桜下人形
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そして思っていた通り、今夜もあの薄気味悪い訪問者がやってきた。初めてこの家を訪れたときからの黒一色は変わらない。醸し出す雰囲気だけが、最初の日から段々と刺々しくなっていっている。訪問者の空気が尖っていれば、それに対抗して家の空気も針のように尖る。
「女を拾いましたね」
今日は晩の挨拶もなしに、訪問者は苛立った口調でそう切り出した。身の毛が逆立つほどに空気が鋭くなっている。それはこの訪問者の苛立ちだけのものではなく、明らかにこの家が警戒を強くしている証だった。
「これで三度目だ。女など拾っていない」
この家が拒むのであれば、男も断固としてこの陰気な訪問者を拒まなければならない。家と共に警戒はするけれど怯むことはしない男は、目深に被った帽子で目元を見せない訪問者に向かってきっぱりと言い放った。だが怯むことがないのは、訪問者も同じことだった。
「嘘だ」
噛み付くように強い口調でそう返してきた訪問者は、最初の慇懃さはすっかり取り払ってしまっている。帽子の下の瞳はぎらぎらとしていて、すでに狂気を宿していた。
「嘘ではない」
男はその狂気に臆することなく決然と言い放った。嘘ではない。だがそう主張する男の言葉に被せるようにして訪問者はざらついた声で訴えた。
「拾ったはずだ。桜の木の下で」
黒い手袋で覆われた手が、真っ直ぐに桜の方向を示す。
「肌に触れたはずだ。頬の、腕の、足の、腹の、胸の!」
そうだ。訪問者の言う通り、男は触れた。人形の頬に、腕に。足も、腹も、胸も。人形の木肌で男の触れなかった場所などない。打ち捨てられた各部を綺麗に清めてやるために。そしてばらばらになった体を繋ぎ合わせてやる時に。その木肌に着物を着付けてやる、その時にも。
だが、それがどうしたというのだ。生身の女を寝取ったわけではないのだから、声高に非難される謂れはないはずだ。
「何度も言わせるな。女など拾ってはいない。出て行け」
その時まるで男に加勢するようにして家全体が大きく鳴った。男でさえ鳥肌が立つような、鋭い空気の振動に訪問者はよろめいた。
「出て行け!」
ぐわんと鳴る家に重ねるようにして男が叫ぶと、訪問者はくるりと家に背を向けて逃げ出した。
そして染井吉野の下で拾うべき人形の一部分もなくなった次の日の夜。それまで訪問者のやってきていた時間には何事もなく、男は安堵するよりも警戒心を強くしていた。今夜、今夜何かが起こる予感がする。それというのも、今日は帰宅した玄関先にいつもの石英が置いていなかったのだ。警告だろうか。世間一般のいうところでの日常とはかけ離れた生活ではあるが、この家なりの日常が、こうして分断されるというのは。
やはりいつもと違う家の雰囲気が気になって、男は寝る前に人形の様子を確かめに行くことにした。部屋へ入っても、人形の様子は昨日と変わらない。薄闇の中で籐の椅子に座り、瞳に紅枝垂を映して静かに首を傾けていた。雨が降ることもなければ、人形のいる部屋の障子戸は開けておいて、夜でも桜を見せてやっていたのだが、今日はどうにも不安でならない。男は人形に向かって、今日だけだから我慢して欲しいと心の中で断り、籐の椅子はそのままに、庭に面した障子戸をしっかりと閉めた。
ついでに用心のためだ、と内縁の雨戸まで閉めてしまおうと考えた男は、振り返って目に入った庭を見てぎょっと目を剥いた。
真っ黒い影が庭に生えている。
元より明るい色彩の強い庭ではないが、ここまで暗い色も置きえない。あるはずのない色彩に、出かけた小さな悲鳴を呑み込んで、男は庭に紛れ込んだ不調和に向かって言った。
「……どういうつもりだ。勝手に上がりこむとは……」
緊張はこれ以上ないほどに高まっていた。極限まで張り詰められた緊張の糸は、後はもう切れるのを待つばかり。耐えられない。そう思ったのは男も訪問者も同じだったのだろう。
「嘘をついた。お前は嘘をついた! お前は女を拾った。拾った女を連れ帰って、俺から隠している!」
訪問者は怒りに震える指先で男を示して叫んだ。男は努めてその怒りに流されないようにしながら、しかしここでようやく拾ったものについて答えて言った。
「拾ったのは人形だ。お前の探している女ではない」
勿論、顔を赤くして怒っている訪問者に、その正直な答えは通用しなかった。
「嘘だ!」
もはや男が何を言っても聞く耳を持たぬ様子で、訪問者は赤く染まった顔を振る。
「嘘ではない。人を呼ぶぞ」
「その障子を開けろ! 俺には分かる。お前はあの女を隠している! あいつを出せ!」
口から泡を吹く勢いで、訪問者ががなりたてる。
「ただの人形だと言っている!」
とうとう我慢できなくなり、男も声を張り上げて言い返した。
「なら障子を開けて見せろ!」
そこまで疑うのなら開けてやる、と男が怒鳴り返すより早く、それまで不気味な沈黙を保っていた家が大きく鳴った。まるでこの家の敷地内だけ局地的な地震に見舞われたかのようだ。男も訪問者も突然の振動に足元がふらついた。
すると男が開けようとしていた障子ががたがたと音を立てて勝手に開かれた。開かれた障子の正面すぐに、籐の椅子に腰掛けた状態で人形がこちらを見ていた。戸を開ければすぐに紅枝垂が目に入るようにしていたのだから、驚くことではなかった。
男にとっては。
「――」
驚愕に青ざめた訪問者が口にしたのは、多分人の名前だったのだろう。あるいは、この人形の名前だったのだ。だがその叫びを、男は聞き取ることができなかった。
人ではない。人の形をしているだけの、何のからくりもない飾り物だ。だから自らの力で動くはずがない。大方、先ほどの振動で籐の椅子が傾いだのだろう。それに腰掛ける形で置かれていた人形は、その身の軽さもあって自然と椅子から放り出された。その光景がまるでゆるりと立ち上がり、こちらに歩いてくるように見えただけのこと。それだけのことだ。
けれどあの訪問者にとってはそうではなかったのだ。ゆらりと動いた人形を見て、訪問者は絶叫した。誰かの名前を叫んだのかもしれないけれど、獣の呻きのような音としてしか男には感じられなかった。真っ赤な口内が見えるほど大きく口を開け、訪問者は叫び、震えた。その様子の何と醜いことか。
そして逆に、ゆるりと訪問者に向かって倒れていく人形の何と美しいことか。靡く黒髪と着物の袖。男の前を横切って落ちていく白い横顔。その唇は、どこか嬉々とした輝きをもって白い前歯を覗かせている。笑い声が。高らかな女の笑い声が、振り切れたように叫ぶ訪問者の叫び声をかき消した。
迫るようにして訪問者へ向かって倒れゆく人形を、男は縁側から落ちる寸前で抱きとめた。その衝撃で折れそうに前のめる人形の首。それまで後ろに靡いていた長い髪と力のない腕が、男の腕にせき止められて大きく前へ振れた。人形の体が男の腕で止められると同時に、女の笑い声もぴたりと止んだ。
「――」
残ったのは訪問者の上げる奇声だけ。だが男が出て行けと叫ぶ必要はなく、訪問者は醜い顔を土気色にして、おぼつかない足取りでもって庭から逃げ出した。
「桜……桜だ、さくら」
逃げ去る訪問者は呪文のようにそう繰り返して、家の前の通りを走っていった。追いかけなければ、と男は思った。不快な訪問者が二度と来ないように、追いかけて行って家を探し出し、警察に事情を話した上で注意をしてもらった方がいい。
男は抱きとめた人形を取合えず縁側に横たえて、庭のつっかけを履いて、逃げ去った訪問者を追いかけることにした。家の門を出て、すぐの通りを左に進む。
盛りを迎えて薄紅色からより白を濃くした桜の木の下に、あの訪問者が倒れていた。何故か下半身が土に埋まって、まるで埋められた後に掘り返されたかのような形で汚れた土を纏いながら死んでいた。怒り、驚愕、恐怖、そんな感情の混じり合った醜い顔で、歯を剥き出しにして息絶えている訪問者のその隣に清廉と横たわるのは、あの人形。
いや、そうではなかった。男は確かめるように桜の下へ行き、その場で膝をついた。男があの人形に着せてやった、母の着物を纏っていたそれは確かに人だった。蝋を塗ったように白い肌。紅を塗ったように赤い唇。あの人形と違って、しっかりと閉じられた瞼。まるでただ眠っているかのようにして、長い袖を蝶の羽のごとく広げて横たわっている。夜の闇に溶け込んだ青褐色の着物。その柄である桜模様に、ひらりひらりと散る染井吉野の花弁が重なり、どの花弁が本物なのか見分けがつかなくなる。
くっきりと、肌の白と桜の模様だけを闇に浮かび上がらせながら、隣の土に汚れた訪問者とは別世界にいるような顔で。
女が死んでいた。
あの人形と同じ豊かな黒髪を保ったままの女は、一見すれば今しがた死んだような姿をしていた。だがその肌が白いのは確かに蝋のせいだったのだ。死蝋。そんな状態に、ついさっき死んだ人間がなるはずがない。唇が赤いのも、体温が残っているせいではない。紅を塗っていたのだ。あるいは、紅を塗られていたのだ。男が人形にそうしたように、誰かの手によって女の死体には死に化粧がされていた。
人形は人形。
死体は死体だ。
着物は同じ反物を偶然買っただけのことだろう。帯も然り。けれど、帯止めはどうだろうか。母が作った、この世に二つとない帯止め。それは確かに男が拾った人形につけてやった品であり、今も家に置いてきたその人形がつけているはずのものだ。
それを確かに、目の前の女の死体が身につけている。一体どういうことなのか、男には分からなかった。混乱した頭で、男は二つの死体を桜の木の下に置いたまま、自らの家へと舞い戻った。
そこにはあの人形があるはずだ。
男が拾い、汚れを落として手足を繋げてやった人形が。
風に散る桜が見たいと言って男の夢に現れた、あの抜けるような白い肌の人形が。
玄関先に置いてある石英を拾うこともせず、男は玄関脇から直接庭へ回った。縁側に横たえたままの人形は庭に入ればすぐに目に入るはずだった。
だが人形はいなかった。
男は縁側へ辿り着いて、あぁ、と息を漏らした。家は静かだった。縁側に残されていたのは、横たえた人形の形に撒かれた紅枝垂の花びらだけだった。人形の肌と変わらぬ白い桜の花びらが、まるで一枚の絵のようにして散らばっている。
家ははた、とも鳴らない。あの訪問者を追い出した時の、凄まじいまでの怒りの念は微塵も残っていなかった。男は庭の紅枝垂を見やった。いっそ見事なほど、垂れた枝に紅の花弁はない。
逝ってしまったのか――。
男は思った。そして同時に逝かせてしまったのか、と家に問いかけた。その問いにさえ、家は何も答えようとはしなかった。