Requiem−Communio
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牢獄
最初は耳について離れなかった叫び声も、嘆きの声も、いつしか聞こえなくなっていた。少し前には――いや、かなり前なのかもしれない――おかしな服を着た、同じような顔立ちの男達が骸骨のような囚人を連れて格子の前を行き来していたが、最近ではそんな姿も見かけなくなった。連れられていく男達は皆、自分と同じ服を着ていたからきっと囚人だったのだろうと男は思っている。そいつらは皆だらしなく口を開き、涎を口の端から垂らして、どこも見えていない目でただ引き摺られるようにして格子の前を通り過ぎていった。そうなった囚人達は誰一人として、格子のこちら側に目を向けることはなかった。
もう何年ここにいるだろう。そう思うことが度々あった。しかし牢に転がっていた石の破片で壁に刻む数は、男がここに入ってまだ2週間と経っていないことを教えてくれていた。そして壁にはさらに“Sirius”という星の名前が刻まれている。その文字を見て、男は格子のはまった窓から外を眺めた。小さく区切られた空に、一等強く輝く星がひとつ。夜になったことを知って、男は石の破片でまた壁に傷を1つ付け足す。吹きさらしの窓から冷たい外気が入り込んでくるが、もう慣れてしまった。しかし別のことを思い出し、男は体を震わせ、まるで貝のように体を縮めて硬くすると牢のすみに寄った。
夜になると奴らが飢えてくる。牢の前をうろつく黒い影。男が眠って、何か幸福なことを夢見ることを願っている。そしてその幸福を喰うのだ。男はもう随分多くの幸福を吸魂鬼に喰われてしまっていた。
ここは世界で一番残酷な牢獄だった。すべてから切り離され、格子のはめられた場所で己の犯した罪を思いながらも過去の幸せを夢見る。普通の牢獄なら、これくらいのことは許される。そしてそれは囚人にとって一番の救いになるのかもしれない。しかしここは本当に残酷な牢獄だ。過去の幸福を見ることさえ叶わない。それが大切だからこそ、奴らに喰われて消えてしまうことを恐れる。結果として囚人は夜も眠れず、夢さえみないくらいに疲れてからやっと眠る。そうしてひとつ、ひとつと思い出を消していく。耐えられなくなった者は、制服を着た男達に引き摺られて、牢の前を通り過ぎていく。それからどうなるかなんて分からない。どうせ引き摺られて歩いているように見えても、そうなった囚人はすでに死んでいるのだ。
死――。
それを想っても、男は身震いすることはない。ここでは、死は救いでしかない。本当の恐怖は別にある。身を震わせる恐怖は別に。逃れるのは簡単なことなのだ。唯一の救いである死を受け入れれば良い。個としての死を。自分の存在をこの世界から消してしまえば良い。こうしてここで幸福を奪われ、罪を断罪し、罵詈雑言を吐く知人達の幻覚に涙することだけが続くのなら。
しかし男にそれはできなかった。男は死を受け入れるという救いを望まない。救いなど望まない。罪の所在は確かに自分にあるけれど、それを断罪できるのはこの世には2人しかいない。自分はその中に含まれてはいないのだ。この命は、自分のものではなかった。だから守らなくてはいけない。いつかこの命を裁く人のためにも。
「シリウス」
囁くような呼びかけに、男は咄嗟に身を固くした。幻聴だと思った。そしてその幻聴が聞こえる時、いつも近くにあの看守達がいるのだ。側にいるだけで身の凍りつくような、恐怖そのものが。
「……シリウス」
何かが違う、と男は思った。幻聴にしては、その口調はあまりに理性的だった。ここに入ってすぐに聞かなくなった類の声だ。牢に入った者は皆すぐに理性という言葉を失って、狂気という言葉を会得したからだ。男も狂気の中にいた。現れる悪夢や、幻覚の中の人間の方がよほど理性的だった。
男はのろのろと顔を上げた。膝はまだしっかりと抱えたまま。そして上げた視線の先にはぼんやりと発光する影が立っていた。その形はよく男の前に現れる、断罪する親友や泣きながら詰るその妻、そして嘲笑う裏切り者とは違うようだった。
「……リーマス?」
その名前と顔がよく結びつかなかったが、男は意識するよりも先にその名前を口にしていた。幻の中の彼はいつも何も言わず、泣きも、怒りもせず、ただ男を見詰めているだけだった。その様子に、男はいつも深く打ちのめされた。何故何も言ってくれないのか。罵詈雑言を浴びせかけてくれた方が、どんなに良かっただろう。
「リーマス……」
男は頭を抱えて、もう一度幻に呼びかけた。
コツリ、と音がした。靴音だ。男は驚いて顔を上げる。幻はいつも靴音なんてさせなかった。亡霊のような看守達も同じだ。靴音が聞こえるのは、囚人を連れてくる制服の男達だけだった。
視線を上げると、男の前にいたのはひょろりとした体つきの若い男だった。ほう、と溜息を漏らしたその若い男は、最初に見たときよりも薄い光を身に纏っていた。
「……シリウス、君はもうリーマスの声を忘れてしまったのか?」
男は断片的になってしまった記憶を辿った。やがて奇跡的に目の前の若い男と、過去の記憶にある人物が一致した。男は目を見開いた。光はさほど眩しくなく、恐ろしい看守達が側にいるときと反対に、男は周りの空気が暖かく感じられた。
「……先生? グリス先生?」
幾分自信がなかった男は、おずおずとその名前を口にした。すると若い男は、まるで質問に正しく答えた生徒を褒めるように優しく微笑んだ。
「そうだ。思い出したかい?」
男はこくりと頷いた。しかし正直、男にはリオンの声がどうしてもリーマスの声に聞こえていた。リオンが声を発するたびに、その顔にリーマスの影が重なった。それははっきりとしない影で、男はそれを悲しく思うことさえできなかった。
「先生……どうしてここに? ディメンターが見張っているのに」
牢の格子をすり抜けることは魔法を使えば難しいことではない。過去の教師は黒く輝く杖を手にしていたし、本来なら牢に格子など必要ないのだ。看守達は自在に物質をすり抜けるし、囚人達はこの孤島から抜け出すことはできない。格子よりも大きな障害、吸魂鬼――ディメンター――がいるからだ。
リオンは軽く杖を持ち上げて微笑んだ。そして格子の外を窺うようにして首を巡らせる。男はその動作に身震いした。自ら格子の外を覗くような真似は、もう男にはできなかった。
「私には優秀な守護霊――パトローナス――がいるのでね」
リオンは格子の外を眺め、満足そうに頷いた。その姿は神にも似た力強さと優しさを感じさせた。男は牢の隅から這うようにしてリオンの足元に移動した。この世界で一番残酷な牢獄に、死以外の救いが現れたのだ。男はその救いに縋るようにして、リオンのローブの裾を掴んだ。
「先生……ジェームズが。リリーも。俺のせいで……」
リオンは男にその先を言わせようとしなかった。
「シリウス、君は彼らを助けるために動いた。誰よりもね。例え君の判断が彼らの死を招いた一因だったとしても、君がここに閉じ込められ、これほどの苦しみを受ける理由にはならない。彼らを殺したのはヴォルデモートだ。そしてそのために動いてしまったのは、ピーターだよ」
頭を下げて薄い唇を噛みながらリオンの言葉を受け止めようと努力していた男はしかし、流れていく慰めを心に留めることはできなかった。ただ最後に呼ばれた兎の名前にだけ過剰に反応すると、そのこけて疲れきった顔に初めて怒りの感情を迸らせた。
「……そうだ、ピーター! あいつだけは許さない。必ずここを抜け出して、あいつを殺してやる!」
歯を獣のようにむき出して、男は叫んだ。リオンは男を黙って見詰め、その瞳の暗い輝きに小さく溜息をついた。
「……シリウス」
静かに、少し咎めるように星の名前で呼びかけられて、男はびくりと身を竦ませた。怒りと恨みと、そしてどうしようもなく深い喪失感がない交ぜになって高ぶった男の感情は、起伏の乏しい声によって易々と抑えつけられた。
男はしかし、僅かな希望をその瞳に宿してリオンを見上げた。男の見上げた先にある顔はリオンのもので、しかし男の脳は先程の声とリオンの顔を一致させない。狂っているのだ、とたいした実感もなく男は思った。
「先生……、どうして尊公の声がリーマスの声に聞こえるのでしょう」
不思議に思った男が問うと、リオンは寂しそうに、憐れみの眼差しを男へ向けた。
「それは君が、リーマスの本当の声を忘れてしまったからだろう。思い出しなさい。彼の声は私の声よりも少し高く、より静かに響く」
男は命じられるままに目を閉じて愛する人達の声を思い出した。男が幸せだった時の思い出を断片的に拾い出していっても、それを喰らい尽くす恐ろしい看守達は近づいてこなかった。
男は自分を責める幻の声ではなく、本当の友人達の声を次々と拾い出していった。それは二重の意味で男の胸を締め付ける行為だった。本当の声を取り戻す喜びと、その声を永遠に失うことになった自分の過ちが同時に男に襲いかかった。男はそれでも黙って目を閉じ、友人の顔と声を一致させていったが、肝心のリーマスの番になって、男の思考は停止した。幻のような顔は、確かな記憶へと変わった。しかしその顔を動かして言葉を紡がそうとしても、リーマスは口を開くだけで声を発しようとしなかった。
「……思い出せません。リーマスの声だけが思い出せない」
男は諦めて目を開いた。救いを求めてリオンを見上げると、リオンはそのまま腰を落とし、男の正面に顔がくるようにして見詰め合った。
「……シリウス、君は何故リーマスを疑った?」
決して断罪する響きはなかったけれど、リオンの澄んだ瞳が近すぎて恐ろしくなり、男は震えながら視線を逸らした。
「それは……愚かでした。リーマスが、リーマスが俺を頼ってくれなくなったから……。ジェームズ達を守るためにリーマスが選んだ道を、俺は理解してやれなかった」
俯いた男の竦められた肩に、リオンの手がそっと添えられた。
「もし君が、ここに閉じ込められて苦しみを受けなければならない理由があるのだとしたら、それはジェームズ達が殺されてしまったことでも、幼い名付け子から両親を奪ってしまったことでも、ピーターの裏切りに気付かなかったことでもない。リーマスを1人にしてしまったことだよ」
その言葉にはっとなり、男は顔を上げた。また目の前にリオンの澄んだ瞳が現れたけれど、今度は男が顔を逸らすことを許してはくれなかった。そういう輝きを持って、リオンの双眸が男を見詰めていた。静かな青い炎に焼かれているイメージが、男の頭に浮かんだ。
「昔、何故君達はリーマスの手をとった? 彼を1人にしないためではなかったのかい? リーマスは今1人だ。君が牢獄にいるように、世界がリーマスの牢獄になってしまった。2人の友を死で失い、残った1人は彼らを殺したとして投獄された。いつかはディメンターに狂人にされてしまうだろうと思っている」
「俺は……」
引き攣った喉に、男は一度言葉を切った。青い炎のイメージは、傷つけるためというよりも、何かを治すために男の身を焼いたように思えた。
「俺は、狂いはしない。外に出て、しなければならないことがある。ピーターを……」
うわ言のように呟いた言葉に、男は唐突に自分が既に狂い始めていることを自覚した。あるいは自覚してもそれを止められないことこそが狂気の証なのかもしれなかった。
「シリウス、何故リーマスの声だけが思い出せない?」
「分かりません。先生、俺はもう狂っているのかもしれない」
男がついに告白すると、リオンは黙って首を横に振った。
「ディメンターが君の幸福を奪っていった。皆の笑顔も、温もりも」
「……リーマスの声も?」
恐る恐る加えた回答に、リオンは優しく微笑んでくれた。
「取り戻しなさい。彼の声の響き。彼が君を呼んでくれたとき、君が何を想ったのか」
男の肩に添えられていたリオンの手が、淡い光を纏ったまま男の瞼を閉じさせた。目を閉じてもその青い炎が見える。それはとても美しい光景だった。男は自分がどこか別の場所に来ているような錯覚に襲われた。風の音が聞こえる。それに撫でられ、体を撓らせる植物の姿。上を見上げると、雲がレースをしているように次々と流れていく。
男の隣には眼鏡の少年が、くしゃくしゃの髪をそれぞれ別の方向に揺らしながら横たわっていた。
僕、リーマスの声好きだな。
名前を呼んでもらっただけで嬉しくなるんだよね。
少年はそう言って、本当に嬉しそうに微笑んだ。
君、恥ずかしいこと平気で言うよな。
そう返したのは、姿の見えない誰か。
何が恥ずかしいのさ。君だって好きだろ? シリウス――。
からかう様な少年の瞳。そして最後に呼ばれた星の名前。旅人の道しるべとなる一等星。
「シリウス」
耳元で響いたのは静かな、そして柔らかな強さを含んだ優しい声。その声を聴いた途端、男は脳天から一直線に心臓を打ち抜かれるような衝撃を受けた。リオンはそれを敏感に察知し、男の目を覆っていた手を外した。
「……先生、今、俺を呼びましたか?」
男は呆然としていた。信じられない夢を見ているような顔だった。リオンは緩やかに首を横に振った。
「いいや。何が聞こえた?」
「声が」
「私の声が?」
そう尋ねられて、男はしばらく逡巡した。衝撃を受けたのは何故だったのか。リオンの声を勘違いしただけなのか。男はかつて牢の外では常にしていたように、素早く答えを組み立てた。そして自信を持った、はっきりとした理性的な声でリオンに答えた。
「……いいえ、いいえ。リーマスの声です」
言い切った男は気付かなかったけれど、その口調も、声量も、かつての彼のものだった。
「君の名を?」
「はい。……俺はリーマスの声が好きだった。ずっと側で、あの声を聴いていたかった」
こんな場所に来て初めて気付いた真実に、男は正直戸惑っていた。それが真実だったのなら、男は後悔しなければならないことが増えてしまうのではないだろうか。
それを指摘したのはリオンの方だった。
「彼がジェームズ達のために離れていった時、君は寂しかったのだろう?」
あぁ、と男は息を漏らした。
「そうです。疑うなんて、愚かなことだった。俺はただ子どもみたいに……。気付いた時にはもう遅かった。何もかも」
男は身を2つに折って額を牢屋の床に着けた。そして両手で頭を抱える。子どもだった。寂しいという気持ちを隠して、もっと“大人”としての理由付けをしたかっただけなのだ。色々な理由を付けてリーマスを疑った。弱かったのだ。
床に頭を打ちつけかねない男の様子を見て、リオンは男の背を撫でた。呪文を刻むように、上から下へ、時折軽く叩いてリオンは言葉を紡いだ。
「遅くは無い。過ぎたことは戻りはしないが、これから出来ることもたくさんある。その時が来るまで、生きなさい。どんなに心荒れても、死を撥ね退けるのだ、シリウス。君の名を持つ星と同じように。リーマスも生きるだろう。空のシリウスを見て」
その時になって初めて、男は壁に刻んだ“Sirius”という星の名前が自分の名前であったことを思い出した。この牢に入ってすぐ、こうして自分の名前さえも忘れることを恐れて刻んだ自分の名前。
頭を上げると、牢の窓から輝く星が見えた。その光は満月よりも強く、大きく見えた。
あれが、俺の星。
呑み込んだ息と一緒に、何かがシリウスの体に入り込んできた。それは青白い星の輝きに似た、生きるための糧であり、魂そのものだった。シリウスは痩せた自分の手を見詰め、ゆっくり握り締め、そして開いた。それはシリウス・ブラックの体だった。そして、内に光るものはシリウス・ブラックの魂。これをシリウス・ブラックから奪うことができるのは、この世でたった2人だけ。
死ねない――。
シリウスはその事実に歓喜した。
リオンはシリウスの喜びに気付くと、すっとシリウスの背から手を外し、静かに立ち上がった。そしてそのまま牢の格子へと歩いていく。シリウスは慌ててリオンの後を追った。喜びが一気に吹き飛んで、また大きな不安が襲ってきた。
「行かないで下さい、先生。またリーマスの声を忘れてしまう」
ローブを掴むと、リオンは立ち止まった。そして不安がるシリウスに背を向けたまま、しばらく何かを考えていた。
「君がそれを大事にしたいのなら、こうしよう」
リオンはそう言って振り返ると、黒い長めの杖を振った。そうすると、何もなかった宙に金色の小さな鍵がひとつ浮かんだ。リオンが手を添えると、それはリオンの手に持ち上げられるようにして上へ移動した。しかしリオンの手と鍵の間は空いており、鍵は完全に宙に浮いていた。シリウスは同じ魔法使いでありながら、その魔法に見惚れた。リオンはシリウスの胸の前にその鍵を持ってきた。そしてまるで催眠術師のような声で言った。
「ディメンター達に汚されないように、リーマスの声だけは、君の中の奥深くに蓋をして、鍵をかけて守っておこう。シリウス、いつかここを出て自由になったら、君は鍵を開けてそれを思い出すことができるだろう」
シリウスの目の前で、リオンの掲げた鍵はシリウスの胸の中へ吸い込まれていった。
カチャリ。
男は格子の前に来ているディメンター達に驚いて、牢の隅へと逃げた。ディメンターが近づくと外気よりも気温が下がる。男は両膝を抱えて、顔を埋めた。夢を見てはいけない。ディメンターに餌を与えてはいけない。男はそう思い、何も考えないようにした。
ふと視線を上げると、壁には“Sirius”という星の名前。男は口を歪めて笑った。ディメンターという恐怖と戦いながら、男はただ自分の内にある消えることのない生だけを見詰めていた。