Requiem−Sanctus
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弔鐘
その日は早朝から青い空が眩しく、冬の遠い太陽は暖かさこそ物足りないものの輝きは十分だった。イギリスの森は木々の背が高いが、その葉の間を通って、太陽の光がスポットのように道を点々と照らした。道といっても獣道のような細い道で、セブルスはそこを早足で通り抜けていた。時折下草にローブが絡む。何度かそういうことがあって、セブルスはとうとうローブを脱いだ。乱暴に丸めて腕に抱えると、また早足に歩き出す。まだ朝靄に霞む森の中。この道を通るのは初めてではないが、やけに目的地に着くのが遅いような気がしていた。
風のない日だった。木々は葉をこすり合わせるようなこともせず、ただ黙ってセブルスを見下ろしていた。朝靄は急ぐセブルスの髪や肌に張り付いてくる。早足は段々と駆け足になった。本当は目的地まで魔法で飛ぶことも考えたのだが、“誰かがそこにいる”ということを悟られてはいけない。敵はまだいるのだ。それが恐ろしいものではなくても煩わしいことだけは確かで、今はそんな面倒を起こしている場合ではなかった。
軽く息が上がる。こんな仕事をこなすようになって多少体力はついたが、今息が上がっているのは体力の問題だけではない。運動とは別の力で、心臓の活動が活発になっている。靄が雫に変わってセブルスの額から流れ落ちた。突如として朝靄に煙る視界が晴れ、空にぽっかりと穴が空いた。木々の葉陰が途切れ、それまでの何倍も大きなスポットが崩れかけの――セブルスにはそう見える――小屋に当たっていた。朝靄がセブルスの額を露となって流れたように、小屋の表面も雫が張り付いて、それが朝日に当たってきらきらと輝いていた。ほっと息をつきたくなるような光景だ。他に何も、セブルスを急き立てるものがなければ。
セブルスは小屋の入り口に立って、ひとつ息を吸った。少し湿っぽい、柔らかな冷たさをもつ空気が肺に入る。そしてセブルスは軋む戸を開けた。首をひとつ廻らせるだけで見渡せる小屋の内部。簡素なベッドが1つ。ベッドの上には脱ぎ散らかされたままの服が一人分。椅子と机が1つずつ。扉が1つ。ここはトイレだろう。そして流しがある。料理をしている気配は窺えなかったし、食器も机の上に置かれたコップだけのようだった。すべてがセピア色の領域。暖炉はあったけれど、薪はくべられていなかった。以前訪れた時には、その歪んだ椅子の上に男が1人座っていた。今日は男の姿はどこにもない。セブルスは床を眺めた。ベッドの脇に、地下へ通じる扉があり、魔法がかけられていることに気付いた。セブルスは「アロホモラ」を唱えると、少し緊張気味に扉を上げた。
木製の階段が地下へ伸びている。しかし暗くて、段が初めの数段しか見えない。セブルスは杖を持ったまま地下へ降りた。ひんやりとした地下は、小屋の建築に比べて不釣合いなほど堅固なものだった。
「ルーピン。ルーピン! どこにいる?」
石造りの地下で、セブルスの声は大きく響いた。セブルスは反応するものを見つけようとしてじっと闇の中を見詰めた。すると右隅で何かがもそりと動いた。微かな布擦れの音がして、青白い何かが闇の中に浮かび上がった。
「……ここだよ。どうしたんだい、セブルス。そんなに慌てて……」
頭を振るようにして動かしたリーマスは、ローブを体に巻いて床の上に転がっていた。掠れた声が小さく響く。セブルス自身は慌てている様子を声に出していると思っていなかったので、リーマスの反応に眉を顰めた。こんな疲れきった相手に悟られてしまうほど露骨だっただろうか。憮然となったセブルスは転がっているリーマスに近づいて床よりも冷たく言い放った。
「起きろ」
いつもセブルスは暴君だったが、リーマスはそれに素直に従うほど愚民ではなかった。それでも根が素直なのでできれば従ってやりたかったのだろうけれど、今のリーマスは膝を折って座ることが精一杯だった。
「……悪いね、体調が良くなくて」
見れば分かる。セブルスはそう思った。ぼろぼろのローブを掴む腕の傷。痩せこけた頬。何より闇の中に浮かぶその顔色。どんなに鈍感な奴だって分かる。だからこそセブルスは大丈夫か、何て下らない問いはしない。最もこんな顔色でなくとも、この相手にそんな言葉をかける日は永遠に来ないだろう。
「薬は飲んだのだろう」
ダンブルドアに命じられて作っていた脱狼薬のことだ。まだヴォルデモート側にいた頃――今でも形だけはあちら側なのかもしれないが――一応数人の人狼に与えて成功を見た試薬だった。それをリーマスに渡していたのだが、とても苦い薬なので目の前の男が嫌煙して飲まなかった可能性もある。しかしセブルスの考えに反して、リーマスは素直に頷いて見せた。
「うん。でも、すごく体力を消耗するんだよ」
苦笑するリーマスにセブルスは眉を顰める。そんな症状、以前のサンプルは見せなかったはずだ。
「……何日だ」
「何?」
本当に伝えねばならないことを先延ばしにしている。とセブルスは冷静に分析していた。これも訊かなければならないことであるが、優先しなければならないのはどちらかと問われれば、当然こんな問いではない。それでもセブルスは質問を続けた。
「いつも変身後何日くらい体調が戻らない」
訊くと、リーマスは何故か非常に申し訳なさそうな顔をした。この感覚が、セブルスにはどうも理解ができない。副作用が出るのはサンプルのせいではなく薬のせいだ。それは薬を作ったセブルスの責任でもある。それを何故、あたかも自分のせいであるような顔をするのだろう。
「……6日、くらいかな」
子どものように指折り数えたリーマスに、セブルスは頭を殴ってやりたくなった。
「馬鹿者! 何故早く言わなかった!」
頭越しに怒鳴るセブルスに、リーマスは身を竦ませた。
「え……、こういう薬だと思っていたから……」
「効き目もなかったのだろう」
セブルスが問い詰めると、リーマスは視線を泳がせた。
「そんなこと……」
否定すること自体が間違っている。傷つけたくないと思っているのなら大きな勘違いだ。どうしてそういう思考をするのだろう。きっとリーマスのことは、一生理解できないに違いない。人狼であるということは関係なく、きっとリーマスはセブルスにとってずっと人外的存在なのだ。
「はっきり言え。意識はあったのか」
多分、またリーマスは否定しようと口を開きかけた。しかしセブルスの鋭い瞳に会って出しかけた言葉を呑み込んだ。
「……ほとんどなかった。すごく断片的に……」
まだ申し訳なさそうな顔をしてリーマスは答えた。その答えに、セブルスは思わず大きく舌打ちした。リーマス変化時期と、正確な月齢とに多少のずれがあることは知っていた。ヴォルデモートの元にいたサンプル達の月齢との誤差平均からも、リーマスの変化時期は外れている。それでもセブルスの計算では元の薬でカバーできるはずだったのだが。
「貴様の体には合わなかったのだ。やはりまだ汎用性はないな……」
何か別の調合を考えなくてはならないかもしれない。あの薬はこれ以上改良の余地はない、とセブルスは考えていたのだ。
「セブルス、他に何か用があったわけではないのかい?」
その一時だけは本当に薬のことに気をとられていたセブルスだが、リーマスの不思議そうな声に我に返る。リーマスは壁に手をついて立ち上がろうとしていた。まるで節々が錆付いているかのような、ぎこちない動き。セブルスは腕に抱えていた自分のローブをリーマスに投げた。そしてさっと身を翻す。
「……昨晩から今まで、ずっと眠っていたのか」
セブルスは先に階段を上って小屋へ戻った。リーマスはセブルスのローブを自分のローブの上から羽織ると、のろのろと後についてきた。
「まぁ、気絶していたと言った方が正しいけれど」
よっこらしょ、と掛け声をかけながらリーマスは最後の段を上り終えた。ローブの裾から覗く足には、血が固まって見えた。リーマスは重い足取りでベッドへ向かい、放ってあった自分の服を手にする。セブルスはリーマスが着替えている間に、リーマスには背を向けて、懐から紙束を取り出していた。
「セブルス、ありがとう」
リーマスがローブを返してきた。手の甲に引っかき傷。頬にもあった。セブルスはそれを見ないふりをした。そうする理由はなかったけれど、そうしてしまったのだ。
「見ろ」
そう言ってセブルスは懐から出していた紙束をリーマスに突き出した。何も知らないリーマスはそれを受け取ると一番外側を裏表して眺めた。一回裏返し、もう一回裏返す。リーマスの手はそれで止まった。次には大きく目を見開いて、食い入るようにその紙に書かれた文字と、載せられた写真を見詰めた。
その時ずっと目を逸らしていたセブルスの目の端に、リーマスの手が写っていた。傷のある手が小刻みに震えると、その表面が赤く変化し、最後には真っ白になった。
「……セブルス。これは、何?」
セブルスは溜息をついてようやくリーマスを正面から見詰めた。リーマスが混乱していることはその表情からすぐに伺い知れた。
「記事の通りだ。……ポッターが死んだ。エヴァンスもな」
セブルスがリーマスに渡したのは、「日刊預言者新聞」の号外だった。「暗黒の時代は終わった!」という大きな見出しの下には、英雄ハリー・ポッターのことが書いてある。そしてその記事の中に、小さく「英雄の両親は子どもを守るために死んだ」と書かれていた。大きな写真は、燃え尽きたジェームズとリリーの家だと記されていた。
「そ、んな馬鹿な。だってシリウスが秘密の守人に……」
手元の新聞を握って潰しながら、リーマスは首を振った。セブルスがここですべきことは、ただ真実を告げることだけだった。
「まだ情報が交錯していてはっきりとしたことは分からん。ただ、確かにポッター達は死んだ。ヴォルデモートも退いた。生きているのは、ポッターの息子だけだ」
それを聞くと、リーマスは新聞を床に叩きつけてセブルスの脇を通り抜けようとした。セブルスはその腕を掴んで引き止める。
「どこへ行く」
リーマスは身を捩りながら返した。
「ダンブルドアの所へ。シリウスも捜さないと。何かの間違いだ、こんな事……」
その時、小屋の窓にこつこつと何かが当たる音がした。セブルスが窓を見ると、そこにはセブルスのミミズクが羽ばたきながら窓が開けられるのを待っていた。丸められた口には紙束を咥えている。
「……必要ない。続報だ」
そう言うとリーマスの抵抗する力がなくなった。セブルスはリーマスの腕を放して窓に歩み寄って開けると、窓枠にとまったミミズクから続報を受け取った。そして丸められた紙を広げてさっと目を通す。
セブルスは表情には何も出さないように注意した。自分が一通り読むと、それをそのままリーマスに渡す。しかしリーマスは差し出された新聞を受け取ろうとしなかった。
「……何だい?」
嫌な予感でもしたのだろう。リーマスは新聞を読まないでセブルスの口から聞かされることを望んだ。
「……ブラックが逮捕された。マグル12人と、ピーター・ペティグリューを殺した凶悪犯としてな」
ガタン、と音を立ててリーマスはその場に座り込んだ。セブルスは新聞を床に落とす。リーマスの目には「ヴォルデモートの腹心逮捕される!」という見出しの記事が載っていた。大きな写真に写るのは、巻き込まれたマグルの惨たらしい死体と、その陥没した道の中心で大きく口を開けるシリウスの姿だった。シリウスの体は細かく痙攣している。哂っているのだ、と気付いたとき、リーマスは耳を塞いだ。まるでその声が聞こえているようだ。
「嘘だ! そんな……ピーターまで。嘘だよ。シリウスがジェームズを裏切るなんて!」
「ルーピン!」
セブルスは耳を塞ぐ衝動的にリーマスの片手を掴み上げた。耳を塞ぐことは許さない。ここで立ち止まることは許さない。セブルスはこの時そう思った。
「止めてくれ! 僕は信じない!」
必死に現実を否定するリーマスに、セブルスはかっとなって掴んでいた腕を引っ張った。
「ダンブルドアの言葉なら信じるのか! 来い! ここで否定していても何も始まらない!」