Miniature garden
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Apple
選ばれた人達。
現実には存在しなくなった人達だけが彼の庭に入ることができる。
だから僕は、彼の庭に入ることを許されない。
木製のベンチにはいつも通り彼が座っていた。彼はいつも右側を一人分空けてベンチに腰掛けている。僕は真っ直ぐに空いているその場所へ向かっていって、彼の隣に腰掛けた。そうすることで、ようやく彼は僕を意識してくれるのだ。
「誰と話していたの? リーマス」
もう並んで座っても、僕の視線は彼と同じ位置にくるようになった。むしろ、僕のために彼が少し首を上に向けるくらいだ。
「先生とだよ、ジェームズ」
透き通った声で彼が答える。
「また先生が来ていたの? 僕も会いたかったよ。僕が来るまで引き止めていてくれれば良かったのに」
「あぁ、そうだったね」
やんわりと微笑んだ彼に、僕は曖昧に微笑み返す。いつものことだけれど、いまだに慣れない。彼の中でいつの間にか僕はジェームズ・ポッターだったり、シリウス・ブラックだったりするようになった。それが正確にいつから始まっていたことなのか、僕には分からない。彼にだって分かっていなかったのだろう。
一体何が原因だったのか。彼がこうなってしまったのは。
早すぎる友人夫婦の死だったのか。信じていた友の裏切りだったのか。過酷なひとりきりの戦いの日々だったのか。誤解を解いて再び得たと思った大切な人の、呆気ない死だったのか。その全てだったとしても、不思議ではないだろう。彼の人生は、ホグワーツで四人の仲間に囲まれて過ごした特別な時間以外は、とても過酷なものだったのだ。
「ねぇ、リーマス。君はいま、幸せ?」
尋ねると、リーマスはくすぐったそうに笑った。多分、こんな状態にならなければ僕が見ることはなかったのだろう。そんな幼い笑み。
「笑うってことは、幸せなんだ」
「幸せだよ。先生も僕にそう訊いたんだ。だから同じことを答えた。僕は幸せだよ、ジェームズ」
また先生だ。僕は最初、彼の言う“先生”はダンブルドアのことだと思っていた。けれど違うのだ。彼の言う“先生”は僕の知らない人で、現実に存在しているのかどうかも怪しかった。なぜなら、僕は一度もその“先生”に会ったことがないのだ。毎日こうして彼の元を訪れているというのに。
「先生は、なんて答えてくれた?」
「僕の幸せが、自分の幸せだって」
胸が苦しい。そう言ってくれたのは貴方だったのだ、と僕は叫びたくなった。かつての教え子であり、大切な友人の子どもだった僕に、彼はそう言ってくれた。僕の幸せが、自分の幸せだと微笑みながら。だから幸せになって欲しい。僕の名前を呼びながら、彼は確かにそう言ってくれたのに。そのことさえもう、彼は覚えていないのだ。
「……そう。悔しいな、先に言われてしまったみたいだ」
僕は微かに唇をかみ締め、そして彼の手に自分の手を重ねると上からしっかりと彼の手を握った。
「リーマス、聞いて。……君が幸せだと言ってくれるなら、それが僕の幸せだよ。勿論、シリウスもそう言うはずさ。シリウスと僕は相棒で、君の友達だからね」
彼の中で、ハリー・ポッターという存在がなくなってしまったのは確かに悲しい。そしてその悲しみは僕だけが持っているわけではない。同じように尊敬していた元教師の世界から突然切り離されてしまったハーマイオニーは、マグルの医者に彼を診せてみてはどうか、と言っていた。ロンは彼をここから遠ざけて、どこか旅行にでも行った方がいいのではないかと勧めてくれた。
けれど、僕は思うのだ。彼は望んで、自らこの箱庭に入った。だからこの庭から出ることを、この状態から抜け出すことを、彼は望まないのではないだろうか、と。
「ハリー……終わったね。これで、ようやく終わった」
最後に僕の名前を呼んだとき、彼はそう言って長く重い息を吐き、吐き出した後には晴れやかな顔で微笑んだ。確かに彼の人生は、ある一時を除いてとても過酷なものだっただろう。けれど彼は決してそれに負けるような人ではなかった。こんな形で現実から逃げ出す人ではなかったのだ。それは一緒に戦ってきた僕だから良く知っている。
だから余計にもしかしたら、と僕は思う。彼は最初からそのつもりだったのではないか、と。あくまで理性的に、彼はこの庭に入ることを選んだのではないだろうか。あらかじめ決めていたすべてのことが終わった、と言える日が来たら、こうしようと思っていたのでは。
「リーマス」
確かめてみたい、と何度思ったことだろう。
「何? シリウス」
けれど確かめるためには、一瞬だけでも彼をこの現実に戻さなければいけない。僕が、ジェームズ・ポッターでも、シリウス・ブラックでもないのだと、彼にわからせなければいけない。二人はもう死んでしまってこの世に――ハリー・ポッターの存在する現実には――いないのだ、ということを。それが僕にできるだろうか。
「……林檎を採ってきた。一緒に食べようぜ」
「二人だけで?」
ついさっきまでは、ジェームズと話していたよね、と僕は言わない。今この瞬間、彼の中にはジェームズがいない。それがどんなに不自然なことであっても、僕はそれに合わせて切り替える。彼の望むままに。
短い時間だけ、僕の側にいてくれた名付け親。結局僕は、彼とシリウスが学生時代にどんな会話をしていたのか、その一端しか知ることはなかったのだ。
「いいだろう? ジェームズ達には内緒だ」
なるべく記憶の中にあるシリウスの口調を真似て、僕は彼に林檎を渡した。こうでもしないと、彼は平気で一日何も口にしないのだ。
「うん」
彼はくすぐったそうに笑って林檎を受け取る。そうして僕らは禁断の果実を口にする。けれどここは彼の庭。彼がこの庭の主人だから、彼がこの楽園を追い出されることはない。
「おいしいね、シリウス」
シリウス、もし貴方が生きていたら、彼の幸せは別の場所にできていただろうか。それとも、貴方がいても彼はあくまで理性的に、この道を選んだのだろうか。僕にそれを知る術はない。それは悲しいことなのだろうか、それとも、喜ぶべきことなのだろうか。
「……あぁ、ちょっとした秘密の味、だな」
この偽りの庭に通う日々が、僕にとっても楽園だと、そう思えてしまっていることはハーマイオニーやロンには秘密にしている。話せば、彼らは僕の正気を疑うだろうか。
「……なぁ、リーマス。俺はいま、とても幸せだ」
でもこれは、狂気でも演技でもないのだと僕は言える。
「うん、僕もだよ」
間髪入れずにそう言った彼と、その言葉を嬉しく思う僕の手には、齧りかけの真っ赤な林檎。もしかしたら、彼が目を覚まさないようにと、僕がその林檎に毒を入れていたのかもしれないけれど。僕が望むのはただ、彼の楽園が彼の望むまま永遠に続くようにと、ただそれだけなのだ。