何も知る必要などないと思っていた
欲しいという気持ちも罪になる
これ以上罪を重ねたくなかった
最近気になる視線の先
---------------------------------------------------------------------------------
半年が長かったのか、短かったのか、僕には分からない。ただ、あの満月の夜をもう6回も繰り返してきたという事実。誰も僕が暴れ柳を通って、暗く冷たい部屋で月に向かって吼えていることを知らない。ルームメイトには、父はもう亡くなっていて、母は病弱で、僕は学校の許可を得て毎月家に戻るのだという馬鹿な言い訳をしている。1日、時には2日後に、僕はまた何食わぬ顔をして教室に座っている。グリフィンドールの皆と、当たり障りの無い会話をして。そうして毎日が過ぎていく。
授業は楽しい。新しいことを学び、必要ならば図書館で更に知識を深める。何か、形には表せない、けれど重要なことを、僕は得ているのだと思う。
ただ本当に幸福で、ただ穏やかに日々が過ぎていく。
月に一度、廃屋に閉じ篭って、自分を傷つける。その痛みだけが、僕にこの幸福が現実のものだと教えてくれる。まるで、獣の僕だけが現実に存在していて、人としての僕は夢の中にいるかのような、そんな感覚。
僕は幸福だった。
日陰でも良い。ただ太陽と共に、誰とも関わることなく、静かに生きることができれば。これ以上、もうこれ以上穢れることがなければ、誰かを汚すことがなければ、それで良かった。
「……マス、リーマスってば!」
「えっ? あ、ごめんピーター。もう寝る?」
いつまでも灯りのついていた枕もとのランプに、隣で寝ていたピーターがいぶかしんだらしい。
「うん……。ねぇ、リーマス。何か気になる事でもあるの? 最近何だかそわそわしているよ」
僕は手を伸ばしてランプの灯りを消した。
「ううん。何も無いよ」
「そう?」
「うん。僕も寝るね。お休み」
「うん。お休み」
ピーターは頭まで毛布を被って、ベッドの中で丸まった。僕もゆっくり背を倒す。
先程のピーターの鋭さにはひやりとした。何もないなんて嘘だ。最近僕には狼化以外にもこの学校で気になっていることがある。
視線を感じるのだ。
特に授業中、じっと僕を見ている。その先に居るのは多分、いつも同じ人物。多分というのは、見られている間、僕はその先を確認したことがないからだ。こちらを見ているのなら、僕が振り向けば、その先に居る人と目が合ってしまう。僕はそれが怖いのだ。
背を向けていても分かる。その視線の強さ。
何故僕なのか。
とにかくもし正面から見つめられたら、僕は身動きすることもできないだろう。背を向けている今でさえ、逃げ出したくなるくらいに、その視線は熱いのだから。
隣のベッドからは、もう寝息が聞こえてきた。半月はますます光を強めて、もう起きている人は少ないだろうとぼんやりと考えた僕も、やがて眠りに就いた。
あれは確か、クリスマス休暇のすぐ後。皆よりも先に家からホグワーツへ帰ってきていた僕は、それよりも早かったらしい彼が、図書館にいるのを見つけた。彼は手元に本を開いていたけれど、その視線は本ではなく、窓の外を向いていた。立っている僕に気付いてはいない。
整った横顔に、鋭い金の瞳。
何を見ているのかと、何故だか無性に知りたくなって、僕は彼の視線を辿って窓の外を見た。
彼は窓ガラス越しに、音も無く降り積もる雪を見ていた。降る雪を下に落ちるまでその目で追う。地面はもう積もった雪で真っ白になっていた。彼が目で追った雪は、下に落ちて積もる雪の一部になって見えなくなった。それを見ていた彼の瞳が揺れた。何か痛みを感じたのか、彼は端正な顔を歪めた。
その時、その場はひどく静かだった。
彼の周りはいつも賑やかで、その中で笑っているのが彼の姿だと思っていた。しかし、この何の音も無い、あるとすれば雪の降る音のみのこの世界も、間違い無く彼の世界だった。その静謐な空間の中にいる彼は、あまりにも気高くて、汚れている僕はその側にいるだけで身を焼かれるような思いだった。それでも、その姿から目を離すことができなくて。
彼が身じろぎした。僕は静謐な空間から切り離されて、急に恥ずかしくなった。
他人の世界を覗くなんて!
僕は彼に気付かれないうちに、図書館を後にした。あの時は確かにそうしたのに、今は足が動かない。
どうして?
彼がゆっくりとこちらを向く。その視線が僕を捕らえる。
見ないで!
冷や汗をかいていた。隣を見ると、ピーターはまだ丸まって寝ている。
「リーマス、珍しく遅いんだな」
「サディ、ライアン、おはよう」
ルームメイトのサディとライアンが、もう着替えて立っていた。
「おはよ。俺達先に行ってるぜ」
「もう?」
「早く食ってレポートやるんだ。今日提出だろ? 天文学。君は終わっているんだよな」
頷くと2人は食堂へ降りて行った。僕は自分の顔に触れた。不自然に赤くなっていないだろうか。のろのろとベッドから下りると着替え始める。隣のベッドを見ると、そこはまだ人の形に布団が膨らんでいた。
確かピーターもレポート終わっていないって……。
それなら早めに起こして朝食に行かなければ。
「ピーター、もう朝だよ」
丸まっている体をゆすって、彼を起こす。もうほとんど日課のようなものになっている行為だ。
「え? あ、おはよう、リーマス」
「おはよう。レポート終わっていないんでしょ? 早めに朝食にしよう」
レポートのことを指摘されてやっと思い出したらしいピーターは、慌しくベッドから下りて着替えを始めた。僕はそのうちに今日の授業分の教科書を用意する。僕の準備が終わっても、ピーターはまだネクタイを締めるのに手間取っていた。気ばかり急いて、上手く結べないようだ。僕は彼の前に立って、ネクタイを締めるのを手伝った。
「ご、ごめんよ、リーマス」
「ううん。さ、行こうか」
僕らは食堂へ向かった。まだ少し早めなのに、結構な人数が朝食を摂りはじめていた。この人達すべてがレポートの為に早起きしているのだとしたら、何となく滑稽だ。
席に着いても、食が進まない。こんな調子ではまたマダムを心配させてしまうと思い、パンをちぎって無理矢理口に入れた。隣に座るピーターの話題は、例の2人組のいたずらについてだった。ピーターは彼らに心酔しているのだ。目を輝かせて、彼らが昨日フェルチをまいて逃げた様子を話している。僕はただ曖昧に微笑んで、時折相槌を打つように頷いて見せただけだった。
そうしていると食堂が一気にざわめく。ピーターの視線が食堂の入り口に向けられて、彼は益々顔を輝かせた。きっと彼らが入ってきたのだ。やはり食の進まない僕は、ぼんやりと机に置かれたトレイを見つめていた。段々と誰かの近づいてくる足音。それが隣で止まると、僕の視線の端っこに、誰かの手が映った。
「やぁ、おはよう。リーマス・J・ルーピン」
僕はのろのろと顔をジェームズ・ポッターに向けた。一体何が起きたのか理解できない。彼は何と言ったのだろう。おはようと?
「隣、空いているかい?」
ピーターに肩を叩かれて、僕はようやく彼の言った言葉を呑み込んだ。そしてすぐに立ちあがって彼に席を譲ろうとした。
「あ、うん。僕はもう食べ終わったから」
まだトレイには殆どのものが残っているのに、そらぞらしい良い訳だ。でも、僕は急いでその場を離れたかった。ジェームズの後ろにはいつもと同じ、彼が立っている。あからさまに僕を見るようなことはしないけれど、それでも僕は居たたまれなかった。今朝見た夢のせいもあって、彼を視線の端に捕らえることでさえ何だかいけないような気がしてくる。
すぐに食堂から出ようとする僕の左手を掴み、僕を引きとめたのはジェームズだ。
「ちょっと待って」
温かい手の感触に、僕は驚いた。そして反射的に手を振り払おうとする。マダムと手を繋いであの屋敷へ行くことにこそ慣れたが、皆がやっているようなスキンシップは、僕にはまだできない。頭で考えるよりも先に、体がそれを拒否するのだ。
振り払おうとしたのが分かったのか、ジェームズは握る手に力を込めてそれを制した。体が震える。人の温もりが、怖くてたまらなかった。それなのにジェームズは手を離してくれない。僕は自分に言い聞かせた。
この手はマダムだ。マダムなら大丈夫。優しい手……。
体の震えは止まった。でも頭に血が上って、酷く苦しい。どうにかしてこの場を切り抜けなくては、と僕は思った。
「君を不快にさせたことは謝るよ。でも、僕を避けないでくれないかい?」
何事かと周囲の人間の視線が集まる。段々と、退路が塞がれていくような気がする。
「な、何のこと?」
僕は体ごと後に下がる。そうするとジェームズは僕を追うようにして体を前に進めた。
「気付いていたんだろう?最近僕が――」
しんと静まった食堂は、彼の台詞の先を気にしている。
「君を見ていたこと」
「え?」
一瞬呆けて、すぐに僕は顔を伏せた。顔が赤くなっているような気がする。
だって、僕はてっきり彼だと……。
ジェームズは俯いた僕の顔を覗き込む。
「授業中さぞ居心地の悪い思いをさせてしまっただろうね。僕は真剣になるとつい目付きが悪くなるから。でも分かってくれないか? 睨んでいたわけではないんだ。君に誤解されたくないから、今日ようやく勇気を振り絞って君に話しかけた」
「わ、分かったよ。だから――」
僕は手に更に力をこめた。それを感じたジェームズも負けずに握る力を強くする。
「手を離して欲しいんだけど」
「まだ、駄目」
恥ずかしさと恐怖に、僕の手は震えていた。一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
「君に悪気がなかったのは分かったよ。話はもう終わりだろう?」
語気が強くなってしまった。しかしそれを制していられるほど、僕は冷静ではなかったのだ。
「終わってないよ」
間髪入れずにジェームズが言い返す。
「何故僕が君を見ていたのか、聞いてくれても良いと思うな」
やけに真剣なその声に、僕は思わず顔を上げた。ジェームズと視線がぶつかる。その瞬間に、僕は妙な違和感を覚えた。彼の視線は、確かに真っ直ぐで強い視線だったけれど、逃げ出したくなるような熱は感じられなかった。包み込むような、やんわりとした温かさは、むしろ心地よくて……。
「そう、1週間君を見つめるだけだった僕の、この勇気に免じて。君は是非僕のお茶会に出席すべきだ!」
突然大声で宣言したジェームズに、呆気にとられた食堂の生徒達。僕はすっかり退路を塞がれていた。
その日の放課後まで、僕はずっと視線の先のことについて考えていた。あれは本当にジェームズだったのだろうか。彼らはいつも一緒にいるから、視線の元は同じ方向だったのだろう。問題は、彼だったのか、ジェームズだったのかだ。身動きもできないほどの、あの熱い視線は。
部屋の扉が開けられて、ピーターの声がする。
「リーマス、ジェームズが来たよ」
「今行くよ」
僕は手にしていた本を閉じて立ち上がった。
部屋から出て来た僕に、ジェームズは言った。
「シリウスがお茶を用意してくれているよ。ゆっくり行こう」
やはり彼も同席するのだ。僕は意を決してジェームズに尋ねた。
「ねぇ、ポッター君」
「ジェームズだよ。僕もリーマスと呼んでいるだろう?」
僕は少し口篭もる。しかしこんなところで話しを中断させるのは得策ではないと判断して、ジェームズの言う通りに言い換えた。
「ジェームズ、君、どうして嘘を?」
「嘘?」
彼が振り向くととっさに僕は下を向いてしまう。あまりに直接的な言い方だっただろうか。しかしもう僕の中ではそれは確信に近かった。
「あ、違っていたらゴメン。でも僕、やっぱりあの視線は君じゃなかったと思う」
僕がそう言うと、ジェームズは一瞬呆けて、次には頭に手を当てて苦笑した。歩いていた僕の目の前に飛び出すと、彼はにやりと笑って僕の進行を止めた。
「誰の視線だと思ったの?」
「それは、その……」
言いよどんだ僕に、ジェームズは更に苦笑する。
「リーマス。名前を呼んだからって、彼は飛んで来たりしないよ」
みるみるうちに、顔が赤くなるのが分かる。ジェームズの言う通りだ。
「そうだよ。君の思っていた通り、最初に君を見ていたのは僕じゃあない。僕の相棒の方さ。最も、1週間前からは確かに僕も君を見ていたから、丸っきり嘘って訳でもない」
つまり僕は2人に見られていたということだ。
「僕、何かしたかい? 気に障ることでも?」
「え? 違うよ、まさか!」
ジェームズが慌てて否定した。しかし僕にはそれ以外に2人に見つめられる理由が思いつかない。
「じゃあ、何故?」
僕が訊くと、ジェームズは少し考えるような間を置いて、そしてゆっくりと話し出した。
「シリウスの方は分からないけれど、僕は――」
その内容に、僕は更に赤面した。もう頭に血が昇って、天辺から血を抜きでもしないと倒れてしまいそうだった。恥ずかしい。そんな風に僕を見ていた人が2人もいたなんて。
「そ、そんなことしている?」
「しているよ」
ジェームズは優しく言った。
「君が呑み込んだ言葉は、僕とってはすごく魅力的なんだ。僕にとって君は未知の存在だ。僕というのは困ったことに、近くに謎があればそれを解きたいと思ってしまう性分なのさ。君が知りたいんだ、リーマス。少なくとも今よりはもっと、君に近づきたい」
優しい声で、僕が凍りつくような言葉を紡ぐ。
「友達になってくれないか?」
「ジェームズ、僕は……」
僕は顔を背けた。駄目だ。
彼はキケンダ。
僕の中の何かがそう警告する。何か、そう、僕の中の闇が彼に近づくなと、彼を近づけさせるなと叫んでいる。
「リーマス」
呪文のように、彼は僕を呼ぶ。繰り返し。
「リーマス、僕を見て言って」
更に優しくそう言われて、僕はのろのろと顔を上げた。
「Yes?」
そう言って微笑んだ彼の顔はひどく大人びていた。
あぁ、そうか。
僕があの瞳に惹かれた理由。彼もまた闇を見ていたのだ。そしてジェームズも。それでも2人は光の中で一緒にいるのだ。僕は笑った。悲しいような、嬉しいような気持ちだったから、上手く笑えてはいなかっただろうけれど。
「Yes……」
もし許されるのなら、少しだけ近づきたかった。今よりも少しだけ、彼らの放つ光の側に。それがどんなに危険なことか、わかってはいたけれど。望む気持ちを抑えることができなかった。
これは、罪だろうか。