Requiem−Graduale

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哲人
 「知とは何のためにある?」

 これは夢だ。セブルス・スネイプはそう確信した。現に目の前でセブルスに問いかけてくる人型のそれは、顔がなかった。のっぺりとした、皮膚だけに覆われた肌色の顔。髪の色も、服の色も暗すぎて分からない。ただ顔の肌色だけが青白く、闇の中で光っていた。

「知とは何のためにある?」

 それはまた同じ問いを繰り返した。口もないのに。

「セブルス、君は何のために知を求める」

 聞いたことのある声だ。神の声だろうか。そう考えてすぐに馬鹿なことを、とセブルスは鼻で笑った。無秩序な夢の中では自分さえ不確かだ。現実のセブルスは知っていた。神などいない。よって声を聞いたこともない。その声も存在しないからだ。いくら夢の中でも、そんな幻想が形をとって自分の前に現れるなんてことは有り得ないのだ。きっと過去の誰かを脳が見つけ出して、多少の誤変換を交えて出現させた結果だろう。そう、神などいない。だが悪魔ならいる。ここにも、あそこにも。セブルスのすぐ側に。


「薬はできたのかね」

 より現実的に響いた声に、セブルスは驚いて身を震わせた。気が付くといつもの机の前で、セブルスは薬を作っていた。全く無意識のうちに必要な材料を入れ、緑色の煙が上がる小鍋を掻き回していたのだ。

「セブルス、聞いているのかね?」

 白昼夢を見ていたのだろうか。セブルスが振り返ると、後ろにはルシウス・マルフォイが立っていた。全く狂信的な、ヴォルデモートの信奉者だ。同じスリザリン寮の先輩でもあった。

「もう一度聞こう。薬はできたのか? あの方は集まった人狼全員分の薬を望んでおられる。早急にな」

 髪の銀色が目に刺さって痛い。セブルスは汗をかいていた。冷や汗だ。白昼夢は決して恐ろしい内容ではなかった。しかしセブルスの頭に、あの言葉が張り付いて離れない。何のために。

「何故必要なのだい?」

 言葉を変えて、その声はしつこくセブルスに語りかけた。確かに聞き覚えのある声で。そしてその言葉は、セブルスを震撼させた。ルシウスに気付かれないようにして、セブルスはこっそり汗を拭う。そしてカラカラに渇いた喉を唾液で無理矢理湿らせると、いつもよりもっとかすれた声がようやく出た。

「……何故、そんなに急がれるのか分かりませんな。何か新しい情報でも?」

 セブルスはこの男が嫌いだ。自身には何の力も無いくせに、純血だという理由だけでこの陣営での己の地位を確信している。虎の威を借る狐のくせに。そんな存在だと自分で気付いてもいない。

「……君は優秀だ。あの方の信頼も得ている。……そうだな、教えよう。我らの敵がはっきりとした」

 ルシウスが唇を舐めながら言った。

「ダンブルドアと、シリウス・ブラックでは?」
「ダンブルドアは変わらない。しかし、我々は騙されていたのだ。グリフィンドールの直系はブラックではない」

 ブラックではない。そんな言い方をするのであれば、セブルスでなくてもその名を当てることは容易いはずだ。ブラックではない、誰かだなんて。

「……ポッター?」

 セブルスの声が上ずる。ルシウスはその意味をどうとったのか、満足そうに微笑むと、仕込み杖の持ち手をセブルスに向け、銀の飾り部分でセブルスの肩を叩いた。

「そうだ。あの血を絶やす。残るのは優秀なスリザリンのみだ。あの方は既にポッターを殺す計画を練っておられる」

 セブルスはその杖を払い落としたい衝動を苦しく抑え込む。まだ肝心なことを聞き出していない。

「一体誰がそんな情報を? 信用できるのですか」
「できる。あの方がそうおっしゃった」

 そんな重要かつ重大なことをダンブルドアやポッター一族の者が外部へ漏らすとは考えにくい。知っている者さえ限られてくるはずなのだ。それが分かっているセブルスが辿り着く結論は当然ひとつ。


 一体誰がポッターを裏切った? あの3人のうちの、一体誰が?


 親子の情も、兄弟の情も、愛情も、友情も、セブルスは信じない。しかし知っている。あの4人がそれらを信じていたこと。彼らがお互いそれを強く信じていたということだけは。それでもやはり変わってしまったのだろうか。この暗黒の時代の中で、変わらずにいられるものなどなかったのだろうか。いつの間にかルシウスはいなくなっていた。そして暗い部屋でひとり、まだ緑の煙を上げている小鍋を、セブルスは一心にかき回していた。

 もうずっと、セブルスはヴォルデモートの掲げる新世界に魅せられて集まった人狼のための薬を研究していた。人としての理性を残したまま狼でいられる薬。完成すれば、人狼達は自らの意思で、敵だけを狙って襲うことができる。今の魔法界に疎まれ、迫害され、影の中に追い込まれた人狼達がヴォルデモートの甘言に乗せられて復讐に走るのは当然のことだった。しかしセブルスは知っている。人狼でありながら、光の側にいる男を。そしてそいつを光に繋ぎとめている男の存在を。忘れるわけがない。あの屈辱を。あの男に助けられた、あの屈辱の日を。グリフィンドールの血を継ぐ男に、スリザリンの自分が命を救われた。その認めがたい事実を。

「君の望みは、ヴォルデモートに彼を殺してもらうことかい? セブルス、君の知識は、マグルを狩る手助けをするためのものかい? 君の求める知識を汚されて、君はそれで満足なのかい?」


 違う!


 セブルスは割れるように痛む頭を押さえた。ジェームズの死はセブルスに何の喜びももたらさない。ジェームズの死を願っていないと言えば嘘になるが、このままそう、学生時代に与えられた屈辱のすべてを、ジェームズの死で賄えるわけはない。セブルスはジェームズに復讐したかった。自分の手で。それを横から奪うことは、誰であれ許せなかった。それがヴォルデモートであれ。

 また、セブルスはグリフィンドールが憎いのではない。セブルスに屈辱を与えたのはジェームズ・ポッターであって、奴がゴドリック・グリフィンドールの血を継いでいてもいなくても、ジェームズ・ポッターという存在は今、この時代、セブルスと同じ世界に存在しているのだ。ゴドリック・グリフィンドールなど、セブルスは会ったことも無いのだし、従って本当に存在していたのかも、セブルスに確認するすべは無い。

「“個体差”だよ」

 先程より幾分優しげに、声が囁いた。その声にセブルスはずっと、この“勢力”というものに身を投じてからずっとあった胸のわだかまりが解消された気がしていた。セブルスは魔法使いやマグルの血が流れることに特別悲しみや痛みを感じたりはしない。しかしセブルスは知っている。毒は毒として、薬は薬として使われなくてはならないということ。毒も薬も、人によって多少であれ処方を変えなくてはならないということ。だから、セブルスは個を見なくてはならない。“マグル”や“魔法使い”ではない。セブルスが憎んでいるのはジェームズ・ポッターやシリウス・ブラックであって、“ダンブルドアの勢力”ではないのだ。

 そう分かってしまえば、セブルスは今の状況がたまらなく不快であるということを認めざるを得ない。ただでさえ調合が難しく、成果も十分と言えない脱狼薬を、複数の人狼に与えるなど。例えそれが汚らわしい人狼であって、彼らがただの捨て駒だったとしても、不十分な薬を作ること自体がセブルスにとって我慢できる行為ではない。

 それでは、私は一体何故ここにいるのだろう。

そう思った瞬間に腕が痛んで、セブルスは顔を歪めた。痛んだ場所にはあの印がある。これはヴォルデモートの信頼を得た証でもあるが、それ以上に、絶対的な力と恐怖に屈服した印でもある。裏切り者の末路は知っている。しかし裏切らなければ安全だと、誰が言えるだろう。狂気と野望に溢れたこの世界で。

 しかし、その世界でもなお、ジェームズはヴォルデモートに抵抗しているのだ。セブルスが屈服した恐怖と闇に。

 負けるわけにはいかない。
 私を、私の知を汚されるわけにはいかない。

誰もが“勢力”という集団に自我を奪われる中で、セブルスのように自我を取り戻した者は数少ない。そしてそれを生きて守り続けていられる者は更に少ない。裏切り者には死を。腕の印がそう叫んでいた。


 ダンブルドア側に付く振りをして、あちら側を探って来いと命令が下されたのは、セブルスにとって奇跡というべき出来事だった。ヴォルデモートは知らなかった。セブルスの自我が蘇ったことを。そしてセブルスはヴォルデモート側の誰にも怪しまれることなく、ダンブルドアの前に立つことが出来たのだ。神の力か、悪魔の力か、この時ならどちらであっても信じただろう。そしてダンブルドアの前に立ち、セブルスが最初に口にした言葉は「私は尊公方をスパイしに来た」という告白であり宣言だった。それを聞いたダンブルドアは三日月形の眼鏡の奥で目を丸くして、すぐに盛大に笑い出した。吐き出した息で長く白い髭が舞い上がる。

「尊公を笑わせたかったわけではないのだが?」

 憮然となったセブルスが言うと、ダンブルドアは申し訳なさそうな顔をしながらなおも笑い続けた。眼鏡と、頭の三角帽がずり落ちそうになる。

「あぁ……勿論! そうじゃろうとも。君は昔から冗談が嫌いじゃった」

 まだ喉をヒクヒクさせながら、ダンブルドアはそう返した。水を飲んでようやく落ち着くと、ダンブルドアは急に真剣さを取り戻した。そのきらきらとした瞳は、学生時代に見たものと何も変わっていない。

「それで? 君はどうしたいのだね? こちらをスパイしたいという人間を、そのまま置いておくわけにはいかんのじゃが」
「……尊公の勢力に加わるとは言わない。だが、あちら側に戻るつもりもない。私の目的はただジェームズ・ポッターやシリウス・ブラックに復讐することで、それは他の誰にも譲れない。だから、今この状況でヴォルデモートに奴らの命を譲ることはできない」
「素晴らしい答えじゃよ、セブルス。スリザリンに50点じゃな」

 そう言って微笑んで、ダンブルドアはセブルスに背を向けた。あまりに無防備なその姿に、セブルスは思わず言ってしまった。

「……信用させるための詭弁だとは思われないのか、尊公は」

 するとダンブルドアはゆっくりと振り返って、優しく笑った。

「今の言葉が?」
「私はスリザリンだ。それは昔も、今も変わらない」

 セブルスは半分意地になって答えた。ダンブルドアの振る舞いは、この世界で唯一ヴォルデモートに対抗できる人物だということを忘れさせる。しかしそれは錯覚だ。感じようとすれば、ダンブルドアの持つ威厳と威圧感はセブルスを圧倒する。

「スリザリンとは何じゃろうな? セブルス。グリフィンドールとは? 2人とも過去の人間で、かつて在ったひとつの存在じゃ。だが今在るのは、セブルス・スネイプという存在で、スリザリンはここにいない」

 言いながら、ダンブルドアは先程の笑いで乱れた長い髭を右手で撫でつけた。その言葉を聞いたセブルスの腕がまた痛んだ。その印をセブルスが消すことはできない。当然、その痛みもまた同じように。

「ヴォルデモートならいる。この印がある限り、私の側に」

 それは絶望の言葉だった。印を刻まれた者にしか分からない、痛みと陶酔の感覚。印と共に刻まれた闇への服従姿勢は、セブルスのどこか奥底に巣食っていた。裏切り者には死を。印がまたそう言った。

 気付くとダンブルドアがすぐ目の前に立っていて、セブルスは無意識のうちに押さえていた腕から手を離そうとした。しかしダンブルドアは大きく皺の多い手で、セブルスの手の上から印のある場所を覆った。

「印は残さずとも、儂も君の側にいる。常に」

 腕の痛みがすっと消えた。代わりにダンブルドアの手が触れた部分から、全身に仄かな温もりが広がる。セブルスは唇を噛んだ。簡単に認めてしまうのは、あまりに悔しい。しかし確かに、ダンブルドアの手がセブルスを安心させたのだ。

「……昔、ある教師が儂に言葉をくれた。“純粋に知識を愛する者は、それが汚されることを望まない”と。儂には、君がその言葉にふさわしい人物だと思えるのじゃ」

 ダンブルドアは眼鏡の奥にある目を細めた。

「……その教師というのは?」

 ダンブルドアは答えなかった。その瞳は学生時代にセブルスが良く見た、悪戯っ子のような輝きを宿していたが、不思議と不快ではなかった。

「その人はこうも言われた。“正しい人材を、正しい所に適用せよ”。君を受け入れよう、セブルス。1つ条件を付けて」
「条件?」
「リーマスのために、脱狼薬の研究をして欲しいのじゃ」

 食えない爺だ、とセブルスはそう思った。一体何を知っていて、何を知らないのか。

「……分かりました。尊公はいずれ、私を受け入れたことを後悔するかもしれませんな」

 セブルスは冗談のつもりで、真剣に言葉を向けた。しかし今度は、ダンブルドアは笑わなかった。この部屋にセブルスを迎えてから、ダンブルドアは初めて暗く翳った瞳をしてみせた。そしてしわがれた老人のような声で――当然のことなのだけれど違和感があった――言った。

「それはないじゃろう。儂はすでにリスクを覚悟しておる。様々な所での」

 ダンブルドアの言葉に同意するようにして、止まり木でまどろんでいた不死鳥が小さく鳴いた。セブルスは何も言い返すことができなかった。嘘でも犠牲者は出さない、とそう言うと思っていた。そして出したとしても最小限に抑えようとするだろうと。しかし先程の言葉には、多くの犠牲者を――または大きな犠牲を――払うことはすでに諦めているという意味が含まれてはいなかったろうか。それがこの戦いなのだ。セブルスは初めてそのことを実感した。ダンブルドアでさえ、暗黒を打ち破るには力足りない。

 また、しつこく腕の印が痛んだ。

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