青学の風巫女

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 長巫女が部屋を出て行ってからも混乱は一向に治まらず、何をどう考えていいのか、何から考えればいいのか、フジには分からなかった。物心ついた時にはこの青嵐の神殿にいて、両親のことは一切語られず、長巫女を母と思って過ごしてきた。

 本当の両親のことを打ち明けられた、あの災厄の日の後も、フジはずっと長巫女だけを頼って生きてきた。自分が本来この神殿には入ることのできない性別だと、そう教えられてから、自分だけが違うということを意識して他の巫女達との距離は自然に開いていったけれど、長巫女に対してだけは、常に変わらない距離でいられた。

 そんな生みの母よりも慕っている長巫女に、フジは唐突に突き放された。きっと長巫女は、自分の体のことを心配しているのだろう。彼女の体が、治らない病に冒されていることを、フジは知っていた。長巫女が隠したがっているようだったから、今まで何も言わずにいたけれど、心の中では覚悟していたのだ。長巫女といられる時間は、そう長くない。だからこそ、最後まで側にいたかった。でも長巫女は、それではいけないと言う。

 分かっている。長巫女がいなくなれば、僕はこの神殿でさえ、居場所を失う。

 そうなる前に、フジの身の振り方を考えようとしてくれた長巫女を責めることはできない。彼女はいつでも、フジのためを思ってくれている。

 分かっている。いつまでも彼女に守られて生きていくことはできないって。

 でも何もかも突然で。最後まで彼女の側にいたいというフジの想いや、外のことなど何も知らない自分が、明日にでも神殿を出て行くのだという現実は、まるで無視されてしまっているように感じた。いまのところ、他に道はないことが分かっていても、それでもなお。

 何を考えればいいのか、分からない。
 何を覚悟していけばいいのか、まったく分からなかった。


「どうか、私が信じたように、フジ様もあの方を信じて、青学へ向かわれますように」


 不意に、先ほど長巫女に言われた言葉を思い出して、フジは部屋の外を見た。月明かりが、石造りの神殿を蒼く照らしている。規則正しい生活を送る巫女達は、もう殆どが眠りについている時間だろう。フジは立ち上がって窓を開け、服の裾をたくし上げて窓枠に乗り上げた。思い切って飛び降りると、素足に草が冷たく感じる。フジは護衛官達の宿舎へ向かって走り出した。

 先日の襲撃のせいで、護衛官は少なくなってしまっている。多分、いまは夜番で正門を守っている護衛官が二人と、交代のために休んでいる護衛官が二人いるだけだろう。あともう一人、明日フジを連れて行くために泊まっている男だけが、早寝でなければこの時間も起きて部屋に明かりを灯しているはずだ。

 フジは足音を忍ばせながら、自分の部屋のある奥殿の脇を抜けて、神殿の一番外側に位置する護衛官の宿舎へ近づいた。案の定、明かりの灯っている部屋はひとつだけだった。月明かりを頼りに走っていたフジは、部屋の近くまでいって足を緩めた。こんな冒険をするのは初めてだから、少し緊張した。突き出したバルコニーの側まで行って、それからどうすればいいだろう。何かを投げて、窓に当てなくてはいけないだろうか。フジは足元をみやったけれど、投げるにちょうどいい大きさのものは落ちていなかった。バルコニーをよじ登るしかないのだろうか、とフジが真剣に考え始めたその時だ。

「誰だ」

 抑えた鋭い声がして、部屋の窓が開かれた。部屋の明かりを背にして、マントと上着を脱いだテヅカが見えた。手には武器の形を取った零式を携えている。彼はフジを見つけると、眼鏡の奥の瞳を細めて、バルコニーまで出てきてフジを叱った。

「フジ様! 何をなさっておいでですか、こんな夜中に」

 先日会った短い時間からでも、こういう行動をとれば彼が怒ることは容易に想像できていたから、叱られてもフジはまったく気にならなかった。

「入っても?」

 フジが部屋の中を指差して言うと、テヅカは勿論、うんとは言わなかった。

「いけません。いままでにも護衛官の棟へ入り込んだことがあるのですか?」
「ないけど、外は寒いから。中へ入れてくれた方が、このまま帰すより親切だと思うよ」

 フジがそういうと、テヅカの眉間の皺は一層深くなった。そしてフジを窓辺に残し、テヅカは一旦部屋の奥へと引っ込んだ。すぐに再び現れたかと思うと、テヅカはバルコニー越しに身を乗り出して上からフジの体に何かを巻きつける。

「さ、これで寒さはしのげます。お部屋にお戻り下さい」

 どうやらテヅカが身に着けていたマントのようだった。黒のマントは上等な布で、確かにそれを一枚羽織っただけで風が通らない。マントの代わりに、零式は部屋においてきたようだ。おそらく最初は賊を警戒して持って出てきたのだろう。

「聞きたいことが山ほどあるって言ったでしょ」

 フジの身では引きずってしまうほど長いマントから逃れて、それを押し返しながら言った。けれどテヅカもなかなか強引だ。フジがいらないとつき返すマントを、再びフジにかけようとする。

「それは明日以降でも十分です。時間はたくさんあります」

 バルコニー越しでなければ掴まってしまいそうだったけれど、フジが一歩後ろに下がることで黒いマントから逃げることができた。

「その明日以降のことが不安なんだけど」

 うまく逃げおおせたことに満足して微笑むと、その手に黒いマントを持ったままテヅカは反対に不機嫌な顔になった。

「私も不安です。風巫女としての立場を、よくよく理解していただきたい。夜中に男の寝所へ上がりこもうとするようでは、立場がありませんよ」

 フジが男だと分かっていてもなおそういうことを言うのか、と思って、

「君の?」

 と面白がって問うと、テヅカの眉間にまた皺がよった。

「貴方のです」

 本当に冗談の通じない男だ。

「男同士で語らうのは普通じゃあないの?」

 だから“男同士”という部分を強調して言ってみたのだけれど、それにも間髪いれずに反論された。

「貴方が世間的にも男であれば、の話です」

 好きで世間的には女という立場になったわけではないのだけれど、とフジは言いそうになったが、それを言ってしまうと心の奥に留めている色々なことが同時に開放されてしまいそうだったのでぐっと押し込んだ。

「誰も見てないよ」

 口を尖らせるフジに、テヅカはにべもなく応えて言う。

「油断はできません」

 それでもフジはくじけない。

「……堅物」

 しかしテヅカだって折れない。

「よく言われる、と言いました」

 確かにそう言っていたからぐうの音も出ない。そろそろくじけそうだけれど、負けるようで悔しいからくじけたくない。しかし、これでは一向に話が前に進まないではないか。堅物にもほどがある。

「こんな会話している間に、体が冷えたんだけど」

 そこで考えたフジはちょっと方針を変えて、わざとらしく服の上から腕をさすりながら寒さをアピールしてみたけれど、これでもテヅカの顔は一ミリだって動かなかった。

「ではこれを受け取って、すぐに部屋にお戻りになればいい」

 マントを突き出しながら、テヅカは正論を口にした。はい、そうですね。なんて素直に引き下がるくらいなら、最初から部屋を抜け出してきたりなんかしない。絶対に部屋には戻らないという意思を込めて、フジはその蒼い瞳でテヅカを睨み付けた。

「堂々巡りだ」

 どちらかが折れない限りは。そして勿論、フジは折れるつもりがない。けれど漆黒の瞳で見下ろすテヅカも、相当頑固だった。

「そうさせているのは貴方です」
「君だと思うけど」

 睨み合う二人の間に流れるしばしの沈黙。服の裾をちょっと撫でるくらいの風の音しか聞こえない。時折フジに囁きかけることもあるその風も、今はただ耳元をくるりと回って去っていくだけで、他に何の音も聞こえなかった。流石に、ずっと息を止めて睨み合っているにも限度があった。

「……不毛だね」

 先に溜息をついたのはフジの方だった。

「だから……」

 十分に呆れた様子でテヅカも溜息をついた。そうさせているのは誰だ、と言いたいのだろう。けれどそんな小言が聞きたいわけではない。フジは軽く頭を振ってテヅカの言葉を止めた。諦めて部屋へ戻ろうか、という考えも一瞬だけフジの頭を横切った。けれど戻った自分の部屋で一人、明日までの夜を過ごすことを思い浮かべると、フジの心は重くなるのだ。

「……部屋に戻ると、明日の別れを意識するじゃあない? 僕は、ほら、別ればかりだから……」

 記憶にない頃から別ればかりを経験させられているから、信じたくない“運命”とやらに押しつぶされそうになってしまう。思わず弱音を吐いてしまったフジは、結局自分がくじけてしまったようで悔しかった。それに追い討ちをかけるようにして、テヅカがまた正論を言う。

「別れるということは出会っているということです。別ればかりというのは、ありえない」

 理屈としては、テヅカの言うことが正しいのかもしれない。でも出会いよりも別れの記憶の方が多く、そしてより鮮烈に思い出として残っているということは、結局のところ別れしか経験していないと同じことではないだろうか。

「……君には分からないよ……」

 フジの経験した別れが、どれほどの衝撃と傷をフジに残してきたか、テヅカに分かるわけがない。癇癪を起こしてしまいそうなほど大きな感情の波をじっと乗り切って、ようやくフジがそれだけを漏らすと、頭の上で大きな溜息が聞こえた。

「腕を」
「なに?」

 溜息と区別がつかないくらいの短い言葉を聞き逃して、慌てて顔を上げるとテヅカの顔がすぐ近くにあった。急な接近に驚いたけれど、身を屈めているだけのようだ。流石に我を失って抱きついた昨日よりは距離があるけれど、思わず体が緊張してしまうくらいの距離だ。テヅカは驚いているフジにはまったく気を向けず、有無をいさせぬ素早さで手を伸ばし、バルコニーの柵越しに屈めた自分の肩に、フジの腕をとって掛けさせた。フジが拒んだマントは、自分の腕にかけている。

「肩に腕を回して。そう……失礼!」

 フジがぎこちなく、けれど言われた通りに片腕をテヅカの肩に回すと、テヅカは空いたフジの腰を回した手で後から掴んで、そのまま片腕でフジの体を持ち上げた。急な浮遊感に不安を覚えたフジは、とっさにテヅカの体へ身を寄せる格好になる。テヅカは体を強張らせたフジに対しても、少しもふらつくことなく、そう力を使っていないような軽い仕草で体を半分横に回転させた。

 気づいたときには、フジの両足はバルコニーの内側に下ろされていた。

「……入った」

 あんなに渋っていたくせに、どうして急に気を変えたのだろうとフジが訝しんでいる間に、フジをあっさりと持ち上げ、あっさりと降ろして離れたテヅカは部屋の中に消えていた。

 一体これは、どういう展開なのだろう。

 フジが追いかけて中に入っていいものかと悩んでいると、その間にテヅカは三度バルコニーへ戻ってきた。腕にかけていた黒いマントはなくなっていて、代わりに手に濡れた布を持っている。そして呆然としているフジを部屋の中に呼んで、濡れた布で足を拭くように言った。フジは狭い護衛官の部屋で、粗末なベッドの上に腰掛けて、言われた通りに布で足を拭いた。草の上を歩いてきたので怪我はないが、つぶれた草の色が白い足をところどころ緑に染めていた。

「暖まったら部屋に戻るんだ。いいな?」

 足を拭き終わった布を手渡すと、テヅカはそれを受け取りながらフジに念を押した。もしかして、会話の途中でフジが素足であることに気づいて、それで折れてくれたのかもしれない。フジがそう考えたのは、この後自分の部屋に戻ってからのことだった。この時はただ、突然口調の変ったテヅカに驚いてしまってそれどころではなかったのだ。

「……普段はそういう喋り方?」
「同い年で男同士なら、別に構わないだろう」

 そう、男同士の会話というものに憧れのあったフジにとっては、先程までのような畏まった言い方をしないテヅカが、急に生身の人間に思えた。それも、同い年の――。

「……同い年?」

 フジは長身のテヅカを見上げて、今度は自分が眉間に皺を寄せる。聞き捨てならない言葉を聞いたように思ったからだ。すると同じように眉間に皺を寄せたまま、テヅカが問い返してきた。

「十五ではないのか?」
「そうだけど……え? 君も?」

 フジは改めて目の前の男を頭の先から足先まで眺めた。一度では足りなくて、何度も視線を往復させるフジに、テヅカの眉間にあった皺が増えた。

「何だ、その反応は」
「だって……見えない。う、嘘だ。絶対年上だと思ってた」

 けれど、そう、確かに良く見てみれば若い。喋り方や、その圧倒されるような雰囲気、堅物な性格が年上に感じさせるだけで、同い年として意識して見てみれば確かにそうなのだ。絶対に年上だと思い込んでいた自分がおかしくて、フジは笑い出してしまった。

「本当だ。おい、笑うな。隣に響くだろうが」
「ご、ごめん。君があんまり落ち着いているから……」

 老けて見える、というのはあまりに可哀想だ。実際、老けているというよりは大人びて見えるという方が正しいのだろう。子どもらしくない、とも言えるかもしれないけれど。

 あれ? 僕が子どもっぽいってわけじゃあないよね?

 はたと気づいて、フジは笑いを止めた。まさか、あっちが標準で、自分が幼く見えるだけだとしたら衝撃的だ。なんだかますます神殿を出るのが怖くなってしまった。

 急に黙り込んでしまったフジに何を思ったのか、テヅカは部屋に備え付けの水差しからコップに水を注いで、無言でフジに差し出した。

「あ、ありがとう」

 受け取って素直にその水を口に含むと、沈黙の時間が流れる。けれどまだそんなに話したこともない相手なのに、その沈黙は怖くはなかった。巫女の部屋よりも一回りほど狭い部屋の中で、フジはベッドの縁に腰掛けて、テヅカは飾り気のないむき出しの石の壁に背を預けて腕を組んでいる。

 テヅカは立ち姿のとても綺麗な男だった。伸ばされた背筋と、長い足。組んだ腕や肩にかけてのラインを見ると、確かに体はまだ十五の少年のもので、神殿の護衛官のようにがっしりとした印象はない。だから綺麗、という表現が当てはまるように思うのだけれど、女性の美しさとはまた別のものなのだ。

 外の男の子って、みんなこんな風なのかな。

 流石にこれから会うかもしれない同年代の男性が全てテヅカのようだったら、落ち込むだろうなとフジは思う。昔から神殿で暮らしていて、ずっと一緒の巫女だっているのに、彼女達はフジが一度も自分達と同じ部屋で着替えたことがないという事実に、何の疑問も抱いていない。男であることを隠しているのだから、疑問を抱かれないことの方が大切なのだと分かっていても、何となく釈然としないのだ。もしフジがテヅカのように、整っていても男であるとはっきり分かる容姿をしていたら、フジは神殿を出なければいけない時期がもっと早まっていただろう。

 外に出れば、色々なことを知ることができるだろう。知りたいことも、知りたくなかったこともたくさん。フジは空になったコップを握り締めたまま、思い切ってテヅカに話しかけた。

「ね、青学ってどんなところ?」
「どんな、とは?」

 途端にきゅっと寄せられた眉を見て、そうか、こういう問いは苦手なのだな、とフジは理解した。もう少し具体的な問いのほうが答えやすいだろうか。

「うんと……例えば、街は大きい? この神殿何個ぐらい入るんだろ」

 問いが具体的になると、テヅカの表情は少し和らいだ。抽象的な問いが苦手、というフジの理解はどうやら間違ってはいないようだ。

「……神殿を出たことは一度もないのか?」

 そういう生活は、反対にテヅカにとっては理解できないものなのだろう。フジが外の生活を想像できないのと同じように。

「ないよ。時々、遠見の練習で知らない場所を見るくらい。それも、自分が立ってみなければ本当の大きさなんて分からない」
「そうか。王都は確かに大きいだろうな。王宮だけでこの神殿が十は入る」
「へぇ……聞いてみたはいいけど、あんまり想像できないや」

 フジにとっては、この青嵐の神殿が世界の全てで、遠見で垣間見る世界は異世界に近かったからだ。この神殿の外にも世界が広がっているなんて、想像の範疇を超えている。しかし聞きたいことを聞いておけば、何となく心構えができた気分になれるだろう。それだけでも、何とか明日まで眠れそうな気がするのでフジは続けた。

「女王陛下は、僕が男だってこと、知っているんだよね?」
「あぁ、事情はすべて話させてもらった。女でも男でも、風巫女としての勤めをまっとうできるなら問題はないというのが陛下のお考えだ。仕事としては神殿での奉仕内容とほぼ同じになるだろう。国の行事に合わせた祭事を行うことがあるかもしれないし、他に補助をする巫女もいないから、多少は負担が増えるかもしれないが」

 祭事が増えるといっても、年に一二回程度のことだろう。補助をする巫女がいないというのも、おそらく神殿自体がそれほどの規模ではないのだ。

「負担が多ければ、いま神殿で見習いをしているトモカが戻り次第、補佐につけることができるだろう。どちらにせよ、トモカには修行期間がまだあるから、しばらくは一人で務めてもらうことになるが……」
「うん、大丈夫だと思う。ありがとう」

 今の生活をベースに考えたら確かに負担は増えるだろうけれど、務められないほどのものではないだろうと予測してフジは答えた。あまり先に気を使われてしまうのも居心地が悪い。それに少し負担があって暇が少ない方が、色々考え込まなくてすむかもしれないし、考え込んでしまう時間は少ない方がいい。

「あぁ、そうだ。ねぇ、飛燕はどうやって持っていけばいい? あれから怖くて触っていないんだけど、触っても平気なのかな?」

 覚醒ということを経験してから、飛燕の存在を強く感じるし、飛燕に“呼ばれている”ような感覚もあって気にはなるのだが、不用意に触れてまた意識を失うようなことがあると神殿の巫女達に迷惑がかかってしまうと思って、フジはずっと飛燕と距離をおいていた。

 しかしフジが青学へ行くのなら、飛燕も勿論一緒だ。触れずに持って歩く方法があるのならそうするべきなのかと考えてフジが尋ねると、その疑問にテヅカは少しだけ逡巡するような仕草をしてからゆっくりと答えた。

「大丈夫だとは思うが……呼んでみるか?」

 その何気ない提案に、フジは目を丸くした。

「え? 呼ぶって……飛燕を? ここへ?」

 聞き間違いかと思って問い直したけれど、テヅカははっきりと頷いた。

「あぁ」

 そんな良く躾けられた犬でもあるまいし、呼べば主人のところへやってくるというのだろうか。刀がドアを開けながら? それとも――。

「……呼んだら壁を突き抜けてくるの?」

 フジの頭の中には、壁を壊しつつ猛スピードでこちらへ飛んでくる飛燕の図が浮かんでいた。いくらなんでも、それは寝ている巫女達に迷惑だし、最後の最後に、神殿を壊して出て行くなんて腹いせだと勘違いされそうで絶対に嫌だ。

「まぁ、そうだな。実際には、顕現武器は持ち主に対して時間と空間を超越する。どんなに遠く離れていて、どんなに厳重に閉じ込めたとしても、持ち主が呼べば必ず持ち主の手元に戻る。そういう繋がりなんだ」

 よく分からないけれど、実際に壁を壊して飛んでくるわけではないようだ。

「それって……簡単にできるもの?」

 今この場で、できてしまうものなのだろうか。フジが尋ねると、テヅカは何でもないような顔で答えた。

「持ち主の信頼があれば容易に。必要なのは、飛燕を信じる心だ」
「飛燕を、信じる……」

 それは一概に簡単だとも言えない。信頼関係を結ぶには、やはりお互いに理解しあえるような経験と時間が必要だ。けれどフジと飛燕の間にはそれがない。確かにずっと側にはあったけれど、武器を持たないという巫女の掟に従って、飛燕はずっと箱の中にしまっていた。取り出して眺めることさえなかったし、顕現武器だということさえ知らなかったのだ。信じるもなにも、飛燕とフジの関係は目の前に立っている昨日会ったばかりの男と殆ど変わりない。けれど――。

「俺が誘導する。やってみるか?」
「……うん」

 やってみたい、とフジは思った。飛燕が自分の力になるというなら、信じたいと思ったし、そのために自分の力をきちんと把握したいと強く感じた。今のままではいられないというなら、なおさらだった。

 テヅカはじっとフジの瞳を見つめていたが、その中にフジの決意を読み取ったのか、小さく頷いてもたれていた壁から背を離し、フジの手から空のコップを受け取るとベッド脇の小さなテーブルに置く。それからベッドに座るフジの前に片膝をついた。そしてフジより少し低くなった位置から彼を見上げて、自分の手を差し出してきた。

「手を」

 それだけでは説明が足りない、とフジは思ったけれど、言い返すと面倒なことになりそうで、素直に出された手に自分の手を差し出した。

「こう?」

 仰向けに出されたテヅカの手に、フジが自分の手を重ねるように置くと、テヅカはそれで良いというように小さく頷いた。重ねた手が熱い。テヅカの方が、体温が高いように感じられるけれど、フジの手も外にいたときに比べたら十分温かくなっていた。

「目を瞑れ。そして心に思い描くんだ。いま、飛燕はどこにある?」

 触れ合った手の方に気をとられていたフジは、テヅカの言葉に慌てて目を瞑った。そして言われた通りに心の中で飛燕を思い浮かべる。今は、これまでずっとそうしていたようにベッド下の荷物入れの中に入っているはずだ。

「……僕の部屋。ベッドの下の箱の中に」
「飛燕の形が見えるか?」

 その言葉に誘われるようにして、フジは木製の箱の中にある飛燕の形を“見よう”とした。すると思い浮かべるというよりもはっきりと、まず自分の部屋が“見えた”。次にベッドが。ベッドの下の箱が。見えないはずのものが見える。その感覚を不思議に思うよりも前に、箱が透けてその中に納まっている小太刀が見えた。まるで飛燕に呼ばれているようだ。

「……見える。蒼く、見える」

 蒼く発光するその形がはっきりと見えた、と思った瞬間に嵐のような勢いで自分の内側から力が溢れて、フジは怖くなった。巻き込まれて、押し出されて自分を失ってしまう。そんな感覚が恐ろしくて、フジは重ねていただけのテヅカの手をぎゅっと握りこんだ。

「落ち着け」

 すかさず握りこんだ手をそっと握り返されて、テヅカの声がかかる。

「でも……」

 また暴走させてしまったら。それを恐ろしいと感じると、見えていた蒼い光が弱まった。テヅカはまるでフジが見ている光景を“見て”いるかのようだ。弱くなった光を励ますようにタイミングよく、握りこまれた手をそっと動かして、フジの手首を指で撫でた。

「力が大きいなら、その大きさを把握しろ。無限に広がろうとするなら、掴んで押しとどめるんだ。俺がやるように」

 その言葉と同時に、フジは感じた。広がっていく飛燕の力が、光の強さを増して蒼く見える。その脇から、黒い力がそっと、飛燕の力を押し留めた。フジはその黒い力を怖くは感じなかった。ただ、まるで先程撫でられた手首に対して感じたように、身を捩りたくなるようなくすぐったさを感じた。

 黒く見えるそれがテヅカの力なのだ、と意識したとたん、フジは飛燕の力の大きさを知った。無尽蔵に広がって、扱い切れないと思っていた力には限りがあった。だから薄く延びていく力に、それ以上広がならないように枠を与えてやったのだ。

「そうだ、それでいい。次はそれを小さく折りたため」

 ふと、テヅカには飛燕の力がどう見えているのだろうとフジは疑問に思った。フジが見ているように、美しい蒼に見えているのだろうか。フジは何となく浮き上がったその疑問をそのままに、テヅカの指示どおり、今度は枠にはまった力の端を掴んで、パン生地を丸めるようにして中央へ折りたたんだ。十分に小さくなった、と思った時に、タイミングよくテヅカの声が響く。

「……いいぞ。息を吸って」

 言われるままに、フジは深呼吸した。吸い込んだ息に押されて、胸につかえていた不安がすっと外へ出て行った気がした。

「飛燕を呼べ。迷うな。決して裏切られることはない」

 けれど何て呼べばいい? そんな疑問には、無意識のうちに自分が答えを出していた。

「”顕現せよ、飛燕”」

 そう言えば、最初の時もそう言ったような気がする。まるで以前から知っていたかのように、口から自然に突いて出た言葉は、フジの心と共に蒼い光を放つ飛燕を震わせた。十分に小さくなっていた飛燕の力が、ぱちんと弾けた。

 と感じた瞬間、それまで遠くに感じていた力をずっと近くで感じて、フジは閉じていた目を開けた。自分の前に片膝をつくテヅカの上に、白い燕が羽ばたいていた。

「……飛燕」

 呼ぶと普通の燕と同じ大きさで顕現した飛燕が、フジの側へやってきて、手を上げて指を差し出すとその上にそっと止まった。重さはあまり感じない。けれど触れたとわかる感触があると、途端に胸の奥が、ぽっと火を灯したように温かくなった。飛燕が自分を信じてくれている、とフジは感じた。それも絶対的な信頼だ。それに応えたい、とフジは思った。飛燕を信じたい、と。

「これで少しは信じられたか?」

 だからテヅカの問いに素直に頷くことができた。

「……うん」

 長巫女以外の誰かを信じるということは、神殿を出ることよりも怖い。けれど、恐怖にすくむフジに対しても、飛燕は信頼を向けてくれる。それはこれからのフジにとって、とても心強い支えとなることだろう。支えに頼りながらでもいい。強くならなければ。そう決心すると同時に、フジは体全体を重く包むような疲れを意識した。昨日のような激しい疲労具合ではないけれど、立ち上がるのが億劫なくらいには疲れている。

「だが、顕現だけで力を使い果たしているようではな。“結晶せよ、飛燕”」

 それを敏感に察したテヅカの命令で、フジの飛燕は指から離れたて元の刀に戻り、テヅカの右手に収まった。それはとても奇妙な感覚だった。前回はフジが気を失っていたせいもあって感じなかったのだろうけれど、自分の顕現武器を他人が操作するというのは――。

「……なんか、無理やり服を脱がされているような気分」

 言いえて妙だ、とフジは思ったのだけれど、テヅカはそんな風には思わなかったらしい。嫌そうに眉をしかめられてしまった。

「……人聞きの悪いことを言うな。確かに稀なほどに親和性が高いとはいえ、本来は持ち主以外が行えることではないから、力で押してはいるが……」

 テヅカは言いながら立ち上がった。膝をついていたせいで近かった彼の黒い髪が遠くなる。フジは何となく、それを物足りなく思った。けれど追いかけて立ち上がるほどの元気はない。だいたい、この状況で追いかけること自体不自然だ。

「それだけ君が強いってこと?」

 立ち上がってまた水差しからコップに水を注いでいたその背に問いかけると、テヅカは水差しを置いてから振り返って答えた。

「力の扱いを知っているだけだ。俺が零式を初めて顕現したのは七つの時だからな。八年の経験があれば、差も出てきて当然だろう」
「ふうん……」

 この時のフジは、顕現武器のことも、覚醒者と呼ばれる人達のことも良く分かっていなかったので、その八年がどれほど驚異なものか分からなかった。七歳で覚醒すること自体が早いといわれる中で、上位覚醒までしていたテヅカは異例中の異例だったのだが。

「飛燕の件だが、この神殿を出たからといって巫女が武器を持って歩くことはできない。王宮では基本的に俺が預かっている」

 そう言ってテヅカは飛燕の代わりにまた水を入れたコップをフジに差し出した。折角信頼関係を築いていこうと決心したばかりなのに、巫女という立場に邪魔をされているようで、フジは不満だった。だからせめて、帯刀はできなくてもこれまでのように部屋に置いておきたかったのだけれど、テヅカは自分が持ち歩くと言う。

「顕現武器を二つも持っていたらおかしくないの?」
「二刀流という場合もあるらしいが……。俺の場合は覚醒者の現れない顕現武器を一時的に預かっていたことが何度かあるから、そう不審がられはしないだろう」

 そういうものなのか、と納得する以外にはなかった。知識が乏しいから反論する素材もない。これで飛燕が少しでも嫌がってくれたらまだ抵抗できたのだけれど、案外テヅカの手にあっても飛燕は大人しい。ただフジとしては気になる部分があって――。

「……なんか、常に誰かが側にいるみたいで落ち着かないんだけど」

 他人の手で結晶させられるのが“服を無理やり脱がされている気分”なら、自分の顕現武器を他人が持っているというのは“常に体の一部を触られている気分”だった。それをそのまま言うのはちょっとフジ的にも憚られたので、別の言い回しで伝えたのだけれど、テヅカの返答は実にシンプルだ。

「我慢しろ」

 それは、確かに女の子ではないのだからそんなに気にすることもないのかもしれないけれど、四六時中誰かに触れられているという気分は、男同士だってさすがに気になるものだ。やはり言い回しなんて気にせずにそのまま伝えた方がいいのだろうか、とフジが悩んで沈黙すると、テヅカはそれを自分の説明不足と捉えたらしく、続けて口を開いた。

「この方が感情の揺れが伝わりやすくて、何かあった時に役に立つ」
「何かって?」
「先日のお粗末な襲撃で、相手が諦めたかどうかは分からん。狙われたのは自分だということは、自覚しているんだろう?」

 自分が狙われたということはきちんと自覚している。けれど、とフジは肩を竦めた。

「理由は見当もつかないけれどね」

 神殿の中だけで暮らしてきた自分が、他人の恨みを買うとは思えない。花音王家の遺児であるということを知って、という可能性も考えたけれど、そもそも今まで復興の機運さえなかった花音の王族を今更浚ってみたところで、取れる身代金もない。長巫女もフジが狙われた理由には思い当たることがなかったようだし、肝心の犯人達が口を開かなかった――というか口を開けなくなった――からには、その理由を知る術はもうないのだ。

 もしかしたら、とフジは考える。あの襲撃は、フジを狙っていたわけではないのではないか、と。賊は結局フジを探している、とは言わずに死んでいる。長巫女もフジも、他の巫女が狙われる理由に思い至らなかったから咄嗟に狙われたのはフジだと思ってしまっただけで。けれど結局それも、推測の域を出ない。もしかしたら他の巫女だったかもしれないし、本当にフジを狙っていたのかもしれない。どちらにせよ、再度の襲撃があれば狙われた対象ははっきりとするわけだ。勿論、そんなことは歓迎できないが。

 おそらくフジが考えたことは、テヅカも考えているのだろう。フジを王宮へ、そして神殿へはまた別の警護をつける。次の襲撃に備えるためであり、対象を明確化するためでもある。次に狙われるのが、本当にフジなのか。それとも神殿に残った風巫女の誰か、なのか。

「お前に危険があればまず飛燕がすぐに察知する。俺もそれを察して動くことができるからな」

 それを聞いたフジの手が、持っていたコップごと小さく揺れた。テヅカの言った意味はつまり、フジの危険を察して助けに駆けつけることができるから、ということだろうか。


「……どうして?」


 フジは青学に、と膝をついて望まれた時からずっと胸に燻っていた言葉をとうとう口にした。

「何が」

 フジの抱えている事情を全て知りながら、何故彼はフジを連れて行こうと思うのだろう。しかも、連れて行った先でフジを助ける義理など、テヅカにはないはずなのに。

「わけのわからない奴に狙われている、しかも隠し事の多すぎる厄介な巫女、しかも本当は男だよ? それを、どうして連れて行こうとするのさ。国のためを思うなら、もっと他にいるじゃあないか。ちゃんとした、面倒のない巫女がたくさん」

 それなのにどうしてわざわざ僕なんかを――。そう、フジは一気に捲くし立てた。外のことが分からないという不安があったのは勿論だが、口にしてみて分かったことがある。何故テヅカが、フジを神殿から連れ出そうと思ったのか、その理由が分からないというのも、フジはずっと不安だったのだ。

 両親に遠ざけられたことを知った時、そして花音が崩壊した後からずっと、フジの心には自分は誰にも望まれない存在だという考えが常に隅にあった。それは長巫女の静かな、深い愛情を持っても払拭できない、ガラスに入ってしまった修復できないヒビのようなものだった。

 だからフジを王宮の風巫女に、と言ったテヅカの言葉にフジは不安を掻き立てられた。何か利益になるようなことがなければ“自分が望まれるわけがない”。けれど、利益になりそうなことはひとつも見つけられなかったのだ。

「……覚醒者はどこの国にもいる。だが、上位覚醒者はそう多くない。お前の力は、必ず青学のためになる」

 不安に揺れる目を見ながら告げられたテヅカの言葉はしかし、やはりたいした利益ではないように思えた。トモカは青学には既に多くの顕現武器所有者がいると言っていた。一人増えたところで、青学のためになるとはとても思えない。それどころか、フジが行くことでもし何かが起こったら――。それを考えると、利益よりも不利益の方が大きいように思えるのだ。

「武器さえまともに常備できないのに?」

 どんな反応をしていいか分からなくてフジは皮肉に言ってみたが、テヅカはそれに動揺することなく、淡々と続けて言った。

「いつまでも偽り続けることはできない。そう言ったのはお前だろう? 青学で見つけろ。本当のお前を」
「本当の、僕を――」

 見つけられるだろうか。そんなものが、本当にあるのだろうか。

 僕は誰かのためになれるのだろうか。

 フジが目で訴えかけたその問いに、テヅカは何も答えなかった。ただ彼は立ち上がって、フジとは違う硬い手を伸ばし、フジの決意を促すだけだった。

「……さぁ、もう暖まったでしょう。本殿までお送りします、フジ様」

 この手を取るか。フジはそう言われているような気がした。他に選択肢がないとしても、自分でそれを選ぶ決意をしろと、そう言われているような気がしたのだ。

 迷うな。決して裏切られることはない。

 その言葉に従って呼んだ飛燕は、テヅカの手に握られている。伝わってくる波動のようなものに、テヅカに対する敵愾心や警戒心は微塵も感じられなかった。

 僕は、この男を信じるべき……?

 他に道がないから、長巫女が信じているから。だからといって盲目的に信じてしまうのは間違っている、とフジは思った。けれどその差し出された手を、そして少し見上げた先にある深い闇色の瞳を見返して、フジは決意した。逃れられない運命なら、やがて一人で立つ時が訪れることも確実だろう。ならばそれまでの間だけでも、この手を預ける人がいてもいいはずだ。

「……お願いします。テヅカ様」

 フジは差し出されたテヅカの手に、一回り小さな自分の手を重ねた。テヅカの手は、そっと触れる程度にフジの手を握り返す。それだけの仕草に、テヅカという男の誠実さを感じ取って、フジはそっと肩の力を抜いた。何となく、彼の手に触れたことで覚悟ができた。

 僕は長巫女と別れ、青学の王宮で風巫女として生きる。

 今よりもずっと多くの人の目を欺いて、「本当の自分」を見つけることができるまでは女として振舞い続けることになるだろう。辛いことがあっても、長巫女の手に縋ることはできない。それでも――。

 忘れてはいけない。これから先何があろうとも、ここで選択をしたのは、僕自身だ。

 フジは傍らに立つ男をこっそりと見上げた。漆黒の瞳は前だけを向いていて、見上げるフジと視線が合うことはない。

 だからもし僕が行くことで青学に何かが起きるとしたら、今度こそちゃんとこの身で責任を取ろう。


 青学を花音の二の舞にはさせない――。


 この夜、フジはテヅカのように顔を上げて、前を向いて外の世界へ初めて一歩を踏み出した。

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