Chapter 2-2 : 雨中の進軍
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レンヌはリフェルに手を引かれ、入り組んだ王宮内を上へ上がっていった。グーイが後ろから跳ねながらついてくる。
「ここよ。私の部屋の一つだけど、我慢してね」
リフェルは重厚な扉を開けた。海に面した部屋は、女性らしい淡い色で統一されていた。
従女らしき女が部屋を整理していたが、リフェルに何事か頼まれると、一礼して部屋を出ていった。レンヌは窓に歩み寄り、荒れる海を眺めた。ずっと森で暮らしてきたレンヌにとって、海はいつも不思議な感じがしていた。
「今、着替えを持ってこさせるわ」
「着替え?」
「えぇ、下の服はまだ濡れているでしょう?」
足元でじゃれつくグーイを、レンヌは抱え上げた。大雨で、荷物の中の白いドレスも濡れてしまい、着替える服がなかったのである。
「服は…このままで良い」
下手に男の服を着るわけにはいかないのだ。レンヌは体が小さいし、肩幅も合わない。ローブで隠してしまえば分からないだろうが、動きづらくて困る。
「…レンヌさん、貴方女の子でしょう」
このリフェルの一言で、レンヌは呆気にとられてしまった。
「…どうして?」
「おかしいと思っていたの、サフォム殿が貴方をレンヌちゃんて呼ぶの。でもウィズは貴方のこと女だと思っていないみたいだし…。貴方の声、男の人の声にしては高いわ」
「声は…元々高いだけだ」
「女だからでしょ、元々高いのは。心配しないで、ウィズ達には黙っておくわ。女の子が男の人と一緒に旅をするのは危険だものね」
何が危険なのか、レンヌには見当もつかなかった。
確かに私の姿を無闇に見るのは危険だけれど…。
「サフォムといて危険なことは無かった」
「サフォム殿は大人だもの」
やはり、人間はよく分からない、とレンヌは思った。エルフも同じだった。男と女。その関係が複雑すぎて。
部屋へ入ってきた従女が、白い服を持ってきた。レンヌが当初心配していた大きな男物ではない。細身の女物の服だった。
「着れると思うわ。レンヌさんの方が背が高いけど。この服、私には大きくて困っていたの」
絹の布地に薄布。確かに彼女には大きいようだが、レンヌにも丁度良いという大きさではなかった。リフェルとレンヌの体とには決定的な違いがあるのだから。
「はい。着替え、手伝いましょうか?」
それは困る、とレンヌは首を激しく振った。
「そう?それじゃあ、隣の部屋を使って。鏡もあるから」
殆ど強制的に、レンヌは隣の部屋へ送り込まれた。抱いていたグーイも、リフェルに回収されてしまい、レンヌは白いドレスを手にしたまま、姿見と向き合っていた。
ローブを脱ぎ、下の方で結ってある髪を解くと、鏡台に置いてある櫛を手にした。透けるように薄い色素の髪を梳くと、鏡にちらちらと反射した。少し躊躇してから、レンヌは服を脱いだ。そしてリフェルに渡された服を着る。丈は丁度良かった。着てみて、レンヌは安堵した。さほど目立つ服ではない。姿見に全身を映し、鏡の中の自分に笑いかける。
「レンヌさん、着替え終わった?」
足元で騒ぐグーイに負けて、リフェルは部屋の扉を開けた。グーイは開けきらぬ扉の隙間から、毛で覆われた身をよじらせながら入っていった。苦笑しながら、リフェルは扉を開け放った。
「レンヌさん、どう?その服…」
鏡に映る姿、振り返ったレンヌの姿に、リフェルは息を呑んだ。
その時リフェルは天上の美を目にしたのだ。桜色の唇に、人にはあり得ない黒紫の瞳。流れる水のような髪。人であるはずがない。その美貌が。
「あ…」
咄嗟に声の出なかったリフェルに気付き、レンヌはローブに手を伸ばすと、すぐに顔を隠した。今、彼女を傷つけてしまったと、リフェルは直感した。女を隠すためのローブではなかったのだ。あまりにも美しいその姿を、他人に見せることを懸念していたのだ。
「ごっ…ごめんなさい。私…」
口ごもるリフェルに、レンヌは今までの口調を改めた。雨のせいで、陽王の力は弱まっている。
「お気になさらないでください。私の方こそ、今までのご無礼の数々申し訳ありませんでした、王女様。素敵な服を、着せていただいてしまって…ありがとうございます」
純白のドレスは、花嫁衣装にも似ていた。先程までの男性口調とは一変して、優雅で淑やかな女性の口調に、リフェルは驚いた。一つ一つの言葉にでさえ、言えようもない不思議な魅力が宿る。体をすり寄せてくるグーイの頭を撫でるその仕草が、優しく、慈愛に満ちている、。母の温かさを、リフェルは吹き抜ける風の中に感じ、目頭が熱くなった。
「…王女様。本当に申し訳ありませんが、休ませて頂いてもよろしいでしょうか」
「え?あ…そうよね。ごめんなさい、気付かなくて」
こぼれそうになった涙を慌てて拭い、従女を呼ぶと、向かいの寝室のベッドを整えさせた。
「じゃあ、ゆっくり休んでね。ウィズ達には、部屋に入らないように言っておくから」
「ありがとうございます」
リフェルが部屋を出ると、グーイが鳴き声を上げながらベッドへ飛び乗った。レンヌもベッドへ身を投げ出した。やはり町の宿屋などとは違い、弾力性のあるベッドはとても心地よく、森で暮らしていた時を思い出す。
「…帰りたい。何もかも、見なかったことにして…」
身を寄せてくるグーイを抱え、布団に潜り込んだ。
「…苦しい…」
呟きは、雨の音に掻き消された。
剣の次は学力テストか、とウィザーズは頭を抱えた。隣にはサフォムもいる。彼の筆はすらすらと動いているようだが、ウィザーズはさっぱりである。乗馬だったら負けないのに、と思ったがそれは禁句であろうか。
「どうした、ウィザーズ。筆の運びが良くないぞ」
「う…」
こんな事になるのならもう少し真面目に学問もやっておけば良かった。だから俺は騎士に成るつもりだったんだ、と思っていると顔に出ているのか、伯父は意地悪な笑みを浮かべている。おまけに遊ぼうとでも言っているのか、グーイが足に体当たりしてくるので余計に気が散る。
「こら、邪魔はいかんな」
そう言って伯父が身を屈め、机の下にいたグーイを捕まえる。内心ほっとしてウィザーズは紙面に視線を落とす。しかし今度は、伯父がグーイの耳をべろっとめくったり、その耳を手の平と親指ではさんでぱたぱたさせたりして遊んでいるのが気になる。
「ウィザーズ、時間がないぞ」
「う〜…」
もしかしてわざと気になるようなことをしているのだろうか。それとも、そんなことで集中できない自分がいけないのだろうか。
「陛下、終わりましたが」
「タイムアップ。ウィザーズ、用紙を」
グーイがいなかったにしても、大体同じ条件の中で問題を解いていたサフォムが終わったという事は、やはり自分がいけなかったらしい。精進せねば、とウィザーズは心の中で呟いた。
「どうしてこんな事までするんですか、伯父上」
集中力をつけるため、またはただ単に学力レベルを見たかったためなのか。伯父の答えはこうだった。
「私が暇だからだ」
「は?」
この伯父を基準にして理想の国王像を造り出すのは間違いだと、ウィザーズはこの時本気で思った。
「そう言えばウィザーズ。これで遊んでいないようだが知らないだけか?」
伯父は膝に乗せたグーイを指さす。サフォムは問題が終わったというのに、隣で何かせっせとしたためていた。
「グーイとではなくて、グーイで?」
「あぁ、これを掴むと…」
撫でられて気持ちよさそうに円らな瞳を細めていたグーイが、急に両耳を根元から掴まれてびくっと目を見開く。次いで淡い光が体を覆うと、その形が変化した。
「これはこれは…」
サフォムも一部始終を見ていたようで、驚くウィザーズを尻目に笑っている。
「この種族は危険を感じると目の前にあるものに変身する習性がある。どうだ、面白いだろう?」
「はたから見れば面白いですけど、自分に変身されたら良い気分ではありませんね」
サフォムは呑気に笑うが、現に自分に変身されたウィザーズは不快絶頂である。
「おや、なかなか使えるのだぞサフォム殿。喋りさえしなければ身代わりにも出来る」
それは伯父の経験上そう言っているに違いないと、ウィザーズは思った。確かに便利そうだが、慣れるまでは何とも言い難い。それに変身したままの姿で伯父の上に乗っている。気味が悪いとしか言いようがない。
「失礼いたします、陛下」
「どうした?」
「はっ、カトラス様のお連れ様がつい先程お着きに…」
「セイとバルドが!」
ガタリと音を立てて立ち上がったウィザーズを、変身したグーイがなにやら嬉しそうに見つめる。
「グーイ?グーイ!」
喋らなければ、というのはこういうことらしい。言葉はそのままなのだ。
「ああ!遊んでるんじゃない!何で変身した途端そんなに早くなるんだ?追いかけっこしているんじゃないぞ、グーイ!」
遊んでくれるのだと勘違いしたグーイが、たったかと走り去っていく。さらにそれをウィザーズが追い、伯父もサフォムを促して立ち上がる。
「あ、陛下。この手紙を信頼できる者に届けていただきたいのですが」
先程したためていたものを取り出すと、国王は従者に促した。従者はサフォムの手からそれを受け取る。
「第三大陸のサントルス王国。バイオス寄りのリールプレス湖沿いに、スターリックと言う男が住んでいるはず。必ず本人に届けて頂きたい」
従者はしっかりと頷いて退室した。先程走り去ったウィザーズを追って、二人もゆっくり歩いていった。
第三大陸のムアストレイにおいて、ウィザーズに関する情報を聞いて回っていたバルドの処へ、ミディクからの使者が辿り着いたのは五日ほど前のことだった。バルドはウィザースの無事を知り、ダークエルフの森にいたセライドに連絡を取ると、二人は使者に従って船に乗り、途中第三大陸の南に位置するテレーズ島を経由してミディクへとやってきたのだ。王城へ着くと先に迎えたのはレンヌだった。無事に合流できたことを喜びながら、バルドの心の中には暗い陰があった。ダークエルフの森で聞いた無翼の天使。古代神族のこと。レンヌは何も知らずバルドに飛びついて来た。セライドは親子を見ながら安堵し、しかしそれでも姿のないもう一人が気にかかって廊下の奥へと目をやる。その視線に気付いて側にいた少女が微笑した。年を聞くのは失礼かと思うが大人びた言葉遣いや仕草のわりには、顔はウィザーズと同じくらいにしか見えない。
「ウィズは呼びに行かせたからすぐに来ますわ。あ、ほら、走って…。あの子ったらあんなにはしゃいで」
あの子、とはまるで母親のような言いようではないか。セライドはますますこの少女の年に疑問を感じてしまった。
「ウィザーズ様!」
バルドが気付いて叫ぶ。
「グーイ!」
「ぐ…?」
走ってきた勢いのままウィザーズがセライドの首に飛びついてくる。一瞬一同が呆然―レンヌは分からないが―とする。真っ先に我を取り戻したのは飛びつかれたセライドだった。
「ウィズ!ど、どうしたんだ?変な叫び声あげて」
「グーイ?グーイ!」
からかっているのだとしたら、これは相当質が悪い。
「ウィザーズ様?…何かおかしなものでも口にされましたか?それとも頭をお打ちになられたとか…」
心底心配するバルドの肩を、レンヌが叩いた。何事かと振り向くと、ウィザーズが駆けてくる。セライドもそれに気付き、再び硬直する。
「ウィズが二人…」
「こぉら!グーイ、何してるんだ!」
息を切らせて、ようやくもう一人のウィザースが皆の元にやってくる。おかしな歓迎にセライドとバルドは戸惑いを通り越して混乱してしまった。しかし、どうやら後から来た方が本物らしい。
「…やっぱりこれ、グーイだったのね」
リフェルは楽しげなウィザーズ、もといグーイを見やった。
「どうやって元に戻すんだよ!こいつ」
「そう急くな、ウィザーズ」
いつの間にか追いついた伯父が、ポンポンと頭を叩くと、グーイが元の姿に戻り、セライドの腕の中に収まる。全員が呆然とする中―これもレンヌを抜かしてだが―伯父だけが楽しそうに笑っている。その後ろには苦笑しているサフォムの姿もあった。
「お父様…またやりましたわね…」
「はっはっは!楽しい再会であろう、ウィザーズ」
「楽しくないですよ…伯父上…」
伯父のおかげで感動のかの字もない再会となってしまった。
「これ以上邪魔はせん。ゆるりと再会を楽しむが良い。リフェル、此処では何だ、何処か部屋に」
「分かっておりますわ。もう、悪戯はしないで下さいね、お父様。さぁ、こちらへどうぞ」
セライドがどうするんだこれ、という視線をグーイに向けているのに気付いてウィザーズはそれを床に置くように言ってリフェルを追いかけた。
「なぁ、リフェル。またって?」
「…前にもやられたのよ…。彼が帰ってきたときにあれを私に変身させてね。危険を感じて変身するから、安心できる相手に飛びつくみたいなのよね。ちなみにお父様は駄目よ。小屋にいるの全部耳を引っ張って警戒されてるわ」
「…何でそんな事…」
「暇なのよ…。縁起でもないけど、戦でも起こらない限りあの人の退屈が治まることはないでしょうね。次は多分チェスよ。延々飽きるまで」
「俺、チェスは全然駄目!」
「そうね、お呼び出しがかかるのはサフォム殿かバルド殿だわ。バルド殿、確かチェスはお得意でしたわよね?」
急に振り返ったリフェルに問われ、まぁと曖昧にバルドが答える。話がよく分からないが以前も延々半日チェスに付き合わされたので今更驚くこともない。どうぞ、とリフェルはドアを開いてドアの傍らに立つ。
「リフェルは?」
「お茶を入れてくるわ。大人しく再会を楽しみなさい」
「私が手伝いましょうか?リフェル王女」
「好きでやっているから、どうぞ楽にしていて」
まだ具合が悪いのかレンヌはすぐ様ソファに座る。サフォムは心配そうにレンヌを見たが、バルドを気にして躊躇する。バルドはレンヌの隣に座るが、セライドとウィザーズは立ち尽くしたままだ。グーイは不穏な空気を悟ったのか、レンヌの方へ逃げていく。その直後、セライドの左手がウィザーズの顔面を殴りつけ、ウィザーズが後ろに大きく倒れ込んだ。
「理由は、分かっているよな?」
とんだ再会の挨拶に、戸惑ったのはサフォムだけだったようだ。
「分かってる。悪かったよ」
「本当に反省しているんだろうな」
「十分過ぎる程な」
「どうだか…」
それでも安心したように微かに笑い、セライドは倒れているウィザーズに手を差し伸べ、掴み返したウィザーズを引っ張って立ち上がらせる。入ってきたリフェルが奇妙な顔をしていたが笑って誤魔化し、セライドの背を押してソファに座った。
「ウィズ、サフォム殿のご紹介は?」
「あ!」
忘れていたのね、とリフェルが非難する。
「頃合いを見計らっていたのですが、そろそろよろしいですか?」
これにはすまなそうにセライドも頭を下げた。
「サフォム=フィギイと申します。バイオス王国の外務官を、していた…ということになるのでしょうかね」
「バイオス王国はカミーラの手に落ちたらしい。レンヌはカミーラを追ってバイオス王国に行って…えっと、サフォムに助けられたんだったか?」
「私がサフォムを助けたんだ。ミディクまではサフォムに送ってもらったが」
「ちなみに今俺の部下に、と誘っているんだ。バイオスを取り戻すまでが猶予期間だがな」
あら、そうだったのとリフェル。サフォムはウィザーズの率直さに苦笑しきれずに複雑な表情を見せる。
「で、私にもお仲間を紹介していただけますか。カトラス王子」
「あぁ。黒ずくめのがセライド。後々にはばれるだろうから言っておくけど、人間じゃあなくてエルフだ。俺がフォリンを逃げ出したときから助けてくれている」
セライドが黙って頭に巻いている布を取った。尖った耳が現れて、サフォムとリフェルが息を呑む。エルフに助けられた人間なんて今まで見たこともない。エルフ自体、目にするのは初めてのことだった。
「もう一人はバルド。昔俺の世話役で今回の件を知って俺を追ってきてくれたんだ。あぁ、ちなみにレンヌの義父でもある」
片腕を無くし城を出たというのは本当のことだったらしく、片方の腕は二の腕から下が全くなかった。
「…お会いするのは初めてですが、お噂はかねがね」
「レンヌがお世話になったようで、申し訳ない」
「ところで、これからどうするつもりなの?ウィズ」
「すぐにでもバイオス王国へ行きたいんだが…。いつカミーラがアゼルと合流するかもしれないし。その前に叩いた方が楽だろう?」
あら、少し利口になったのね、とリフェルがウィザーズの頭を良い子、良い子と撫でる。ウィザーズは複雑な顔をするが、二人が従兄弟であることをであることを知らないセライドには余計に奇異に見える。
「なら兵を貸すわ。何人くらい必要かしら」
「いや、あの女相手では返って被害を広げるだけだと思いますよ、リフェル王女」
「そうですな。それに此処も攻められる可能性は十分にあります。マジェンダ王妃様のご実家とあっては…。このような時に兵をお借りするわけには参りますまい」
「…そうね。お父様でも貸してあげたかったけど、そうなるとこちらに残して置いた方が良さそうね」
「そうしてくれ…。グーイは置いて行くな。それと、ウィグがいないな…」
「さっき外で飛び回っているのを見たわ。彼も預かっておくわね。この雨では邪魔になるでしょう。そのくらいかしら?」
きょろきょろと辺りを見回したリフェルの目が、レンヌに留まった。
「レンヌさん、まだ具合が良くないようだけど、残る?」
嫌々とレンヌは首を振るが、その動作が少しぎこちない。レンヌ、と声を掛けるとまた嫌々とレンヌは首を振るだけ。
「残りなさい、レンヌ」
「嫌だ…。一緒に行く」
「リフェル。この城には魔術師の類はいるのか」
「半数は彼の供で留学先にいるわ。彼も魔術師だけど、呼び戻した方が良い?」
「いや。レンヌ、お前バルドの言う通り残れ」
「ウィズ!」
嫌だ、と閉じた唇が暗に告げている。それが少し拗ねている様に思ったのはバルドだけだろうか。
「この城を守ってくれ」
「嫌だ。この城を守るくらい、セイでも良いだろう」
「その体じゃあ雨の中バイオスへ向かうのは無理だし、万一アゼルがミディクに来たら、セイじゃあ守りきれない。お前の強さは知ってるから、此処で休んで万一の時に備えておいて欲しい。分かるかレンヌ。お前じゃなきゃいけないんだよ」
レンヌは何も言わなかった。バルドが釘を刺すようにもう一度レンヌに話しかけた。
「すぐに戻る。だからウィザーズ様の言う通り、残ってくれレンヌ」
レンヌは何も答えずにすっと立ち上がると、グーイを抱えて部屋を出ていってしまった。一応了承のつもりなんだろうなと思い、リフェルに馬を借りることを告げる。バイオスへの経路を確認した後、準備に取りかかるためにウィザーズ達も部屋を出た。途端に隣でセライドが溜息を漏らし、ウィザーズを睨んだ。
「俺ではあいつの相手をするのは役不足か?」
「いや、お前だったら城を守るよりアゼルの首を狙って被害を押さえるだろ。アゼルは俺が倒す。だからお前を残らせちゃまずいと思ったんだよ」
「『お前じゃなきゃ』ですか…なかなか面白かったですよ。カトラス王子」
どういう意味だと、ウィザーズはサフォムを見たが、ふっと笑うとすぐにはぐらかされてしまった。
「陛下にご挨拶してから行くのが礼儀でしょうね」
「…バルドとサフォムが行ってチェスに捕まったら困るから、俺が行く。って、伯父上何処にいるかわからねぇんだよな」
おまけに神出鬼没だし、と心の中で付け加えウィザーズは走り出した。出てこられると困るからだ。残ったセライドはウィザーズの後ろ姿を見てまた溜息をつき、バルドは不思議そうに今だ笑みの余韻を残したサフォムの横顔を見ていた。
潮風が強く薫る城内は、何度も建て増しをしているせいで入り組んでいる。神出鬼没の国王を見つけ出すのに時間がかかってしまい、ウィザーズはセライド達を待たせている所へと急いでいた。
そんなウィザーズの前に、留守を任せたレンヌが立ちはだかっていた。
やっぱり一緒に行くとか…?
ローブに覆われていても、レンヌの華奢な肩が分かる。風の音の中に、別のものをウィザーズは感じ取った。
「ウィズ」
レンヌの声は、不思議と心地良い。
「何だ、レンヌ」
「お前は、自分を正義だと思っているか?」
不意打ちをくらったような、ウィザーズの間の抜けた顔に、レンヌは思わす笑った。
「よけい馬鹿に見えるぞ」
指摘されて、ウィザーズは苦笑するしかなかった。
「思ってないよ。はたから見れば、俺は国取りの反逆者だ。俺には俺の、アゼルにはアゼルのやり方がある。一概に誰が正義だなんて言えないんだよ。それぞれ、自分の信念に従って生きている。だから俺…正義って言葉は好きじゃない。…なんてな、何となく言い訳じみてるよな」
レンヌは肯定も否定もしなかった。ローブの下の表情がどんなものなのか、ウィザーズは無性に見たくなった。
「お前は、何のために戦っている?ウィザーズ」
背筋が凍るような思いをした。ウィザーズと、名を呼ばれた瞬間に。目に見えぬ何かが、体を縛り付けたようだった。それでも声は自然に出る。
「俺のためだ。どんな事も、自分の為にならない事はやらない。俺は、俺の為だけに生きる」
答えを聞くと、綺麗な唇が満足そうに微笑んだ。きびすを返し、レンヌはウィザーズに背を向けた。
「行ってらっしゃい。ウィズ」
弾かれたように、ウィザーズは立ち去ろうとするレンヌを追い、その手を掴んだ。
―姫。
声が聞こえた。いや、頭の中に響く、音の羅列だ。懐かしい記憶がよみがえった。昔よく、この事で母を困らせていたものだ。あの夢の、あの言葉。やっと思い出した、幼い頃の記憶だ。
「…ウィズ?」
一刹那の瞬間に、ウィザーズは答えを見つけた。不審げに問いかけるレンヌの声に、ウィザーズは目を覚ました。
握った手はすらりとした指と薄桃の爪で飾られていた。少しも荒れている様子はなく、少しも傷がない。
「ウィズ、どうした?」
「…何でもない。此処は、よろしくなレンヌ」
「あぁ」
一時おさまっていた雨が、また激しく降り始めた。ウィザーズ達四人は雨の中を、バイオス王国へと向け出立した。サフォムが道案内をし、まずは第四大陸を抜ける。馬に大分慣れたセライドは、今回から自分で馬を駆ることになった。
暗く淀んだ空が、ウィザーズにアゼルの姿を思い浮かばせる。特に今日の空に似た灰色の瞳。体を濡らす雨と、異常に冷たい瞳の輝きが。
「…遅かったが、何かあったのか?」
セライドが馬を寄せて来た。雨が口に入らぬように進行方向を向かず、二人は顔を合わせた。時より前方を確認するために、微かに顔が動く。
「レンヌが、見送ってくれたんだ」
そう言うウィザーズはセライドの意外そうな顔には気付かない。
「なぁ、セイ」
「何だ」
「エルフって…いや、お前のことで良いんだけどさ、その…」
「何だ、はっきり言え」
「花とか、木とか虫とか…その、人間やエルフ以外のものの声って聞こえるか?」
お前、頭大丈夫か、とセライドの顔が言っている。
「正常だよ。良いから答えろよ。ほら、お前よく森が騒ぐとか言ってるだろ?」
「あれは気配だけで、声が聞こえる訳じゃないぞ。長老だって、森の声なんて聞こえない」
「そう…か」
黙り込むと、先を行くサフォムが速度を緩め、ウィザーズの側に寄って話しかけてきた。
「何のお話ですか?」
「…サフォム、レンヌのことなんだが」
ウィザーズは一人前を行くバルドの背を見つめた。こちらの話が聞こえている風ではない。だが、別のものにウィザーズは言葉を遮られた。横殴りの突風。雨粒が馬と、それに乗る四人の男達を襲った。ようやくおさまった時、ウィザーズは自分の考えの正しさを改めて実感した。
「レンヌちゃんが、何か?王子」
「…いや、後で良い」
サフォムとセライドがそろって不審そうにウィザーズを見た。だが当人の目にその二人は入っていない。
母マジェンダは自然を愛する人だった。幼いウィザーズを連れ、日光浴だのと称して花や草木の名前をウィザーズに教えていた。その時仕込まれた花だの草木だのの名前は今でも呼ぶことが出来る。ウィザーズも花や木、多くの自然に囲まれることはとても心地が良かった。だがしかし、一つだけ解せない事が彼にはあった。母が静かで落ち着くと隣で言っているのに、彼には多くの声が聞こえていた。近くから、遠くから。響き渡る音は決して不協和音ではなく、かといって完璧な和音でもなかった。それぞれ別の事を話しているのかと思うと、近くと遠くで会話をしている。退屈することがなくて、それはそれで良かった。ただ、母にそのことを話すと、決まって妙な顔をされ、酷い時には額に手を押し当て、ウィザーズの熱を計ったりした。そんな事が重なって、ウィザーズはやがて理解した。
この声は、僕以外には聞こえないんだ。
十歳くらいになると、剣や勉強などでウィザーズは声を聞く機会を失っていった。もう一つの理由もあって、幼い頃の記憶は段々と薄れ、ついには声が聞こえていたことなどすっかり忘れてしまったのだ。
それが、初めてレンヌに出会った時から少しずつ変わり始めた。記憶が微かに頭をよぎるようになり、このミディクに来てからは断片的に声も聞こえるようになっていた。その声は決まってレンヌが近くにいる時に聞こえ、その声はいつも言っていた。
―姫―。
レンヌの細い腕、高い声。それは実は声変わり前の少年のものではなくて、ウィザーズと同じくらいの年の女のものではないかと思うようになった。もしそうでないとしても、彼は直感的に感じるものがあった。幼い頃からよく自分の面倒を見てくれた、彼の尊敬してやまない騎士の中の騎士、大陸一の強さと言われたあのバルドが、何かに脅えている。それを、隠している。レンヌについてだということも、ウィザーズは感じ取っていたのだ。
何を隠している?
レンヌが女だという事か?それだけなのか…それとも何か他の理由なのか。
旅の仲間に女が同行するとウィザーズ達に言いたくなかったのか。本当にそれだけなのか。そして何故レンヌは姫と呼ばれているのか。単なる愛称なのか。しかし、自然がレンヌを姫と呼ぶのであれば、レンヌも自然の声が聞こえているのだろうか。それとも何か、レンヌは某国の王女で自然はレンヌが姫と呼ばれているのを聞いてそのまま呼んでいるとか…。
ウィザーズは道中そんなことばかり考えていた。目の前にはバイオス奪還という大問題があるというのに、早くレンヌの元へ帰りたいと本気で思っていた。