僕らのつく嘘の数
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真実のような嘘。
真実に内包された嘘。
やがて真実になっていく嘘。
ジェームズは箒に乗っていた。ホグワーツで7年過ごし、手足はもてあまし気味なほどに長くなったけれど、髪の毛は相変わらず昔のまま、我の強いボサボサ頭のままだった。そしてきっと、体が大きくなっただけで、中身は大きくはならなかったのだろう、とジェームズは思った。ホグワーツ城の明かりがぽつぽつと灯っているのが見える。寮に灯る明かりも、クリスマスだとは思えないくらいに多い。マグル出身の魔法使いに対する攻撃が強くなっているため、ホグワーツに居残っている生徒が多いのだ。リリーもそうで、昨年も今年もクリスマスに帰宅することを避けていた。クリスマスに家族と会えないというのは寂しいけれど、それ以上に家族を巻き込みたくないのだと考えているのだろう。実際、奴等は魔法使いではない普通のマグルを殺すことにも戸惑いなど持たないのだ。
「リリー……」
ジェームズは箒の上で呟いた。下は一面の銀世界で、ジェームズの口からも銀色の息が吐き出された。ジェームズはふらふらとグリフィンドール寮の周りを飛んでいた。あのあたりにはジェームズ達の4人部屋がある。シリウスはまだ窓辺にいるのだろうか。何事もなかったかのように、本を開きながら? 何事もなかったかのように振舞うのも、すべてジェームズのためなのか? たまらずジェームズは箒の上で顔を両手で覆った。寒さでジェームズの手もようやく氷のように冷たくなっていた。シリウスと同じ温度に。
「……リリー……」
またジェームズは呟いた。その響きは聞く者の胸を締め付けるほどの切なさに満ちていた。けれど聞いている者など誰もいない。誰もいないはずだった。
「ジェームズ、貴方なの?」
周囲を、何よりもジェームズを気遣った柔らかな声がした。ジェームズが信じられない思いで、顔を覆っていた冷たい手をどけると、腕を伸ばしたら届くくらいの距離に恋人の顔があった。ジェームズが父親から聞かされたことや、先程のシリウスとのやりとりを何も知らない美しい恋人は、すでに眠っているのであろうルームメイトを起こさないように注意しつつ窓を開けたようだ。すでに寝巻き姿のリリーは、冷たい外の空気に触れて身震いした。
ジェームズはそんなリリーの姿を見て、どうしても言わなくてはいけないと思った。別れよう、陳腐だけれど他に良い表現なんて思い浮かばなかった。一言、それで終わる。けれど自分のお喋りな性質が災いしたのか、それともジェームズは自分が思っていたよりも嘘のつけない性質だったのか、彼の口から出てきた言葉は必要以上に長く、言いたいことのほんの少しも含まない内容だった。
「リリー、僕は英雄になりたかった。皆に笑顔や、楽しみを忘れさない人間になりたかった。そのためなら何でもできたよ。何だってできた」
一体何が言いたいのだろう。ジェームズが疑問に思ったくらいだから、当然リリーだって疑問に思ったのだろう。リリーはいまいち要領を得ないジェームズの言葉に眉を顰めた。そしてこの距離では埒があかないと思ったのだろう。
「ジェームズ、ちょっと待って。いまそちらに行くわ」
そう言ってリリーは上着を取ってくる仕草をした。ジェームズはそんな彼女の先手を打って叫んだ。今度は思ったとおりの言葉だけが口をついて出てきた。
「来たら駄目だ! 絶対に、来てはいけない」
激しくそう言ったジェームズに、リリーは驚いて立ち止まった。そしてジェームズが家族の元で過ごすはずの休暇の予定をキャンセルした理由や、同じグリフィンドールの寮でシリウスとしたやりとりなど何も知らないはずのリリーは、真剣な表情をしてジェームズを見つめ返した。リリーのエメラルド色の瞳がジェームズをじっと見つめる。そしてその瞳に苛烈な色彩が走ったと感じた次の瞬間、リリーは寝巻きのまま窓から身を躍らせていた。
「……それは私の決めることよ、ジェームズ」
その怒ったような声で言われた言葉を理解する前に、ジェームズは箒を操ってリリーの元に飛び込んでいた。
「リリー!」
翼のない天使は必死に手を伸ばしたジェームズへ向かって悠然と微笑むと、自らも手を伸ばしてジェームズの腕の中へ収まった。重力を感じさせない、軽やかな跳躍だった。ジェームズの腕に収まった温かい体に遅れて、長い髪が寝巻きの裾とともにふわりと落ちた。香るのは少し湿った赤い髪に染み付いたシャンプーの匂い。それはジェームズの鼻を通ってつんと涙腺を刺激した。
「……来てはいけなかったよ、リリー。どうして……どうして君もシリウスも、僕の言う通りにしてくれないんだろう……」
けれど腕の中に飛び込んできた天使を突き放すこともできず、結局ジェームズはリリーの背に回した腕に力を込めてリリーを強く抱きしめた。うっとりするほどの温かさと、ふんわりと香るリリーの体はジェームズの手放せない楽園となっていた。
「貴方が大切だからよ、ジェームズ。私もシリウスも、貴方が大切なの」
リリーがジェームズの言葉に答えて言った。彼女の手はジェームズの肩を通って緩やかに背に回されており、その緩さがかえってジェームズの体を温めた。
「僕だってそうだ。君達が大切で、だから守りたかった。いや、僕が守るべきなんだ。僕こそが……」
興奮したように言葉を継いだジェームズに、リリーは背に回していた手を肩に置き、そしてジェームズの体をしっかりと突き放した。お互いの髪が目にかかるほどに接近していた2人の影は、ぼんやりとした月明かりの中で本来のようにふたつに分かれた。
「駄目よ、ジェームズ。それは貴方の望んだ英雄の姿ではないわ」
ジェームズはリリーの言葉に絶句した。本当にリリーは何も知らないのだろうか。ジェームズの世界を崩壊させた父の言葉を。この忌まわしく愚かな戦いの理由と原因を。
混乱しかけたジェームズだったが、リリーの宝石のような瞳を見ているうちにゆっくりと理解できた。リリーは何もかも理解しているわけではないのだ。ただジェームズという人間を知っているというだけのことだ。ジェームズが望んでいた姿を、ジェームズの思い描いていた未来を、そしていまジェームズがそれを砕かれてしまった状態にいるということだけを知っている。彼女にとってはそれで十分なのだろう。シリウスがそうであったように。
「分かっている。分かっているよ……シリウスは望まない。君だって、望まない。でも、だったら僕はどうしたら良いんだ?」
そう言って俯いたジェームズの髪に、リリーの手が伸びた。リリーの手がジェームズの髪を撫でる。撫でられるとジェームズの髪はいったん大人しくなるけれど、手が離れるとすぐにピンと自分の好きな方向へ向かって跳ねてしまう。リリーはいつまでたっても変わらないジェームズの髪を愛おしそうに見つめて微笑んだ。
「私と結婚して、ジェームズ」
「リリー……」
ジェームズは顔を上げてリリーを見た。リリーは微笑んでいて、しかしどこか寂しそうに見えた。結婚という言葉は、何もなければジェームズから言おうと思って大切にしてきた言葉だった。リリーもジェームズから言われることを望んでいたのだろう。だから、自分から言うしかなくなってしまったこの状況に、リリーは一抹の寂しさを感じているに違いない。
「ジェームズ、私に貴方と結婚する幸せをちょうだい」
リリーはもう一度ジェームズに言った。情けない。ジェームズは思った。リリーにはっきりと望まれても、ジェームズはすぐにはっきりとした答えを返すことができないでいる。
「……僕は……僕は嘘をつきたくない。でも、嘘をつかないと大人にはなれないのかもしれない」
ジェームズはぐずぐずとそんなことを言ってみた。大人になることに魅力など何もない。自分は責任を持ちたくないだけなのだろうかと思いもする。リリーのすべてを背負いたくないというのだろうか。
それは――。
「それって、どういう大人なの? ジェームズ」
ぐっとジェームズは喉を鳴らした。リリーは冷静だ。まるでシリウスのように。
「……違うよ。本当は嘘なんてつかないほうが良いんだ。分かっている……。大人になることは、悪いことじゃあないはずなんだ。分かっているよ」
分かっている。リリーのすべてを背負いたくないなんて、そんな気持ちになるはずがない。
「ジェームズ、私が嫌いになった?」
そんなこと、あるはずがない。
「まさか! ……愛しているよ、リリー」
ジェームズはとうとう白状した。ぐずぐずと悩む癖は昔からのものだけれど、ジェームズだって悩んでばかりいられない時を理解するくらいには成長しているのだ。
「結婚して欲しいの」
三回目だ。これ以上は誤魔化しがきかない。何より、このまま誤魔化していい話でも、煙に巻いていい相手でもない。これ以上リリーに言わせることはできない。
「僕は…………僕もだよ、リリー。……結婚して欲しい」
大切だから。離れることはできないから。その気持ちを込めて、ジェームズはリリーの頬に手を伸ばし、彼女の唇に自分の唇を寄せた。体を洗った石鹸の香り、リリーの唇の味。それらは甘く、ジェームズのすべてを受けいれてくれていた。
打ち明けよう、すべてを。
唇を離すまでの短い間に、ジェームズは心を固めていた。すべて、この自分達を取り巻く忌まわしい世界の実情を。シリウスの決意や、ジェームズの望んでいる未来を。どこに潜むか分からない危険の存在を。
それでも一緒にいよう。
ジェームズは思った。ずっと離さないでいよう、と。ジェームズはしたいのは、それだけだ。
「ありがとう、ジェームズ。……ごめんなさい」
謝るリリーに、ジェームズは無言で首を横に振った。彼女が選ばせたのではない。シリウスが選ばせたのでもない。結局、ジェームズが選んだのだ。自分で選ぶことを選んで、そして決めた。それだけのことだ。
「僕らのつくる未来を、シリウスは喜んでくれるだろうか?」
「もちろんよ、ジェームズ。あの人は、きっと大泣きして喜んでくれるわ」
彼が大泣きしたところなど、いままで見たことがない。ならば初めてシリウスを大泣きさせるためにも、ジェームズは幸せになる必要があるのだろう。きっと見ものだ、とジェームズは思った。あの端正な顔が、嬉しさで崩れ、そして涙でさらにぐしゃぐしゃになるところは。果たしてそれでも美男は美男のままなのか。答えを知るには、シリウスの目の前で、幸せな結婚式を挙げてみせるべきだろう。
「私達は運命の恋人なのよ」
そう、ジェームズの運命の女神が言った。
「アダムとイブのように?」
「あら、私達は彼らよりよほど幸せよ。彼らにはお互いしか選ぶ相手がいなかった。私達は、多くの男女の中からお互いを見つけ出すことができたんですもの」
ジェームズはリリーの言葉に微笑んだ。リリーの目にはまだ少し歪んだ、苦悩のにじむ顔だったけれどそれでも決心はついたという顔だった。ジェームズはシリウスに戦う決意を、そしてリリーには隠れ、逃げる決意をさせたことを恥じていたけれど、同じようにリリーはジェームズを親友のもとから引き離したことに罪悪感を覚えていたし、シリウスにジェームズを突き放させたことを後ろめたく思っていた。それはまるでもっと体が冷えることを望んでいるかのように窓辺にもたれたままのシリウスも同じことで、彼らはお互いのつくあらゆる種類の嘘に気づいて、それでも先に進むことを選んだのだった。
嘘と知っていてついた嘘。
真実になって欲しくてついた嘘。
僕らは僕らの未来のために、そんな嘘をつき続ける。