漆黒の檻
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部屋の扉が開く音、そして閉まる音がした。朝は閉めていたベッドの天蓋を開いて、シリウスはベッドに横たわっていた。左手に黒い手紙を握り締め、その腕で目元を覆ってしまっている。シリウスはじっと耳を澄ませていた。部屋に入ってきたのは1人。足音でそれが分かる。その人はシリウスのベッドの隣に何かを置いた。そして恐る恐るといった様子でシリウスのベッドに近づいてくる。
「……シリウス? 眠っているのかい?」
リーマスだった。
「……いや」
シリウスは答えて、目元を覆っていた腕を外した。リーマスは自分のベッドとシリウスのベッドの間に立ってシリウスの顔を覗き込んでいた。丁度夕日が雪に反射して、そして部屋の窓から中へ入り込んでいた。淡い色のリーマスの瞳が今は少し赤みを帯びている。
「ジェームズが心配している」
リーマスにそう言われて、部屋に引き篭もってからジェームズのことを考えてやる余裕がなかったことに初めて気づいた。気にするなという意思表示はしたつもりだったが、それだけで本当に気にしないでいられるはずはない。シリウスは重く感じる体に鞭打って、上半身を起こした。
「あいつ、どこに?」
「扉の前に座っているよ。君に、何と言ったら良いか分からないって」
その言葉で、シリウスはジェームズだけでなく、リーマスもシリウスに何を言うべきか迷っているのだと感じた。
「馬鹿だな。そんなの、何だって良いのに」
だからあえてリーマスを見ながら、シリウスは答えた。リーマスはシリウスの言葉に明らかに安心した様子を見せた。
「うん。僕もそう言ったんだけど……」
ちらりと扉のほうを見て、それからリーマスはぼんやりと微笑んだ。その微笑みは、リーマスが何か冗談を言おうとしていることをシリウスに予感させた。
「早く出てこないと、穴を掘って埋まってしまうぞって」
リーマスが目を細めたので、シリウスも同じようにして返した。それは冗談にもとれる言葉だったし、とても深刻な状況を表していると取れる言葉でもあった。きっと後者だろう、とシリウスは思う。ジェームズは落ち込んでいる。いつもなら、そんな親友を引っ張りあげるのはシリウスの役目だった。
「あぁ……そうだな。早く出て行ってやらないと……」
自分でも気の抜けた声だと言うことが分かった。腕に力を入れてベッドから両足を下ろそうとしたのだけれど、その時左手に握った黒い紙が嫌な音を立てて潰れ、その音で何故か腕から力が抜けた。
「シリウス。無理はしなくても……」
貧血を起こしたように顔を青くしたシリウスに、リーマスが慌てた声で言った。シリウスが見上げると、リーマスの瞳はいつもの淡い紫色に戻っていた。
「座れよ、リーマス」
唐突に、シリウスはそう言った。そして自分のベッドを叩いて、リーマスに座るべき場所を示す。
「あ、うん」
自分のベッドに座ろうと思っていたリーマスは戸惑ったようだけれど、シリウスの言う通り、シリウスのベッドの縁に座った。シリウスはもう一度全身に力を入れなおして、両手を突くと下半身の向きを変えて、リーマスの隣に座った。でもすぐにまた力が抜けて、シリウスは両膝に腕を付くと、顔を手に埋めて息を吐いた。
「シリウス……?」
リーマスの手がそっとシリウスの肩に触れた。その手が温かい。シリウスは左手で握りつぶした手紙を視界の端にとらえ、そして感じるリーマスのぬくもりに喉を詰まらせた。
「おかしいな。別に悲しいわけでもないのに」
「そんなこと……」
リーマスは否定したけれど、シリウスは確かに手紙が知らせた事実に悲しんではいなかった。ただ肩から感じるリーマスのぬくもりが哀しい。手紙の方に感じるのは、悲しみよりは怒りだった。この場に火があったら、シリウスは迷わずその黒い手紙を火の中に放り込んでいただろう。
「本当さ。でも、なんと言ったら良いか……」
悔しかった。そして苛立っていた。この手紙を送った母を憎んでもいた。今まで重大な事実を隠し、死んでからそれを明かした父親にも激しい憎しみを抱いていた。そしてやはり、悲しかったのかもしれない。外の世界ではまるで駒のように人々が動いている。駒のように進み、居もしない王を守り、玉砕していく。
馬鹿な連中だ。
シリウスはそう思う。本当に守らなければならないものはもっと他にある。もう大昔に死んでいなくなった人間の影を守り、受け継ごうとして戦って何になるだろう。シリウスは本当に守らなければならないものが何か知っている。しかし、それを守ろうとするのなら、シリウスが馬鹿だと卑下したチェスゲームに、これからはシリウス自身も加わらなくてはならない。多くの人を欺きながら。
それは、とても悲しいことだった。
「……何も、言わなくても良いよ、シリウス」
リーマスの手が、肩から背に滑った。リーマスは何も知らない。ピーターも、リリーも。ジェームズは他の人間よりは知っているけれど、それでも知らない。この秘密を。
シリウスは顔を上げた。リーマスの瞳にぶつかって、胸が痛んだ。何もかも話してしまいたい、とシリウスはそう強く思った。きっとリーマスはシリウスを助けてくれるだろう。いいや、事実を知ったなら絶対に。シリウスはすでに潰れてしまっている手紙を、もう一度強く握った。
「……僕、ブラックの当主になったんだ。親父が、死んだ」
じっとリーマスの瞳を見つめながら、シリウスはそう告白した。リーマスはすでにシリウスの身近な人間が死んだということを予想していたのだろう。悲しげに表情を歪めたけれど、シリウスを慰めるような言葉は口にしなかった。
「…………そう……」
ただそう言って、シリウスの瞳を見つめ返した。シリウスは何かに急かされるように言葉を継いだ。
「最低だよな、僕の親。死んでからこんなこと……」
「何、を?」
リーマスの少し引きつった疑問の声に、シリウスの体が急激に緊張した。自分は今、何を言おうとしたのだろう、とシリウスは愕然となった。何故父が死ぬまでこのことを秘密にしてきたのか、シリウスには分かっている。父がそうしてきた理由はシリウスには全く意味のないことだったけれど、シリウスはこれからその秘密を受け継がなくてはならないのだ。シリウス自身の決めた理由によって。
分かっているのだ。今はまだ誰にも漏らすわけにはいかない。ブラック家の当主として。そして何よりも、彼らの友人として。シリウスはじっと見つめてくるリーマスから視線を外して、乾いた喉を湿らせてからようやくリーマスに答えた。
「……悪い、言えない。今は言えない」
俯いた視線の先で、リーマスの両手がぎゅっと握られた。
「……うん」
リーマスが我慢してくれているのが分かって辛かった。我慢しなくて良いと言い続けてきたのはシリウスの方だったのに、そのシリウスがリーマスに我慢するよう強制している。シリウスは唇を噛んだ。これから多くの人を欺かなくてはならない。それがどんなに信用の置ける人間だったとしても。いや、だからこそ欺かなければならないのかもしれない。
シリウスは顔を上げてリーマスの瞳と真正面からぶつかった。少しだけ悲しげに寄せられるリーマスの眉。それでもシリウスは微笑んで見せることができた。
「……あぁ、でもやっぱり……。少し、辛いのかもしれないな」
それはシリウスの正直な気持ちだったけれど、リーマスが別の意味に捉えることを知っていて放った言葉だった。
「……シリウス」
案の定、リーマスはシリウスの握りつぶした黒い手紙にちらりと視線を向けて、それから両腕を横に広げて見せた。
「何だよ、それ」
今度はリーマスの意図が良く掴めなくて、シリウスは尋ねた。リーマスは一度答えようとして口を開いたけれど、すぐに顔を赤くして口を閉じてしまった。自分でも奇妙な仕草をしていると思ったのだろう。
「ジェームズに、よくこうしてもらうから」
赤くなった顔を背けながら、リーマスはぼそりと答えた。シリウスはやはり、最初は全くリーマスの言っている意味が分からなかった。しかしジェームズがよくリーマスにしてあげることと、それとリーマスの腕の仕草でようやく合点がいった。シリウスが驚いてリーマスの顔を覗き込もうとすると、リーマスはさらに視線を避けて首を横に巡らせた。それでも一度開いた両腕は戻さないらしい。リーマスも案外頑固だ。
「ジェームズなら自分から抱きついてくるだろうけれどな」
シリウスがそう指摘すると、リーマスは本当に困ったように、そして意地悪なシリウスに少し怒って短く言った。
「難しいんだよ」
それでも両腕を広げてくれた気持ちはありがたい。シリウスはそう思ったけれど、口だけは軽く皮肉を言ってみせた。
「君にはな」
シリウスは両腕を広げてがら空きになったリーマスの脇腹に、自分の両腕を伸ばした。ジェームズのスキンシップは常人を逸しているから、それはよくリーマスに抱きついているが、シリウスは常識の範囲内でしかリーマスに触れたことはない。しかしこのときばかりは人に抱きつきたがるジェームズの気持ちが分かったように思った。リーマスはシリウスに抱きしめられると一瞬身を硬くしたが、まるで母親にすがる子どものようにシリウスがすがってくるのが分かって、すぐに緊張を解いた。
リーマスの体は細くて、あまり抱き心地は良くなかった。しかし人のぬくもり、それは確かにシリウスを癒した。リーマスはシリウスが自分から離れるまで、ずっと待っていてくれていた。シリウスはそんなリーマスに感謝したけれど、リーマスやジェームズ、ピーターの大切さを改めて感じて、それはますますシリウスを頑なにさせた。
大切だからこそ、何も言わずに終わらせたい。
シリウスにそんな決意をさせてしまったことなど、リーマスは知る余地もなかった。
やがてシリウスがリーマスの体を離し、シリウスはいつものように笑って見せた。そしてリーマスを安心させると、今度は部屋を飛び出して、廊下で立ち尽くしているジェームズに体当たりし、2人で廊下に転がった。ジェームズはシリウスの突然の仕打ちに驚いて、ずり落ちる眼鏡を直すことも忘れ、口をあんぐりと開けた。
「君が入ってこないから、僕が出てきてやったぜ」
シリウスがにやりと笑って言うと、ジェームズは泣き笑いの顔になってシリウスの首に抱きついた。そして何とか立ち直ったジェームズは、首に抱きつくその一方で、シリウスの腹を狙って拳を繰り出すことを忘れなかった。大騒ぎになった男子寮で、騒ぎを聞きつけたピーターや他のグリフィンドール生が廊下に出てきたけれど、いつものことだと皆笑って、全員がシリウスとジェームズが殴り合い、そして馬鹿みたいに笑い合ったりしている様子を見物した。これは彼らにとって日常そのものだった。
その日の夜、夕食を食べる前に、マクゴナガル女史がいつもの厳しい顔つきでシリウスを迎えに来た。シリウスは黙って荷物をまとめると、皆の頭をくしゃくしゃにして、笑ってホグワーツを後にした。
次の日の朝、ブラック家当主、シリウスの父親である男が闇の勢力との戦いで倒れたことを日刊預言者新聞が一面で報じた。外では勿論、ホグワーツの中でもそれは大変な騒ぎとなった。スリザリン側についた――又はそうしようと思っている――人間は諸手を上げて歓声を上げた。それは、ブラック家がグリフィンドールの直系であり、ダンブルドアと肩を並べる光側の勢力頭だったからだ。反対に大きな頭を1人失ったグリフィンドール側は激しく混乱した。
しかしブラック家はすぐに味方の混乱を鎮めるべく手を打った。ブラック家の子息を葬式のためホグワーツから呼び出すと、当主を墓に葬ってすぐに若干15歳の子息を次の当主として打ちたてたのだ。日刊預言者新聞はすぐに号外を出して新当主の写真を一面で報じた。
シリウス・ブラック。
喪服を着て新聞の一面に収まっているシリウスの姿は美しく決然としており、一緒に載せられた記事を見てグリフィンドール側の人間は新たな当主に期待を寄せた。一部の人間はシリウスの若さに不安を抱いたが、シリウスはそれを分かった上で、父の葬儀を終えるとすぐに味方の主要な勢力を集めた。ホグワーツ卒業まではシリウスの母が当主代理を務めるよう集まった人間が主張したが、シリウスはそれを跳ね除けた。シリウスは父の肩書きをすべて受け継いだが、ホグワーツに在籍している手前、ホグワーツの理事会役員からは降りた。
15歳の背の高い少年は、冷静で完璧な論理と、若い行動力でもって大人を圧倒した。日刊預言者新聞はまた、少年を“グリフィンドールの息子”と報じた。シリウス自身は、その記事を皮肉な眼で見ながらこう思っていた。
これで盤上に立った。
後は幻のキングを目掛けて集まってくる奴らを、自身と共に檻に閉じ込め、戦い続けるだけだ、と。