Chapter 4-2 : 終りへの道
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会議室を出てから、バルドとセライドはシーザスの将軍ケネスに付いて、魔獣に対しての戦い方をアドバイスするために訓練場まで出向いていった。本来ならウィザーズもそれに付いていくべきだったのだが、酷い顔をしている、と渋い顔でセライドに指摘されて一人自室へ戻った。グーイでも連れてくれば、少しは癒されたのかもしれない。けれど、今ウィザーズは自室のベランダへ出て広く、白いシーザスの大地を眺めている。雪は静かだ。風と違ってあまり話をしない。話していても、何かぼそぼそという呟きだ。
レンヌは義務感だけで一緒に付いてきたのだろうか。
ウィザーズは頬を刺すような外気にさらされながら考えた。国を取り返すことだけは、ウィザーズ自身にやらせてやろうと考えて付いてきたのだろうか。それでは正直なところ、寂しくて悔しい。ウィザーズは少し頬を膨らませた。
そりゃ、最初は生意気な餓鬼だと思っていたけど……。
何もレンヌの顔だけを見てこんな想いを抱いたわけではないのだ。今は、何となくだけれどレンヌの孤独が分かるような気がしている。ウィザーズが白い息を吐いたその時、ウィザーズの部屋にレンヌの姿が現れた。
「……ウィズ、大丈夫?」
「レンヌ。あぁ……うん。大丈夫だ」
レンヌは少しだけ短いマントのような上着を羽織っていた。そしてベランダにいるウィザーズに近づいてくる。銀色の髪が揺れ、レンヌが外に出ると雪の囁き声が少しだけ声高になった。
「……手、繋いでも良いか?」
ウィザーズは自然と口から出た言葉に内心動揺して、それでも自分の手を上げてレンヌへ差し出した。レンヌはウィザーズの心臓の鼓動は聞こえていないようで、ウィザーズの顔を見てゆっくりと微笑んだ。
「うん」
そして子どものように、伸ばされたウィザーズの手をとる。レンヌの手はひんやりと冷たかった。反対にウィザーズの手は熱い。レンヌはウィザーズと手を繋ぐと、ウィザーズの隣に立ってシーザスの大地を眺めた。その横顔は頬だけが淡い紅色に染まっていた。
「古代神族は……、お前達はずっと、俺を待っていたのか?」
ウィザーズもレンヌの横顔から再びシーザスの大地へと視線を移してそう尋ねた。
「私達が人と同じ言葉を使うのは簡単だった。でも私達は人と自然、いえ、人と神とを繋げたかった。共存や共生という意味で。それはとても難しくて、私達が人の言葉で示せるものではなかったの」
レンヌは淡々とそう言った。ウィザーズはレンヌの手を握る力を強くする。段々とウィザーズの熱がレンヌに移って、二人の手は同じくらいの温度になる。それだけのことが妙に嬉しかった。
「でも、レンヌ。俺は何も理解してない。魔術だって使えないし。何故セイのようなエルフじゃあなくて、俺だったんだろう」
「それはきっと、ずっと続いていたんだと思うの。ウィズのご両親、そのご両親……。私がお父様とお母様から力をもらって生まれたように、たくさんの人が前にいて、私達が今ここにいる」
「俺がそうなら、アゼルだってそうなれて良かったはずなのに」
そのウィザーズの言葉にレンヌが隣で俯いた。
「……ごめんなさい」
「違う、レンヌ。お前のせいじゃあない。俺達の存在が、ずっと前から繋がっているというなら、これは全ての人のせいだ」
そう自分で言ってから、ウィザーズはようやく理解した。あの会議の場で、決然としたレンヌの横顔を見ながら感じた違和感。あれは、そうだ。国王として国を治める父や、ミディク王、そしてシーザス王と違った、レンヌの立場に違和感を得たのだ。
「王なんて、やめちまえよ、レンヌ。無責任だとお前は思うだろうけど、もう、お前の民はいないんだ」
そう、レンヌは自らを最後の王と呼ぶけれど、レンヌの民はもういない。民はいない。王としてのレンヌを支えてくれる人はどこにもいない。だが、支えになりたいと思っている人間はいるのだ。
「神でないと言うなら、このままずっと俺と生きれば良い。このままずっと、俺と手を繋いでいよう」
このままずっと、この先も一緒に生きよう。そう言いたかったのだけれど。
「それとも、俺とじゃあ駄目か?」
そう言葉にする喉が引きつっている。そしてそう言われたレンヌの瞳が揺れている。
「……どうして?」
ウィザーズはシーザスの白い大地に目を向けたまま、そしてレンヌの手を握ったまま、大きく息を吸った。冷たい空気がはやる心臓の鼓動を少しだけ諌めてくれる。
「好きなんだ。お前が」
そう告げると、ウィザーズの手の中でレンヌの手がきゅっと硬くなった。けれどウィザーズはそれに気付かない振りをして続けた。
「最初は同じ声が聞こえる、そんなただの仲間意識からだったかもしれないけど、今はちゃんと言える。お前が好きだ」
二度重ねて言うと、レンヌから帰ってきたのはくぐもった声だった。
「ウィズ、私は……」
戸惑いの滲む声に、ウィザーズは先を続けさせようとはしなかった。
「俺、お前ごとこの世界を愛したいよ」
「私ごと……?」
「何で俺にだけ自然の声が聞こえるのか、なんてこと考えるの止めたんだ。ただ俺にはお前と同じように自然の声が聞こえる。それで十分だよ」
口から自然に言葉が溢れてくる。きっとこれがウィザーズの言いたかったこと。そしてウィザーズの口を借りて、レンヌが神だという自然が、レンヌに伝えたかったことなのだ。そう、ウィザーズは思った。
「きっと、最後に残ったお前を一人にしないために、俺がいるんだ。そう思うことにした」
そう言って、ウィザーズはベランダから見える風景から目を反らした。次にウィザーズが見たのはレンヌの銀色の髪。風に靡いて揺れる柔らかそうな髪だ。
レンヌはウィザーズの視線が自分に向けられたことを感じてか、戸惑いがちにウィザーズを見上げた。その紫色の瞳が、ウィザーズの言葉に答える何かを探しているように見えた。だからウィザーズはレンヌの見ている前で首を横に振った。
「今は何も答えるなよ。俺のこと、もっとよく考えてくれないか、レンヌ」
本当はすぐに答えを聞くのが怖いだけだ。短い時間で答えられるような、そんな関係だったのだと思わされるのは辛すぎる。こんな、戦いを前にした緊張の中では余計に。
「でも……」
「今は時間がないって言うなら、すべて終わった後でも良いだろう? 終わってからが始まりだ。きっともっと色んなことが考えられる。でも忘れないでくれ、俺はお前が好きだ。俺はこの世界が好きなんだよ」
三度重ねて言うと、とうとうレンヌは口を噤んだ。再びウィザーズから顔を反らして俯いてしまったレンヌに、ウィザーズはそっと近づいた。握っていた手を離して、片手ずつレンヌの背に添える。レンヌは逃げなかった。ただ少し身を硬くしたレンヌを、ウィザーズはそっと抱きしめた。レンヌの銀色の髪は風にさらされて冷たく、けれど絹糸のように滑らかで、ウィザーズは俯いたレンヌの頭にそっと口付けた。できれば、レンヌの腕が自分の背に回される日が、遠くない未来にあれば良い。ウィザーズはそう思わずにいられなかった。
シーザス王が、フォリン王の申し出に断りの書状をしたためていた頃、レグシェスはフォリン城の廊下を一人で歩いていた。
メロサ島から帰ってから、レグシェスはずっと一人で考え込んでいた。この事態を引き起こしたのは、一体誰なのだろうということを。この国の王だろうか。それとも神と名乗ったあの少女なのか。この歪みを作り出したのは、その原因は何だったのだろう。そしてもう一つ、レグシェスが考えていることがあった。何故自分が国王の寵愛を受けることができたのか、ということである。あの本を渡したためだろうか。しかし今の国王なら、あの本さえあればレグシェスなどいらないはずだ。現に今、国王は多くの人間を切り捨てている。
何故僕は切り捨てられない?
レグシェスは塔を見上げた。美しく強いかつての妻は、恐ろしい国王の手を掻い潜って、あの塔から逃げ出した。
逃げ出した?
レグシェスはその表現を、首を振って否定した。いや、彼女は戦いに出たのだ。彼女はカトラス王子とマジェンダ王妃に仕えることを選んだ。
そして僕は?
彼女のように自ら王を選んで、その人に仕える強さを持っていたのだろうか。ここに残っているのはただの惰性か、それとも国王への畏怖に縛られているからなのか。逃げ出す勇気も持ち合わせていない。ただ、国王から切り捨てられるのを待っているだけの、自分を持たない小さな男。
イルシーに捨てられるのも当然だ。
レグシェスはそこで初めて自嘲気味に笑った。元々自分は、彼女には相応しくなかったのだ。あの美しく強い女性には。
レグシェスは報告するにも気の重くなるような情報を抱えて、国王を探して王宮を歩き回った。国王は暗幕を引いた自らの部屋にはいなかった。通常の執務室にもその姿を見ることはできない。一体何処へ行ってしまったのか。
ふと、レグシェスの頭に昔の記憶が浮かんだ。そこは王宮にある四つの庭のうち、一番狭い場所。図書館から続く白いバルコニーで、一人の少年がバルコニーの柵に腰掛け、曲げた膝に腕を乗せ、そしてその手の上に顎を乗せて庭を見ていた。片手には読みかけの本。誰も来ない、静かな時間と場所で、少年の瞳はただ緑と花の白からなる庭を見続けていた。
レグシェスは頭に浮かんだその光景に引きずられるようにして、図書館へと足を向けた。暗い部屋は本と埃の香りがした。レグシェスは高い本棚の間を縫って、バルコニーへ続く窓へ向かう。はたして、記憶のままの少年がバルコニーの柵に腰掛けていた。記憶の中と同じように、彼は庭を見つめている。記憶と違うのは、その庭が緑色をしていないというだけ。そして、窓を開けてバルコニーに出ると、冬の空気がレグシェスの頬を刺した。
「陛下、アンデレ卿が」
レグシェスは跪くことを忘れて、アゼルに近づいた。アゼルは国王になってからずっと来ていた重苦しい服を脱いで、冬の空気も気にならないのか、薄い服一枚着ているだけだった。
「逃げたか」
特別な感情がその言葉に混じることはない。アゼルは枯れた庭を見ていて、レグシェスに顔を向けることもしなかった。青白い横顔。肩まである金の髪は記憶よりどこか色褪せていた。
「……はい」
レグシェスは自分のマントの留め金を外し、アゼルの肩にマントをかけた。細い肩。その瞳が、体が、声がすべて疲れを感じさせた。
「放っておけ。どうせ父の代に金の力だけで要職に就いた能無しだ」
レグシェスの差し出したマントにも気づいていないのだろうか。アゼルは相変わらず庭を見つめている。レグシェスは思った。アゼルの肩はこんなに細く、頼りなかっただろうか。あの、氷のように笑いながら、マジェンダ王妃を閉じ込めた時も。昔、同じようにここに座っていた時も。
「陛下…………以前もここに座っておられましたね」
そう、あの時だ。レグシェスが密かな野望とともにあの、門外不出の本をアゼルに捧げたときのこと。あの時もアゼルはここに座っていた。今よりは疲れのない瞳で、そして幼い子供の顔だった。
「……昔のことだ。マジェンダが父と結婚する前、城を訪れたマジェンダの膝に戯れで座ったことがあった。すぐに父に見つかって酷く罵られた。“この方はお前の母ではない”とな」
レグシェスは黙っていた。それが初めて聞いた、アゼルの言葉による自身の話だった。
「……いっそのこと、父もあの男でなければ良かったのだ。王の血さえ継がなければ、お前とも別の形で出会えていただろう」
または、マジェンダ王妃が自らの子供を王位にと望む女であったなら、アゼルは王位継承権から逃れた庶子でいられただろう。
「アゼル様……」
皮肉な運命だった。マジェンダ王妃は善意で、王に進言した。アゼルに王位継承権を与えて欲しいと。そして多分ウィザーズも、アゼルを王にと望んだ。しかしアゼル自身は、王位など望まなかった。
何故僕が切り捨てられないのか。
本当は誰でも良かったのかもしれない。誰でも構わないからアゼルは望んだのだ。ただ側にいて、こうして話のできる友人を。権力も、魔法も、魔術もない姿をさらすことのできる腹心を。
「お前も逃げるが良い、レグシェス。この戦いの先は見えている。グロージェスのような膿を消せただけでも私が王となった意味はあったのだろう。だが結局……私も同じ、この国の膿だ」
アゼルが求めた者としては、レグシェスはあまりに程度の低い人間だっただろう。だが悲しいかな。アゼルの周りにはレグシェスくらいしかいなかったのだ。
寂しい人。
そしてそれに今まで気づかなかった自分は愚かだとレグシェスは思う。同時に、もしかしたら、と思うのだ。こんな自分でも、まだ誰かを選ぶことができるのではないだろうか、と。
「アゼル様、あの本の冒頭に書かれていた言葉を覚えておいでですか?」
レグシェスはそう切り出していた。彼はあの本を理解できることはなかったが、冒頭に書かれた詩的な言葉だけは初めて読んだときから頭に付いて離れなかった。アゼルほどの頭ならば、冒頭の言葉は愚か、あの本の内容すべてを思い出せるだろう。そして当然、アゼルは少しの淀みもなく、レグシェスの問いに答えて言った。
「『すべての生きるものは、大地の腕に抱かれて眠る。そして夢の中で風となり、光を浴びて水中を駆ける』だったな」
それがどうしたと言わんばかりの、つまらなそうなアゼルの声。しかしレグシェスはその声に微笑む。そうやって、何かしらの感情を自分に示してくれることが嬉しかった。そしてその喜びに気づくことができた自分が少しだけ誇らしかった。
「あの本を尊公にお渡しした時、私も私欲を求めるこの国の膿でした」
いいや、あの時だけではないとレグシェスは知っている。今もきっと、レグシェスはこの国の膿なのだろう。そして多分、その膿が広がった結果が、今のこの国の姿なのだ。
「それは小さなことだ。私は親を殺した」
そう初めは小さなことだったのだろう。小さな男の、小さな野心だった。自らが王になることを望んだわけではない。親を殺したわけでも、妻に暴力を振るったわけでもない。
ただ、大切なものが何かを見極めることができなかっただけ……。
それだけが、レグシェスの過ちであった。そしてただそれだけのことが、この世界を統べる力を持つ男に大きな歪を産んでしまった。
「小さなことでも、私には自身に対しての責任がございます。アゼル様、私は最期だけでも、尊公の忠臣でありたいのです」
妻が自ら選んだように、レグシェスも選びたかった。たった一人の、自らの王を。
レグシェスは柵に腰掛けるアゼルの側に跪いた。しかしアゼルはそんなレグシェスを見ようともせず、寂しい枯れ色をした庭から目を逸らさなかった。
「……臣下などいらない。グロージェスやカミーラのように切り捨てるだけだ」
しばらくして、アゼルがやっとそう答えたとき、レグシェスはアゼルの足元に跪きながら、か細い声を発した君主を見上げた。その顔は、首を捻って庭に向けられ、レグシェスにその表情を読むことはできなかった。だがその色白の手が、レグシェスが肩にかけた深緑色のマントをきつく握り締めていた。それを見たとき、レグシェスの心に広がった喜びは表現できないほどに大きく、柔らかなものだった。
レグシェスは頑なに顔を逸らす君主に、もう一度深く頭を垂れた。
「それをお望みならば、お心のままに、陛下。ただ、自惚れではありますが、きっと陛下は私を選んで下さったのです。そう、私は信じます」
レグシェスの言葉に、アゼルは何も返さなかった。だがレグシェスはそれで良いと思った。良いと思えた。