山百合の残像
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男がまさに夢の中で眠りに就こうとしていたその瞬間、突然額を固いもので殴られたような衝撃があった。同時に甲高い子どもの笑い声のようなものが家の中に響く。男は額を押さえながら飛び起きた。終わりへの快楽は一気に遠のき、足を取られて引き込まれる恐怖だけが残る。近いような遠いような笑い声。そして次にはパタパタという軽い足音。家の中を駆け回るその音に、まるで家自体が苛つくようにして大きく震えた。と同時にか細い悲鳴が聞こえる。
男は揺れる家の中を四つん這いで進み、外に面していた障子を開けた。すると縁側にあの女がしゃがみ込んでいる。両手で頭を抱え、突然の家鳴りに怯え、震えているようだった。男の意識ははっきりとしていた。この家は自分の家ではなく、探していた知人の家でもない。長居する必要も、そんな気も最初はなかったはずなのに、呑み込まれるようにしてずるずると家の奥で寝入ろうとしていた。それを咎めるかのような衝撃。何をしているのかと叱咤されたような気分だった。
ここを出なければ――。
両膝をついたままでバタバタと四肢を動かし、男はようやく縁側から降りた。そのまま家を離れようとしたが、振り返れば縁側で女が泣きそうになっていた。どうする、と考えたのは一瞬のことで、男は揺れていない地面を蹴って縁側に近づくとしゃがみ込んでいる女の腕を掴んだ。その腕を通じて、家の揺れを感じる。地面は揺れていないというのに。
男に腕を掴まれると、女がぱっと顔を上げた。恐怖で濡れる目の端。それが頼りなく、庇護欲をかき立てる色合いを見せて、男は改めて目の前の女を美しいと感じた。同時に、やはりあの知人の家にいた幽霊に似ている、とも思えた。
「あんた、こんなところにいるべきじゃあない。俺と一緒に山を降りよう」
不気味な幽霊の影が重なったとしても、男は女を連れて行くことを迷わず決めた。あの幽霊に感じた恐怖心は、この不自然に揺れている奇妙な屋敷に比べればなんということもない。とにかくいまは、この屋敷から離れることが先決だった。けれど腕を引っ張る男に向かって、女は戸惑いを前面に出して首を振った。
「それはできません」
「何故!」
はっきりとした否定の言葉。しかしそれに比べて女の表情はどうだろう。できないと言いながら、自分でも何故できないのか分からないという顔をしている。そんな自分に、女は気づいていないのだろうか。男が強く疑問を呈すると、女の戸惑いはもっと大きくなったようだった。
「……だって、ここは私の家です」
そんなはずないだろう、と叫びそうになって、不安に震えている細い腕の感触に苦しくその叫びを呑み込んだ。
「あんたここで生まれたのか?」
代わりにいま男が感じている矛盾を気づかせるように、なるべく冷静に優しく問いかける。ぐずぐずしてはいられない。家を駆け回るような足音と、子どもの甲高い笑い声に、家の怒りが高まっているのを肌で感じるのだ。早く逃げなければ、と思いながらそれでも女を置いていくという考えはちらりとも頭に浮かばなかった。
「……いいえ。でもここは……私の家です。私の……」
言い淀んで、しまいには哀しげに口を噤んでしまった女に、男は罪悪感を覚えた。まるで盲目的な信仰に、その矛盾を正論として叩き付けてしまったような気分だ。それが真実であっても、必ず人を救うとは限らないのに。
しかしその罪悪感を言葉にして詫びる時間はなかった。子どもの声がひときわ高くなった、と思ったら縁側にいた女が転げ落ちそうになるくらい大きく、どしんと音をたてて家が揺れたのだ。
「とにかく、一緒に来い!」
結果的に家から転がり出た形になった女の腕をとって立ち上がらせ、男はいよいよ怒りを爆発させた家から離れようと引っ張った。
「でも……」
「来いと言っているんだ。さぁ、早く!」
それ以上は何も言わせず、男は女の手を取って家を飛び出した。もとより男の履物はない。そして無理矢理連れ出された女も、履物を履いている余裕はなかった。二人は裸足で、黒木の間を抜けて山を駆け下り始めた。門のような黒木の間を抜けた辺りで、背後の空気が変わる。
怒りがこちらに向いてしまった、と男は感じた。二人が逃げ出したことに気づいて、あの家が怒っている。しかしそれならばなおのこと、と男は振り返らずにひたすら足を動かした。少し右側が引っ張られるような感覚なのは、女が遅れてついてきているからだ。山道を下って行く途中で、男は思い出す。最初はこの道を歩いていなかった。一歩森の中に入った道とも言えない道を登ってきたのだ。山を降りるだけなら、きちんと整った道らしい道を行くべきだろう。足も取られずに逃げられる。自明のことだ。だが――。
男は女の手を引いたまま、道からそれて一歩大きく森の中へ入った。伸びた下草を空いた方の手でかき分けて、木々の間を下って行く。あの家に、知人がいたはずの庭に帰るのだ。目指すのは山の下だが、その先にあるのはあの家でなくてはならない。別の場所では意味がないのだ。元来た道はもう分からなくなっている。だからいま進んでいる道があの場所へたどり着くものなのか確証は何もない。けれど間違えてはいない、と男は思った。あえて道をそれたこと、その選択は絶対に間違えていないはずだ。
だがそんな根拠のない自信も長続きしなかった。木々の間を抜けて、足に絡み付いてくる下草を苛々と踏みつぶしながら逃げる途中で気づいたのだ。周囲の様子に。
おかしい、と男は思った。確かに来るときは山道のような坂を登ってきたはずだ。それなのに、帰るためにまた登っている、ということは、これは帰り道ではないのだろうか。どこかで道を間違えたのか。いや、そんなはずはない。下草が伸びて、はっきりとした道ではなくなっていたが、男はここに来るときもただ真っ直ぐと歩いてきたはずだ。
それに、最初はきちんと下り坂だった。
一体いつから上りになってしまったのだろう。とにかく、あの化け物屋敷とその主が元通りに戻っていることを祈って、山を下らなければならないのに。それなのに、なぜいつの間に坂を登っているのか。脇目も振らず走っていたから、いつそうなってしまったのか分からない。分かったところで、道を変えるという選択肢が果たしてあっただろうか。こんな、方角もはっきりとしない森の中で。
男は息を切らして立ち止まった。鬱蒼とした木々の間には風が通らず、浴衣の袖が暑苦しい。知人の屋敷が木々の間から見えないものかと思ったけれど、木々の隙間から覗くのは奥まで続いている木ばかり。下り道を、と思って周囲を見回しても、それは自分の走ってきた背後にしか見当たらない。引き返すべきか。それとも、このまま、真っ直ぐに走ってきたという感覚だけを信じて坂を登るべきか。
坂の上で何かが見えることを期待して?
荒い息を整えながら男は不意に思い出した。坂上の化け物屋敷。知人の家を称して、町の子供らがそう言っているのを聞いたことがある。流石に大人連中は住人に遠慮してそんな言葉口にしないが、彼らも子供の時分にはそう言って肝試しをしていたのだろう。
まるで異界のような化け物屋敷を頂点に据えたその坂とはつまり――。
黄泉比良坂――?
じっとりとした嫌な汗が、男の背を伝った。
冗談じゃあない。まったく、冗談じゃあないぞ。
不吉な考えを振り払うように頭を振ったが、黄泉醜女が背後に迫ってくるのではないかという不安がもたげて、思わず背後をじっと見つめてしまった。黄泉醜女に追いかけられたとして、櫛もなければ桃の木だって見当たらない。男が手放せるものと言えば、いま握っている女の手だけ。
そんな考えが後ろめたく、男は息を切らして膝を曲げている女の背をそっと撫でた。
「大丈夫か? 少し、休んだ方がいいかもしれないな」
「大丈夫です」
そう言って苦しそうに微笑んだ女の足は、見れば足裏を怪我して血が滲んでいた。男は大丈夫だと言い張る女を近くの木の根に座らせて、自分はその前に跪くと浴衣の片袖を破いた。そしてさらにそれをふたつに引き裂くと、女の足に巻きつけてやる。怪我をしていない方の足にも。急いでいたとはいえ、何故履物も履かせず連れ出してしまったのだろう、と男は考え、そして思い出した。
あのマヨイガに履物はなかった。男は裸足で森を歩いてきたのだから、自分の履物がないことは当然だったが、山の家に元からいたはずの女の履物も見なかった。
やはり逃げ出してきて正解だった。
男は思った。あの家はおかしい。知人の化け物屋敷とはまた違う意味で、あの家はおかしい、と男は強く感じた。女も心のどこかで感じていたからこそ、自分の家だと答える前に不自然な沈黙を挟んだのではないだろうか。問答無用で連れ出してしまったことを後ろめたく感じる気持ちもあって、男はそうやって自分に甘い考察を行う。
しかしふと頭を過るのはやはり、最初にあの黒木を見て思い出した本の内容だった。マヨイガのものは、持ち帰れば富を得るのだったか。いや、それとも何も手にしない無欲さが、結果的に富を生むのだったか。そもそもこの女は、”マヨイガのもの”なのだろうか。そうだとすれば、連れ帰ることが吉なのか、凶なのか。黄泉比良坂と言えば、素戔男尊に追いかけられた大国主は素戔男尊の娘須勢理毘売命を連れて黄泉国から逃げたのだった。素戔男尊は伊邪那美ほど恐ろしい黄泉の神ではなかったようだけれど。
夏の森は、湿気で喉が詰まりそうなほど苦しい。その深い緑の色彩は、まるで意思を持って男達を森から出させまいとしているようだ。男はこめかみから落ちる汗を、残った方の袖で拭った。おかしい、恐ろしい、と思っても疲れている女を連れては逃げ続けられない。もう少し休もう、と男は女の隣に腰を下ろした。
「あんた、どうしてあの家にいた?」
またそれは自分の家だったからだ、とそう答えが返ってくるかと思ったけれど、予想に反して女はあの屋敷にいた頃よりもずっとはっきりとした口調で別の答えを口にした。
「弟を……弟を探して山に入りました」
それが真実だ、と男には分かった。つまり女の本当の家は、山の外にあったのだ。
「山で迷ったのか?」
「いいえ、弟は父に連れられて山に入り、そのまま山に置いていかれたのです。私たちの住む村は貧しくて、時には自分の親を、そして子供を、山に置いてこなくてはならなくなったのです。末の弟は賢い子で、母よりも私によく懐いておりました。せめて、亡骸だけでも見つけて、葬ってやりたかったのです」
口減らし、ということだろう。男が読んだ本の中の説話を集めたその土地が、まさにそのような事態にたびたび陥った厳しく貧しい土地だったと記憶している。決して物語ではない、実際に起きていた――もしかしたらいまでも起きている――出来事なのだ。男はそれを想像して、胸を痛めることしかできない。
「そうやって、山に入って結局あんたも迷ってしまったということか」
そして、あの屋敷に辿り着いた。あの、人が主とは到底思えぬ屋敷に。
「……いいえ、それは言い訳です。私は死ぬために山に入りました」
なぜ、という声にならない問いを受けて、女はひっそりと微笑んだ。その横顔は、俯いた山百合の姿によく似ていた。
「弟を山に置き去りにして、そのすぐ後に私の嫁入りが決まりました」
めでたいことだと、喜ぶ気にはなれなかっただろうと想像するのは容易い。
「……嫁に行くのが嫌だったのか。他に……好いた男でもいたか?」
そんな理由ではないだろうと分かっていながら、それでも弟を見捨てた罪悪感か、とそんな馬鹿なことは訊けなかった。そんな見え透いたことは。
「いいえ。嫁ぐなら好いた人のところへ……と夢見ていたわけでもありません。相手は隣村の方で、私の家よりもずっと裕福な方でした。年上でしたが、私も兄弟の面倒を見るうちに嫁ぎ遅れた女で、それでも是非にとおっしゃってくださった。とても、もったいないお話でした。けれど私は嫁ぐ準備をしながら、弟の捨てられた山を見ているうちにどうしようもなく不安になりました。あんなに愛おしいと思った子供を、私は捨てたのです。もし嫁いだ先で、食べ物に困るようなことがあれば、自分が腹を痛めて産んだ子まで同じように捨てるのか……。考え始めるともうどうしようもなくて……あの子を、見つけてあげなくてはいけないと……」
そんな悲劇をもたらすほどの貧しさを、男は知らない。だからそんな考えは杞憂だったと言ってやることはできない。良縁であるが故に、山に一人置き去りにされ、飢えて死ぬように追いつめられた弟との対比を思わずにいられなかったのだろう。そして結局、村に帰ることの出来なかった弟を追って、山の中で女は死んだのか。男はそれを問うことができなかった。
「……もういい、喋るな。立てるか?」
こうして手を引いている、その相手が死んでいるのか生きているのか。そのどちらでも、男は女を連れて行きたいと思った。とにかく、この山から出してやりたいと。
「私は山の神の怒りを買ってしまったのです。山の神は女神ですから、女は山に入ることを禁じられていた。ましてや神域を死に場にと望むなんて……」
山の神は女神。そう、確かあの本にもそうあったはず。姉姫のものとなるはずだった美しい山を、末の姫が自分のものとした話。土地の女達は姫神の妬みを恐れて山には近づかないと。それに、ずっと疑問だったのだ。母を追って黄泉へ下った素戔男尊が、大国主を迎えたその時、母神はどこにいたというのか。あの国の大神はやはり女神なのだ。あの死者の国。地下の山は。
そして男達を追ってくる、あの恐ろしい何かも、やはり女なのだ。
「気づくとあの屋敷にいて、何故か部屋の掃除や食事の準備をしていました。貴方のように家を訪れた男の人を上げて、食事を摂らせて……。それから先は分からないのです。屋敷を出た姿なんて見たことがないのに、男の人はみんないなくなってしまった」
おそらくあのまま眠っていたら、男もそうなっていたのだろう。どこへ連れて行かれるのかは分からない。けれど、山から出ることは出来なくなっていたに違いない。
「その男達は、あんたの出した食事を食べたのか」
「はい」
「全部?」
男の問いに、その意図を捉えかねて女は首を傾げ頷いた。
「はい。……でも、貴方は食べなかった。私……食事に何か入れたりは……」
話しているうちに男の質問の意図に気づいて顔を青くした女に、男は慌てて言い添えた。
「あんたを疑っているわけじゃあない。だが、俺がその男達と同じようにならなかったのは、確かに食事を全部口にしていないからかもしれない」
黄泉の国まで愛しい妻を追って下った伊邪那岐に対して、既に死者の国の食べ物を口にしていた伊邪那美は、地上へ戻るという答えをすぐには出せないと断った。その世界の、その屋敷の食事を口にするということが、一種の拘束力を発揮するという意味なのだろうと男は思っていた。仲間入りをする、と言えば好ましく思われるが、国から、村から、そして屋敷から出さないと、こちらが望まない拘束力を生み出すならそれはもはや呪詛に近い。もてなされた男達が、そのもてなしを不審に思いつつも出されたものを口にしたのは女の魅力もあってのことだと思うが、女自身がそれを意識していない限り男がそれを責めることはできなかった。ただ途中で気分が悪くなり、あの食事を食い尽くさなかったことが正解だったと、男がそう思いたいだけなのだ。実際には、こうして逃げられているという事実とあの食事を結びつけて考える理由などないのだから。そうやって必死に根拠のない理由付けをしている男は、ぽそりと漏らされた女の言葉を聞き逃した。
「茸を……」
「ん?」
寄り添うように座っていた女の顔を見下ろして聞き返すと、女は一瞬俯いて目をそらし、けれどすぐに意を決したように顔を上げて男の目を見返した。
「汁物に茸を。いつもは入れないものですけれど、でも……」
女が言いかけたその言葉を最後まで聞く前に、男の首筋が電気でもはしったかのように痺れた。それを感じた男はすぐさま立ち上がり、女の腕を掴んで半ば抱えるような形で走り出していた。
「追いつかれる! 走れ!」
足を怪我している女は、男がどう急かしても早くは走れない。分かっていながら背負って駈けるほどの体力はないのだから歯痒い。痛む足が辛いだろうに、女はそれでも男に遅れないようにと走ってついてきた。ばたばたとお互いに着物の裾をさばく音がやかましく、しかしそれ以上に走って通り過ぎた後、すぐに背後の木々が嵐が通り過ぎているかのように音を立てるのが恐ろしい。振り返らなくても、追われているということがはっきり分かるのだ。こういうとき、振り返ってみたい欲求に襲われるのは人の性なのだろうか。見るなの禁忌は人の好奇心を刺激しすぎる。禁忌と呼ばれながらも誘惑に近いそれには、男神でさえ抗えなかった。
だから単純に、男が振り返らずに走りきったのはその余裕がなかっただけのことだった。そんな余裕があるなら、一歩でも足を前に進めたかった。背後から何かが追いかけてきていることは、肌に突き刺さるような感覚が教えてくれていたのだから。
山の傾斜が大きくなって、速度が出せなくなるとしばらくして木々の切れ間に川が見えた。幅の狭い、深さもそうなさそうな川だった。行きには通らなかったが、川向こうの方が下がっているように見えるということは、この山を降りるなら川を渡った方がいいのだろう。男は女の手を引いたまま川へ向かって走ったが、水に足をつける寸前に立ち止まった。
突然立ち止まった男を、女は息を切らせながら不思議そうに見上げた。渡らないのか、とその目が訊いている。渡れないほど深いわけではなさそうだ。幅もそう広くないし、河の流れもゆっくりだった。危険はない。渡れる。けれど、男を躊躇させる何かが、その川にはあった。
渡ってしまえば、その先にあるのは別の世界だ。
自分が行きたいと思っているのとは、また別の。
一度そう感じてしまったら、もう渡ることはできなかった。訝しむ女を連れて、男は川を渡らず、その川に沿って下流へと走り出した。こんな調子ではいつ捕まってもおかしくない。そう思ったけれどやはり川を渡ることはできず、しかし川沿いを走っていると自然と山を下っている様子なのが周囲の風景から分かった。
そう、ようやく山を下っているのだ。
男はそれに勇気づけられて走り続けた。やがて川沿いを、と思っていたのにいつの間にか川から離れ、男は背後に迫ってくる”何か”をひしひしと感じながら山を下り続けた。段々と、繋いでいる手が重くなる。女の足がついてこれなくなっているのだ。男は少し足を緩め、追いついた女の背に腕を回し、腰を持ち上げるようにして引き寄せるとまた足を早めた。しかし女一人抱えてさらに速度を上げることはできない。びりびりと首の裏の痺れが強くなり、背後では木々のざわめきが大きくなってくる。
追われている、という感覚が段々と切羽詰まったものになってくる。捕まればどんな目に遭うというのか、それは分からないが捕まっていい目を見るというということはまずないだろうという、そんな嫌な感覚だけが強い。
男は足を動かしながら、必死に周囲の風景に目をやった。見たことのある風景がないかどうか。あの家のあった場所に、近づいているという感覚さえあれば、それだけで報われるのだが。あいにく周囲の風景はどこを見ても同じようなもので、唯一男が登りに見なかったというのは、今は離れてしまった川の風景だけだったようだ。やはり悪い予感がしても、あの川を渡ってみるべきだったのかもしれない。
「くそったれ」
思わず男が口にした瞬間だった。
女を抱えている方と逆を、すっと誰かが通り過ぎた。それは男の腰ほどしかない子供のような人影で、男がそれと知覚する間もなく男の脇を通り抜け、そして消えた。男がその残像を追って顔を上げると、正面に突然生垣で囲われた人家が現れた。
生垣の間の木戸は開かれていて、その奥には木造の平屋建て。それを目にした瞬間、男は呆気にとられて立ち止まった。
あった。
あの自分勝手気ままで生意気な知人の家が帰ってきている。
どこをどう走ってきたのかも分からないというのに、元の場所に戻って来れたのだ。それも、出掛けてしまったというあの家まで戻ってきている状態だ。知人の姿は見えないものの、あのぽっかりと空いた白い空間が平屋の家で埋まっているという光景に、男はその場にへたり込みそうになった。あの屋敷を見てほっとすることなど、二度とないと言いきれる自信があったが、とにかく家の中に入るまでは気が抜けない。
あの家に逃げ込めれば大丈夫だ、と男は傍らにいる女を励まそうと思って口を開きかけたが、女が安心したような声を上げる方が先だった。
「……あぁ、本当。言われた通りだわ。あの子の気配がする……」
男には理解のできない言葉だった。とにかくあの家の敷地内に入ろうと、抱えていた背に力を込めた男の顔を見上げて、女は安心しきった顔で微笑んだ。
「ありがとう。貴方と同じ場所ではないけれど、これでようやく私も逝かれます」
ここにきて一体どういうことだろう、と男は困惑した。女は男の腕からするりと抜け出し、それまでとは逆に、男の背に腕を当てて押し出す。一人で行けということなのだろう。だがここまで近くに来ているのだ。あと数歩行けばいい。あと数歩行けば――夢から醒めることができる。
夢から……俺の、夢から?
醒めれば現実に戻るのは、男だけだ。これが男の夢の中の出来事ならば。夢の中の誰かを連れて現実に戻ることなど出来はしない。
「いや……だが……待て。待ってくれ、同じ場所でなければ意味がない」
走り乱れた髪の奥で、女の顔は微笑みから泣き笑いに変わった。
「貴方と同じ場所には、もう私の居場所はない」
その泣き笑いのような顔は、男の鏡でもある。見えもしないのに、男は自分の顔も女のように歪んでいるのが分かった。情けないくらいに。
「居場所なんて、俺が作ってやる。だから一人で逝くな。寂しいだろうが、そんな……」
一人きりで逝くなんて。山の中に残された弟のように。
「寂しいのは、一時のことだから。だから、大丈夫」
女は泣き笑いの顔のまま、男を背を押して開いた木戸の方へ男の足を進めようとさせる。
「その一時に、側にいてやりたいんだ!」
男は身を捩りながら女の手を避けて叫んだが、その背を女の手以外のものに押されて、よろめきながら庭の中に転がり込んでいた。まるでそう、掛け軸を取る時に風に押された、あの時と同じような感覚だった。男は自分だけが庭の中に入ったことを知ると、振り返って女の姿を探した。
女は木戸の外に立っていた。相変わらずの泣き笑いのまま、けれどこの家を初めて見た時のように、安心しきった顔をしていた。男は慌てて木戸に走り寄り、手を伸ばして女も中に入れようとした。だが、その手が女の腕を掴む前に、女の背後が暗く翳り、山の神だか魔だかが追いついてきたのに気づいた。
女は気づいていないのだろうか。伸ばされた男の手を愛おしそうに見つめながら、女は言った。
「私も、そうしてやりたかった」
俺も、そうしてやりたいのだ。
叫びは声にならなかった。女の体は背後の闇に呑まれようとしていて、男の手は女に届かない。言葉にならない叫びだけが男の口から発せられたが、女は闇に呑まれながら泣きもせずに微笑んでいた。男の視界から、女のすべてが消えてしまうというその最後の瞬間、男の背後から子供の笑い声が甲高く響いたと思ったのは気のせいだったのか。