ようこそ、青学王国へー3rd day
---------------------------------------------------------------------------------
何となく、城の中全体が浮き足立っている雰囲気を感じて、日課となっている早朝の運動と訓練を終えたカイドウは、騎士団宿舎の厨房でもらった食事を運びながら小さく舌打ちをした。中でも一番浮き足立っているのが、自分と同年代の若い騎士達だったからだ。
……ったく、くだらねぇことで気ぃ緩めやがって。
厨房に寄っただけでも、食堂で騒ぐ彼らの大きな声が聞こえたくらいだ。中でも「モモシロ」という名前が多く叫ばれていたから、余計に不愉快だ。あの顔を合わせれば喧嘩にしかならない男が英雄のように名前を呼ばれているのも、どうやら彼が唯一、噂の風巫女の顔をまともに見ているかららしい。勿論、隊長クラスになればオオイシ隊長だって見ているし、テヅカ隊長もそうだ。けれど年齢がさほど変わらないとはいえ、彼らが気楽に話を聞ける相手ではない。その点、モモシロなら遠慮する必要はないし、あの男なら聞かれれば得意になって答えるに決まっている。同年代の騎士達にとっては、今の段階で唯一の情報源なのだから重宝されて当然だろう。
くだらない。カイドウは心の中で繰り返した。この国の一姫に婿が来るというなら大騒ぎもするかもしれないが、たかが風巫女の一人新しくやってきたところで何を大騒ぎする必要があるのだろうか。美醜など関係ない。いるかいないかも分からない神の声を聞く巫女なんて、今までもあまり重要視されていないからこそ空位だったのではないか。
心の中でも思ったとしても、カイドウにはそれを口に出して他人に伝えることは叶わなかったし、もし声を出せたとしても口にはしなかっただろう。それは宿舎での騒ぎよりも先に、イヌイからその巫女についての話を聞いていたからに他ならなかった。
カイドウは毎朝、運動と訓練を終えてから朝食の前にイヌイの部屋に行くことを日課としていた。宵っ張りのイヌイは徹夜でもしない限りは明け方近くに深い眠りをとって、数時間で起きるという生活を続けていて、たまに時間通りには起きられない時がある。まだ家にいた頃にはそのまま放っておいたカイドウも、流石に仕事を持つようになってからは他人に迷惑になる、というのできちんと起きているのかどうか確かめるために毎朝イヌイの部屋を訪れるのだった。けれどどうやらそれが常になってしまって、王宮に来てからはイヌイが起きているのか確かめるというより、カイドウが寝ているイヌイを起こしに行くという方が正しくなっていた。イヌイを起こして、彼に時間があれば一緒に騎士団の宿舎まで行って朝食を摂るというのが多くのパターンだ。
騎士団に同年代の少年が多いといっても、彼らと違って騎士ではないカイドウはイヌイがいなければ寄宿舎の食堂で皆と一緒に食事をすることはない。それを知っているイヌイが、仕事の都合をつけて何かと食堂へ誘うようにしてくれていることをカイドウは十分に察していたけれど、それでは、と自分だけでも食堂で食べるという気にはどうしてもなれなかった。いわゆるそういう”馴れ合い”を、イヌイがカイドウにとってもある程度は必要だと考えていてくれていることは分かる。しかしカイドウはそれを必要だと思わない。カイドウにとって必要なのは、同年の少年達との馴れ合いではなく、ただイヌイの側にいることだったから。だから彼に時間の余裕がある時は、食堂へ行こうと言われて拒むことはない。だから彼がいない時に食堂へ行く必要はない。カイドウの中では至って明確で、単純な基準だった。
強くなること。それに興味がないわけではない。むしろ興味があるからこそ、騎士でもないのに毎朝騎士よりも厳しい訓練を自らに課しているいるのだ。それでもカイドウは騎士になりたいと思ったことはなかった。いや、イヌイが通常の騎士として、騎兵隊、もしくは守備隊に所属していれば後を追っただろうけれど、今のイヌイの職務からすると、カイドウが騎士になれば朝起こしに行く時間だって上手くとれなくなるだろう。
それなら騎士にはならない。自分でも思うけれど、カイドウはとてもシンプルに生きていた。大切な人はイヌイと、その両親。同年代の少年達と同じようにテヅカ隊長には憧れを持っているけれど、大切とは違う。だから噂の巫女を連れてきたのがテヅカ隊長だというのは少し意外だと思ったが、それ以上に興味は持たなかった。
「午後、図書館に新任の風巫女様を連れて行くよ」
昨日来たばかりの巫女に、王宮内の様々な場所を見せて回る一環なのだそうだ。今朝方珍しくすっきりとした顔で起きていたイヌイがそう言った時だって、風巫女自身に興味は持てなかった。ただ、それなら午後にイヌイの好きなお茶を用意していようと思っただけだ。図書館に連れてくることに関しては、駄目だという権利はカイドウにはないわけで。だからこくりとカイドウは頷いた。そんなカイドウを見て、イヌイは微笑みながら続けて言った。
「好奇心の旺盛な方だから、きっと図書館に入り浸ることになるだろう。カイドウ、色々とお手伝いしてくれるね?」
それを聞いたカイドウは、一体この人は今更何を言うのだろうと眉を顰めた。カイドウの仕事は王宮図書館の司書兼雑務だ。利用者に必要な手伝いであれば、それも勿論仕事のうち。拒む理由はない。イヌイは顰められた眉を見ただけで、カイドウの考えていることが分かったのだろう。苦笑して手を伸ばすと、カイドウの頭を大きな手で撫でた。
「うん。でもお手伝いだけではなくて、もっと仲良くなって欲しいよ」
それを聞いて突然仲良く、という言葉の意味が分からなくなった。今までイヌイはカイドウをなるべく同年代の少年達に近づけようとしてきたことはあったが、口に出して仲良くしなさいと説教じみたことは決して言わなかった。それが何故ここにきて、しかも年上の女性と仲良くなれと言うのだろう。
「きっと、巫女様はカイドウを好きになってくれると思うんだ」
にこにこと微笑みながらそう言ったイヌイに、カイドウは思った。イヌイが、その巫女を気に入って仲良くしたいと思っているのだろう。だからカイドウにも、仲良くして欲しいと言っている。それはそれで珍しいことだった。カイドウとはまた違った意味で、イヌイは他人に対する評価が厳しい。面倒見はいいから周囲からはあまりそう思われていないかもしれないが、彼が「気に入った」人間というのはそう多くないことをカイドウは知っている。情報を集めて、分析して、細かく切り刻んで捨てて、なお彼の心に残る人間でなければイヌイは”仲良くしたい”とは思わないはずだ。
それを考えてようやく、カイドウはその巫女に少しだけ興味を持った。出会ってほぼ一日程度の時間で、イヌイにここまで言わせる何かが、その巫女にあったということだろうか。
それともまさか……顔を見てそれだけ、ってことはねぇだろうな。
美しい異性に一目惚れしたなんてことは。近衛隊長の想い人という噂が信じられないのと同様に、あの観察、分析好きのイヌイが一目惚れをするなんて考えられないけれど、何となくそのあり得ない考えが頭を過った時点で、今朝からずっと胸の中にあったわだかまりが一層暗く重く沈殿していくのをカイドウは感じた。
分かっている。カイドウにとって必要なのはイヌイの側にいることだとしても、イヌイにとって必要な人はまた別に存在していて、これから出会うこともあるだろう。カイドウはそれを許す許さないと言える立場ではないし、言うつもりもない。けれどきっぱり割り切れていないのは、カイドウにとってイヌイという存在が特別過ぎるからなのだろう。依存している、そう思う。依存しすぎているかもしれないとも思う。
カイドウは無意識のうちに喉を手で撫でていた。自分でそれに気づいて舌打ちする。カイドウの声が出ないのは、生まれつきでも体のせいでもない。
俺が弱いせいだ。
だから無意識でも喉を気にしてしまう自分が、カイドウは苛立たしくてたまらないのだ。
カイドウの職場である青学の王宮図書館は、新しい巫女の職場となっている王宮内神殿に近い場所にある。背後の崖にへばりつくような形で建っている王宮とは別の建物であり、地上二階、地下二階の構造である。建物はほぼ正方形で、書架も壁面に埋め込まれるような形で設置されている。地上二階部分は吹き抜けであり、天井が高くそれぞれの階に上下二つの書架が埋め込まれた四層構造である。二階部分には細い通路が設置されていて、二層、二層となった書架には可動式のはしごがかけてある。上の層の本はそれに登って出納するのだ。建物の四隅には一時置き用の机と椅子があるが、基本的には半閉架式のため閲覧席はカイドウの仕事机でもあるカウンターの前に設置されている。
毎朝自主訓練と食事を終えた後は、夕食の時間になるまでカイドウはこの建物から出ない。昼の食事は朝のうちに簡単なものをもらってきていて、地下に用意された小さな事務室で食べているのだ。いま王宮図書館の管理はカイドウ一人で行っていて、時折イヌイが本を探しがてら手伝ってくれるものの、それ以外は閲覧者も少なく、自由に仕事をすることができた。利用者がいれば勿論彼らに必要な奉仕をすることがカイドウの務めだが、これまで特別な整理係のいなかった図書館の、雑多な資料を分類整理するだけでも大変な作業だった。声のでないカイドウにとって、特に誰とも会話する必要なく黙々と仕事をこなすことのできる場所として、図書館はとても楽しい職場だった。仕事はたくさんある。地下にはまだ整理しきれていない書物があって、特に現女王の亡くなった夫、先々代の王が買ったり寄贈を受けたりした良質な書物が眠っているのだ。女王も夫が残した書物を、きちんと整理された形で公開できることを望んでいる。
今日もカイドウは地下から持って来た書物を調べ、分類し目録を作る仕事を続けていた。ひとつの作業に集中していると心が落ち着くし、まだ読めない言語は多いものの、辞書を調べつつ書誌を作るのも楽しい。特にイヌイが調べている顕現武器についての記述がありそうな本を見つければ、彼の役に立つことがあるかもしれないと自然と嬉しくなるのだった。
「ここが図書館です。……カイドウ! いるかい?」
そのイヌイの声がして、カイドウは本から顔を上げた。はっと手元の時計を確認すれば、いつの間にか昼が過ぎていてイヌイと約束していた午後になっている。自分も昼食を摂り忘れているし、用意しておこうと思ったお茶も、ティーセットだけを事務室に置いたまま湯をもらってくるのを忘れている。
慌てて立ち上がると、カウンター越しに図書館の入り口に現れた長身が目に入った。外の明るさが眩しくて、顔は影になっているがシルエットで分かる。確かにイヌイだ。カイドウはカウンターを回り込んで入り口まで小走りで出迎えた。イヌイはそんなカイドウの姿を見てちょっと微笑み、長身をすいと横にずらした。
「やあ、噂には聞いているだろうけれど、新しい青学の風巫女様をご案内してきたよ」
イヌイが体をずらしたことで、後ろに立っていた人がカイドウの目にも入った。思わず、距離を置いて立ち止まる。外の光が入って、薄暗い図書館内にいたカイドウの目には通常より光が眩しく感じられているのだということは分かっている。だが、それを差し引きしても眩しく感じられる人が立っていたのだ。
「初めまして、カイドウ様。この度風巫女として青学にお仕えさせていただくことになりました、フジと申します」
白い巫女服に、同じくらい白く透明感のある肌。蜂蜜色の髪は陽の当たっている部分が金色に見える。カイドウはこれまで人の美醜など碌に意識したこともなかったが、そんなカイドウでさえ圧倒される、分かりやすいほどはっきりとした美しさだった。身長はカイドウよりも低くて、体もほっそりとしている。巫女はカイドウを見上げて微笑むと、巫女服の裾をそっと掴んで膝を少し折り、頭を下げた。そんな風に挨拶されたことのないカイドウは、慌てて頭を上げるように口を動かしたが、頭を下げている巫女がそれに気づくわけがない。咄嗟にイヌイを見上げると、イヌイはそれに気づいて巫女に呼びかける。
「……あぁ、申し訳ない。先にお話しておけばよかったですね。フジ様、カイドウは声が出ないのです」
途端に下げられていた頭がぱっと上がって、巫女の蒼い瞳がカイドウの顔を見た。
「えっ……」
こういう反応をされるのが嫌だから、いつもイヌイには事前に説明してくれるように言っていたし、これまでは――連れて来た人間なんてごく少数だけれど――イヌイだってそうしてくれていたはずなのに。何故今日に限って忘れたのか、と口を動かして訴えるとイヌイは笑って誤魔化した。
「あぁ、ごめんってば、カイドウ」
なんだか、その笑顔が非常に胡散臭い。頭のいいイヌイは、いつもカイドウの考えの及ばないところで色々と計算を巡らせている。すべてが自分の思った方向へ進むようにと画策されるのは、遠目で見ていればただの策士ですむが、自分が巻き込まれているとなれば不愉快さが増すだけだ。
『……なに企んでやがる』
睨みつけたまま問いただせば、イヌイは肩を竦めて飄々と答える。
「企んではいないさ。ただ考えているだけだよ。ちょっと……先のことをね」
カイドウに言わせれば、それをが企んでいるということなのだ。だが誤魔化そうとすれば、イヌイは絶対に誤魔化し続ける。カイドウも粘って本心を聞き出そうと強気に出ることは滅多にできないから、今回も憮然としながらそれ以上の追及はしなかった。
そんな二人のやり取りを見ていた巫女が、ここで不思議そうに口を挟んだ。
「……いま、どうしてイヌイ様は、カイドウ様のおっしゃったことが分かったのですか?」
イヌイとカイドウは思わず顔を見合わせた。二人にとってこんなやり取りは日常的になっていたから、初めて見た巫女が不思議に思うのも当然だという頭が咄嗟に働かなかったのである。しかし事情をさっき知ったばかりの巫女にとって、カイドウが口だけを動かし、イヌイは声に出してそれに答えているというやりとりは、まるで聞こえない声をカイドウが発し、イヌイだけがそれをキャッチしたように見えただろう。それを察したイヌイが、巫女に答えて言った。
「あぁ、唇の動きを見たんですよ」
イヌイが自分の唇を指差していうと、それでも分かり辛かったのか巫女の首がこてんと右に倒れた。
「唇の動き……?」
「カイドウも意識して通常より大きく口を動かしているんです。私がそれを見て、それぞれの形と音を結びつけて読み取っています。当然顔を合わせていないとできないことですが」
その説明でようやく想像がついたのか、巫女は頷いてカイドウの顔を興味深そうに見つめた。そんな風にまじまじと見られたことはない――大抵はカイドウの声が出ないと分かった時点で、何となく居心地悪そうに目を反らされる――ので、慣れないカイドウの方が目をそらしたくなってしまった。特に、巫女の目は見たことがないほど美しい蒼で、眺めているぶんにはいいが、向こうから見つめられると綺麗すぎて気圧されてしまう。思わず半歩後ずさったカイドウの隣で、イヌイが話し続けている。
「カイドウはいつも筆談用の筆記用具を持ち歩くようにしています。司書としての仕事に支障はないはずですし、耳は通常よりいいくらいですから、巫女様は普通にお話ください。もちろん返答に筆記する時間は取られますが……気になりますか?」
どんなに面倒だったとしても、本人を目の前にして気になるとも答え辛いだろうと思ったカイドウの予想を裏切って、巫女は真剣な表情で首を縦に振った。
「はい、気になります」
見た目よりもずっとはっきりとした性格なんだな、と意外に思ったカイドウだが、その先の言葉を聞いて益々意外さが増した。
「その唇の動きを読むというのは、難しい事ですか? とても時間がかかります? 私が理解できるようになるには、カイドウ様にご負担をかけてしまいますか?」
気になるというのは、筆談なんて手間を取られるのは嫌だということなのだと思った。ちゃんと喋れる司書を用意することはできないのか、とそういう意味なのだと。けれどイヌイに向かって熱心に尋ねる巫女の言葉は、イヌイやテヅカが身につけている読唇術への興味を「気になる」と表現したことが分かる内容だった。
「読めるようになりたいのですか?」
イヌイはカイドウほど驚いた様子もなく、巫女に向かって尋ね返した。巫女はそれに間髪入れずこくりと頷き返す。
「私、神殿を出た分外の事は何でも知りたいと思います。ここはこんなにたくさんの本があるのですもの、たくさん読んで、色んな事を学びたいです。だから頻繁に出入りすると思います。でも知りたいと言ってもどの本を読んだらいいか、私には分かりません。カイドウ様にはとってもお世話になると思いますし、ご迷惑もおかけしますわ。ずっと筆談で答えていただくより、私がイヌイ様のように唇を読めるようになった方が、カイドウ様の負担は減るのではありませんか?」
そもそも別の誰か、声の出て説明のできるもう一人を呼んだ方が早い、とはちらりとも考えないのだろうか。勿論カイドウ以上にこの図書館の蔵書について知っている者などいないが。でも、だからといってまさか真っ先に自らが読唇術を会得することに興味を示すなんて。
「長文で答えるには、確かに筆談では負担でしょうね」
イヌイがそう答えるものだから、巫女は支持を得たと思ったのか嬉しそうに手を叩いた。
「私、たくさんお話したいんです。色んなことを教えていただきたいの」
無邪気だ。あまりに無邪気すぎて、何か裏があるのではないかと疑う気にもなれない。
「……どうだい、カイドウ」
見上げると逆光眼鏡の奥でイヌイが笑っているのが分かった。巫女以上に嬉しそうにすら見える。仲良くなって欲しい、とイヌイは言った。そして、先のことを考えているだけだ、とも。これが考えた結果のことなのか、それともまだ先があるのか。付き合いが長いといっても、イヌイの考えほど先の読めないものはない。
「最初は筆談と平行してもいい。でも、筆談なしで話せる相手が増えるのはいい事だと思うよ。少しずつ教えて差し上げてくれるかい?」
それに否と言えるものか。イヌイの言うことだからというのもあるが、何より巫女の目がじっと期待を込めて向けられているというのに。
カイドウは渋々ながら頷かざるをえなかった。イヌイの言うように、筆談には時間が取られる。長文ともなれば当然だが、今までカイドウはそれを負担に思うほど誰かと話したことはなかった。けれど神殿巫女の職務からして、彼女がこれから図書館に入り浸りになる時間は十分にある。図書館を預かる司書として、これまで以上に話さなくてはならないことになるだろう。筆談ではカイドウ自身がもどかしくなる可能性も否定できない。
「ありがとうございます、カイドウ様」
それに、そんな風に嬉しそうに微笑まれるとそもそも会話好きではないのだ、なんて突き放すことができない。これは仕事だ。カイドウは自分に言い聞かせる。ここの本は利用されてこそのもの。だから利用したいという者を拒むことは司書としての職務に反することだ。だがこれだけは、とカイドウは溜息をついてイヌイを見上げ、口を動かした。
「ん? あぁ、そうだね。フジ様、カイドウに敬語を使う必要はありません。彼も様づけで呼ばれるのは落ち着かないらしい。年下の……そう、弟にでも話すつもりでお話ください」
自分では言ってもいないことを告げられ、カイドウはぎょっと目を剥いた。余計な一言を勝手に加えるな、とカイドウはイヌイの腕を掴んだ。弟だなんて、確かに年齢はカイドウの方が下だが。
それに、俺には……。
思わずイヌイの腕を掴むその手に力が籠る。俯いたカイドウに何を感じ取ったか、イヌイが声をかけようとした時、巫女がそっと呟いた。
「弟に……? それは……とても素敵だわ」
ぱっとカイドウが顔を上げると、眩しいほどの微笑みをたたえていた巫女の顔が少しだけ翳りを帯びていた。巫女はカイドウを見て目を細め、細い手を自らの胸元に置いて言った。
「私には本当に弟がいたんです。……結局、会うこともできなかった弟が……」
会うこともできなかったということは、死に別れたということなのだろうか。死――。それを思うとカイドウの身は震える。カイドウにも弟がいた。巫女と違うのは、その弟と数年共に暮らして、共に成長し、兄弟として全力で愛おしんだ経験があるということだ。
そして弟は死に、カイドウは今ここにいる。その事実は漆黒の穴のようにカイドウの目の前にあって、進んでも落ちることはないが飛び越えて行くこともできずにいる。カイドウが俯きかけると、無意識のうちに握りしめていた拳にそっと温もりが触れた。気づくと巫女がカイドウの前に立っていて、翳りを払拭した顔で微笑んでいた。
「ふふっ、いきなりこんな姉ができても困るわね。でも、兄弟のようにとは言わないけれど、仲良くして欲しいわ。よろしくお願いします、カイドウ」
ふわりと風が揺れた。無臭の風がカイドウの鼻先をくすぐって耳を撫でて去って行く。まるで風に笑われているようだ、とカイドウは思った。決して嫌な笑いではなく、まるでそう、歓迎されているかのように。