部から血を流しながら倒れる。悪態をつきながらフィリーンはリルスの手から短剣を奪った。けれど、リルスの表情は変わらない。カイラも動かない。
「良くやったわ!リルス。フィリーン、これで諦めがついたでしょう?」
笑いながら女の生首が近付く。その額に黒光りする菱形の宝石。黒曜石だろうか? 感情のない顔を上げ、フィリーンは女を見やった。
「さぁ、フィリーン。後はラング王とその妃を殺し、即位と婚姻の儀を執り行わなければ‥‥なっ!?」
「悪いな、死ぬのはあんただよ」
フィリーンがリルスの手から奪っていた短剣が、生首の額を、正確には額の宝石を突き刺す。石が割れ、その破片が女の顔に飛び散った。
「フィリー‥‥ン‥‥」
女の口がフィリーンの名を呼ぶ、けれど、フィリーンが手放した短剣と共に床に落ちた。女の生首が自分の顔のすぐ脇に落ち、うわっ!と悲鳴をあげてカイラが飛び起きた。
「名演技だったな、二人共。すっかり騙されたぞ?」
「名演技じゃないよ‥‥まったく。本当に刺されたたかと思った‥‥。この血糊、クォレルかい? うわっ本物みたいだ‥‥」
「リルスが一番大変だったんだからね‥‥。表面で操られながら意識を保つなんて‥‥。クィーンネクタリア、本当に死んじゃったのね‥‥」
「クィーンネクタリアなんて女は最初から存在しなかった。此処に在るのはただの、亡霊さ。お前の本当の親は隣にいる。お前達で解放してやれ」
「フィリーンも‥‥」
「行くよ、リルス」
肩を掴んでカイラはリルスと共に両親のいる部屋に消えていく。フィリーンはそれを見送って、足元に転がっていた女の首を拾い上げた。短剣を抜き、その見開いた目を伏させてやる。そして、その首を倒れていた体に添え、両の手を胸の上で組ませてやった。
「もし、本当に母としての気持ちが貴女にあったのなら、俺の前になど現れず、あのまま死んでいてくれれば良かったのに‥‥」
――それでも、貴女は俺に会いたかったのか? 俺と同じ、親子で暮らす当たり前の、馬鹿な夢を見ていたのか? 此処では叶わない事は分かっていただろうに‥‥。それでも‥‥いや、おやすみなさい、母上。父上はきっと、今からでも貴女の手を取って、全てを許してくれるでしょう。だから俺も、カイラ達が許してくれなくても、俺だけは貴女を許すよ、母上‥‥――
 ずっと、カイラ達が両親と共に部屋に入って来てもフィリーンは幼子のように母の遺体の傍らで膝を抱え、頭を垂れていた。声をかけず、カイラは身を翻す。ただリルスだけは駆け寄って行ってその隣に黙って座り込んだ。フィリーンは何も言わない。けれど同じ女性を、同じように母と慕っていたリルスだから許されるのだと、自分は迷う事無く部屋を出て行った。
その日、ラング・リ・ストゥ解放の宴は夜遅くまで続いた。いつの間にかフィリーンとリルスも混じっていて、カイラはとうとうその夜が明けるまで気付かなかったのだ。仲間が二人、姿を消している事に‥‥。
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