桜下人形
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その夜のことだ。男は自室で布団に横たわっていた。眠っていた気もするし、起きていた気もする。つまりはその境界線のような場所をうとうとと彷徨っていた。そんな状態で、男は音を聞いた。
かん、つかん。
床を伝って響く微かな高音は、男が横たわっていたからこそ聞こえるという程度の小さな音だった。小さな足音だ。
あぁ、人形が歩いている。
間違いない。男の他に家人はいないのだから。そして泥棒などでもないと男は確信していた。夢うつつながらも、それが人の足音ではないことがはっきりと分かったからだ。板に張り付く肌の音がしない。まして足袋の擦れるような音も。するのは板の廊下に硬いものを落としたときのような音で、しかもそれが規則的な間隔で、段々と近づいてきているのだ。
かん、つかん、かん、つかん。
前に、前にと出される木製の足。籐の椅子から立ち上がった人形は、入側縁を歩いてふたつ隣にある男の寝床へと向かっている。男は寝床に横たわり、目を閉じながらもその光景を見ている。
障子に映る細い影。揺れる長い黒髪と着物の袖。恐ろしさは感じない。あのように分断された形で捨てられていたのだ。こうして迷って出てくることもあるのだろうと納得しただけだ。
かん、つかん。
硬い足音をさせて人形が立ち止まった。障子に映る影は男の寝室の前で一旦静止し、それから袖を揺らして障子を開けた。
すう、さぁ、さぁ。
足裏が直に畳を擦る音を聞いて、そういえばしっかり着付けてやったが、外を歩くわけでもなし、足袋は履かせていなかったと男は思った。爪までしっかりと作りこまれた白い指先が着物の裾から覗く。
さぁ、さぁ。
と音を立てて畳を滑り、とうとう人形は横になっている男を上から見下ろせるところまで近づいた。
そこでようやく男は重い瞼を持ち上げた。空けた障子から覗く外の月明かりを背景に、闇に沈んだ人形の顔は昼間よりずっと青白く見えた。男を覗き込む形で首を傾けているため、結っていない髪が人形の頬をかすり、男に向かって真っ直ぐ伸びている。
声が出なかった。起き上がろうかとも考えたが、指の一本動かすことができない。影になって余計に暗く映る漆黒の瞳が瞬きもせずに男を見つめている。男の体で自由になるのは重い瞼だけだった。男は人形の視線から逃げるようにして再び目を閉じた。他にどうしていいのか分からなかったのだ。けれど、目を閉じても人形の青白い顔は男を追ってくる。
「……何か、して欲しいことでもあるか」
目を閉じたままだと声が出るらしい。身じろぎもできず、ただ男は問うた。すると覗き込む形で髪を垂らしている人形の顔がぐっと近くなった。どうやら枕元に正座したようだ。着物から箪笥に入れていた匂い袋の香りがじわりと漏れる。
「……桜が……」
聞こえた声は確かに女の声だった。けれど、何と表現したら良いのだろう。人の声ではないと感じられる音なのだ。そうかといって、獣の声というわけではない。美しく反響するうっとりするような音なのだけれど、どうにも作り物めいている。作り物の人形から出る声は所詮作り物ということだろうか。だが、それがどうにも無性に愛しく感じられて男は戸惑った。
「桜?」
「桜が見とうございます」
動かぬ口で、人形ははっきりとそう言ってのけた。咄嗟に浮かんだのは、人形が捨てられていた場所に咲く桜の花だった。しかしまさか、捨てられていた場所に戻して欲しいという意味ではあるまい。折角拾って繋げてやった人形を、再びあそこへ持っていくというのは勘弁して欲しい。例え人形自身がそれを望んだのだとしても、捨てにいくのだという感は拭えない。そんな真似はさせて欲しくなかった。
「着物の桜では足りないか」
着付けた振袖が桜模様だったことを思い出して男は問うた。すると人形は小さく首を横に振る。なるほど内を通した糸の伸びで、小さくなら首を横に振ることもできるのだ。
「着物の桜は散りません。風に散る桜が見とうございます」
言われて、庭に小振りだが紅枝垂が一本あることに思い当たった。染井吉野より早咲きのため、そろそろ花も終わる時期を迎えるはず。風でもいいように吹けば望む通りに散る姿が眺められることだろう。それには人形を庭の見える部屋まで移動させてやらなくてはならない。それはもちろん、意固地になって断るほどの労働ではなかった。
「……分かった。うちの枝垂桜でよければ、明日、花の見える場所にお前を移してやろう」
男が答えると、動かぬ口で人形は硬く微笑んだ。唇に塗った紅の色が男の目いっぱいに広がる。だがどんなに近くとも、当然のごとく吐息は感じなかった。ただ色濃い桜の花びらのような唇が、黒く絹のような感触の髪が男の上に降って――。
冷たい唇が触れたと思ったのは、男の勘違いだったのだろうか。それとも、やはり昨夜のことは夢だったのか。朝目覚めてみると、枕元には誰もいなかった。夢の中で人形が開けたはずの障子も、今朝はしっかりと閉まっている。やはり人形が自ら歩いて移動するようなことが現実に起こるはずはない。眠ったような気分がしないのも、あんな夢を見たせいなのだろう。そう思って男は小さく欠伸を漏らした。折角の休日だ。眠り足りないのであれば、もう一度床に就いてうとうとしても構わない。
だが続けて出る欠伸を噛み殺し、口元に当てた手を何気なく見やった男は布団を蹴飛ばすようにして起き上がった。
血が出ている。
一瞬そう勘違いしたけれど、唇を切ったわけではなさそうだった。冷静になって見てみると、手についているのは紅だ。自分ではつけるはずのない口紅。だが、そうだ。あの人形には確かにつけてやった。男は体にまとわりつく布団を引き剥がし、部屋を区切る襖を二回開けて人形の座っているはずの部屋へ向かった。
果たして人形はそこにいた。昨日着付けて座らせたままの状態で、籐の椅子に緩やかに腰掛けていた。着物袖は皴にならないようにと肘掛に広げてかけたままであり、細い指は揃って膝に置かれてそのままだった。何も、変わったところなどない。だが男はひとつの予感を胸に人形へ近づいた。力なく背もたれに首を預けた形で少し右に傾いでいる人形の小さな顔を覗く。
男は無意識につめていた息を吐いた。予感は当たっていたのだ。人形の唇に塗ってやった紅が落ちている。特に尖った唇の先に塗られていたはずの紅が。
「……約束したな。お前にうちの桜を見せてやる」
語りかけても、夢のように人形は微笑まない。それでも男は人形ごと籐の椅子を移動させ、人形との約束を守って作り物の瞳に庭の紅枝垂が映るようにしてやった。